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幕間6
EP13:とある魔獣の災難
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ありふれたしかし上等な執事服を身につけた男が忽然と姿を現したのは日が昇ってまだ間もない時間の事だった。
山の斜面を照らす朝日は新緑の木々を祝福するかのように煌めかせている。それは昨夜遅くに降った小雨の所為だがそれを知らぬ男には久しく目にしていなかった世界の息吹を感じさせる光景であった。
普段男は自らの居城のある森から出る事はない。深い森の中にあっては到底見ることのない景色もそこから出さえすれば案外すぐ側に溢れている。ほんの僅かに彼が感心を示したこの光景は何も特別なものではないのだから。
しかしながら彼の生活スタイルに意を唱える理由はなく、またその必要もない。彼はただそこに在る事こそがある種の仕事であるとも言えるからだ。
つまりこれまでは必要がなかった為に外出しなかったというだけに過ぎない。
そんな彼の生活が一変したのはつい先日の事だった。過去にも様々な理由から彼の居城を訪れる者はいたが、今回のそれはかなり特殊な来訪者であったと言える。
来訪者は極めて美しい娘だった。
肩のあたりまで伸びた桃色の髪が印象的でその見目は神々しい程に整っていた。この世界の神に等しい存在である彼の目にすらそのように映る程に。
ただし来訪者が特殊だったのは見た目の話ではない。彼女の特異性は王たる彼に面と向かって配下になれと宣言したところにある。
かつて力を貸して欲しいと望まれた記憶はあれど王である彼を自らの下に置こうと考えた来訪者はいなかった。少なくとも彼の記憶にはなかった。
僅かに興味を惹かれた。同時に何という愚かな存在かと諦観を抱きもした。人とはかくも愚かな存在に成り下がるのかと。我らの永き時は無意味になってしまったのかと……。
彼は来訪者に去るように告げた。
しかし来訪者は立ち去らず、あろう事か彼に対して力ずくでも従わせるなどと傲慢な考えを叩きつけた。
そしてそれを成し遂げた。実際には力ずくではなかったが彼女は彼を従えることに成功した。少なくとも彼の興味を惹き側にいさせる事に成功したのである。しかも側にいる限りは助力を誓われる程には好意的な関係性で。
それはかつてない事であり、本来彼ら王たちが何者かの下につく事はない。無論隣に立つこともない。
前代未聞、史上初。ありえないことが起きた。起きてしまった。
さて彼が一人でこのような辺鄙なしかし重要な場所を訪れたには訳がある。彼にとってはさほど重要ではないが彼が助力を与える彼女にとっては重要かつ捨て置けない確かな理由があった。
彼女曰く遠くない未来にこの地で尊い犠牲が出てしまう。それは到底看過できるものではなく、必ず食い止めなければならない。そんな運命の場所なのだとか。
もしここでの悲劇を食い止められなければ……。それは彼女が望む未来に暗い影を落とす事になるのだろう。故に予め排除するという事らしい。
動けぬ彼女に変わり彼がその役目を任された。それがこの地に巣食う魔獣の討伐であった。
魔狼王たる彼にたかが魔獣の討伐とは何と豪快な使い方であろうか。彼にとってこの程度の事は赤子の手を捻るが如く容易い。
しかし彼は至極真面目に任された任務を完うする。
生来の生真面目さはどのような些事であろうと手を抜く事を良しとしない。迅速かつ確実に仕事をこなす。任された以上百パーセントは当然であり、必ず要望以上にして報告することがかつての彼の信条でもあった。それはこの世界の王となった今も変わらない。彼が彼である証であり、彼を構成するアイデンティティの一つなのだ。
故に今回も彼は彼女が求める以上の成果を持ち帰る。持ち帰る為に持てる力の限りを尽くす。
それは本案件に対して些か過剰すぎるのだが、王たる彼はそのような事は気にしない。王の力に釣り合うような案件そのものが稀であるからだ。
