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02 家出
しおりを挟む梅雨入りして間もなく、週三で来てくれていた家政婦の菫さんが辞めた。夫が脳梗塞で倒れ、要介護状態となってしまったからだ。
父が代わりに雇った家政婦は、茜さんという三十前後の家政婦だった。美人で手際が良いので父は彼女をすぐ気に入ったが、僕はあまり好きじゃなかった。
明らかに父に色目を使っていたし、時々彼女が放つ、針でチクチクと刺すような敵意が怖かった。
考えてはいけないといくら自分を戒めても、ふとした瞬間彼女への懐疑心が胸を過る。
気のせいであってほしいという僕の願いは、ある日突然打ち砕かれた。
帰宅した父が茜さんと一緒に僕の部屋に押し入ってきたのだ。
「葉介。今すぐ服を脱ぎなさい」
父のあまりの剣幕に、僕は言葉を失った。
「茜さんから聞いたぞ。お前の部屋のゴミ箱から血のついたティッシュがたくさん出てきたと。自傷行為をしているかもしれないと心配して私に報告してくれんだ」
茜さんに対して激しい憤りを覚えた。
僕と父が不仲であることは彼女も薄々気付いていたはず。こんな密告るようなやり方をすれば僕ら親子がギクシャクすることくらい目に見えていただろう。
茜さんはどうして直接僕に聞いてくれなかったんだ?どうしていきなり父さんに報告したんだ?そんなのってあんまりだ。
「なんだ、その生意気な目は!父さんの言葉が聞こえなかったのか!服を脱ぎなさいと言ってるんだ」
僕は無言で抵抗を続けたが、やがてしびれを切らした父は僕の服を無理矢理脱がしにかかった。
バレたら終わりだ。病院に連れて行かれる。僕のクスリを奪われてしまう。
それだけは絶対に嫌だった。
僕は父を突き飛ばし、着の身着のまま家を飛び出した。
財布を持って出る余裕なんてなかった。
インドア派で体力には自信がないので、そんなに遠くへは行けない。
取り合えず住宅街を抜けて道路に出た。
行く当てもなく、背中を丸めてゾンビのようにふらふらと歩き続けた。
一時間ほど歩いただろうか。
そろそろ足が疲れてきた。
そんな時、「ナツカゼ公園」という看板が目に入った。
僕は看板が立っている細い脇道に入り、曲がりくねる坂を道なりに進んだ。
そこは申し訳程度の遊具があるだけのパッとしない公園だったが、一応ベンチとトイレはついていた。
夜の公園というだけでも不気味なのに、周囲にある鬱蒼とした木々がさらに恐怖心を煽ってくる。
初夏とは言え、夜は肌寒い。
ベンチの上で体を縮こませながら、改めて自分の行動の浅はかさを実感した。
こんな風に逃げたって何の解決にもならない。
どうせ明日には家に帰らなければならないのだ。
帰ったら、さっきよりもっと怒られるだろう。
だけどあの状況では他にどうすることもできなかった。
ぎゅっと絞られたように胃が痛み始めた。絶望の文字が重くのしかかってくる。
それを後押しするかのように、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。
雨足は強まり、僕を嘲笑うかのように打ち付ける。
僕はよろよろとベンチから腰を上げ、雨をしのごうと公衆トイレへ入った。
スエットのポケットの中でスマホが振動し始めたのはその時だった。
案の定、父からの着信だった。応答せずに拒否ボタンを押した。
再びスマホが鳴った。父からのL●NEだ。
<今どこだ。さっさと帰ってこい>
そうだ。結局、帰らなければならないのだ。他に行く当てなどないのだから。僕の抵抗は、ただの悪あがきに過ぎない。
スマホを握り締めたまま、これからどうしようかと考えに沈む。
こういう時、相談できる友達がいたらいいのに。
僕はふと、春休みに踏み切りで出会った少女のことを思い出した。
ミナツキ。自称"空気清浄機"の浮世離れした女。あれきりメッセージのやり取りはしていないが、別れ際に彼女は言っていたではないか。辛いことがあったらいつでも連絡してほしいと。
ただの社交辞令だったのかもしれないが、いかんせん僕には頼れる人が他にいない。
半ば捨て鉢になってミナツキにメッセージを送った。
〈家出してきた。どうすればいいのかわからない〉と。
十五分以内に返事が来なかったら諦めて帰ろうと思っていたが、彼女からの返信はすぐにきた。
〈行く当てがないのなら、私の家に来ますか?もし嫌でなければ、今からそちらに迎えにいきます〉
望み以上の返事が返ってきて嬉しい反面、不安でもあった。
相手は道端で偶然出会った、素性の知れない女だ。しかも、自称"空気清浄機"という胡散臭ささえある。
のこのこ付いていって大丈夫だろうか。
いや…そんなことを考え出したらキリがない。
大体こんな絶望的な状況で、今更僕は何を警戒しているのだろう。
そんな自分が酷く滑稽に思えると同時に、決心がついた。
僕はこの選択を後悔しない。家に帰るよりはよっぽどマシだ。
〈お願いします〉と返信を送った。
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