いつかはまだ遠い青

宇土為名

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 高校一年の春のことだ。
 同じクラスの女子が、目の前でペンケースを落としたのだ。
『──あっ』
 教室の机と机の間に散らばったそれを、彼女はさっと屈んで拾い始めた。俊臣も足下に転がって来たペンやシャーペンを拾い、それを彼女の目の前に差し出した。
『これ』
『あ、っ、ありがとう』
 差し出された手を見、彼女は顔を上げた。俊臣と目が合うと、びく、と肩を揺らす。肩にかかっていた黒く長い髪がさらさらと零れ落ちた。
『…? どうかした?』
 目を丸くした彼女に俊臣が言うと、はっとしたように小さく首を振った。
『…ありがとう』
 俊臣の手からペンを取り、もう一度そう言って彼女は立ち上がった。
 制服の胸元に付けた小さなイニシャルプレートが目に入る。俊臣の通うこの高校は中高一貫校で、六年を通して制服にイニシャルを記した小さなプレートを付けるのが決まりだった。中学から高校に上がるときにプレートの色が変わる。俊臣の制服の胸元にも付いている。
 ペンケースに戻す彼女のプレートにはM・Nとあった。何だったかと俊臣は名前を思い出そうとした。入学式から三日経ち、自己紹介などをしたのはつい昨日のことだ。
 確か…
『──』
 ふと、その手元に俊臣は目を止めた。
『それ──』
『え?』
 右手に握り締められたいくつかの筆記具の中に見覚えのあるものがある。
『ああ、家族が…、兄弟が、同じもの持ってたから』
 以前立夏が同じペンを持っていた。持ち手の端に少し大きめなキャラクターのついたそのペンは、女子が好みそうなものだ。俊臣は全く興味もなかったが、買うのに苦労したのに失くしてしまったと母親にぼやいていたのを憶えている。
『あ…、そうなんだ』
 彼女は小さく頷いてそれらをペンケースに入れた。
『お兄さんこういうの好きそうだね』
 そう言って俊臣の横を通り過ぎ自分の席に戻って行く。
 たった、それだけのことだったが──
 お兄さん?
 彼女が去った後、数秒経ってから俊臣は気づいた。
 自分と立夏のことを彼女は知っていたと。


 兄弟とは言ってもそれは表向きのことで、実際にはそうではない。言ってみればひとつ屋根の下で暮らしている幼馴染みだ。家族になることを拒んだのは俊臣で、苗字もそのまま変わることなく暮らしている。だからよほど近しい間柄の人か、友人、学校関係者など、自分と立夏のことを知る人間は実のところそう多くはない。いちいち説明などしない俊臣とは違って、立夏は、周りの人たちに教えているようだったけれど。
 彼女もそのうちのひとりだったのか。
 部活の後輩?
 俊臣は休み時間にそっと彼女の机の傍に行った。彼女は席を外していた。机の上には次の授業の教科書がきちんと置かれている。
 野口美織、とノートの端に丁寧な字で記されていた。

***

『あれ、俊臣くん』
 書道部の部室から半紙の入った箱を抱えて出て来た上級生が、俊臣を見て驚いた顔をした。俊臣もよく知る人だ。立夏の友人の矢野二葉だ。
 中高一貫校とは言っても高校を変える生徒は多い。特にこの学校は親の転勤率が何故か高いようで、転校や転入する生徒は珍しくなかった。友人だった人が当たり前のように翌日にはいなくなるようなこの学校で、彼女はずっと立夏の傍にいる。
『どしたの、入部する?』
 いえ、と俊臣は持っていたファイルから一枚抜き取って差し出した。
『生徒会の調査票を持ってきました』
『ああ、そっか、生徒会に入ったんだっけ。立夏から聞いた』
 二葉は箱を足下に置いて俊臣から調査票を受け取った。ざっと目を通して半分に折り、制服のポケットに入れる。
『来週また回収に来ます』
『はーい、俊臣くんならいつでも大歓迎よ』
 にこりと笑って二葉は冗談ぽく言った。
『次は立夏のとこ? さっき備品室にいたけど』
『ああ、まあ…』
 立夏の在籍する天文部の部室は理科準備室を挟んで隣にある。
 そうです、と言いかけた俊臣の横を書道部の生徒が通り、二葉に挨拶をして部室に入って行った。
『あの、矢野先輩』
『なに?』
『先輩の後輩に、野口っていますか?』
『のぐち?』
 二葉は首を傾げて目線を下げた。思い出そうとするかのようにぎゅっと一度目を瞑る。
『いないなあ…、野口でしょ? 男子?』
『女子です。髪の長い』
『髪の…』
 二葉はまた考え込んで、小さく首を振った。
『うーん、いないと思う。うちわりとずっと同じ面子で新入部員て少ないし。なんで?』
『いえ──ちょっと』
 ただずっと気になっていただけだ。自分でも上手く説明できる気がしなくて俊臣はそう返した。
 立夏には既にそれとなく聞いている。天文部の後輩にもそういう名前の生徒はいないようだった。
『それじゃ』
『──あ』
 軽く会釈をして背を向けたところで、二葉に呼び止められた。俊臣が振り返ると、二葉は箱を再び持ち上げるところだった。
『立夏に、早くハンカチ返せって言っといて』
 手伝ったほうがいいだろうか、と一瞬迷っているうちに、二葉はさっさと反対方向へ廊下を歩いて行ってしまった。


