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1巻
1-2
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その夜、悲しみを癒すために、私は初めて入るバーで強めのアルコールを飲んでいた。一人で酒なんて柄じゃないのは分かっていたけど、ほとんどやけくそだ。そんな私に、声をかけてきた人がいた。
「ねえ、君さ」
「はい?」
頭を上げて、その声のする方を見る。
相当カッコいい部類に入る男性が目の前で微笑んでいる。
(酔ったせいで視覚がおかしくなった?)
そう思ったけれど、いくら見つめても相手は消えない。どうやら現実のようだ。その相手は再び口を開いた。
「一人?」
「はい。一人ですけど……」
「偶然! 僕も一人なんだ」
そう言って、彼はすっと横に座り、自分の飲んでいたお酒を席まで持ってこさせた。
どうもこの人は常連らしく、店員もスムーズに動いている。
「可愛い女性が一人で飲んでいるなんて。声をかけずにはいられないじゃない」
こういう誘われ方をしたのは初めてで、らしくないと思いつつ顔が赤くなってしまう。
「あのさ、ここのラウンジの上ってホテルでしょ。最上階にもバーがあってさ……すごく夜景が綺麗なんだよ。行ってみない?」
一気にグラスを空にして、その男性はそう誘ってきた。
「夜景……」
酔いで頭がうまく働かない。最上階に展望室でもあるんだろうか。
グラグラした頭で何て答えようか考えた。
「でも、私もうお酒は……」
「お酒は飲まなくていいからさ……景色見るだけでも得した気分になるよ?」
「はぁ……」
言われるまま私はバーから連れ出され、エレベーターに乗せられた。
「ほらぐらついてる。これじゃあ、今は帰れっこないよ」
肩を抱かれ、私の中で〝危険なのでは?〟という気持ちがふっと胸に湧いた。
「あの、やっぱり帰ります」
「つれないこと言うなよ……この俺が相手をしてやるって言ってるのに」
「でも……」
ハッキリ断る前にエレベーターのドアが閉まりかけた。その時……
ガツッと音がして、誰かの足がエレベーターが閉まるのを阻止した。
一度閉まりかけたドアがスーッと開いて、目の前に一人の男性が立っていた。
「シュウ、何の用だよ」
シュウと呼ばれた男性は私のボケた頭で見ても分かる美形で、そんな綺麗な男性がすごみを効かせて私をエレベーターに乗せた男性を睨んでいる。銀色の髪をしていて、かなり日本人離れした風貌だ。
「とりあえずエレベーターを降りろよ」
「……」
しぶしぶ……という感じで、男性は私とエレベーターを降りた。
「その人怯えてんじゃん……通報しよっか?」
(何て綺麗な男性なんだろう……)
危険が目前に迫っているというのに、私はのんきにこんな感想を抱いていた。
「野暮な事言うなよ。お前には関係ないだろ」
「いや、この人はうちの家政婦だ。関係ないわけじゃない」
(は? 家政婦?)
私はきょとんとしていたけれど、美形は全く動じないで本当の事を言っているような迫力だった。
「へぇ……お前の家ではこんなうら若い女を家政婦にしてんのか。じゃあ、もちろんお手つきなわけだ」
「……ああ。頭の先からつま先まで、すっかりお手つきだ」
嫌な空気が流れる。まるで、私が課長とやりあった時のような空気だ。
「てめぇ……マジで生意気だな、前からお前にはムカついてたんだよ」
私をナンパ(?)した男性が押し殺した声でそうつぶやいたけど、美形は全くひるむ様子はない。
「殴るなり蹴るなり自由にすればいいさ……弾みで自分の骨が折れてもいいならな」
それを聞いて、男性は一度振り上げかけた拳を震わせながら下ろした。そして、脱力した表情に変わり……か細く笑った。
「やれやれ……天下のシュウ様がお怒りだよ。別の場所で飲み直すか……じゃあな」
そう言って、彼はホテルを出ていってしまった。
「……」
残された私と美形との間に妙な空気が流れた。
私を家政婦と称した美形男が軽蔑の眼差しを向けている。人形かと思えるほど、どこもかしこも整っていて、ダークグレーのその瞳はキラキラして吸い込まれそうだ。
そんな王子様みたいに素敵な容姿をした彼が、信じられない言葉を口にした。
「あんた……バカか?」
「バ、バカ?」
あまりにもその容姿と出た言葉にギャップがあって、私は目を大きく見開いた。
「まぁ、あんたもあいつとやるつもりだったんなら、邪魔したな……ってとこだけど」
「いえ。私は何も……」
私がハッキリしないせいか、彼は深いため息をついた。
「関係ないからスルーしようと思ったけど。あんた、酔っぱらってたし、明らかに戸惑った顔してただろ?」
「……」
超ぶっきらぼうだけど、親切心で私をあの男性から引き離してくれたみたいだ。家訓〝不器用でも正直であれ〟というのは、こういう場面で使うのかな。てことは……これは、お礼を言ったほうがいいのかな。
「それはどうも……」
「別に」
私の言葉をさえぎるように、男性はやや強めの口調で言葉を繋げた。
「え?」
「おひとよしってのは、あんたみたいなのを言うんだろうな。あんま簡単に他人を信用すんな」
さっき助けてくれた人とは思えないほど凍てついた言葉だった。
美形だけど、この人……全然笑みが浮かばない。常にこんな冷たい顔をしてるんだろうか。
でも……どこか寂しげな陰があって、何故かこの人を包んであげたいような変な気持ちになった。
「でも、あなたは私を助けてくれた。それは事実でしょう?」
