明けの星の境界線

宇土為名

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 教師というものに自分が向いていないと感じ始めたのは、三年程前からだった。進学校として有名だった高校から国公立大学に現役で合格し、問題なく大学も卒業した。教員を志したのは周りに言われたことがきっかけで決めたのだ。
 ──人に教えるの上手いね
 ならば人に物を教えて生きて行こうと思った。
 思えばそれだけの動機だった。もともと憧れていたわけでもなく、思い入れもなかった。なんとなく、それがいいなと思ってしまっただけ。企業に入り人にこき使われるよりもずっとましだと思えただけだ。
 先生、と呼ばれるようになって半年が過ぎた頃、授業中に揶揄われた。生徒は冗談のつもりだったのだろうが、本気になって怒ってしまった。教室中がそんな江島に失笑する。冗談も通じないのかと言われようやく冗談だったことに気づいたが、今更笑い飛ばせるわけもなく、江島は怒りの収める機会を見失ってしまい、授業を切り上げて教員室に戻った。やってられるか、と教科書を自分の机に叩きつけた。ちょうど誰もいない。見られているわけはない。
『江島先生』
 江島は飛び上がった。振り返ればいつの間にか、先輩の女性教師が後ろに立っていた。
『小野寺先生…っ』
『そういうことでストレスを発散しないでくださいね、何かあればちゃんと相談してください』
『いや、…別に何も…、これは──手が、滑って』
 女性教師──小野寺は江島が机に投げつけた教科書をちらりと見て、そうですかと言った。
『ところで、まだ授業中では?』
 厳しい視線を向けられ江島は言葉に詰まった。
 やはりこの女は苦手だ。自分より十歳程年上の小野寺は江島の指導係でもある。この高校に任を得たときからずっと事あるごとに細かく注意をしてくるので鬱陶しいと思っていた。最近結婚し、少しは丸くなるかと思ったのに何も変わることがなかった。
 早く子供でも出来て産休に入ればいいのにと思う。
『キリがよかったので早めに切り上げて…』
 自分でも苦しい言い訳だと思う。だが彼女はそうですか、と言っただけで教員室を出て行った。
 深いため息を吐いて江島は椅子に座った。五月蠅いのはいなくなった。チャイムが鳴るまであと十分、スマホを取り出して弄り始めた。
 そんな小野寺から産休に入ると報告があったのは、それから約一年後のことだった。二学期末で一旦産休に入り、半年から一年後に復職をするという。その間の引継ぎのため、小野寺が休職する一カ月前に新任の教師が来ると朝礼で話があった。ようやく小野寺がいなくなると江島はひとり安堵した。もう指導されることもなくなっていたが、まだ何かと小野寺は口うるさかった。これで気が楽になる。教頭が続ける新任教師の話などどうでもいいと江島は気もそぞろだった。どうせどこかの使えないようなくたびれた教師が臨時で雇われるとかいう話だろう。自分には関係がない。
『江島先生』
『はい』
 朝礼が終わると、小野寺が江島のところにやって来た。
『新任の先生、いい人だといいですね』
『…え? はあ…』
 にっこりといつにない笑顔を見せ小野寺はそう言った。
 その言葉の意味を知るのは、それから二ヶ月後の十一月のあの日だった。