 二葉の言った通り、二階の端の備品室に立夏はいた。
『俊臣』
 立夏は天井まである棚の上段に手を伸ばしていた。
 窓から差し込む陽に埃がきらきらと舞っている。
『なに? おまえも何か要るの?』
『いや、りつを探してた』
『おれ?』
 不安定な踏み台の上で踵を思い切り上げ、立夏は棚の上の箱を引き出そうとする。
『生徒会の調査票、部室に行ったらいなかったから』
 本当は二葉から居場所を聞いたからで、部室の前を素通りしてきたとは俊臣は言わなかった。
『ああ…、誰かに渡しとけばいいの、にっ…!?』
 箱の底に掛けた指が、中の重さに耐えきれずに外れた。うわ、とバランスを崩した立夏が、ぐらりと踏み台の上で仰け反る。
『──っ』
『危ない』
 俊臣は咄嗟に立夏の体を受け止めて引き寄せた。男にしては軽い重さが腕にかかる。吃驚したのか、立夏は俊臣の体に縋るようにぎゅっと抱きついていた。
 思わず抱きしめたくなる。それを顔に出さないで俊臣は立夏の顔を覗き込んだ。
『大丈夫か?』
『だっ、だいじょう、ぶっ!』
 ばっと弾かれたように立夏は俊臣から離れた。その途端、足下に倒れた踏み台に立夏は躓いて──俊臣は転びかけた立夏の腕を取って立たせた。
『りつ、気をつけろ』
『ご、ごめん…っ』
『これ?』
 立夏の前を通り、俊臣は箱に手を伸ばした。難なく届いた箱を手前に引き出し、ゆっくりと傾けてしっかりと底を持ち、下に下ろした。本でもぎっしり詰まっているのか、かなりの重さだった。
『…なんか、むかつくな、おまえ』
 苦労した自分とは違い、容易く俊臣が出来てしまったことに対して立夏が不貞腐れたような声で言う。その声音に可笑しさを感じながら俊臣は立夏に微笑んだ。
『これ、りつひとりじゃ無理だろ』
『そうだけど…、だって誰もいねえんだもん』
 観測会の準備で皆忙しいのだと立夏は続けた。そういえば、今週末、天文部が主催する観測会が催される。
『ひとりじゃ危ないよ』
『…子供じゃねえって』
 俊臣の手から調査票を引ったくるようにして立夏は口を尖らせた。背中に受ける午後の陽の光が、立夏に添って淡い輪郭を作る。
 腕に残る立夏の余韻に俊臣は目を細めた。
 手を伸ばしてしまいそうだ。
『期限来週? 取りにくんの?』
『ああ』
 ふうん、と立夏は頷いた。
『運ぼうか?』
 重い箱を途方に暮れたように見下ろしている立夏にそう言うと、一瞬の沈黙ののちに台車まで、と小さく返って来た。その言い方が可笑しくて、笑いを堪えながら俊臣は備品室の隅に仕舞われていた折り畳み式の台車を取り出して広げた。
 箱を持ち上げて、ああそうだ、と思い出した。
