いつかはまだ遠い青

宇土為名

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「立夏?」
 帰ったアパートの中はしんとしていた。薄暗い廊下。リビングもキッチンも、俊臣が朝出て行った時のまま何も変わったところがない。
「……」
 時間的に帰ってくるかもしれない時間だ。
 もう少し待とう。
 帰って来なければバイト先に行こう。もしも今日美織もそこにいたなら──
 問い詰めるか…、説得するか。
 どちらにしてもすんなりいくとは思えない。
 俊臣は軽く息を吐いて鞄を置き、狭くなった部屋の中を歩いた。壁際に積まれた段ボールの箱の中には、この部屋にあった立夏のものが詰め込まれている。俊臣のものは母親の英里が先に新しい家に送ってくれるという話だった。
 何か飲むかと冷蔵庫を開けた。中から開いていない水のペットボトルを出してキャップを捻り、口をつけた。食器も何もかも必要最低限のものしかもう出していないので、こうするのが一番よかった。
 振動音が静かな部屋の中に響いた。
「……」
 鞄?
 いや、と俊臣は視線を動かした。脱いだ自分のコートからだ。
 取り出して見てみれば、母親からだった。
「はい?」
『あ、俊臣』
 相変わらずのんびりした声にふっと気が緩む。
「何か用?」
『りっくんもう家? 電話しても出ないんだけど』
「ああ…、まだだけど。りつは今日携帯持ってないから」
『え、ああ、なんだそうなの』
 朝忘れていったと続けると、英里は囁くように笑った。
『何度もメッセージ送ったのに珍しく返事がないから具合でも悪いのかと思ったわ』
「元気だよ」
『そう。ならいいんだけど』
「何か急ぎの用?」
 鞄から立夏の携帯を取り出してみれば、画面にはいくつかの通知が表示されていた。知らない名前の着信の後に英里の通知が入っている。
 気づかなかったな。
『あ! そう、そうなのよ。りっくんもう荷物纏めてあるわよね?』
「ああ、多分…」
 目の前の段ボール箱に俊臣は目をやった。
『そっかあ、そうよねえ。ねえ、その中にお鍋ないか見てくれない?』
「は?」
 母親の突拍子もない言葉に俊臣は一瞬頭が混乱した。
 鍋?
 何を言ってるんだこの人は。
 昔から寝惚けたことをよく言う人だったが…
 ため息まじりに俊臣は訊いた。
「…鍋?」
『りっくんがそっちに行くときにうちにあるの持って行ったんだけど、大きくて使わなかったって言うから、またこっちで使おうと思って。勿体ないじゃない? 結構いいやつだったのよ、それ』
 だからあるなら荷物から出しておいてくれないかと言われて、俊臣は額を押さえそうになった。
「それは、引っ越しのときでいいだろ?」
『いいから、ちょっと見てよ。今セールなの。なかったら買おうと思って』
「あのな…」
『あったらあとで連絡くれればいいから。じゃあね』
 出来たら今日中に、と言い残してさっさと英里は通話を切ってしまった。俊臣は深いため息を落としながら、携帯を放った。
 こんなときに。
 あとでまた入れるつもりなのだろう、段ボールにはどれも封がされていなかった。箱に手を伸ばし、重なるふたの部分を上げてみる。綺麗にたたまれた服、その箱を下ろして下の箱を開ければ、本や雑多なものが隙間を埋めるように押し込まれていた。その箱も下ろして、俊臣は一番下の箱の蓋を開けた。梱包材に包まれた何かがきっちりと詰められていた。一番上のものを取り出すと、それは皿だった。多分、この中だ。
 面倒だと思いながらも俊臣はひとつずつ中のものを取り出していった。こういうとき母親を邪険に出来ないのは、昔からの積み重ねなのだろうか。
「これか」
 梱包材の中に埋もれた鍋の縁が見えた。持ち上げるとそれはやけに重く、片手で持っていたためぐらりと傾き、蓋に引っ掛かった。
「あ──、と」
 被さっていた鍋の蓋が外れ、中から色んなものが床に転がり落ちた。どうやら中に詰め込んでいたようだ。
 立夏らしい。
 散らばったものを寄せ集めていた俊臣の手が、ふと止まった。
 食器類の中にある、異質なもの。
「──」
 ここにあるべきではない。
 …ネクタイだ。
 見覚えがあるなんてものじゃない。去年まで通っていた高校の制服だ。
 これは──立夏の?