 ***

 神田麻美は何かと江島を頼っては声を掛けて来た。
 先輩、と甘い声で言われれば悪い気はしない。だが、江島はいつも不安に駆られていた。
 あのときの事を、見られているような気がしてならなかった。
 欲しくもない商品を盗んだコンビニ。そこから出てすぐ、よろめいたところに声を掛けられた、あのタイミング。大体、あの通りは人が少ないのに、どうして神田はいたのだろう?
 偶然にしては嫌な感じだ。
『江島先輩、ここ教えて貰ってもいいですか』
 いつものように神田の問いに答えていると、横を通っていた佐竹が意味ありげな視線を送って来た。やれやれと江島はうんざりする。あの視線はどう見ても神田との仲を疑っている目だ。先日一緒に飲みに行ったときも、それらしいことを言っていた。
 誤解されるのは迷惑だった。この女と一緒にいるだけでいつ言い出すかと冷や冷やしているというのに──
『仲いいね、ふたりとも』
『やめて下さいよ佐竹先生』
 神田が笑う。
 余計なことを言うなと、江島は苦い笑いを浮かべた。
 そうして三ヶ月余りが過ぎた。
 江島が危惧していたようなことは何もなく、同じような日々が繰り返された。入試も滞りなく終わり合格発表を迎えたその日、江島は神田がじっと窓の外を見ているのに気がついた。
 まだ寒い外。前日の雨の名残りのような曇り空。
 校門を入ってすぐの前庭には、多くの受験生が集まっていた。昔ながらの掲示板に張り出す合格発表は、江島にも覚えのある光景だ。
『──』
 江島は目を留めた。
 ひとり、目立つ生徒がいる。
 有象無象のような中学生の人混みの中、ひと際人の目を惹きつける。
 神田の視線はじっと、その男子生徒に注がれていた。
 あれは誰だ?
 江島は気になった。入試で試験官をしたが、あんな生徒は見なかった。見落としていたのか──表情のない顔、番号が貼り出された掲示板を見上げるその横顔は、少しも喜んでいるふうではなかった。
 きっと落ちたのだ。
 見かけだけ優秀でも、頭脳までそうとは限らない。そんな二物を持つ者がいてたまるか。
 江島は見つめ続ける神田の横顔を見ながら、内心でざまあみろとほくそ笑んだ。
 だが今回も江島の思惑は外れた。
 春休み明けの始業式の日、その生徒は江島の前に姿を現したのだ。
『今年の新入生代表を務める後藤君です』
 新一年生担当の学年主任が、教員室を訪れた生徒を紹介した。
 後藤怜。
 …新入生代表?
『今日は入学式の段取りで来てもらいました。ああ、担当は神田先生ですね』
 代表に選ばれるのは、毎年入試でトップの成績だった者と決まっている。
 こいつが?
 こいつが──主席だった?
『お待たせしました、っ、神田です』
 神田がやって来た。
 にこやかに話し始めた学年主任と神田の傍で、大して面白くもなさそうな顔をして後藤怜は立っていた。ふと、見るともなしに見ていた江島と目が合う。
『──』
 男でも息を止めるような視線。後藤は小さく会釈をし、ふいと顔を逸らした。
『そ…、それじゃ、行きましょうか。後藤くん、こっちへ』
 神田が後藤怜を連れて教員室を出て行く。
 緊張でもしているのだろうか、その頬が少し上気していた。ふたりが出て行った後、教員室は後藤怜の話題で盛り上がった。
 それを流し聴きながら、江島は面白くない気持ちになった。胃のあたりがむかむかとする。
『神田先生、相当浮かれてたなあ』
『そりゃあんなイケメンだからねえ』
 くだらない。
 もう見頃を終えた桜の木が窓の外に見えていた。


 神田の様子がおかしくなったのは、それからだった。
 いつも何かそわそわとしている。落ち着きがない。今日も手のひらを怪我していて、どうしたのかと他の教師に訊かれていた。
 確か前にもそうだったなと、江島はそのやり取りを聞きながら思い出していた。入学式の一週間ほどまえ──後藤怜が来た日だ。
 そうだ。
 講堂をふたりで見に行った後、戻ってきた神田は手のひらを擦りむいていた。
『ちょっと。大したことないです』
 心配して声を掛ける教師に、神田はそのときも今日と同じことを言っていた。
 だが、江島は知っていた。
 神田の視線はいつも後藤怜に向いていた。新一年生の教科担当となった神田は、後藤のクラスの授業がある日は、いつも朝から落ち着かない。
 原因は後藤怜だ。
『神田先生』
『え、あ…はいっ』
 ぼんやりと教員室の机に座っていた神田が、慌てたように声を上げた。ちょっといいかと外に連れ出し、人気のない廊下の奥で向かい合った。                                         
『神田先生、最近どうしたんですか』
『え…』
『ぼんやりしててミスも多いし、後始末するのも大変ですよ?』
『…すみません』
 ここぞとばかりに嫌味を言うと、神田は目を伏せて俯いた。
『あの生徒、好きなんですか?』
『え…っ』
『後藤怜ですよ』
 勢いよく顔を上げた神田に、江島はしてやったと思う。小さく唇を震わせているのは、きっと図星だからだ。
『だめですよ、生徒に恋愛感情なんか持っちゃ…』
『そ、私、そんな──』
『そんな? おかしいな…みえみえだよ』
『…っ』
『後藤に振られたってもっぱら噂だよ?』
 噂ははったりだが、見ていれば容易に分かった。後藤に上手くあしらわれる神田は滑稽だった。
『嘘よ…!』
『さあ? どうかな』
 唇を噛みしめ、神田は江島を睨みつけた。やはり図星だったかと思った瞬間、江島は頭から冷や水を浴びせられた。
『いいんですか、私、知ってるんですよ』
 怒りに満ちた神田の声に江島の心臓が縮み上がった。
『し…』
 知ってるって──
『江島先生に言われたくないわ』
『な…、なにを』
『そんなの、自分でよく分かってますよね?』
『──』
 背中を汗が伝う。
 どくどくと耳の奥で鼓動が暴れまわる。
 ああ。
 やはりだ。
 やっぱり、この女は見ていたんだ。
『こんな…、今度したら教頭に言いますから』
 どいてください、と言って神田は江島の肩を押した。そんなに強い力でもなかったのに、江島はよろめいて尻もちをついた。薄暗い廊下に仰向けに転がる江島を見下ろし、神田は教員室に戻って行った。
 悔しさに怒りが込み上げる。
 あの女、俺を笑っていた。
 嘲るような目で俺を見ていた。