『矢野先輩が、りつにハンカチ返すようにって』
『あー…二葉?』
 箱を台車に乗せ、体を起こして立夏を見ると、何故か困ったような顔をしている。
『…どうした?』
『うん、まあ…なんか、失くしちゃって』
『え?』
 はあ、と立夏は軽くため息をついた。
『二葉に借りてたやつ、どっか行っちゃってさ。代わりのを買わないと』
『どこで失くしたの』
『んん…、分かんねえけど』
 最近よく物を失くすんだよなあ、と困ったように立夏は笑った。
 そしてその翌日、自宅のポストに立夏宛の封筒が届いた。
『──』
 たまたまその日、郵便受けを開けたのが俊臣だった。
 よく見ればその封筒には消印がなかった。
 嫌な予感がして、俊臣は玄関先で封筒を開けた。
 中から出て来たのは女物のハンカチで、ふたつに切り裂かれていた。
 ただそれだけ。
 メッセージも何もない。
 それが逆に怖かった。
 まただ。
 また立夏は──
 昔から立夏は、人に──異性に執着されやすかった。最初はまだ幼い頃で、そのときは俊臣が追い払ったのだ。あれから立夏は何も言わないけれど、俊臣はまだそういうことが度々立夏の身に起こっていることを知っている。気づかれていないと思っているのは立夏だけだ。
 俊臣の知る限りでは五人。そのうちの四人を俊臣はそれとなく追い払ってきた。
 あとひとりは、立夏が中学三年の時のことだが、俊臣はその人を結局突き止められなかった。自ら諦めたのか、立夏自身に隙がなくなったのか、この三年余り、何事もなく過ぎた。
 それが、また。
 俊臣はそれを自分の部屋に持ち込み、誰にも見つからないように厳重に包んでごみ箱の奥に突っ込んだ。
 これまでの彼女らは遠巻きに立夏を見ているだけだったけれど、今度は違うのかもしれない。
 ずっと俊臣は立夏を守ってきた。
 俊臣には立夏しかいない。立夏だけが俊臣の全てだ。
 立夏が誰を好きでも、それは変わらない。執着しているのは自分も同じなのだから。
 俊臣は立夏に気づかれぬように周りを探った。生徒会役員という立場はそれに都合がよかった。
 これといって疑える者はいない。それ以降は特に何もなく、立夏も俊臣も学校生活に追われていた。
 もう大丈夫だろうか。
 そんな矢先に、彼女は自宅を訪ねてきた。
 立夏の卒業式まで後二週間という頃だった。
『塩谷くん、お兄さんいる? ちょっと話があるんだけど』
 真っ黒な長い髪。
 一年のときクラスメイトだった野口美織が、玄関先で振り返って俊臣に笑いかけた。
『──』
 まるで招待されたかのように笑う。
『私の従姉が先輩のストーカーしてるみたいで…、それで心配になって、…塩谷くん?』

