花の隣におりまして

穴澤空

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「あれ。今日もブーケ?」

ブーケを買った二日後の朝七時半。
少し汗ばむような太陽と青空の下、花屋の店先には大量の花が無造作にバケツに入れられていた。

四月の終わりだというのに、いやに暑い。今年のゴールデンウイークは天気には恵まれそうだ、なんて思いながら店頭に立てば、外と中を慌ただしく行き来する店主が、俺の姿を認める。

「いや、今日はブーケやなくて。この花を一輪」

店先の床に置かれたバケツを指さす。

「水揚げまだだから、ちょっと待ってて」

くすんだ薄オレンジ色のバラ。束になるそれの一つを抜き取ると、店主の中根は奥へと入っていく。きっと何か手をかけるのだろう。その作業を見たくて後を付いていくと、奇妙な顔をされた。

「なんだカルガモの子どもか?」
「カルッ」
「はは、冗談だよ。水揚げ見るかい。美術教師ってのは、好奇心旺盛なんだな」

くくくと喉を鳴らして笑う。くそ、馬鹿にしやがって。その顔に生えている顎髭を引っ張ってやろうか。
短く刈り上げた髪の毛。少し角張ったいかつい顔。細い一重の瞳。厚ぼったい唇。男前ではあるが、どこをとってもおよそ花屋らしからぬ風体だが、その指先だけは花屋のそれだ。

水揚げとは花に水を吸わせる作業。仕入れをしたら一番最初にする作業だと教えられた。それ次第で、花のもちが変わるのだとか。なるほど。
バラの花の茎半分程度の葉を切り落とし、はさみの峰で棘を取り去る。根元を切って花バケツの水の中へ放り込むのを目で追いかけた。

「ほんとはたっぷり水を吸わせたいけど、まぁ市場からこっち、吸わせておいたしな」

俺に聞こえるか聞こえないかの声で呟くと、花が水を吸い上げているその間に吸水ペーパーに水を浸す。そうして、カットされた銀紙を抽斗から取り出した。
花バケツからバラを抜き出し、根元に吸水ペーパーを巻きつけて再び水をかける。その上から銀紙とセロファンで包む。
その仕事は鮮やかだと思う。素早い一連の流れは、テレビで見るフィギュアスケートの選手のような美しさを感じた。

「ジュリア」

目尻を下げ、花を手渡される。

「え?」
「バラの名前。ジュリアってぇの。水は毎日取り替えて。その時、茎と花瓶も洗うこと!」

ぽん、と手の甲で私の胸元を叩く。気障か! と、突っ込みたくなる。

「二百円やったね」

百円玉二枚。彼の大きな掌に、ことりと落とす。

「はい、まいどっ」
「二回目でまいど、って」
「細かいねぇセンセイ」
「──あんたに、センセイって呼ばれる筋合いは」
「映司」
「は?」
「センセイが嫌なら、名前で呼ぼうかと」

なぜ一足飛びにそこへいくんだ。理解できない。

「佐々木、と苗字にならんのはなんでやの」
「いいじゃねえか。俺のことも達っちゃん、って呼んでくれて構わねぇ」
「あんたね」
「あれぇ。佐々木センセーだっ。学校行かないの?」

店先から声がする。

「おうミノル。センセイ連れてってやってくれ」
「何言うてるの。一人で行けますわ。ほら、君たちもさっさと行きなさい」

手で追い払えば、店をのぞき込んでいた山田は、くるりと体を回転させて走っていく。今なんで回転させた?

「ほな、どうも」

店主がこれ以上名前の話を続ける前に、と山田に倣うようにして今度は俺が花首をくるりと回転させて店を出る。これで名前の話は終わりに──

「映司、行ってらっしゃい」

声に。
振り返れば、ニヤニヤとしながら手を振る彼が、見えた。


   *


朝、目が覚めると空は薄曇り。窓をあければ、少しだけ湿ったにおいがする。

「ありゃ。雨降るかな」

寝巻きの上にカーディガンを羽織ってベランダへ出た。風が髪の毛を揺らして部屋の中へ抜けていく。冷たくもなく、かといって妙なぬるさもない風は、まもなくやってくる五月の緑の匂いを微かに運んでくる。

1Kの狭いアパートは絵具とカンバス、そして本が壁と床を埋めていた。辛うじてベッドの上だけは空間があるという有様。数日前には絵具を踏んずけてしまった。賃貸の床が汚れないようにと段ボールを敷いていたので助かったが、足の裏はそれはもう見事に真っ赤な血の色の絵具が広がってしまい、殺人現場もかくやとなった。赤は踏むものじゃない。