と言っても、美形は容赦なく冷たい言葉を続ける。
「俺をいい人とか思ってんの? 単純だな……勘違いすんなよ」
こう言われたとたん、私の頭の中で何かのスイッチが入った。納得いかない言葉を聞くと、言い返さずにはいられないこの性格……
「……おひとよしはどっちですか」
私の言葉に、彼は少し驚いた表情を見せた。
「私が危険な目にあっていたのを助けてくれたいい人ですよ、あなたは……」
「はぁ? 何言って……!」
美形が何か言っていたけど、私の耳にはもう彼の声は届かなかった。
「……床が歪んで見えます……」
酔いが身体中に回っていたのか、私はそのまま気を失ってしまった。
その夜。夢の中に、久しぶりに幸せの木が出てきた……
小高い丘に一本どっしりと立つその木は、その頃住んでいた家からもよく見えた。
夢のなかで私は、母とその木の下で語っている。
「お母さん……私、自分の短気でまた家族に迷惑かけてる」
「何言ってるの、あなたは頑張ってるわ。お母さんちゃんと見てるもの」
夢の中の母は、私が幼かった頃の彼女で……若くて美しい。
私が中学生の頃までは母は元気にしていて、ちょっと不便な田舎に住んでいた。だから今より自然豊かな川沿いのボロ屋で暮らしていて……よく川辺で釣った魚や山で採れたものなんかを使ってバーベキューをした。
あの頃の風景は私の中に生きている。悲しい事があったり、つらい事があると、必ず一本の桜の木の下に立った。そこにいると何故か悩みが薄らいだり、つらい気持ちが消えたりした。
その木を私は〝幸せの木〟と呼んでいて、母と時々そこにランチを持っていって他愛ない話をしたりしたのだ。そんな思い出があって、つらい時は時々この木が私を励ますかのように夢に出てくる。
「お母さん、この木は毎年私たちに幸せを運んでくれる木だと思ってるの」
「そうね……四月の満開の桜は本当に綺麗だものね」
「うん」
青く葉が茂った桜の木を見上げ、私は満足げに頷いた。そんな私を目を細めて見つめながら、母は言った。
「姿は見えないかもしれないけど、私はあなた達の事ちゃんと見守ってるから……大丈夫よ」
そう微笑んだ母の姿が薄らいだ。
「お母さん、待って!」
「大丈夫、お父さんの教えてくれた言葉通り生きていれば……必ず幸せになれるわ」
「お母さん!」
大声で起き上がると、そこはホテルの大きなベッドの上だった。
現状を把握できず、ズキズキする頭をかかえながら用意されていた水を飲む。すると、少し心が落ち着いて、昨夜の事が少しずつ思い出されてきた。
(……ショットバーで飲んで。それで……あっ! すごい美形に助けられたんだった)
倒れる寸前の自分までは思い出せた。でも、その後はさっぱりだ。
衣類を見ても特に何かされた様子はない。
〝代金は払っておく。気分が良くなったら自由に帰っていいから〟という走り書きのメモと朝食バイキングの券が置いてあった。
「一宿一飯の恩……」
私の頭の中にはその言葉がグルグルと回っていた。
目立つ美形だった。私の記憶が確かなら、テレビでも一回か二回見た事があるような……かなりインパクトの強い容貌だった。でも……この広い都会で彼を探すとなると……相当なホネだ。
(でも、この恩は何がなんでも返さなくては!)
運命っていうのがあるのかどうか分からないけれど……実はこの美形とは不思議な縁があり、再会するのは、そんなに遠い事ではなかった。
2 まさかの再会
この日は、頭が痛いままバイトに出た。二日酔いにはなりにくいタイプなんだけど、昨日はいろいろ考えながら飲んでいたからこんな事になったんだろう。
(どうしよう。朝食バイキングたらふく食べちゃったし……あの高級ホテルの宿泊代金調べたら、倒れそうなほど高かったし。やっぱり何とかしてあの美形を探し出さなければ)
こんなことを思いながらせっせとバイトに励む私。どうやって人探しをしたらいいのか考えていたら……店長に呼ばれた。
「ユラちゃん、ちょっと頼まれてくれないかしら」
店長は他のバイトの子に聞こえないよう、ヒソヒソ声で話し出した。
「何でしょうか?」
「ん~……折り入ってユラちゃんにお願いしたい事があるの」
「はぁ」
いつもは堂々としている店長が、何故かちょっと弱気な感じで話しているのが不思議でしょうがない。いったいお願いしたい事って何だろう?
「御堂家って知らない?」
「御堂? いえ、知りません」
初めて聞く苗字だ。少なくとも私が応対したお客様の中にはそういう苗字の方はいなかった。
「そう。かなりの豪邸で、たまにテレビでも紹介されてたりするのよ?」
「そうですか」
私の気のない返事に、店長はちょっと不満そうだった。芸能ニュースに弱い私にはこんなリアクションしかできない。
「知らないならいいわ。それで、これは内緒だけどね。ここって私の妹の家なんだけど……あ、妹は女優やってるのよ。花園カレン。知らない?」
「名前は……聞いた事があるような、ないような?」
私の反応の悪さに、店長はため息をついた。
「もういいわ。それでね、私は昔から妹とは仲が悪くて……あんまりコンタクトとってないのよ」
このどこぞの組の姐さんみたいな店長にお金持ちの妹がいる。しかも女優。そのギャップに、ちょっと笑ってしまいそうになったけれど、それはグッと我慢した。
「そういう訳で、私自身はこの屋敷にあまり行きたくないんだけど、ここに可愛い甥っ子が一人で住んでるのよ」
「可愛い甥っ子ですか」
私の頭の中では、せいぜい中学生くらいの男の子が思い浮かんだ。屋敷に一人で住む中学生……ちょっと無理があるか?