 その瞬間、俊臣はそれが彼女自身の事だと直感した。

***

 だから、と俊臣は繰り返した。
「野口は彼女なんかじゃない。そういうふうに話を合わせただけだよ」
「…、でも、それ」
 する必要あったの、と立夏が首を竦める。
「なんでちゃんと話してくれなかったんだよ…! そしたら、そんな回りくどいことしなくてもよかったじゃん」
「りつに知られたくなかった」
「いや、おれのことじゃんっ」
「りつはいつも、気がつかないだろ」
 拗ねたように言う立夏に、俊臣は苦笑を返した。立夏の濡れた髪を頭に被せたバスタオルで拭い、ドライヤーを当てる。されるがままの立夏は、じっと俊臣を上目に見ていた。
「…鈍感で悪かったよ」
 ふい、と背けた顔の、すらりと伸びた首筋からボディーソープのいい香りがした。抱き上げた立夏をリビングに運んだ途端、彼は立て続けに大きなくしゃみを繰り返したのだ。そのまま先に進みそうになる自分を押し殺し、俊臣は立夏を風呂に押し込んだ。そして上がってきたところで、はじめから話して聞かせている最中だ。
「でも、それでどうしておまえがこっちに来ることになるわけ? しかも転校って──」
 それは、と言いかけて、俊臣は立夏の項に顔を寄せた。
「ちょっ、待っ、まだ、…っ話…!」
「うん」
「何して…っこら、やめ」
「うん」
 もう随分我慢していた。甘く香る首筋に柔く俊臣は歯を立てた。びく、と抱き込んだ立夏の体が跳ねる。
「俺が好きって、本当?」
「…ん、としおみ、っ」
 首を竦め、逃げる体をベッド横に押し付ける。腕で囲まれ、どこにも逃げられない。俊臣を振り向いた立夏は顔を真っ赤にして目を潤ませていた。
「おれ、も…」
 すき、と消え入りそうな声で立夏が言う。その言葉ごと飲み込むように俊臣は立夏の唇を塞いだ。
「立夏、好き。大好き」
 あ、と立夏が声を上げる。
 身体を抱き上げて立夏ごとベッドに乗り上げる。話の続きを、と立夏が繰り返すが、俊臣はもう聞いてはいなかった。
 ずっとこうしたくて、押し殺していた気持ちが噴き上がってくる。
 俊臣は、立夏はずっと他の人が好きなのではないかと思っていた。手の届かない人を想っていると。
 俊臣はぽつりと呟いた。
「…母さんだと、思ってたんだ」
「んっ、あ、やだ、そ…っ」
「りつ、立夏…!」
「あっ」
 着替えたばかりの部屋着と真新しい下着を一気に立夏から毟り取り、スウェットを頭から引き抜いた。男にしては真っ白な肌、すらりと伸びた脚、どうかすれば女よりも細い腰。俊臣はゆっくりと身を屈めていった。
「あッ、だめっ、俊臣やだ、やだっ…!」
 ピンク色のそれをべろりと舐めると、驚いた立夏がめちゃくちゃに手を振り回した。俊臣は自分の髪を引っ張る立夏の手を捉え、ゆっくりと指を絡めた。
「立夏、暴れないで」
 噛んじゃうよ?
 咥えたまま喋ると、目に涙を浮かべた立夏が激しく首を振った。
「やだ、あ…っそんなの、するな…っんあ、っああ」
「りつ、…気持ちいいから。ね?」
「あ…っ、あ、」
「ほら」
 腔内の奥のほうまで咥え、ゆっくりと出し入れすると、立夏の声が甘くなった。舌を這わせて舐めしゃぶると、立夏の体から力が抜けていく。
「としおみ、ぃ…っ」
「気持ちいいね、立夏」
「あ…、ん、う、んっ」
 ゆるゆると刻んでいたリズムを、俊臣は一気に早めて追い上げていく。立夏の悲鳴がひっきりなしにその唇から零れていく。頭の中が溶けていくほどにそれは甘かった。
「ひあ、っあっあっ、いや、いやあ、としっ、ひ、も、っやめ…っ」
 ひときわ激しく音を立てて俊臣が吸い上げた瞬間、立夏はびくびくと身体を震わせて絶頂に達した。口の中に吐き出されたそれを、俊臣はぐったりとした立夏と目を合わせてから、躊躇なく喉を鳴らして飲み込んだ。
「…あ…っ、…」
 立夏が真っ赤な顔をして顔を歪めた。目尻から零れ落ちた涙を、俊臣は唇で辿って舐め取っていく。
 見下ろすと、立夏はその動きを真似るように、自分の赤い唇を舐めていた。
「…っ、立夏」
「ん…っ」
 噛みつくように俊臣は口づけた。開いた立夏の唇の間に舌を捻じ込み、奥に逃げる舌を絡めとって吸い上げた。
「んん、ん…、んっ」
 もっと、もっと、立夏が欲しい。
 全部。
「好きだよ立夏」
「あ、あ…っ」
 部屋中に響き渡る甘い嬌声が、俊臣の理性を吹き飛ばしていく。誘われるように開かれた脚の間に腰を入れると、立夏の細い脚が俊臣の腰に擦りつけられた。
「も、おれ、も、…すき、すき、っ、で」
「──」
 潤んだ目で縋ってくるのは、きっと立夏には自覚がない。
 俊臣は息を詰めた。
 凶暴な熱がせり上がってくる。全身が燃えるように熱かった。
 飢えを満たしたい。
「…りつか」
 俊臣は自分の唇を舐めた。
 怯えたように立夏が体を震わせる。
「あ…っ、待っ…」
「無理だよ」
 無理に決まってる。薄く笑うと、俊臣はその体に覆い被さっていった。
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