 でも、と俊臣は思い返す。
 立夏のネクタイは、卒業式の日に…
『ああさっき、あげちゃった』
 くしゃくしゃに丸まったそれを指先で摘まむ。持ち上げると、ネクタイははらりとふたつに分かれた。
 床に落ちた片方の、切り取られた断面。裏返った生地に縫いとめられたイニシャルは、いつか、立夏と母親が笑い話にしていた──
 次の瞬間俊臣は弾かれたように顔を上げ、アパートを飛び出していた。

***
 
 あのねえ、と二葉は言った。
『私あんまり言いたくないんだけど。立夏も、聞いてもきっといい気分しないよ』
『そんなことは分かってるよ』
『知らない方がいいこともあると思うけどね』
『いいから』
 電話の向こうから聞こえる呆れまじりの声に、おれは言った。
 何かを決めかねているような沈黙が降りてくる。
 日曜日の暖かな冬の日差しが部屋の中に差し込み、照らし出された空気がきらきらと光る。
『じゃあまあ…、言うけど』
 小さく咳払いをして二葉が言った。
『あのね、立夏がネクタイあげた子、名前覚えてるでしょ?』
 覚えてるよ、とおれは頷いた。
『村田さんだろ』
 村田春奈、天文部のおれの後輩だ。
『うん、村田…春ちゃんて私呼んでるから、そう呼ぶけど、春ちゃんね、もらったネクタイ、失くしたみたいなのよ』
『…え?』
『いつ、っていうのは本人もはっきり分からないみたいなんだけど。後輩に指導しに行って──あの子今天文部の部長だから話す機会あって、相談されたのよね。まあ、愚痴みたいなものかな』
 二葉とおれが仲が良いのを、互いの部の後輩たちは知っている。後輩がおれについてのことを二葉に相談するのは、ごく自然なことのように思えた。おれも、書道部の後輩に二葉の話を振られたことがある。
『見せて欲しいって言われて、つい学校に持って来たみたいなのよね』
『そんなの見てどうすんの…』
 思わず呆れて呟くと、二葉は笑いを含んだ声で言った。
『立夏には分かんない世界よ』
『どんな世界だよ』
『うるさいわね、まあ、とにかく──』
 友人たちにせがまれて学校におれから貰ったネクタイを持って行ったのだと二葉は続けた。そして後輩は教室でネクタイを見せた後、家に持って帰りはしたが鞄から出すのを忘れていたという。
 そのことに気がついたのはそれから三日ぐらい経ってから、仕舞ったと思い込んでいたクローゼットの中にそれが見当たらず、鞄の中を探しても、ネクタイは出て来なかった。部屋中を探し回り、家の他の部屋も探したがネクタイは見つからなかった。
『じゃあ、学校?』
『そうね、その三日の間鞄の中にもしも入れっぱなしだったなら、学校で失くしたってことになるわよね』
『…そうだよな』
『他にないと思う』
 ねえ、と二葉が言った。
『中学の時のこと覚えてる? 私のペンが折られて、立夏のペンが失くなったこと』
『うん』
『私、あれに似てると思う』
『……』
 似ているだろうか。
 実際、あのことは驚くほどよく覚えている。纏わりつくような視線をいつもどこかで感じていた。一番、きついと思った時期。
 確かにそうかもしれない。
『同じやつがやったってこと?』
『ずっといるやつならそれも出来るでしょ』
 そして少なくとも、そいつは自分たちと同い年ではないということだ。
『それ、いつの話?』
『去年の…、七月って聞いた』
