花の隣におりまして

穴澤空

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季節外れの台風が来る、とラジオが告げる。
そう言われれば、窓がやたらとガタガタうるさい。さすがにこの天気だ。誰も外には出ていないようで、いつも聞こえる生徒たちの声も聞こえなかった。

あの日から一週間。一度も店に寄ることもなく過ごしている。机に置かれたバラもブーケも、そろそろ限界だった。買った時にはカップ咲きだったクロッカスローズは、見事にその花びらを開かせて、今にも花首がもげそうだ。

「捨てないとやなぁ」

ぼんやりとそれを見る。グラスの水はわずかに濁っていた。まるで俺の心の中の靄のように、おりがゆらゆらと水の中を揺らめいている。ああ、中根への想いに気付いたばかりのこの気持ちも、花と一緒に焼却炉へ捨ててしまおうか。そうして燃える炎の中で、じりじりと黒く焦げ頽れて消し炭になっていく気持ちを、じっと見つめていようか。

──それができたら楽なのに。

「捨てるのは、明日に持ち越そ」

今日は台風やし、などと意味のない理由をもっともらしく付け、器の水を捨てる。シンクに置いてある絵具用のスポンジで洗い、もう一度ざばざばと水を注ぐ。先程まで少し濁っていた水が透明になるだけで、どこか心が軽くなる気がした。

「職員の皆さんにお知らせです。昼休みに職員会議を開きますので、四限終了後大会議室にお集まり下さい。繰り返します──」

ポーンという音とともに、放送が入る。時計を見れば、あと五分で四限目が始まるところだ。

「これは、台風前の早期下校の話やろうな」

窓ガラス越しの空を見上げる。重たい雲が猛スピードでこちらに向かってきていた。四限に授業はないので、早めに大会議室へ向かうことにする。窓をしっかりと閉めて伸びをした。首の後ろが痛い。考え事が過ぎると肩がこってしまうな、なんてどうでも良いことを思う。

美術準備室から本校舎にある大会議室までは、一度講堂を通らないといけない。コの字型の本校舎の終わったところに、東棟、続いて講堂があり、その先に特殊教室棟、図書館と並ぶ。
講堂の前の通路はレンガが敷かれ、アーチ型の柱が屋根を支えていた。強い風が、柱に巻きついている蔦を震わせる。アーチの向こうに見える本校舎の教室たちは、昼間だというのに蛍光灯がともっていた。空の暗さを感じる。講堂前を通り過ぎる直前。わずかに開く扉から、中の広間が見えた。そこには見知った顔が。

「達也……」

今、一番見たくない顔だ。
どうやら広間の花瓶生けに来ているようで、腰ほどの高さのある大きな花瓶に、枝ぶりの良い花を飾っている。
フリージア、ライラック、エニシダ、コデマリに紫陽花。それにバラに百合。俺でも名前を知っている花に、名も知らぬ花々。花鋏が彼の大きな掌に入ると、妙に小さく見える。パチリパチリと切られていく。バランスを見ては、引き抜き、そうして再び入れる。それを幾度か繰り返していく様を、ただただその隙間から見つめ続けてしまう。

通路のレンガに這う、ところどころ枯れている蔦がかさかさと音を立てては、彼のすぐ近くでその作業を見ようとする私の体を引き留める。
すべての花を花瓶に入れた後、いくつかの、花の先を彼が僅かに切り落とした。その瞬間。花と花の間にできた空間に、空気が流れたようだった。

知っている。
俺は、この瞬間を知っている。
卒業式の前日に、講堂で見た彼の瞳。花屋の店先で、花を、ブーケを、扱う時の彼の指先。一瞬一瞬を捉えて、花を景色にしてしまう、その魔法の指先を。

──俺は、知っている。

「うん。完璧」

思わず立ちすくし、見惚れてしまっていた。いけない。このままでは、後片付けをした中根と、バッティングしてしまうではないか。今なら気付かれずに、東棟まで走っていくことができる。そう思ってその場を離れようと踵を返す。その時。