「そう。妹も、その旦那も舞台俳優で、海外を飛び回ってるの。それで、日本にある屋敷には全然戻らないのよ。旦那がフランス人でね……正直、あっちが彼らの拠点なのよ」
「そうなんですか」
私には縁のない雲の上の人たちの話だ。でも、店長はかまわず話を続ける。
「だから、あの子が一人でちゃんと生活しているのかが心配で心配で……」
問題児を抱えた母のように悩む姿を見せる店長。
「それで、ユラちゃんに御堂家専属メイドになってもらいたいのよ。あなたなら年齢も聡彦より上だし、うまくやってくれるんじゃないかと思って」
「専属メイド……ですか」
「あと、条件は住み込み。食事のお世話まで全部してもらいたいから」
「ええ!? 私、実家住まいなんですけど」
「でも~……ユラちゃん、正直仕事が無くて困ってるんでしょう?」
「……はい」
痛いところを突かれた。
「弾むわよ、これ♪ しかも、しっかりと月給で払うわ」
そう言って、店長は「銭」を示す輪っかを指で作って見せた。今の私には一番破壊力のあるジェスチャーだ。
う~んと考える私。
「ね、受けてくれるわよね?」
店長の眼差しは必死だ。
お父さんと弟が心配だけど、お金を弾むと言われると、心はグラリと揺れる。おまけに、私は店長には恩もあるし……無下に断るのもどうか。
「店長にとってはこの上なく大切な人なんですよね、その甥っ子さんは」
「そうよ。私のお店と同じくらい大切なの」
私の年齢を考えて、密かに他の子より多い時給を払ってくれている店長。最初は厳しかったけれど、頑張ればちゃんと認めてくれた。そんな彼女への恩返しもしたいし。
何よりも……そのお屋敷専属メイドになれば〝夢の月給制〟になると言われたら、もうその誘惑には抗えなかった。メイド姿で働くのが主軸になるとは思っていなかったから悩んだけど、背に腹は代えられない。
「分かりました。御堂さんのお宅の専属メイドになります」
この言葉を聞いて、店長は緊張していた表情をスッと緩めた。
「よかったわ~。ユラちゃんならお願いを聞いてくれると思ってたわ、ありがとう」
「いいえ。私でよろしければ、お役に立ちたいですから」
私も店長の笑顔に誘われてゆるりと笑った。来週から……とか、そういう話なんだろうなと思っていたその時。店長はスックと立ち上がった。
「じゃ、早速なんだけど、今から行ってくれないかしら」
「今からですか!?」
あまりの急な展開に目を白黒させている私におかまいなしに、店長はタクシー会社に電話をかけ、「あと十分でタクシーが来るから、そのまま行ってちょうだい」と言った。
「ええ、この恰好で、ですか!?」
店内では確かに可愛い印象のメイド服だけど、これを外で着るっていうのは相当な抵抗感がある。でも、店長は私に着替えることを許してくれなかった。
「着替えくらい実家に取りに戻らせてください」
「ううん、実家に戻ったら離れられなくなるでしょ」
「うっ……」
お父さんと弟の顔を見たら、確かに心細くなって行くのをためらう可能性はゼロじゃない。店長……さすがに痛いところを突いてくる。
「着替えなんかは、もうお屋敷に一式そろえてあるのよ。渋る聡彦をせき立てて、メイド用に準備させた部屋もあるし……何の心配もないのよ」
(店長……食えない人ですね!)
のど元までこんな言葉が出かかっていた。
私が専属メイドとして働く事は彼女の中で随分前から決定していたようだ。
「若い女の子なら、気難しい聡彦も少しは心を開くんじゃないかと思って」
フフッと笑って、店長は機嫌よくタバコに火をつけた。
今までの話に、その甥っ子が〝気難しい〟というのは出てこなかったはずだ。急激に不安になる。もしかして、めちゃくちゃ厄介な甥っ子なのでは!?
「あのっ!!」
私が不安の声を出す前にタクシーが到着してしまい……もう有無を言わせぬ感じで私はそれに押し込まれた。
「じゃあ、よろしく頼んだわよ! 給料は弾むわ! 一ヶ月に一回くらいは状況報告してね」
バタンと閉められたドアの向こうで、店長がそう叫びながら手を振った。
(二十八にもなって、こんなロリコンめいた服装で外に出るなんて!)
恥ずかしさ一二〇パーセントだったけれど、もう後には引けない。行くしかないのだ……
その屋敷は、東京の一等地だというのに……立派に庭付きだった。
定期的に業者が入るようで、庭の木とか家周辺のゴミの処理とか…そこは完璧だった。だからこそ、家の中の荒れ具合には愕然とした。
ピンポーン。
ピンポーン。
何度チャイムを鳴らしても出てこない家主。
「すみませーん!」
叫べども返事は無し。
しびれを切らして、ドアノブを回すとあっさり開いたのでそこから顔を突っ込んでもう一度声をかける。
「あの、メイド喫茶〝ベイビー〟から来ました倉田ですけど! 御堂さん?」
結構大きな声で言ってみたけど、誰も玄関に出てくる気配がない。
(だめだ……これでも反応がないなんて。どういう家主なの?)