 夏休みに入る前くらいだと二葉は言った。後輩からこの話を聞いたのは、おれに電話を掛けてきた日の前日だったらしい。後輩はずっと誰かに言いたくてたまらなかったようだと二葉は教えてくれた。
『ごめんなさいって言ってたよ』
『誰のせいってことでもないだろ』
『そうだけど。そう言いたかったんだって』
 伝えて欲しいと二葉はお願いされていたが、この話をおれにするかどうか迷ったようだ。結果、おれの様子を窺うような電話を掛けてきたということだった。
『ねえ、立夏…あんた大丈夫なの?』
『ああ、うん』
 二葉にはネクタイが送りつけられたことだけを言い、切られていたことは伏せていた。知らなくてもいいことがあるというのは本当だ。ただ二葉を不安にさせるだけなら、言わない方をおれは選ぶ。
 大丈夫、とおれは苦笑した。
『心配しなくても、おれは大丈夫だよ』
『…ならいいけど。なんかすごく気になっちゃって。何にもないよね? 元気なんでしょ?』
『元気じゃん。おれの声聞いて分かんねえ? 耳悪くなったな』
 わざとのように言うと、電話の向こうの二葉が鼻で笑う気配がした。
『あんたって、ほんと分かりやすいよね』


 目の前の女は、にっこりと笑っている。
 足下に落ちたペンを拾い、指先でくるくると回す。
「神崎先輩って、いつも何にも見てないでしょ。私のこと分かる?」
 じっと彼女を見つめ、おれはやっと分かった。
 彼女は橋本咲じゃない。
 この子は。
「野口…さん?」
 野口美織だ。
 ようやく──分かった。
 俊臣の隣にいた彼女だ。
 美織は小さく首を傾けて、浮かべていた笑みを深めた。
「そうよ、先輩。やあっと、私のこと見てくれたね」
 どうして気づかなかったのだろう。
 髪型や化粧のせいか、話し方、着ているもの、なんにせよ、おれは本当に美織の顔を憶えていなかったのだ。視線を彼女に意識して向けたことはなかったように思う。
「ごめん…、気がつかなかった」
「いいの。咲とは従姉妹で、元々顔が似てるし、この髪型にしてからほんとの双子みたいになっちゃって、自分でも死ぬほど笑っちゃった」
 従姉妹。そうか、とようやく腑に落ちた。橋本咲とはじめて会ったとき、何かを思い出しかけたのは、きっと美織のことだったのだ。
 ふふ、と美織は笑った。今まで声も意識して変えていたのか、おれがさっきまで聞いていた声とは別人のように聞こえた。
「でもそのおかげでここにいられるわけだけど」
「遠亜ちゃんと、最初にここに来たのは…」
「あれが本物の咲」
「面接に来たのは…」
 にこりと美織は笑った。
「あれは私」
「なりすましてたってこと?」
 美織は肩を竦めた。
「まあ、そういうことかな。先輩なら気づかないと思ってたから。でもほんとに全然気づいてくれなくて、途中で言いたくなって困ったなあ」
 くすくすと美織は笑った。おれは持っていたカップを、テーブルの上に置いた。
「ネクタイを送ってきたのは、きみ?」
「そうだよ。あの女が汚したとこ綺麗に切れてたでしょう」
 よかったね、とどこか自慢げに言う美織に、腹の底がぞわりとした。
 やってることと話すことがかすかに矛盾しているのはなぜだろう。美織はそのことに自分自身気づいていない気がした、
「なんで?」
「…なんで?」
「なんで、あんなことしたんだ? あれはおれが後輩にあげたものだろ」
 美織はきょとんとおれを上目に見た。
「なんでって、だって、あれは先輩のでしょ。先輩に返しただけだよ」
 返した。
 返しただけ?