 ***

 何度問い詰めても神田は上手く躱した。そんなこと言いましたか?とシラを切られた。
 あれはただのハッタリだったのか──だが、本当だったら? 江島は強く出ることも出来ず焦燥した。
 神田に、誰かに言われてしまったら、俺は終わりだ。
 ──それは偶然だった。
 残業を終え、帰宅しようとしたとき、神田が歩いているのを見たのだ。もう誰も残っていない講堂の中に入って行く。
 何の用だ?
 江島は迷わず後を付けた。
 講堂の中を神田は通り、壇上の脇にあるドアを開けた。そこは普段使わない部屋で、体育祭などで使用する放送機材などが置かれている場所だった。辺りを見回してから、神田は中に入った。
 誰かと待ち合わせなのか…?
 誰と?
『──』
 もしかして、と外から覗いていた江島は思った。
 あの後藤怜か?
 ついに呼び出しでもしたのだろうか…
 講堂の中に忍び込み、そっと音を立てないようにドアに近づく。耳を押し当てようとして、ドアが薄く開いていることに気づいた。
 その隙間から中を覗くと、神田が中に置かれている棚に手を伸ばしているところだった。そして携帯を取り出すと、どこかに掛けた。
『もしもし…? そう、いいから来て欲しいの』
 いつもとは違う、甘ったるい声だ。
『来てよ。お願い、後藤くん』
 は、と思わず声が漏れそうになった。
 やはりそうだ。
 神田はついに後藤を呼び出したのだ。何をするつもりか手に取るように分かる。
 馬鹿な女だ。
 そしてふと、江島は思いついた。
 どうせ、後藤怜は来ない。来るはずがない。なら、ここで…
 江島は頭の中で瞬時にシナリオを組み立てた。いい出来だと思った。絶対に上手くいく。そうすればこの女をここから排除できる。
 もう二度と顔を見なくて済む。
 舌なめずりをして、江島はドアノブを握った。
 神田はこちらに背を向けている。
 大丈夫、全部上手くいく。
 罪は後藤怜に擦り付ければいい。どうせ誰もあんなクズの言うことを信じるものか。
 そうだ全部、俺の思うがままだ。
 江島は後ろから神田に襲い掛かった。気絶させる方法は心得ている。そういう嗜好が一番興奮するのだ。
『はは、っ、ははははは…!』
 思わず嗤いが零れた。
 服を引き剥がし携帯で写真を撮った。これはきっと役に立つ。使い道などいくらだってある。
 気を失った神田に覆い被さろうとしたとき、がたん、と音がした。
 誰かがこっちに歩いてくる足音。
『…おい、どこだよ』
 後藤怜の声だった。

 ***

 江島が全部話したと、女性教師はわざわざ逸巳に教えに来てくれた。彼女の名前は小野寺という。一年半ほど前産休に入り、最近復職してきた教師だった。神田は彼女の代わりにこの高校に赴任してきたのだ。
 なんとも、皮肉なものだ。
「腕は大丈夫?」
「はい、平気です」
 教員室の外の廊下で向かい合っていた。中は昨日の江島の件で生徒が入れるような状態ではないようだ。さっきからひっきりなしにかわるがわる教師が出入りしている。
 湿布の貼られた逸巳の腕を見て、小野寺は小さく息を吐いた。
「ならよかった…今回のこと、ご両親に説明したいのだけど…?」
 逸巳は首を振った。
「必要ないです。父は単身赴任中ですし、おか…義母も、仕事で忙しいので」
「そう? でも」
「自分で言えますから」
 その必要があれば、自分から言うだけだ。だが今のところそのつもりは逸巳にはなかった。
 あの、と逸巳は言った。
「後藤くんは?」
「まだ校長室よ。もう少しかかるかも」
「そうですか」
「後藤くんにも、申し訳がないわ」
 一年前のとき、小野寺は休職中で事の経緯をよく知らなかったようだ。今回江島が逸巳を襲ったことで、ようやく何があったか理解出来たらしい。逸巳もあの手紙を読まなければ、何も知らないままだった。怜はおそらく訊けば教えてくれたかもしれないが、自分から話したりはしないだろう。
 どうして江島の罪を自ら被ったのか。
「後藤くんは…、そうするのがあのときは一番良かったって、…」
 小野寺は仕方のないような笑みを浮かべて、馬鹿ね、と呟いた。
 それには逸巳も同意見だ。
「しょうがないですね」
 と笑うと、小野寺も優しい笑みを浮かべて笑った。