今日私が来るってことは知ってるはずなのに。
お金持ちなのにドアに鍵もかけないで、とても物騒だ。私は泥棒みたいにこっそりドアを開けて玄関に足を踏み入れた。
「入っちゃいますよ? ……うわっ!」
何かが足にひっかかって、私はそのまま玄関先で倒れそうになった。無造作にちらばったシューズにつまずいたようだ。
「ちょ……使う靴だけ玄関に出せばいいのに」
屋敷は立派なのに、整理整頓ができていない。
私は御堂聡彦という人物が何歳なのかという情報さえ与えられていない……嫌な予感は消えない。
「いや、店長の可愛い可愛い甥っ子だもの。頑張らねば!」
(でも、あれだな……甥っ子可愛さに、私に無茶振りしてきたって可能性もあるなあ。誰にも手に負えない問題児を押し付けられたんじゃないかな!?)
「あー……安請け合いするんじゃなかったかなぁ」
軽く後悔しつつ、私はとりあえず玄関で脱ぎ散らかされている靴を片付けていた。
すると、ようやく二階から誰かが下りてくるのが分かった。ハッとして、音のする方に顔を向けると……
「……」
挨拶も忘れて、私はそこに立っていた男性をポカンとした顔で見上げた。
驚くほどバランスのとれた体形と綺麗な顔。絵本の王子様が抜け出てきたような男性。
「あ、あなたはこの前の!」
目の前にいたのは……正に、先日私をホテルで助けてくれた美形だった。
「あんた……この前の……何の用?」
無表情のまま彼はそう言って、鋭い眼差しを私に向けた。まるで外から敵が入ってきたのを警戒するような態度だ。
でも私の心は彼と会えた事で踊っている。
なんというラッキー。こんな形で〝一宿一飯の恩〟を返せるとは!!
私は、どんなに苦労しようとこの屋敷で働かねばという気持ちになった。
「私、倉田由良と申します。今日からこちらで住み込みのメイドの依頼を受けてまいりました!」
「……そういう依頼をした覚えないけど」
「あのっ! 喫茶ベイビーの店長から頼まれたんです」
そう言うと、彼は思い当たる節があるような表情をした。それでもメイドは特に必要ない……と言った。
「先日は助けて下さってありがとうございました! ホテル代とか朝食とかお世話になってしまったので……是非、その恩返しをさせていただきたいんです」
「別にそんな大げさな事じゃないから」
そっけなく去ろうとした彼を私はあわてて引き止めた。
「いえ! お願いします。ここで働かせてください!!」
深く頭を下げて私はここで働きたいという気持ちを態度で示した。恩人を前にして何もせずに帰るわけにはいかないという必死の思いからだ。
そんな私の情熱が通じたのか分からないけど、聡彦さんは冷たい表情のままため息まじりにつぶやいた。
「……好きにすれば」
私が居ようと居まいと関係なさそうな無関心な顔。心の中まで凍てついてるんだろうか、この人は。
(仕事をする前から心が折れそうだわ。でも……)
私だって世間の荒波に揉まれた経験もあるわけだし……簡単に音を上げるわけにはいかない。
「はいっ! 好きなようにさせていただきます!! 精一杯頑張りますので。よろしくお願いします」
可能な限り好印象を持ってもらえるよう、謙虚な姿勢で挨拶をする。これは恩返しでもあり、家計を救う大切な仕事でもある。是非とも聡彦さんには気に入られなくては。
「おじゃまします!」
玄関に上がり、そのままリビングに図々しく入る私。すると、窓際の鳥かごがユラユラと揺れた。鳥かごの中に、黄色いセキセイインコが一羽いて、せっせと羽づくろいをしている。
「あ、インコ飼ってるんですね」
「うん」
家の事を全て任されるとなると……この子のエサの世話もやるようになるんだろうか。そんな事を思いつつ、鳥かごをツンツンとつついてみる。
「可愛い。名前何ていうんですか?」
「ザンギ」
「変わった名前ですねえ。ザンギってどういう意味ですか?」
「……鳥のカラ揚げ」
「ぶっ!」
小鳥を飼うなんて、案外可愛いじゃないのって思っていた気持ちが吹っ飛んだ。
家の中を簡単に案内され、私がフムフムと聞いていると、最後に彼はグッと私に顔を近づけて言った。
「ここでの仕事、嫌なら……すぐに言ってね」
彫刻みたいに整った顔が色っぽく吐息を吐くように語る。この熱にうっかりやられそうだったけど、……何とか冷静に言葉を受け取った。
「お、お気遣いありがとうございます。でも、そう簡単に嫌になったりしませんから」
「そう……しぶとい性格なんだ」
「はい、そうです」
お互いややひきつった笑顔のままリビングでにらみ合い。
ちょっと取扱い注意なこのお坊ちゃま。この都会でこんな偶然に再会できたのには何か運命的なものすら感じてしまう。
相手は私を追い出す気満々だけど、私の方は使命感に燃えていて……簡単にここを去る事はできないと感じていた。
こうして始まった私のメイドライフ。これがなかなかどうして……思いもかけない展開が待っていようとは。この時の私は知る由もなかった。
「ねえ、君さ」
「はい?」
頭を上げて、その声のする方を見る。
相当カッコいい部類に入る男性が目の前で微笑んでいる。
(酔ったせいで視覚がおかしくなった?)