コーヒーを沸かし、近所のパン屋で買ってきたメロンパンを口に放り込む。外を通り過ぎるトラックの重みで、わずかに床が揺れた。残りのコーヒーを水筒に移し、ドアを開ける。

「しまった。折り畳み傘、こないだなくしたんやったわ」

重い空を見れば、降るぞ降るぞと話しかけてきそうだった。どうにか持ってくれれば良いが。まぁ、降って来たらビニール傘でも買うとしよう。

階段を降りるだけで甲高い音のする安普請のアパートだが、駅までの距離は誇れるくらい近い。──線路沿いなので、電車の音もよく響くのだが。30分ほど揺られれば、学校最寄りの駅に到着する。

学校に続く大通りをほんの少しだけ脇道に逸れると、いつもの花屋が見えた。昨日と同じくらいの時間なのに、今日は店先が整理されている。

「どうもおはようございます。今日は店頭が雑然としとらんのですねぇ」
「おう、おはようさん。毎朝仕入れがあるわけじゃないのさ」

なるほど。
聞けば、仕入れのない日は店内の冷蔵庫──キーパーと言うらしい──の中の花を、メンテナンスして並べるそうだ。

花の処理をするところを見たかったが、仕入れがないのでは仕方がない。店内を見渡せば、アプリコット色をしたカップ咲きのバラが目に留まる。

「このバラください」
「一輪?」
「ええ」

花の束からいくつかを引き出し、さらにそこから一輪を選んでくれた。水を含ませたペーパーを銀紙で包み、セロファンで巻く。
毎度のことだが、その手際にほれぼれと見惚れてしまう。この指先を見ているのが本当に楽しいのだ。もともと職人技に弱いのだが、この人の指先はどうしてか格別に見える。

「クロッカスローズ」

すい、と花先を俺の顔の前に差し出してきた。

「名前?」
「そ。甘いにおいがするんだ」

それで花先を向けてきたのか、と納得し、すんすんと鼻をふくらませる。

「ん? 嗅ぎ覚えのあるにおいやけど……これ何やろう」
「ミルクティ」
「あっ! それ」

もう一度確認するために今度は目一杯鼻に吸い込む。確かにミルクティの甘い香りがした。

「今はカップ咲きだけど、咲き誇ると、この花弁が開くんだ。それは見事なバラになるから、楽しみにしとけよ」

嬉しそうに。目の前にその花があるかのような表情を見せる。まるで、好きな人のことを思い浮かべているような顔。

「それは……楽しみやね」

クロッカスローズの香りをもう一度吸い込み、店を出た。


   *


「これを一輪」

店頭に花が溢れている。今日は仕入れをしてきたらしい。

「今日のはラナンキュラス。品種名はストミオン。良い香りがするぞ」

ラナンキュラス? バラではないのか。そう思ったのが伝わったのか俺の手元からすい、と抜き取り茎を見せてくる。

「バラとは茎が違うだろ? こっちはキンポウゲ科の花さ。ラナンキュラスのラナ、はラテン語のカエルを意味する言葉で、カエルが生息するような場所に生えるからとも、葉がカエルの足型に似ていることからとも言われてる」
「カエル……。とてもそうとは思えへんな。バラかと思うくらい、花はフリフリでかわええやないの」

中根が手に持つそれの花びらに、そっと人差し指を触れさせた。ふるり、と僅かに花が震える。

「さてここで問題です」
「は?」
「中世、ラナンキュラスは原産地の西アジアやヨーロッパの東南部から、西ヨーロッパに持ち帰ったものを品種改良をして、今のような可愛い園芸種となりました」