故に淡々と作業をこなすかの様に遂行する。
……のだが、彼にしては珍しく他愛もない事を考えていた。それは彼女が笑いながら言った冗談の一つ。自分で退治を言い出しておきながらその相手を憐れむ様な言葉。
その時の光景を不意に思い出していたーー。
「……ガルム様がやって来るだなんて魔獣もきっとびっくりするわね。私が魔獣だったら神様に文句を言うに違いないわ。ここで平和に暮らしてるだけなのに!! ってね。ほんとこの地で暮らす魔獣が憐れで仕方がないわ。もしかしたら人間の方が後からやってきたのかも知れないのに。もしも神様がいるのならばーー魔獣の事も救ってあげて欲しいものね!」
ーーなどというつまらぬ回想に無表情な彼の口元に本人すら意識していない笑みが浮かんでいた。
あまりに永く生き過ぎた弊害。彼が忘れて久しい感情を刺激しているのかも知れない。
空を仰ぎ見た。
まだ陽は昇り始めたばかりだ。急げば昼食時には彼女の元に戻れるだろうか。
本人すら気づかぬ内に彼は彼女と共にあることを楽しんでいた。今はまだ片時も離れたくないというほどの次元ではないが、それは何かに焦がれる想いの初動であるのかもしれない。
また笑みが浮かぶ。喜び、悲しみ、怒り、戸惑い、そして不意に笑う。そんな彼女のコロコロと移り変わる多様な感情が思い出される。
願いを叶えてやったなら彼女はどのような表情で喜んでくれるだろうか。
どこをどう切り取っても恋する男のそれでしかない事に今はまだ彼は気がついていない。それはあまりにも遠い記憶故に簡単には今の感情と結びつかないのかも知れない。
いつの日か彼がその想いに気がついた時、一体どのような物語が始まるのか。ありきたりなラブストーリーなのか、それとも……。
いつかどこかでその物語が語られる事があるかも知れないし、ないかも知れない。
今この時に語られるのはとある魔獣の災難である。
彼は小さく息を吐き出すと音もなく歩きだした。向かう先には洞窟の入り口が見えている。
この奥に住まう魔獣たちの排除の為、魔狼王ガルムはその歩みを進めていく。一匹足りとも逃さぬように己の気配を消したまま……。
山の斜面を照らす朝日は新緑の木々を祝福するかのように煌めかせている。それは昨夜遅くに降った小雨の所為だがそれを知らぬ男には久しく目にしていなかった世界の息吹を感じさせる光景であった。
普段男は自らの居城のある森から出る事はない。深い森の中にあっては到底見ることのない景色もそこから出さえすれば案外すぐ側に溢れている。ほんの僅かに彼が感心を示したこの光景は何も特別なものではないのだから。
しかしながら彼の生活スタイルに意を唱える理由はなく、またその必要もない。彼はただそこに在る事こそがある種の仕事であるとも言えるからだ。
つまりこれまでは必要がなかった為に外出しなかったというだけに過ぎない。
そんな彼の生活が一変したのはつい先日の事だった。過去にも様々な理由から彼の居城を訪れる者はいたが、今回のそれはかなり特殊な来訪者であったと言える。
来訪者は極めて美しい娘だった。
肩のあたりまで伸びた桃色の髪が印象的でその見目は神々しい程に整っていた。この世界の神に等しい存在である彼の目にすらそのように映る程に。
ただし来訪者が特殊だったのは見た目の話ではない。彼女の特異性は王たる彼に面と向かって配下になれと宣言したところにある。
かつて力を貸して欲しいと望まれた記憶はあれど王である彼を自らの下に置こうと考えた来訪者はいなかった。少なくとも彼の記憶にはなかった。
僅かに興味を惹かれた。同時に何という愚かな存在かと諦観を抱きもした。人とはかくも愚かな存在に成り下がるのかと。我らの永き時は無意味になってしまったのかと……。
彼は来訪者に去るように告げた。
しかし来訪者は立ち去らず、あろう事か彼に対して力ずくでも従わせるなどと傲慢な考えを叩きつけた。
そしてそれを成し遂げた。実際には力ずくではなかったが彼女は彼を従えることに成功した。少なくとも彼の興味を惹き側にいさせる事に成功したのである。しかも側にいる限りは助力を誓われる程には好意的な関係性で。