そう思ったけれど、いくら見つめても相手は消えない。どうやら現実のようだ。その相手は再び口を開いた。
「一人?」
「はい。一人ですけど……」
「偶然! 僕も一人なんだ」
そう言って、彼はすっと横に座り、自分の飲んでいたお酒を席まで持ってこさせた。
どうもこの人は常連らしく、店員もスムーズに動いている。
「可愛い女性が一人で飲んでいるなんて。声をかけずにはいられないじゃない」
こういう誘われ方をしたのは初めてで、らしくないと思いつつ顔が赤くなってしまう。
「あのさ、ここのラウンジの上ってホテルでしょ。最上階にもバーがあってさ……すごく夜景が綺麗なんだよ。行ってみない?」
一気にグラスを空にして、その男性はそう誘ってきた。
「夜景……」
酔いで頭がうまく働かない。最上階に展望室でもあるんだろうか。
グラグラした頭で何て答えようか考えた。
「でも、私もうお酒は……」
「お酒は飲まなくていいからさ……景色見るだけでも得した気分になるよ?」
「はぁ……」
言われるまま私はバーから連れ出され、エレベーターに乗せられた。
「ほらぐらついてる。これじゃあ、今は帰れっこないよ」
肩を抱かれ、私の中で〝危険なのでは?〟という気持ちがふっと胸に湧いた。
「あの、やっぱり帰ります」
「つれないこと言うなよ……この俺が相手をしてやるって言ってるのに」
「でも……」
ハッキリ断る前にエレベーターのドアが閉まりかけた。その時……
ガツッと音がして、誰かの足がエレベーターが閉まるのを阻止した。
一度閉まりかけたドアがスーッと開いて、目の前に一人の男性が立っていた。
「シュウ、何の用だよ」
シュウと呼ばれた男性は私のボケた頭で見ても分かる美形で、そんな綺麗な男性がすごみを効かせて私をエレベーターに乗せた男性を睨んでいる。銀色の髪をしていて、かなり日本人離れした風貌だ。
「とりあえずエレベーターを降りろよ」
「……」
しぶしぶ……という感じで、男性は私とエレベーターを降りた。
「その人怯えてんじゃん……通報しよっか?」
(何て綺麗な男性なんだろう……)
危険が目前に迫っているというのに、私はのんきにこんな感想を抱いていた。
「野暮な事言うなよ。お前には関係ないだろ」
「いや、この人はうちの家政婦だ。関係ないわけじゃない」
(は? 家政婦?)
私はきょとんとしていたけれど、美形は全く動じないで本当の事を言っているような迫力だった。
「へぇ……お前の家ではこんなうら若い女を家政婦にしてんのか。じゃあ、もちろんお手つきなわけだ」
「……ああ。頭の先からつま先まで、すっかりお手つきだ」
嫌な空気が流れる。まるで、私が課長とやりあった時のような空気だ。
「てめぇ……マジで生意気だな、前からお前にはムカついてたんだよ」
私をナンパ(?)した男性が押し殺した声でそうつぶやいたけど、美形は全くひるむ様子はない。
「殴るなり蹴るなり自由にすればいいさ……弾みで自分の骨が折れてもいいならな」
それを聞いて、男性は一度振り上げかけた拳を震わせながら下ろした。そして、脱力した表情に変わり……か細く笑った。
「やれやれ……天下のシュウ様がお怒りだよ。別の場所で飲み直すか……じゃあな」
そう言って、彼はホテルを出ていってしまった。
「……」
残された私と美形との間に妙な空気が流れた。
私を家政婦と称した美形男が軽蔑の眼差しを向けている。人形かと思えるほど、どこもかしこも整っていて、ダークグレーのその瞳はキラキラして吸い込まれそうだ。
そんな王子様みたいに素敵な容姿をした彼が、信じられない言葉を口にした。
「あんた……バカか?」
「バ、バカ?」
あまりにもその容姿と出た言葉にギャップがあって、私は目を大きく見開いた。
「まぁ、あんたもあいつとやるつもりだったんなら、邪魔したな……ってとこだけど」
「いえ。私は何も……」
私がハッキリしないせいか、彼は深いため息をついた。
「関係ないからスルーしようと思ったけど。あんた、酔っぱらってたし、明らかに戸惑った顔してただろ?」
「……」
超ぶっきらぼうだけど、親切心で私をあの男性から引き離してくれたみたいだ。家訓〝不器用でも正直であれ〟というのは、こういう場面で使うのかな。てことは……これは、お礼を言ったほうがいいのかな。
「それはどうも……」
「別に」
私の言葉をさえぎるように、男性はやや強めの口調で言葉を繋げた。
「え?」
「おひとよしってのは、あんたみたいなのを言うんだろうな。あんま簡単に他人を信用すんな」
さっき助けてくれた人とは思えないほど凍てついた言葉だった。
美形だけど、この人……全然笑みが浮かばない。常にこんな冷たい顔をしてるんだろうか。
でも……どこか寂しげな陰があって、何故かこの人を包んであげたいような変な気持ちになった。
「でも、あなたは私を助けてくれた。それは事実でしょう?」
と言っても、美形は容赦なく冷たい言葉を続ける。
「俺をいい人とか思ってんの? 単純だな……勘違いすんなよ」
こう言われたとたん、私の頭の中で何かのスイッチが入った。納得いかない言葉を聞くと、言い返さずにはいられないこの性格……
「……おひとよしはどっちですか」
私の言葉に、彼は少し驚いた表情を見せた。