「本当はあんな子に持って欲しくないの分かってるよ。あの村田って女、先輩のものを人に見せびらかしたりして、ちょっと許せないよね? バカみたいだった」
 すう、とおれは息を吸い込んだ。
 落ち着け…、落ち着け。
「…あげたものをその人がどうしようと、おれは何とも思わないよ」
 美織の頬がぴく、と揺れた。
 おれは美織の持っているペンに視線を動かした。
 そして美織の顔を正面から見た。
「なんで二葉のを壊して、おれのを盗ったの」
 そのときになって初めて、おれは彼女の顔をしっかりと見た気がした。
 そうだ、こんな顔をしていた。
 そうだった。
 こんな、綺麗な顔をしていたのに。
「欲しいなら、おれのだけでよかっただろ?」
「だって、許せないから。あんな彼女でもないのに、嫌がる先輩を無理矢理買い物に付き合わせて、しかも同じのを買わせるなんて、あの女こそどうかしてるでしょ?」
「おれは嫌々なんて付き合ってない、あれは──」
「嘘だ!」
 がたん、と大きな音を立てて美織は立ち上がった。
「嫌がってた! 先輩は! こんなのひとつも興味ないのに! 私知ってるんだから!」
 大きく腕を振り上げてペンを床に叩きつける。嫌な音を立ててペンは跳ね返り、近くの棚に当たってどこかに転がっていった。
「先輩はこんなの嫌い、あの女と付き合ってたのも言われて仕方なくそうしてただけ。そうでしょ? 私の方が先輩のことずっと見てるもん、先輩の気持ち分かってるよ」
 綺麗な黒髪を振り乱して美織は叫んだ。
 華奢な肩が震え、頬が赤く上気している。
「私が分かってる! 私だけだもん、先輩のこと本当に分かってるのは、先輩は優しいからいつも言い出せないだけ。欲しいって言われてすぐにあげちゃう、嫌だって思ってても優しいから──」
「違うよ」
 興奮を宥めようと、出来るだけおれは静かに言った。
「嫌だって思ったことは一度もない。二葉のことは、ちゃんと好きだと思ってたんだ」
 お互いに勘違いしていただけ。
 美織の頬が引き攣ったように歪んだ。
「そう思わされてたの…なんで分かんないの、あの女は口が上手いから、先輩を操ってたんだよ」
「そんなわけ──」
「そうに決まってるよ、なんで先輩は気づかないの? 私の方が絶対先輩のことを分かってる」
「の…」
 野口さん、と言おうとしたとき、美織の目がおれを捉えた。
「なのにまた、あんな女と一緒にいたりして…信じられない」
「……」
「見てて頭おかしくなりそうだった。遠亜みたいな軽い女のどこがいいの?」
 おれは言葉を探して美織を見た。彼女の肩の向こうを見、視線を戻した。
「ちゃんとしてくれなきゃ駄目でしょ? 先輩」
「──」
 自分の言葉に酔ったように、美織は一歩、おれに近づいて足を踏み出した。
「見てるだけでいいって思ってたのに、目を離したらどんどん理想から離れていっちゃうからほんと危なっかしいよね。ちょっとどうしてやろうかと思ってたけど…あの女が自分から離れてくれて、それは感謝かなあ。塩谷くんにもお礼言わないと。ちゃんと元に戻ったね。よかったあ」
 俊臣の名に、おれははっとした。
「俊臣が、なに…?」
 その問いには答えずに、うっとりとした口調で美織は言った。
「ね? 先輩にはもっとふさわしい人がいるよ。塩谷くんもそう思ってるんだよ。もっと、釣り合いの取れる綺麗で、優しくて、おとなしくて、先輩のことしか見ないような、そんな…女の子」
「それは…、自分のこと?」
 にこりと美織は笑った。
「そうだよ、私、先輩の理想でしょ?」
 ああ。
 ああ、この子は…
 この子は。
「勝手におれを決めつけて楽しい?」
 美織の頬がぴくりと動いた。
「おれはそんな人好きにならない」
 じっと美織の目を見て言う。言い聞かせるように、ゆっくりと。