それはかつてない事であり、本来彼ら王たちが何者かの下につく事はない。無論隣に立つこともない。
前代未聞、史上初。ありえないことが起きた。起きてしまった。
さて彼が一人でこのような辺鄙なしかし重要な場所を訪れたには訳がある。彼にとってはさほど重要ではないが彼が助力を与える彼女にとっては重要かつ捨て置けない確かな理由があった。
彼女曰く遠くない未来にこの地で尊い犠牲が出てしまう。それは到底看過できるものではなく、必ず食い止めなければならない。そんな運命の場所なのだとか。
もしここでの悲劇を食い止められなければ……。それは彼女が望む未来に暗い影を落とす事になるのだろう。故に予め排除するという事らしい。
動けぬ彼女に変わり彼がその役目を任された。それがこの地に巣食う魔獣の討伐であった。
魔狼王たる彼にたかが魔獣の討伐とは何と豪快な使い方であろうか。彼にとってこの程度の事は赤子の手を捻るが如く容易い。
しかし彼は至極真面目に任された任務を完うする。
生来の生真面目さはどのような些事であろうと手を抜く事を良しとしない。迅速かつ確実に仕事をこなす。任された以上百パーセントは当然であり、必ず要望以上にして報告することがかつての彼の信条でもあった。それはこの世界の王となった今も変わらない。彼が彼である証であり、彼を構成するアイデンティティの一つなのだ。
故に今回も彼は彼女が求める以上の成果を持ち帰る。持ち帰る為に持てる力の限りを尽くす。
それは本案件に対して些か過剰すぎるのだが、王たる彼はそのような事は気にしない。王の力に釣り合うような案件そのものが稀であるからだ。
故に淡々と作業をこなすかの様に遂行する。
……のだが、彼にしては珍しく他愛もない事を考えていた。それは彼女が笑いながら言った冗談の一つ。自分で退治を言い出しておきながらその相手を憐れむ様な言葉。
その時の光景を不意に思い出していたーー。
「……ガルム様がやって来るだなんて魔獣もきっとびっくりするわね。私が魔獣だったら神様に文句を言うに違いないわ。ここで平和に暮らしてるだけなのに!! ってね。ほんとこの地で暮らす魔獣が憐れで仕方がないわ。もしかしたら人間の方が後からやってきたのかも知れないのに。もしも神様がいるのならばーー魔獣の事も救ってあげて欲しいものね!」
ーーなどというつまらぬ回想に無表情な彼の口元に本人すら意識していない笑みが浮かんでいた。
あまりに永く生き過ぎた弊害。彼が忘れて久しい感情を刺激しているのかも知れない。
空を仰ぎ見た。
まだ陽は昇り始めたばかりだ。急げば昼食時には彼女の元に戻れるだろうか。
本人すら気づかぬ内に彼は彼女と共にあることを楽しんでいた。今はまだ片時も離れたくないというほどの次元ではないが、それは何かに焦がれる想いの初動であるのかもしれない。
また笑みが浮かぶ。喜び、悲しみ、怒り、戸惑い、そして不意に笑う。そんな彼女のコロコロと移り変わる多様な感情が思い出される。
願いを叶えてやったなら彼女はどのような表情で喜んでくれるだろうか。
どこをどう切り取っても恋する男のそれでしかない事に今はまだ彼は気がついていない。それはあまりにも遠い記憶故に簡単には今の感情と結びつかないのかも知れない。
いつの日か彼がその想いに気がついた時、一体どのような物語が始まるのか。ありきたりなラブストーリーなのか、それとも……。
いつかどこかでその物語が語られる事があるかも知れないし、ないかも知れない。
今この時に語られるのはとある魔獣の災難である。
彼は小さく息を吐き出すと音もなく歩きだした。向かう先には洞窟の入り口が見えている。
この奥に住まう魔獣たちの排除の為、魔狼王ガルムはその歩みを進めていく。一匹足りとも逃さぬように己の気配を消したまま……。
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