「私が危険な目にあっていたのを助けてくれたいい人ですよ、あなたは……」
「はぁ? 何言って……!」
美形が何か言っていたけど、私の耳にはもう彼の声は届かなかった。
「……床が歪んで見えます……」
酔いが身体中に回っていたのか、私はそのまま気を失ってしまった。
その夜。夢の中に、久しぶりに幸せの木が出てきた……
小高い丘に一本どっしりと立つその木は、その頃住んでいた家からもよく見えた。
夢のなかで私は、母とその木の下で語っている。
「お母さん……私、自分の短気でまた家族に迷惑かけてる」
「何言ってるの、あなたは頑張ってるわ。お母さんちゃんと見てるもの」
夢の中の母は、私が幼かった頃の彼女で……若くて美しい。
私が中学生の頃までは母は元気にしていて、ちょっと不便な田舎に住んでいた。だから今より自然豊かな川沿いのボロ屋で暮らしていて……よく川辺で釣った魚や山で採れたものなんかを使ってバーベキューをした。
あの頃の風景は私の中に生きている。悲しい事があったり、つらい事があると、必ず一本の桜の木の下に立った。そこにいると何故か悩みが薄らいだり、つらい気持ちが消えたりした。
その木を私は〝幸せの木〟と呼んでいて、母と時々そこにランチを持っていって他愛ない話をしたりしたのだ。そんな思い出があって、つらい時は時々この木が私を励ますかのように夢に出てくる。
「お母さん、この木は毎年私たちに幸せを運んでくれる木だと思ってるの」
「そうね……四月の満開の桜は本当に綺麗だものね」
「うん」
青く葉が茂った桜の木を見上げ、私は満足げに頷いた。そんな私を目を細めて見つめながら、母は言った。
「姿は見えないかもしれないけど、私はあなた達の事ちゃんと見守ってるから……大丈夫よ」
そう微笑んだ母の姿が薄らいだ。
「お母さん、待って!」
「大丈夫、お父さんの教えてくれた言葉通り生きていれば……必ず幸せになれるわ」
「お母さん!」
大声で起き上がると、そこはホテルの大きなベッドの上だった。
現状を把握できず、ズキズキする頭をかかえながら用意されていた水を飲む。すると、少し心が落ち着いて、昨夜の事が少しずつ思い出されてきた。
(……ショットバーで飲んで。それで……あっ! すごい美形に助けられたんだった)
倒れる寸前の自分までは思い出せた。でも、その後はさっぱりだ。
衣類を見ても特に何かされた様子はない。
〝代金は払っておく。気分が良くなったら自由に帰っていいから〟という走り書きのメモと朝食バイキングの券が置いてあった。
「一宿一飯の恩……」
私の頭の中にはその言葉がグルグルと回っていた。
目立つ美形だった。私の記憶が確かなら、テレビでも一回か二回見た事があるような……かなりインパクトの強い容貌だった。でも……この広い都会で彼を探すとなると……相当なホネだ。
(でも、この恩は何がなんでも返さなくては!)
運命っていうのがあるのかどうか分からないけれど……実はこの美形とは不思議な縁があり、再会するのは、そんなに遠い事ではなかった。
2 まさかの再会
この日は、頭が痛いままバイトに出た。二日酔いにはなりにくいタイプなんだけど、昨日はいろいろ考えながら飲んでいたからこんな事になったんだろう。
(どうしよう。朝食バイキングたらふく食べちゃったし……あの高級ホテルの宿泊代金調べたら、倒れそうなほど高かったし。やっぱり何とかしてあの美形を探し出さなければ)
こんなことを思いながらせっせとバイトに励む私。どうやって人探しをしたらいいのか考えていたら……店長に呼ばれた。
「ユラちゃん、ちょっと頼まれてくれないかしら」
店長は他のバイトの子に聞こえないよう、ヒソヒソ声で話し出した。
「何でしょうか?」
「ん~……折り入ってユラちゃんにお願いしたい事があるの」
「はぁ」
いつもは堂々としている店長が、何故かちょっと弱気な感じで話しているのが不思議でしょうがない。いったいお願いしたい事って何だろう?
「御堂家って知らない?」
「御堂? いえ、知りません」
初めて聞く苗字だ。少なくとも私が応対したお客様の中にはそういう苗字の方はいなかった。
「そう。かなりの豪邸で、たまにテレビでも紹介されてたりするのよ?」
「そうですか」
私の気のない返事に、店長はちょっと不満そうだった。芸能ニュースに弱い私にはこんなリアクションしかできない。
「知らないならいいわ。それで、これは内緒だけどね。ここって私の妹の家なんだけど……あ、妹は女優やってるのよ。花園カレン。知らない?」
「名前は……聞いた事があるような、ないような?」
私の反応の悪さに、店長はため息をついた。
「もういいわ。それでね、私は昔から妹とは仲が悪くて……あんまりコンタクトとってないのよ」
このどこぞの組の姐さんみたいな店長にお金持ちの妹がいる。しかも女優。そのギャップに、ちょっと笑ってしまいそうになったけれど、それはグッと我慢した。
「そういう訳で、私自身はこの屋敷にあまり行きたくないんだけど、ここに可愛い甥っ子が一人で住んでるのよ」
「可愛い甥っ子ですか」
私の頭の中では、せいぜい中学生くらいの男の子が思い浮かんだ。屋敷に一人で住む中学生……ちょっと無理があるか?
