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しおりを挟む十月のある日、私は秋の色が濃くなった公園に来ていた。
仕事も休みだし、天気もいいし、散歩するには絶好のタイミングだと思ったのだ。頬を撫でるひんやりした風が心地よくて嬉しい。
近くの出店で買ったソフトクリームをパクリと口に運び、その冷たさにキュッと目を閉じる。
(ん~……寒い時に食べるアイスって何とも言えず美味しい)
体はぶるっと震えたけれど、口の中に広がる甘さに頬がとろけそうだ。とても贅沢な瞬間だな、なんてのんびり考える。
近くでは数匹のトンボが飛び回っている。その風景にも、季節が感じられて地味に嬉しい。
(秋だなぁ……こういう休日の過ごし方は嫌いじゃないんだよね)
私は青空を見上げ、広がった鱗雲を眺めた。
以前ここに来たのは五年も前だ。その時付き合っていた彼とはすぐに別れてしまって……以来、浮いた話はない。
私、笠井陽菜は今年で二十七歳になったアラサー女子。高校時代からアルバイトしていた喫茶店『珈琲Pot』で今も店員として働き、一人暮らしをしている。小さな店なので正社員にはなれず、いまだアルバイトの身だけれど後悔はない。
就職活動をして、企業に勤めるという選択肢もあった。それでも私はこの店で働きたかったから、店員の仕事を続けている。お客様に美味しいコーヒーを提供することにやりがいを感じるし、店内に飾られたアンティークの調度品や雑貨の手入れをするのも好きだ。
マスターとは、いずれお店の雰囲気に合った雑貨屋を併設できたらいいね……なんて夢を語ることもある。喫茶店経営は楽なものじゃなく、実際は売り上げをきちんと維持するだけでも大変だと分かっているんだけど。
そんな私には、結婚願望も結構あって……素敵な出会いを求める日々だ。でも、結婚を意識するような彼氏はなかなかできないままこの年齢になってしまった。
積極的に動かないのが悪いのかもしれないけど……そこまでしたいほど好きだと思える人がいないのだから仕方ない。
先日も合コンに参加したものの、楽しく飲んで楽しく会話して、それで終了。友人達は男の子とメアドを交換していたようだけど、私は気持ちよく酔っぱらっただけだ。
メンバーの男の子から「アパートまで送る」と言われたのも断ってタクシーで帰った。
送ってもらったら、部屋に上げてお茶を出さなければいけないし、と変な義務感を抱いてしまったせいだ。後日それを友達に言ったら、「陽菜は真面目すぎる」と笑われてしまった。でも、皆そんな気軽に男性に送ってもらっているの? と逆に不思議だった。
(うーん……やっぱり私に合コンは向かないのか……)
こんな私でも、相手を好きだと思ったら積極的に動く。
だから、今は単に運命の出会いがないだけ……だと思う。
とはいえ、恋ってどういう感じだったかもよく思い出せない。手を繋いだり、キスしたり……経験がないわけじゃないのに、私の心と体はすっかり錆びてしまっている。
『陽菜は元気なのが取り柄だ。笑っていれば必ずいい人が現れる』
そう言って励ましてくれたのは、私を育て、高校まで進学させてくれた祖父だ。唯一の肉親で、私の性格や考え方に深く影響を及ぼしているのは、間違いなくこの人だろう。
小学一年生の時に交通事故で両親を亡くして以来、祖父が親代わりになってくれた。その数年前、祖父もパートナーである祖母を亡くしていた。当時の心痛は相当なものだったと思う。
(おじいちゃん、元気かなぁ)
祖父は現在、生まれ故郷の九州にある高齢者向け施設で暮らしている。
ここ数週間、祖父の携帯電話に連絡しても、挨拶程度の会話だけですぐ切られてしまう。何か問題を抱えているんじゃないかと心配したけど、この間は、施設で出会った恋人の自慢話を嬉しそうにしてくれたから、そちらに夢中なのかもしれない。
その時の通話の内容を思い出す。
『陽菜はどうなんだい、彼氏はできたのか?』
「ううん、まだいない」
『陽菜はいい子なのにな……もっと積極的に自分をアピールしないと。私の彼女のように』
「うっ……」
のろけ話にとどまらず恋のアドバイスまでされてしまい、彼氏が欲しいという気持ちが膨らんだ。それに私としては、今年八十歳を迎えた祖父のためにも、早く花嫁姿を見せたいと思っている。
(おじいちゃん、次は私が彼氏自慢する番だからね!)