 神田はしつこかった。何度も電話を掛けてきては鬱陶しかった。来てと言われて行くわけがないのに、何度も掛けてくる薄気味の悪さに、怜は辟易していた。
『お願い、後藤くん』
 これで最後だから。
 そして怜はなぜか行ってしまった。行く必要などなかったのに。
『どこだよ…』
 講堂の奥の部屋、と聞いていた。声を掛けても返事はない。見回すと、壇上の横にドアがあった。
 あれか?
 怜は近づいてドアを開けた。
『おい、いい加減これで──』
 ぎく、と怜の体が強張った。
 薄暗い物置の床に、神田が倒れていた。乱れた服、露わになった胸元に怜は顔を顰めた。
『おい!』
 わざとか、と思ったが、様子がおかしかった。屈み込み、胸元を手早く直すと、神田を揺すった。
『おい、おいっ…!?』
 本当に気絶していた。どういうことかと怜はあたりを見回した。自分の前に、誰かがいたのか──だが、誰もいない。
『…っ、ぁ』
 神田の目が薄く開いた。ぼんやりとした目で宙を見ていると、ふとそれが怜で止まった。神田は目を見開き、がたがたと震え出した。
『あ、ぁ──』
『? なあ、何が』
『あ、あっ、あ…っ』
『おい、ちょっと…!』
 待て、というより早く、神田は床を這って逃げ出した。脱げかけた服を掴み、よろよろと部屋を出て行く。何かを恐れるように走りだした神田を怜は追いかけたが、校舎のほうに逃げ込んだのか、出たときには姿を見失っていた。
『なんなんだよ…っ』
 訳が分からない。
『おーい、怜! まだー?』
 振り向くと、中井がこちらに歩いてくるところだった。後ろには柚木もいる。
『用事終わったの?』
『…こっちに来なかったか?』
『え、誰が?』
 きょとんとするふたりに、怜は神田、と言った。
『来なかったけど、…おまえの用ってそれ?』
『あんなに嫌がってたのに…』
『うるせえな』
 汚いものでも見るような目を向けてくる柚木に、怜は顔を顰めた。
『もういい、行くぞ』
『はあ? 待ってたのはこっちじゃんっ』
『何がだよ…、ダラダラしてただけだろ』
 誰もいない図書室でどうでもいいことを喋っていたふたりは、通りかかった怜を捕まえてどこに行くのかと聞いただけだ。それはほんの十五分ほど前のことだった。
 神田の様子が気になったが、怜はどうでもいいとそのままふたりと学校を出た。翌日神田は休みだった。何でも体調を崩したらしい。
 聞いたことさえも怜はすぐに忘れた。そしてその翌週、神田の写真が流出したのだ。
 それも怜がやったということになっていた。
『──』
 朝学校に行くと、もう既に話は学校中に広まっていた。
 どこでどうなっていたのか分からない。血相を変えた中井に見せられた画像には見覚えがあった。
 乱れた服で横たわる神田。あのときのものだ。講堂で──怜が入ったときには、既にこうだったのに。
『おまえのわけねえだろ、なんだよこれ』
『……』
 たしかに、自分ではない。あのとき、怜より先にここに来た誰かがやったのだ。神田を襲い、写真を撮り、怜の仕業だと見せかけて流出させた。それも、すぐわかるような形で。
 作った覚えのないアカウント名は、怜の名前になっている。
『おい、これサイトに削除要請出して──それで』
『…いい』
『は?!』
『いい。…別に何もしねえ』
『何もしねえって──』
『俺がやったことにすればいいだろ』
『はあ!?』
 中井が大声を上げたと同時に、教室の入り口が開いた。
『後藤、ちょっと来い』
 当時の担任が青い顔をして怜を呼んだ。しん、と教室中が静まり返る。怜はその中をいつもと変わらぬ足取りで歩いた。
『これは本当なのか?』
 校長室に連れて行かれ、教師に取り囲まれた中で画像を見せられた怜は、黙って頷いた。
『俺がやりました』
 そこからは大騒ぎだった。
 学校に呼びつけられた母親は狂ったように怜を責め立て喚き散らした。ひとしきり詰り泣き喚き、怜を殴り、暴れ回ると怜の存在を無視するかのようにふらりと立ち上がり帰って行った。教師がその後を慌てたように追いかける。その様子を見て、怜は深く息を吐いた。
 これでいい。
 これでよかった。
 よかった。これで──母親は自分を見限った。
 もう構われることはないだろう。
 あとは早く、家を出るだけだ。
 殴られた頬を怜は撫でた。何度も殴られ罵られたが、こんなことは何でもないことだ。後はこのまま、演じていくだけだ。
 どうしようもない自分を、このまま、あの親から完全に切り離せる日まで。