「そう。妹も、その旦那も舞台俳優で、海外を飛び回ってるの。それで、日本にある屋敷には全然戻らないのよ。旦那がフランス人でね……正直、あっちが彼らの拠点なのよ」
「そうなんですか」
私には縁のない雲の上の人たちの話だ。でも、店長はかまわず話を続ける。
「だから、あの子が一人でちゃんと生活しているのかが心配で心配で……」
問題児を抱えた母のように悩む姿を見せる店長。
「それで、ユラちゃんに御堂家専属メイドになってもらいたいのよ。あなたなら年齢も聡彦より上だし、うまくやってくれるんじゃないかと思って」
「専属メイド……ですか」
「あと、条件は住み込み。食事のお世話まで全部してもらいたいから」
「ええ!? 私、実家住まいなんですけど」
「でも~……ユラちゃん、正直仕事が無くて困ってるんでしょう?」
「……はい」
痛いところを突かれた。
「弾むわよ、これ♪ しかも、しっかりと月給で払うわ」
そう言って、店長は「銭」を示す輪っかを指で作って見せた。今の私には一番破壊力のあるジェスチャーだ。
う~んと考える私。
「ね、受けてくれるわよね?」
店長の眼差しは必死だ。
お父さんと弟が心配だけど、お金を弾むと言われると、心はグラリと揺れる。おまけに、私は店長には恩もあるし……無下に断るのもどうか。
「店長にとってはこの上なく大切な人なんですよね、その甥っ子さんは」
「そうよ。私のお店と同じくらい大切なの」
私の年齢を考えて、密かに他の子より多い時給を払ってくれている店長。最初は厳しかったけれど、頑張ればちゃんと認めてくれた。そんな彼女への恩返しもしたいし。
何よりも……そのお屋敷専属メイドになれば〝夢の月給制〟になると言われたら、もうその誘惑には抗えなかった。メイド姿で働くのが主軸になるとは思っていなかったから悩んだけど、背に腹は代えられない。
「分かりました。御堂さんのお宅の専属メイドになります」
この言葉を聞いて、店長は緊張していた表情をスッと緩めた。
「よかったわ~。ユラちゃんならお願いを聞いてくれると思ってたわ、ありがとう」
「いいえ。私でよろしければ、お役に立ちたいですから」
私も店長の笑顔に誘われてゆるりと笑った。来週から……とか、そういう話なんだろうなと思っていたその時。店長はスックと立ち上がった。
「じゃ、早速なんだけど、今から行ってくれないかしら」
「今からですか!?」
あまりの急な展開に目を白黒させている私におかまいなしに、店長はタクシー会社に電話をかけ、「あと十分でタクシーが来るから、そのまま行ってちょうだい」と言った。
「ええ、この恰好で、ですか!?」
店内では確かに可愛い印象のメイド服だけど、これを外で着るっていうのは相当な抵抗感がある。でも、店長は私に着替えることを許してくれなかった。
「着替えくらい実家に取りに戻らせてください」
「ううん、実家に戻ったら離れられなくなるでしょ」
「うっ……」
お父さんと弟の顔を見たら、確かに心細くなって行くのをためらう可能性はゼロじゃない。店長……さすがに痛いところを突いてくる。
「着替えなんかは、もうお屋敷に一式そろえてあるのよ。渋る聡彦をせき立てて、メイド用に準備させた部屋もあるし……何の心配もないのよ」
(店長……食えない人ですね!)
のど元までこんな言葉が出かかっていた。
私が専属メイドとして働く事は彼女の中で随分前から決定していたようだ。
「若い女の子なら、気難しい聡彦も少しは心を開くんじゃないかと思って」
フフッと笑って、店長は機嫌よくタバコに火をつけた。
今までの話に、その甥っ子が〝気難しい〟というのは出てこなかったはずだ。急激に不安になる。もしかして、めちゃくちゃ厄介な甥っ子なのでは!?
「あのっ!!」
私が不安の声を出す前にタクシーが到着してしまい……もう有無を言わせぬ感じで私はそれに押し込まれた。
「じゃあ、よろしく頼んだわよ! 給料は弾むわ! 一ヶ月に一回くらいは状況報告してね」
バタンと閉められたドアの向こうで、店長がそう叫びながら手を振った。
(二十八にもなって、こんなロリコンめいた服装で外に出るなんて!)
恥ずかしさ一二〇パーセントだったけれど、もう後には引けない。行くしかないのだ……
その屋敷は、東京の一等地だというのに……立派に庭付きだった。
定期的に業者が入るようで、庭の木とか家周辺のゴミの処理とか…そこは完璧だった。だからこそ、家の中の荒れ具合には愕然とした。
ピンポーン。
ピンポーン。
何度チャイムを鳴らしても出てこない家主。
「すみませーん!」
叫べども返事は無し。
しびれを切らして、ドアノブを回すとあっさり開いたのでそこから顔を突っ込んでもう一度声をかける。
「あの、メイド喫茶〝ベイビー〟から来ました倉田ですけど! 御堂さん?」
結構大きな声で言ってみたけど、誰も玄関に出てくる気配がない。
(だめだ……これでも反応がないなんて。どういう家主なの?)