決意を新たにしたところでソフトクリームに目をやると、それは溶けて傾き始めていた。
「あわわ!」
慌てて食べようとしたその時、後ろで子ども達の歓声が聞こえた。
(何だろう?)
思わず声のする方を振り向いた瞬間、誰かが私の体にぶつかった。
「うわっ」
ソフトクリームが鼻の先に当たり、そのまま床にボトリと落ちる。
「ああ~……」
「あ、ごめん」
あまりにそっけない謝罪の言葉が聞こえ、腹が立つ。
(ごめんじゃないよ、アイス落ちたよ!)
キッと目線を上げると、目の前の男性が私の鼻についたクリームをスッと指で拭った。彼の袖口から上品なコロンの香りがフワッと流れてきて、鼻腔をくすぐる。
「っ……」
突然鼻に触れられたことに驚き、私は目を見開いた。
怒りはどこかに引っ込んでしまい、緊張しつつスーツ姿の男性を見つめる。ただ、逆光のせいで顔はよく分からない。
「本当にごめん、このハンカチ買ったばかりだから……使って」
低い声が降ってきて、グレーのハンカチが私の方へ差し出された。
その手は、男らしい骨格だけれど……白くてすごく滑らかだ。
(綺麗な手……)
思わず見とれていると、男性がもう片方の手で私の手をグイッと掴んだ。
「っ!?」
「時間ないんだ、受け取って」
「あ、あのっ」
慌てる私の手に、彼はハンカチを握らせる。柔らかくて温かな彼の手の感触に、動揺を隠せない。
「私、ハンカチは持ってますから……」
返そうとする私を見下ろし、その人は地面に落ちてしまったソフトクリームに目をやった。
「ソフトクリームを弁償した方がよかった?」
「い、いえ。そういうことじゃなくて……」
ハンカチを受け取るのは申し訳ないと言おうとしたところで、彼の胸元から電子音が響く。電話がかかってきたようだ。
「あ、ごめん。もう行かないと」
彼は胸ポケットからスマホを取り出し、私と会話していた時よりワントーン低い声で電話に出る。
「すまない、会議には少し遅れそうだ……ああ、そっちは大丈夫だ」
男性は私の存在など忘れたように、そのまま別方向に向かって歩いていった。
「忙しそうな人だなあ……」
私は去っていく彼の後ろ姿を見ながら、結局返せなかったハンカチを手に呟いた。
相手は長身で、二十代半ばのサラリーマンといった雰囲気。でも、緊張していて顔はあまり見られなかったからよく分からない。
あんなにせわしない生き方をしていたら、今日の秋らしい風景もきっと目に入らないんだろうな……なんて余計なことを思う。
(まぁ、人それぞれの生き方があるから……いいんだけどね)
私はハンカチで手を拭い、落ちてしまったソフトクリームについては、お店の人に謝って片付けてもらった。
少ししか食べられなかったから若干の未練はあったものの、もう一度買おうとまでは思えず、次はホットコーヒーを頼んでそれをすすった。
(それにしてもあの人の手、素敵だったな……)
偶然ぶつかったサラリーマンらしき男性の手が美しかったということが、この日一番の収穫だった。
というのも、私は小さい頃から結構な手フェチなのだ。男性に対しては、顔よりも先に手に注目してしまうくらい。まず、男らしく骨ばっている手が一番いい。肌が滑らかだとさらに魅力的。指が長くて、爪もオーバル型だったら最高だ。
(彼はすごく理想的な手をしていたから、ラッキーな出来事だったかも……なんてね)
私はコーヒーを飲み終えると、ハンカチをポケットにしまい、そのままアパートへ戻った。
公園での一件から数日後。その日は朝から天気が悪かった。
アンニュイな気持ちになりつつ、ベッドから下りて出勤の準備を始める。
顔を洗ってリビングに戻ると、飼い猫のモカがしきりに自分の体を舐めているのが目に入った。湿度で毛がしっとりしているのが気になるのだろうか。
「モカ、毎日毛づくろい大変だね」
「ミァー」
私の言葉に一応反応はしてくれるけど、毛づくろいに必死だ。その様子に思わずクスッとなる。
「今日はなるべく早く帰るね」
