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しおりを挟むな、なんで。
なんで?
な…
「なにしてんの、おまえ…」
零れた呟きに、俊臣は無表情な目でおれを見下ろした。
「電話じゃ埒が明かないから」
「ら…、」
埒が明かないって…
それで?
それでここまで来たのか?
「あれから電話しても出ないだろ」
「そっ、それは…」
俊臣と電話で話してから四日が過ぎていた。それから何度か掛かって来ていたが、おれはなにかと理由をつけて電話を取らなかった。
「いつ掛けてもバイトか大学だって言うし、だから来てみたんだけど」
ため息まじりに俊臣が言う。
「だからってわざわざ来ることないだろ。こんなとこまで──」
「こんなとこまで来ないと話が出来ない」
う、とおれは言葉に詰まった。確かにそうだけど、そうだけれど──
「とにかく、ここじゃあれだから、行くぞ」
夜も遅い道端で話をするわけにはいかない。おれは俊臣の横を通り、アパートへと歩き出す。
「ほら…」
すれ違いざまに棒立ちしたままの俊臣の腕に触れると、驚くくらい冷たかった。
ぴりっとした冷たさにおれは思わず指先を引っ込めた。
「…おまえ、いつからここにいた…?」
一時間や二時間じゃない。もっとずっと前からここにいないと、着ているコートがこんなにも冷えたりしない。
おれは俊臣を見上げ、はっとした。
暗がりの中でも分かるほどに、俊臣の顔は紙のように真っ白だ。
こいつ。
「今日、土曜だろ? なんで制服なんだよ」
「…土曜授業だったから」
そうか。そんなのまだあったんだ。
「授業が終わってそのままこっちに来た」
「そのままって、帰んなかったのか?」
俊臣は頷いた。
「土曜日は大学ないだろ? だから」
だから昼過ぎにアパートに着けば、たとえ寝ていたとしても立夏に会えると思っていた。
俊臣が続けた言葉におれは血の気が引いた。
そうだとすれば俊臣は──今二十二時過ぎだから、十五時からここで待っていたとして──約七時間も、この寒空の中にいたことになるわけだ。おれは今日昼前には家を出ていたから──だから。
「このバカッ!」
凍えるほど冷たい俊臣の腕を引っ掴んでおれは歩き出した。大股で進むおれに引き摺られるようにして俊臣がついてくる。
「りつ…」
「何考えてんだよっ」
見えてきたアパートの階段を上がる。もどかしく玄関の鍵を開け、開いた隙間に俊臣を押し込んだ。
「入れっ」
「りつ」
「いいからちょっと待ってろ」
先に入れた俊臣の体を押しのけておれは風呂場に向かい給湯器のスイッチを押した。ひとりでは滅多に使わない小さな湯舟をざっと洗い、湯を入れる。小さいからすぐに溜まるだろう。そのまま引き返して、部屋の入り口で突っ立っている俊臣の袖を引いた。
「風呂に入れ、今用意したから」
「は?」
「風呂に入れよこのバカ!」
ぐいっとコートを肩から落として無理矢理脱がせると、俊臣が面食らったような顔をした。
「この寒いのに何やってんだ! おれがいないかもって全然考えつかなかったのかよ?!」
「それは…」
「それは?! しかもいないって分かっても連絡寄越さねえでずっと待ってるとかありえねえんだけど!」
連絡を断っていたのはおれのほうなのに、こんなのは八つ当たりだ。分かっていても、なにも言い返さない俊臣に苛々してしまう。
それでも、電話ひとつ、メッセージひとつくれればよかったんだ。
そうしたら──
そうしたら。
「こんな冷えて、早く行けよ」
「着替えがない」
ああもうこいつはっ。
「んなもんおれのテキトーに出すからっ」