 ゆっくりと。
「好きじゃない。嫌いだ」
 美織が目を見開いた。
「おれのことは、おれにしか分からないよ。きみにも、誰にも、本当のことはおれしか知らないよ。きみに分かるわけない」
「なんで──なんでそんな、そんなわけないよ。私見てたもん、だって先輩は、先輩のこと分かってるのは私だよ! 先輩だって知ってたでしょ? 私のことほんとは気づいてたくせに! いつも」
「見てただけだろ」
 美織の声を遮るように言うと、言葉に詰まったように彼女は口を開けたまま止まった。
「おれを見てただけ、話もしなかった。おれはあんたのことを知りもしないし、俊臣といても顔も覚えなかった。それで? それで何が分かるって?」
 息を吸い、その倍の息を吐いて、今度はおれが一歩彼女に近づいていく。
「おれが何を好きか知ってる? おれがずっと誰を好きだったか分かる? 誰にも知られないように隠してたのに、見てるだけで満足してるようなやつに何が分かるって言うんだよ」
 さあ、と美織の顔から血の気が引いた。青ざめた彼女の顔を見下ろして、自分で傷つけたくせに苦しくなる。まるで、自分に跳ね返ってくるかのような言い草だ。おれもそうだった。
 でも。
「言わなくても伝わるなんてありえないよ。見てるだけで振り向いてもらえたら誰も苦労なんてしないだろ」
「…っ」
 美織の目から涙が零れ落ちた。まっすぐに引き結んだ唇が震えている。
「ずっと、見てたのに、──一度も私を見なかったくせに、やっと私を見て言うのがそれ…?」
 綺麗な顔が歪み、おれをきつく睨みつける。
 ごめん、と謝ろうとしておれはやめた。何に対しての謝りだろう? 湧いた疑問に言えなくなった。
 代わりのように、ぽろりと言葉が零れて落ちた。
「いつか…」
 どうしてだったのか分からない。
 いつか──その言葉の先を探していると、ふっと嘲るように美織の口角が吊り上がった。
「…いつか? なにそれ、いつかなんて私には来ない。絶対にない。先輩は最低だよ」
 美織が思いついた言葉の続きが、何か分かるような気がした。
 いつか。
 いつか──きみを理想だと思う人が現れる──多分、そんなふうに。
「最低」
 夢から覚めたように、美織がおれを憎しみに満ちた目で見た。
 分かりあえる気はしない。きっと、彼女のことは何を言われても理解出来ない。どんな話をこれから先したとしても、彼女の考えを分かってやれるとは思えなかった。
 美織はテーブルに置いたままだったカップを取り、もう冷え切った中身を一瞥すると、不味そう、と吐き捨てた。
 コンコン、とノックの音がしてドアが開き、チーフが顔を出した。
「神崎くーん、休憩終わった?」
「あ、はい、今──、っ」
 バシャッ
 気が逸れた一瞬をつき、美織はカップの中身をおれにぶちまけると、その脇を通って走り出て行った。
「うっわ…」
 やってくれた。
 白い厨房服にココアの茶色い染みが広がっていく。
「あーらら、神崎くん大変だねえ」
 ちらり、とおれはチーフを横目に見た。
「ちょっと…、ずっと、そこで聞いてたでしょ」
 チーフはくたびれた手拭きのタオルをおれに差し出すと、くく、と困ったように笑った。
「ごめんごめん、気づいてた?」
「気づいてたのも気づいてたでしょ」
「いやあ、遅いから呼びに来たらえらいことになってて聞き入っちゃった」
 美織の向こうに見えたドアの隙間からチーフの体が見え隠れしていたのに、おれは言い合いの途中で気がついていた。
「神崎くんが襲われそうになったら助けに入るつもりだったけど、いらない心配だったね」
「もう…」
「ああいう子いるんだねえ」
 タオルで拭いても茶色い染みは消えない。仕方なくため息をついて肩を落とすと、チーフが声を上げて笑った。