モカを軽く撫でてから手早く朝食を作り、食べ終えた後に身支度を整えた。
最後にスマホの充電を確かめて、イヤホンを差し込む。
(あ、そういえばこの前ダウンロードした、雨の日に聞くオムニバスアルバムを聴こう)
晴れた日に聴いてもいまいちムードが出ないと思って、寝かせておいたのだ。イヤホンを耳にはめ、お店へ向かった。
曲を聴きながら雨粒が水たまりに撥ねるのを見ていると、その光景が美しい一枚の写真のように見えてきて楽しい。
雨に対して「あーあ、服が濡れちゃう」なんて思うより、こうして少しでも楽しい気持ちになれるよう工夫した方が得かな、なんて思っている。
こうして、今日も無事アルバイト先に到着。
「マスター、おはようございまーす」
厨房にいるマスターに声をかける。彼はいつも通りマイペースに料理の下ごしらえをしていた。
マスターは祖父の古い友達でもあり、私のことも娘のように扱ってくれる。私も、マスターとこのお店の両方をとても愛しているのだ。
「ひーちゃん、おはよう。雨の中ご苦労さん。今日はお客さん少ないかもしれないなぁ」
「そうですねえ……こんな日に来てくれるお客さんは、きっと相当なコーヒー好きですね!」
「あはは。それ以外に、ひーちゃんの顔を見たくて来る客もいると思うよ」
マスターは明るく笑い、仕込み途中のシチューをかき混ぜた。
「そんな人……いたらいいんですけどね」
私は小さく呟き、着替えをするためスタッフルームに入る。
朝聴きながら来た曲を頭の中でリピートしながらエプロンを着けた。鏡に映る自分を見て軽く気合を入れる。
「よしっ、今日も頑張るぞ!」
店内へ戻り、カップを揃えたり磨いたりして、いつも通り仕事をこなしていった。お客様はまだ来ておらず、店内には静かにジャズが流れている。
この日も、平和に過ぎていくように思えた――のだけど……
午後、ちょっと困ったことが判明した。
「ええっ!?」
お昼からシフトに入っている、学生アルバイトの箕輪ちゃん。彼女から聞いた話のせいで、私は思わず声を上げてしまった。
何組かいたお客さんが厨房にいる私達に注目したので、慌てて「失礼しました」と声をかける。
箕輪ちゃんは、両手をくっつけて拝むような仕草をして言った。
「ご、ごめんなさい。あの人あんまりしつこくて……」
「だからって、私のことを彼氏募集中だって伝えちゃうなんて……」
「諦めてもらうにはもう、ターゲットを変えてもらうしかないと思ったんですよ」
「ひど!」
「だからごめんなさいって今、謝ってるじゃないですかぁ~」
「もう……」
箕輪ちゃんの言い分に呆れつつ、私は一ヶ月前の出来事を思い出していた。
彼女が言う「あの人」とは、元々この店の常連客だった男性のこと。何度か通ううちに箕輪ちゃんを気に入ったみたいで、二度ほどデートしたのだけど、結局彼女は彼を振った。それが一ヶ月前のこと。しかし彼は諦めてくれず、プチストーカー化してしまったというわけだ。
箕輪ちゃんから相談を受けていた私は、彼女の代わりにバシッとお断りしてあげた。それ以来、彼が店に来ることはなかったが、電話やメールが何度もあったらしい。それで、つい私の名前を出してしまったと……
「でもまさか、箕輪ちゃんに振られたからすぐ私、ってこともないでしょ?」
「笠井さんには彼氏がいないって言ったら、結構乗り気でしたよ?」
「嘘でしょ……」
確かに、彼氏が欲しいとは思うけれど、だからといって、誰でもいいわけじゃないのに。
(まあ、私は別にモテるタイプじゃないし、相手も簡単に迫ってくるとは限らないよね)
気持ちを切り替え、ドアを見る。
秋雨は強まる一方だ。路地の奥まったところに建つこの店は、雨の日は極端に客足が鈍る。そのおかげで、厨房で仕込みをしながらの雑談がしやすくなるのだけど。
おしゃべり相手の箕輪ちゃんが時計を見上げて、目を大きくした。
「あ、もう二時だ!」
「うん、箕輪ちゃんは上がりだね。お疲れ様」