ぐい、と背中を押して風呂場に押し込んで、ふとおれは思った。
「なあ」
「なに?」
「英里さんには、ちゃんと言ってきたんだよな?」
脱衣所の中で俊臣が振り返る。
「いや?」
「…言ってねえの?」
「今日仕事だし、遅い──」
「バカおまえっ、英里さん心配するだろ…っ」
ざあ、と再び血の気が引いたおれは急いでポケットから携帯を取り出した。
いくら俊臣に信頼があってもまだ高校生だ。最近は物騒だし、男も女も関係ないって言うし、こんな時間まで連絡もなく息子が帰って来なければ心配するに決まってる。
どんなに英里さんがのんびりした人でも。
「ほんとにほんとにおまえはもう…っ」
何考えてるんだよ。
急いで英里さんの番号をタップする。耳に当て、呼び出し音が鳴るのを聞いた。さすがにもう家に帰ってるはずだ。
「いいからっ、しっかりあったまってから出て来いよ!」
じっと俺を見つめる俊臣の鼻先で、おれは勢いよく脱衣所のドアを閉めた。
かた、と音がしたほうに、おれはちらりと目を向けた。
「うん、じゃあ──うん、またね」
通話を切ってため息をついた。振り向くと濡れ髪のまま、タオルを首に引っ掛けた俊臣が部屋の入り口に立っている。
「早いよおまえ。ちゃんとあったまったのかよ?」
何か言いたそうにおれの携帯に向けられた視線に、おれは言った。
「英里さん。おまえがこっちに来てるって連絡したの」
結局あれから三度掛け直してようやく繋がったのだ。
「心配してなかっただろ?」
「まあそうだけど…」
英里さんはいつもと変わらない声だった。
彼女は二十一時過ぎに帰宅していたけれど、俊臣は部屋にいると思っていて、いないことに気がついていなかったらしい。
おれが電話を掛けたとき、英里さんは観たいDVDを探していたところだった。
そうなんだ、りっくんのところにいるのね、と笑っていた。
心配していたのはおれだけだったわけだけど…
俊臣から目を逸らすと自然にため息が漏れた。
「そういう問題じゃないだろ」
携帯を棚の上に置き、独り暮らし用の小さな簡易キッチンの上の皿を手に取った。
「ほら、飯。そこ座って」
俊臣が目を丸くした。
「作ったの?」
「あたりまえだろ、おれに出前取るお金はないの。ほら早く」
座れ、と1DKの部屋のほぼ真ん中にあるローテーブルをおれは顎で示した。ローテーブルと言ってもアンティークとも言えないような古道具屋で見つけてきたもので、かなり古びていて、ただの台のようなものだ。この部屋に付属で付いていたテーブルもあるが、使いにくいので普段はこっちを使っていた。
がたがたの天板の上に、おれは皿を置いた。
「あ、スプーン」
ラグの上に正座する俊臣と入れ違いに立ち上がる。
洗いかごに入れっぱなしだったスプーンを取って俊臣に渡した。
「はい」
ついでに冷蔵庫から取ってきたペットボトルのお茶とグラスをテーブルの上に置く。
「あるもの入れただけのチャーハンだけど」
おれが渡したスプーンを手に、俊臣は皿の中のチャーハンに目を落とした。卵と玉葱と、一本だけあった魚肉ソーセージのチャーハン。味付けは何にもないから、塩と胡椒だけ。
あ、あと醤油か。
「…いただきます」
「どーぞー」
向かいに座ってグラスにお茶を注いだ。ひとつは俊臣に。もうひとつは自分用に。
俊臣はゆっくりとチャーハンを掬って口に運ぶ。おれの貸した部屋着のスウェットは背の高い俊臣にはやっぱり小さくて、袖が七分袖のように手首より上が少し剥き出しになっている。
筋の張った腕。
頬杖をついて、ぼんやりと眺める。
なんかちょっと見ない間に、大人になった気がするのは気のせいなんだろうか。
「……」