「笑い事じゃないでしょー」
「いやいや、だって、神崎くん思ったよりずっと男だったんだもん」
「なにそれえ」
「ふふふ、ちゃんと言えて偉いってことよ」
「…なんすかそれ。おれそんな、頼りない?」
「ふふふ」
 心外だと口を尖らすと、チーフは笑って、おれの手から汚れたタオルを取り上げた。
「思ってたのと違ってたってだけ」
 肩を竦めると、彼女もそうだったんじゃない? とチーフは言った。
「でもこれで、やっと現実に戻れたんじゃない?」
「それは…」
 そうかもしれない。目が覚めたようなあの美織の目にを思い出しておれはため息をついた。ぱん、とチーフがおれの背中を叩いた。
「まっ、もうここには戻って来ないだろうけどね」


 長すぎた休憩の後に残っていた仕事をばたばたとこなし、上がる時間になった。戻ったおれの茶色く染まった厨房服を見て、シェフと高岩さんはずっとどうしたのかと聞きたそうにしていたが、チーフが上手いこと言ってふたりを納得させてしまった。
 具合の悪くなった橋本さんを受け止めようとして、手にしていたカップの中身が掛かってしまったのだとか、なんとか。橋本咲は早退したと言えば、──実際あのまま更衣室に厨房服を脱ぎ散らかして、彼女は姿を消していた──それでふたりがすんなり納得したのもなんだか可笑しい。
「神崎くーん」
 お疲れさまでした、と厨房を出ようとしたところでカウンターの向こうからチーフがおれを手招きした。
「なんですか?」
「弟さん、来てるけど?」
「──えっ!?」
 慌てて表に回ると、店の自動ドアを入ったところに俊臣が立っていた。制服にコートのままだ。肩で息をしていた。
「俊臣、どうしたのおまえ」
「りつ」
 駆け寄れば、はっとしたように俊臣はおれの制服を見た。
「あーちょっとへましただけ」
「女の子を助けたんだよねえ」
「チーフ!」
 横から顔を出してにやにや笑うチーフにおれはぎょっとした。頼むからあんまり余計なこと言わないで欲しいなあ…
「で、どしたの?」
 話題を変えるように言えば、俊臣はコートのポケットからおれの携帯を出した。
「…? え? おれもう帰るけど…」
 は?
 これ、届けに来たの?
 おれもうほんとに帰るんだけど?
 家でよくない?
「あらあ、優しい! なにか食べていく?」
「チーフううぅ…!」
「いいじゃない、どうせ暇よ今日」
「そういうことじゃ──」
 レジの前で言い合っていると、自動ドアが開き、来客のチャイムが鳴った。
「いらっしゃいま…」
「立夏、来たぞー」
「え」
 成瀬だった。ひとりだ。
「え、ひとり?」
 後ろには誰もいない。
 しかも時間早くない?
 あたりまえじゃん、と成瀬が言った。
「もうオレ合コンとかしばらくやらねえわー。腹減った、行った店で全然食えなくてさー、何か食わせてよ」
 ひらひらとおれに手を振ってこっちに来る。おれの前に立っている俊臣に気がつき、あれ、と首を傾げた。
「おとーと?」
 え、とおれは目を丸くした。
「何で知ってんの?」
 紹介をした覚えはない。写真も見せてないのに。
 困惑したおれをよそに、何でもないことのように成瀬は言った。
「え、昼間見かけたから」
「は?」
 は? 昼間?
 どういうこと?
 つーかなんでここに集まってんの?
 一体今日は何なんだ。
 次から次へと…
「なんだよ昼間って?」
 成瀬は俊臣を見てにこりと笑った。
「オレ成瀬、立夏の友達。なあ、一緒に飯食おーよ?」
「遠慮します」
 俊臣は成瀬を見下ろして眉を顰めると低くきっぱりとそう言い、帰ろう、とおれの腕を掴んだ。



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