彼女は、土日と平日の昼だけの短時間シフト。一方の私はというと、週一回の休み以外、毎日開店から閉店まで勤務するというフルシフトだ。
「笠井さん、じゃあそういうことで。よろしくです!」
「何がそういうことで、よ……」
「ふふ、ではお先でーす!」
彼女はマスターにも挨拶をしてから、意気揚々と帰っていく。そう――すでにちゃっかり新しい彼氏を作っている彼女は、これから一緒に食事するのだとのろけていた。
「箕輪ちゃん、幸せそうだったなぁ」
レジ裏にある丸椅子に腰かけると、自然に小さなため息が出た。
今の状況が不幸せだなんて全く思っていないけれど、充実した箕輪ちゃんの顔を見ていると、やっぱり彼氏がいた方がいいなって思う。
(恋……どこかに転がってないかなぁ……)
そんなことをぼんやり考えていたら、カランとドアの開く音がした。私は慌てて立ち上がり姿勢を正す。
「いらっしゃいませ!」
入ってきたのは、最近常連になってくれたお客様。彼は私を見て軽く会釈すると、今日も奥のソファ席に座った。そこが彼の定位置のようになっているのだ。
(こんな雨の日も来てくれるなんて……近くにお勤めの人なのかな?)
おしぼりと水を準備しつつ、チラチラと彼を盗み見る。
仕立てのいいスーツ、趣味のいいネクタイに高そうな時計。さらには整った顔立ちで、眼鏡をかけている。普段なら、店内にいる女性客の視線が一気に集まっていただろう。
「いらっしゃいませ」
テーブルにそっとグラスを置くと、彼は濡れた肩をハンカチで軽く拭きながら私を見た。そして静かに口を開く。
「いつものお願いします」
「あ、はい。マンデリンですね」
注文を終えると、彼はハンカチをテーブルに置き、カバンから単行本を取り出して開いた。タイトルは英語で書かれていて、よく分からない。
(……何の仕事をしてる人なんだろう?)
若い男性がこの店の常連になるというのは珍しく、つい観察してしまう。
「マスター、マンデリンお願いします」
「はいよ。ひーちゃんの思い人が来たね」
厨房に戻って注文を告げたら、マスターが意味ありげに私の方を見てニヤリと笑う。
「べ、別に思い人ってわけじゃ……」
「またまた。彼女に立候補したらどうだい?」
「ちょ……マスター!」
(からかわれちゃった……)
手フェチの私だけど、異性に関してそれ以外の理想や条件は特にない。強いて言うなら、動物好きで子どもやお年寄りに優しい人がいいな、というくらいだ。
そこまでわがままな条件とは思わないんだけど……何故か彼氏はできない。
(何が問題なんだろ?)
ふと悩んでしまった私の前に、湯気の立つコーヒーが置かれた。
「はい、マンデリン。おまけでクッキーつけといたよ」
ニッと笑みを見せたことで、マスター自慢の口髭が揺れる。
「はい。ありがとうございます」
(クッキー作りは私も少し手伝ったんだけど、喜んでくれるかな?)
淹れたてのマンデリンを運ぶと、彼はクッキーに目をやった。
「コーヒーしか頼んでないはずだけど」
「あ、マスターからのサービスです。よろしければお召し上がりください」
「そう……どうも」
無愛想にそれだけ言い、彼はマンデリンの入ったカップを持ち上げた。その手に、つい目が釘付けになる。ゴツゴツしながらも、しなやかで長い指を持つ彼の手は、すごく魅力的。
(やっぱり素敵な手)
ほうっとため息をつくと、コーヒーを口にしかけた彼が動きを止めた。
「……何か?」
「はっ……い、いえ! 失礼しました!!」
慌ててお辞儀をして、その場からギクシャクと立ち去る。
(へ、変な人だと思われたかな)
冷や汗が出た。だけど、今日もあの素敵な手を見ることができて幸せだ。
彼の手は、色白で美しいのに骨っぽくて男らしくて、爪の形も思わずネイルしたくなるようなオーバル型。あの手を一日好きにしていいと言われたら、朝から晩まで握っていたいくらい。
彼が恋人なら、デートで手を繋ぐだけでものすごく幸せになれるだろう。
そこまで考えてハッとする。
(もしかして……彼氏ができないのは、この手フェチのせい?)