「……映司」

その声に、足が止まる。

「映司」

再びかかる声に、ゆっくりと振り向いてしまう。
──足が、動かない。今すぐここを駆け出して、東棟の方へ行ってしまえば良いのに。逃げ出して、彼の前から消えてしまえば良いのに。中根の瞳に、声に、足が動かなくなってしまった。

「頼む、待っててくれ。今! 今ここを片付けるから!」

すぐにこちらに駆け寄るのではなく、自分の手持ち場を片付ける。道具をきちんとしまう。その真摯さに、思わず笑みが零れてしまった。これはもう──仕方がない。そういう所が、好きなのだ。
ああ、もう諦めるしかないのか。この男の、こういうところが好きだと、自分の仕事に実直なところが好きだと、改めて自覚してしまった今。たとえ彼に嫁がいようと、たとえその人を待っていようと、たとえ俺が……身代わりだっとしても。
小さくため息をつき、知らず知らずのうちに体に入っていた力を抜く。

「逃げやせえへんよ」

──もう。

「ゆっくり片付けや」

通路から広間の方へ入る。彼が作業をしていた傍らに近寄る。そこには、広げた大きなクラフト紙。その上に、枝や花の欠片が散乱していた。
彼の手元の二種類の花鋏は水気を拭いた後、腰にかけるシザーバッグへとしまわれていく。クラフト紙をまとめてたたむ。バケツに入る水を花瓶に指をかけてから、ゆっくりと注いでいった。ああ成る程。指で水位を確認して水を足しているのか。床を拭き上げ、大きなザルのバッグに全てをまとめて入れた。
そうしてそれを持って、こちらへと歩いてくる。

「会いたかった」

開口一番そんなことを言ってくるのは、ずるい。別に、俺が一番は俺ではないくせに。
──そんなことを思っている自分が、情けない。

「なぁ。あの日なんで、俺の顔も見ないで帰っちまったんだ? 俺のこと、嫌いになったか? そりゃ……ちょっと無理させたけど、お前だって気持ち良さそ」
「ちょっと! 一応! 一応ここ中学生も高校生も通るかもしれへん場所なんで」
「──あ、すまん」

少しだけ反省したような、いたずらっ子のような顔で、くたりと笑う。その顔に絆されてしまいそうになるなんて、俺も相当ヤキが回ったものだ。
チャイムが鳴る。

「俺、この後職員会議なんや……あとで店、行くから……」

たったこれだけを伝えるのに、心臓が破裂しそうなほど鳴り響き、口からそいつがドッドッと飛び出してくるのではないかと思った。掌が震える。耳まで赤くなっている自覚だってある。消え入りそうになる言葉尻が、果たして彼に届いていただろうか。

「──判った。待ってるから、ちゃんと、来てくれよな」

瞳を見つめられる。まるで花を見つめているときのようなその瞳から、反らすことができない。こくり、と幼子のように頷くと、安心したように笑いかけてきた。

「会議頑張って」
「……頑張る内容やないわ、多分」

昼休みになったのだ。誰かが来るかもしれない。ひらりと体を翻し、大会議室へと向かった。



台風が来るということで、早期下校が決まった。午後の授業がなくなったので、とりあえず美術室に鍵をかける。窓も鍵をしっかりとかけ、万一に備えカーテンも閉めた。強い風に、ガタガタと窓枠がゆれる。
準備室に戻り、そちらも窓の鍵をかけた。飲みかけだったコーヒーをあおると、二輪のバラが目に入る。

「こんなに萎れてもうて……もう見られとないか?」

触れれば、外側の花弁がぼとりと落ちた。

「あ」

二枚ほど落ちたあとの花を見れば、中側が存外綺麗なままだ。

「少しメンテナンスしてやったら、あと数日はもつやろうか」

たとえ数日だとしても。

「生きられるうちは、綺麗に咲いときたいよな」

もう一輪のバラにも、そっと手をのばした。
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