半乾きの髪、俯いた姿勢では長い前髪が目元を覆っていて顔がよく見えない。口を大きく開けてチャーハンを無言で咀嚼する、顎から首にかけてのライン──
心臓が妙な具合に音を立てた。
まずい。
「美味い?」
何か言わないと耐えられない。
頬杖をついたまま、誤魔化すようにおれは訊いた。
俊臣の目が、覆い被さる髪の隙間から上目に俺を見る。
「美味いよ。りつの作るものは、なんでも」
「…ふーん」
「食べるの、すごく久しぶりだ」
「それは、…まあ」
そうだけど。
「美味しい」
言いながら大きな口を開けて俊臣はチャーハンを食べた。多めによそおったそれが見る間に減っていく。
「明日帰れよ」
言外に今夜泊まっていけと言う意味で呟くと、俊臣は目で頷いた。
本当は今すぐにでも帰って欲しいのに、全く違うことをおれはしている。
胸の奥で大きくため息をつく。
どうしよう。
今夜、おれは眠れるんだろうか。
同じ部屋の中で、ふたりきりで。
うちに客用の布団なんて一枚もないんだけど。
***
深夜、おれは後悔していた。
俊臣を泊まらせたことを。
やっぱり無理やりにでも帰せばよかったかもしれない。
まだ、電車は動いていたんだし、帰ろうと思えば帰れたのに。
魔が差したとしか思えない。
「……」
寝返りを打ちたくても打てない姿勢に、腕が痺れている。
動けない。
俊臣の気配がぴたりと背中から伝わってくる。
俊臣の腕がおれの腰に回されている。
ど、どうして…なんでこんな体勢になってるんだ。
さっきまで背中合わせで寝ていたはずなのに。
逃げ出したい。
床で寝ると言ったおれに一歩も引かなかった俊臣と押し問答の末に結局同じベッドで眠る羽目になってしまった。
あああ…っ
おれは俊臣を起こさないようにじりじりと壁に貼りつくようにする。
離れたい。
裸足の足先が触れ合っている。息を詰めてそっとずらす。
あともうちょっと。
あと…
「──っ」
おれの腰に乗っていただけの俊臣の腕が、身じろぎした途端、ぐっとおれの腰に巻きついた。
──う、うわ…っ
「ちょ…、っ」
そのままやたら強い力で引き寄せられ、俊臣の胸に抱え込まれた。
「──」
ひい、と声にならない悲鳴が喉を駆け上がる。
うそ、うそうそうそ!
嘘だろ!?
な、なんでなんでっなんでっ?
なんだよこれ。
「……っ」
全身が火を吹いたように熱くなる。
だめだ、だめだもう、だめだめだめだめ。
抱き込んだおれの耳元に俊臣の静かな寝息がかかる。
死にたい。
もうここから逃げ出せるならなんだっていい。
なんでこんなことになってるの。
おれは出来る限り体を丸めて、込み上げてくる熱を散らそうとする。
後ろを向いてはだめだ。
そう思うほどに向き合いたいと思う自分が嫌になる。
もう嫌だ。
こんなに好きなのに、向き合うことさえ出来ないなんて。ありえない期待をしてしまいそうになる自分が浅ましい。
「…、…い」
俊臣がかすかに声を漏らす。
聞き取れなかったそれは、誰かの名前のようでもある。
そうだ。
きっと、きっと間違えているんだ。
俊臣はおれを、あの子と──自分の彼女ときっと間違えているだけだ。
おれは大きく息を吸った。
きっと、そうだ。
硬く目を閉じて眠ろうとする。
眠れるわけなんてないのに、分かっていてもどうしようもない。閉じた瞼の間からじわりと滲んだ涙がシーツに染み込んでいく。
早く夜が明けて欲しい。
規則正しい呼吸、体を包む温もりに時々微睡んだ。
そうして空が白む頃になってようやく、おれは俊臣の腕に抱き込まれたまま緩やかに意識を手放していた。
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