私は無意識のうちに男性を手だけでえり好みしていたのかもしれない。
読書中の彼をチラリと見る。単行本を持つ手は、本当に理想的で……あの手を握れたら、と考えるだけでドキドキしてしまう。
しかも彼はモデルみたいに背が高く、魅惑的な低音ボイスの持ち主。少し無愛想だけどイケメンだし……女性にモテないわけがない。
(もう彼女がいるという可能性の方が高いよね)
勝手に考えを巡らせていると、彼がスマホを手に立ち上がった。どうやら呼び出しがかかったようだ。本を片付けつつ話していて、通話を終えてからレジに近付いてきた。
「ごちそう様」
私は差し出された千円札を受け取り、レジを打つ。
「マンデリンは六百八十円ですので、お釣りは……」
ふと、彼の大きな手が視界に入り、思わず動きが止まる。
「……何ですか?」
「あ、いえ! お釣り、三百二十円になります」
急いで小銭を渡すと、私の指がわずかに彼の手に触れた。とたんに、体に変な感覚が走る。
「ふぁっ!」
私は声を上げてお金から手を離してしまい、小銭は音を立てて床に散らばっていった。
(い、色々妄想したせいで、過剰反応してしまった!)
「す、すみません! すぐ別のお釣りを用意いたしますね」
慌ててレジの小銭をもう一度出そうとした手を、男性は素早く止める。驚いて顔を上げると、眼鏡の奥にある瞳が光ったような気がした。
「釣りはいらない、時間がない。というか……君、この前公園にいた人だよね」
「え?」
男性は私の顔を確認するようにジッと見つめている。
「ソフトクリーム、申し訳ないことをした」
「あ……あの時の!」
(数日前に公園でぶつかった人だったなんて!)
「あ、あの……ハンカチ、洗って家に置いてあるんですけど……」
「いいよ、あれは君にあげるって言ったでしょ」
口元にかすかな笑みを浮かべながら、彼は店を出ていった。
(お客様だったとは、気が付かなかった。でも、あの日はほとんど顔を見られなかったし……)
私はドアを見つめ、渡し損ねた釣り銭をギュッと握りしめる。少し会話しただけなのに、手の中にはぐっしょり汗をかいていた。
閉店の片付けまで手伝ってから、アパートに戻った。お店でまかないを食べてきたから、あとはお風呂に入って寝るだけだ。
「ミァー」
玄関を開けると同時に、モカが絡み付いてきた。フワフワの毛がくるぶしに触れてくすぐったい。
「ただいま、モカ。ご飯食べた?」
「ミァー」
私の顔を見上げ、不満げな声を上げるモカ。ドライフードだけでは足りないみたいだ。
「仕方ないなぁ。猫缶は特別な時しかあげたくないんだけど」
(今日はちょっと奮発してあげちゃおっかな)
マグロの猫缶を開けて皿に中身を載せ、モカの前に置く。すると、待ってましたとばかりにフガフガ言いながらかぶり付いた。
「はは、美味しい?」
私は皿に顔を埋めているモカを横目に、冷蔵庫からスパークリングワインを取り出す。お酒は弱い方なんだけど、これは甘いジュースのようだから好きで時々飲んでいる。
お気に入りのグラスに注ぎ、一気に飲み干した。口の中で炭酸がシュワシュワと弾け、冷たさが喉を通っていく。
「ぷはぁ」
ワインを飲んだおかげで気持ちが一気に解放される。私は心の中でモヤッと感じていたものを思い切り大きな声で吐き出した。
「一人でソフトクリーム食べてたのを見られたーーー!」
馬鹿にされたわけではないのだけど、何となく、あの男性に公園で一人でいたところを見られたのを恥ずかしいと思ってしまった。
(いや、別に見られたっていいじゃない……何で格好つける必要があるの)
考えても仕方のないことで頭の中がいっぱいになってしまう。
(もしかして私、あのお客さんのことを「いいな」って思ってたのかな)
自分の反応や気持ちを振り返ってみると……どうも、そういう部分が否定できない。マスターにからかわれて、変に意識してしまっただけかもしれないけど。
(別にそれ以上ではないし……ね)
ドサリとソファに座り、もう一杯、ワインを注いで飲む。いつもより気持ちよくアルコールが体に回っていく感じがした。
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