今日私が来るってことは知ってるはずなのに。
お金持ちなのにドアに鍵もかけないで、とても物騒だ。私は泥棒みたいにこっそりドアを開けて玄関に足を踏み入れた。
「入っちゃいますよ? ……うわっ!」
何かが足にひっかかって、私はそのまま玄関先で倒れそうになった。無造作にちらばったシューズにつまずいたようだ。
「ちょ……使う靴だけ玄関に出せばいいのに」
屋敷は立派なのに、整理整頓ができていない。
私は御堂聡彦という人物が何歳なのかという情報さえ与えられていない……嫌な予感は消えない。
「いや、店長の可愛い可愛い甥っ子だもの。頑張らねば!」
(でも、あれだな……甥っ子可愛さに、私に無茶振りしてきたって可能性もあるなあ。誰にも手に負えない問題児を押し付けられたんじゃないかな!?)
「あー……安請け合いするんじゃなかったかなぁ」
軽く後悔しつつ、私はとりあえず玄関で脱ぎ散らかされている靴を片付けていた。
すると、ようやく二階から誰かが下りてくるのが分かった。ハッとして、音のする方に顔を向けると……
「……」
挨拶も忘れて、私はそこに立っていた男性をポカンとした顔で見上げた。
驚くほどバランスのとれた体形と綺麗な顔。絵本の王子様が抜け出てきたような男性。
「あ、あなたはこの前の!」
目の前にいたのは……正に、先日私をホテルで助けてくれた美形だった。
「あんた……この前の……何の用?」
無表情のまま彼はそう言って、鋭い眼差しを私に向けた。まるで外から敵が入ってきたのを警戒するような態度だ。
でも私の心は彼と会えた事で踊っている。
なんというラッキー。こんな形で〝一宿一飯の恩〟を返せるとは!!
私は、どんなに苦労しようとこの屋敷で働かねばという気持ちになった。
「私、倉田由良と申します。今日からこちらで住み込みのメイドの依頼を受けてまいりました!」
「……そういう依頼をした覚えないけど」
「あのっ! 喫茶ベイビーの店長から頼まれたんです」
そう言うと、彼は思い当たる節があるような表情をした。それでもメイドは特に必要ない……と言った。
「先日は助けて下さってありがとうございました! ホテル代とか朝食とかお世話になってしまったので……是非、その恩返しをさせていただきたいんです」
「別にそんな大げさな事じゃないから」
そっけなく去ろうとした彼を私はあわてて引き止めた。
「いえ! お願いします。ここで働かせてください!!」
深く頭を下げて私はここで働きたいという気持ちを態度で示した。恩人を前にして何もせずに帰るわけにはいかないという必死の思いからだ。
そんな私の情熱が通じたのか分からないけど、聡彦さんは冷たい表情のままため息まじりにつぶやいた。
「……好きにすれば」
私が居ようと居まいと関係なさそうな無関心な顔。心の中まで凍てついてるんだろうか、この人は。
(仕事をする前から心が折れそうだわ。でも……)
私だって世間の荒波に揉まれた経験もあるわけだし……簡単に音を上げるわけにはいかない。
「はいっ! 好きなようにさせていただきます!! 精一杯頑張りますので。よろしくお願いします」
可能な限り好印象を持ってもらえるよう、謙虚な姿勢で挨拶をする。これは恩返しでもあり、家計を救う大切な仕事でもある。是非とも聡彦さんには気に入られなくては。
「おじゃまします!」
玄関に上がり、そのままリビングに図々しく入る私。すると、窓際の鳥かごがユラユラと揺れた。鳥かごの中に、黄色いセキセイインコが一羽いて、せっせと羽づくろいをしている。
「あ、インコ飼ってるんですね」
「うん」
家の事を全て任されるとなると……この子のエサの世話もやるようになるんだろうか。そんな事を思いつつ、鳥かごをツンツンとつついてみる。
「可愛い。名前何ていうんですか?」
「ザンギ」
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「……鳥のカラ揚げ」
「ぶっ!」
小鳥を飼うなんて、案外可愛いじゃないのって思っていた気持ちが吹っ飛んだ。
家の中を簡単に案内され、私がフムフムと聞いていると、最後に彼はグッと私に顔を近づけて言った。
「ここでの仕事、嫌なら……すぐに言ってね」
彫刻みたいに整った顔が色っぽく吐息を吐くように語る。この熱にうっかりやられそうだったけど、……何とか冷静に言葉を受け取った。
「お、お気遣いありがとうございます。でも、そう簡単に嫌になったりしませんから」
「そう……しぶとい性格なんだ」
「はい、そうです」
お互いややひきつった笑顔のままリビングでにらみ合い。
ちょっと取扱い注意なこのお坊ちゃま。この都会でこんな偶然に再会できたのには何か運命的なものすら感じてしまう。
相手は私を追い出す気満々だけど、私の方は使命感に燃えていて……簡単にここを去る事はできないと感じていた。
こうして始まった私のメイドライフ。これがなかなかどうして……思いもかけない展開が待っていようとは。この時の私は知る由もなかった。
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