待て。突然どうした。

「誰が持ち帰ったでしょうーか!」
「しょうーか! や、ないわ。うーん……誰やろう」
「はい、チッチッチッチ」
「ちょっと黙って」

──西アジアにヨーロッパ東南。共通項は何だ。気候? 侵略? まだ見ぬ大地、ではないよな。シルクロード……仏教……いや、イスラム教か? それにラテン語か。

「あ! 十字軍」
「ピンポーン」

まさかの正解かよ。

「さすがセンセイだな。東方に戦いに出た十字軍の土産だ。どうしてわかった?」

連想ゲームの思い付きだ、というのも癪だが、それが事実だから仕方がないか。

「思いつきや。中世、それにラテン語なんて言うから、キリスト教が頭に浮かんだんよ」
「ああ、映司は美術の教師だもんな」

宗教画とかは得意ジャンルか、などと続ける。その通りではあるが、別にそれとラナンキュラスは結びつかないと思う。あと。

「なにさらっと呼び捨てに」
「……今日この花、一限目から使うのか?」
「使う? ああ、いや。一昨日、昨日のバラも、今日のこれも、授業で使う訳やない」

最初に買ったブーケが授業用だったので、勘違いしていたのだろう。俺の言葉に、中根はぽかんとした表情を見せてきた。

「ふ。なに間抜けな顔しとんの」

せっかくの男ぶりが、台無しじゃないか。

「いや、じゃあなんで毎日買いに来て──」

そこまで言いかけたかと思えば、中根はぼすり、と俺の頭に手をのせる。

「ちょっとやめてぇな。子どもやあるまいし」
「これ、使う訳じゃないなら、あとで学校に届けるよ。ラナンキュラスは長持ちさせるのに、少し手を入れてやった方が良いんだ」

そう言われてしまうと、ノーとは言い難い。でも、学校にわざわざというのも、他に従業員がいない状況で申し訳ないではないか。

「あ、それやったら別に急ぎでもないし、帰りに寄りますわ」

うん。ナイスアイディアだ。これなら、夜ゆっくりと話しもできるではないか。職人的な掌を持つ彼の話をもっと聞きたい。

「良いのか?」
「ええ。今日は六時過ぎには、戻って来れます」
「オッケー。それじゃここで待ってるな。飯でも食おうぜ」

店を出て、角を曲がる。万一中根が店から出たとしても、目に入らない場所まで来たところで、とたたん、と軽く足踏みをした。軽やかな足音が、体を心と同じように高揚させる。

「今日の夜。夕飯一緒に、やって」

くふり。思わず笑いが、漏れてしまった。




あれは一ヶ月前。
翌日の卒業式の準備の具合を確認しに、講堂に行った時のことだった。

私が勤めている私立羽鳥高校は中学からの一貫校で、緑豊かな敷地と、レンガ造りの校舎が人気だ。個人的には全校生徒が入りきる講堂が気に入っている。そんな講堂の中は緩やかなスロープになっており、その底面が舞台。そこに式典用の台が、臙脂の布を纏って置かれていた。

「準備は上々やな」

特に担任を持っているわけではないが、私が美術を見ていた生徒が無事に国立の美術大学に合格したのだ。しかもストレートで。嬉しくてたまらなくて、思わず式典準備の様子を見に来てしまった。

講堂の中はとても静かだ。その静寂さが明日への気持ちが高めていく。
ふと。
人の動く気配がした。

「なんやろう」

気配の先を確認すれば、先ほどまで椅子で見えなかったのか式典用の台の足元に人がいる。黒いエプロンの男だ。見える背中が随分とたくましい。

「あ、お花屋さんか」

気付かれないように観察してみれば、真剣な表情で花を活けていた。
すでにアウトラインが出来上がっている花と花の間に、バケツから新たな花を取り出しては添わせてみる。頷き、茎を切り差し込む。再びバケツから花を取り出し、同じように添わせる。

わずかに首を傾げ、別の場所に添わせたり、花を変えたりしていく。そうして再び茎を切り差し込む。遠目からでもわかるその真摯な瞳に、花を扱う指先に、思わず引き込まれてしまった。

百合、バラ、レースフラワー。マムにチューリップ。それに桜の花まで入っている。それだけではない。見たこともない、名前もしらない花もたくさんあった。その全ての名前を知りたいと思わせるほど、どの花も生き生きと飾られていく。
美しい。

次から次へと追加されていく花が、そこにある装花を彼の作品へとしあげていく様が本当に美しい。
薄いピンク、淡い紫に黄色や緑。色の多彩さ、まとまりの美しさ。花屋というよりも、まるで芸術家だ。だが、そこにあるくるくると働く指先は職人のそれでもある。

近くでその指先を見てみたい。その働き者の指先に触れてみたい。
芸術家の端くれでもある私の本能を刺激させられてしまう。もっとずっと見ていたかったのだが、授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響いてしまった。

「どこの花屋やろう。あとで調べな……」

彼の話を聞きたい。雄弁なその指先をもっと見たい。
美術室へと向かいながら、今日の授業の残りコマ数を頭に描いた。
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