 ***

 だが結局、怜の嘘はすぐにばれることになった。神田が怜は何もしていないと告白し、すべて自作自演だったと認めたのだ。全部の責任を取り神田は学校を辞めた。
 それが一年前の顛末だ。
 怜は手紙を読み終えると、封筒をくるりと裏返した。そこには見慣れたA・Kというイニシャルがある。逸巳の自宅に投函されていたというそれを、複雑な気持ちで眺めた。
 A・Kの本当の名を怜は知らない。子供だった夏のあの日に、彼女に性的な悪戯をされたことを怜は誰にも言わなかった。母親にも、当時のマネージャーにも言わなかった。顔も覚えていない。
 だから、入学式前の打ち合わせで訪れた学校で、神田が初めて自分の名を名乗ったとき、そうかもしれないと思ってしまったのだ。
『後藤くんの名前、本名だったんだね。私実はファンだったんだ…怜っていい名前だよね。私は麻美なんていう今時平凡な名前だし…』
『──』
 神田麻美──A・K
 気づいたときには、神田を睨みつけていた。この女だっただろうか。思い出せない。思い出せない自分が歯痒くて腹立たしかった。
『ねえ後藤くん…』
 服の袖に触れられて、ぞっとした。
 気持ち悪い。
 怜はその手を思いきり叩き落とした。
『…きゃ、…!』
 手のひらを抑えた神田が驚いたように怜を見上げる。
『…うるせえって言ってんだろ』
 こいつかもしれない。
 この女かも──
『気持ち悪いんだよ、あんた』
 蔑んだ目で見下ろし、怜はそう言い放った。
「……」
 今にして思えば馬鹿だったと思う。
 神田は二十代だった。怜が襲われたのは七年程前なのだ。ぼんやりとした記憶の中のA・Kは三十代だった…
 今もまだ、周りを嗅ぎまわられていることにうんざりするが、そのおかげで江島の行いが発覚したのだから、皮肉なものだ。
 SNSで怜のファンサイトを掲げ他愛のない情報を流していたところに、ある日神田麻美が投稿欄を訪れたようだ。何度かやり取りをするうちに仲良くなり、神田は一年前のことをA・Kに打ち明けたという。
 手紙によれば、神田は怜に振られた意趣返しに、怜を呼び出してふたりきりになりその動画を撮ろうとしたようだ。だが蓋を開けてみれば自分が何者かに襲われた。未遂だったが怖くなり、怜に合わせる顔もなくその場を逃げた。知らぬ間に撮られた画像がネットに流され、怜が自分を襲ったと認めたことに訳が分からなくなった。事態の悪化にどうしようもない罪悪感に襲われ、すべて自分がやったと白状したこと、そして自分を襲った犯人を知っていることをぶちまけた。
 神田は怜との動画を撮ろうと部屋の棚に小型カメラを仕掛けていた。当時の大騒ぎでその存在を忘れていたが、退職するときそれをそっと回収していた。
『見るのが怖く、ずっと仕舞っていたようです。けれど最近になってようやく彼女は中身を確認しました』
 だが、そこには犯人の顔は映っていなかった。仕掛けた場所が悪かったのだろう。身体の一部分しか映っていなかったという。でも、音声は入っていた。
『はは、っ、ははははは…!』
 狂ったように笑う男の声。
 それが江島だとすぐに神田には分かったという。
 怜はため息をついた。
 どうしようもない。
 いまさらだ。
 けれど神田が告白しなければ、A・Kもまたこうして手紙を逸巳に出すこともなかった。江島はずっと怯えていた。いつ本当のことがばれるかと、ネットで情報を集めているうちにA・Kのサイトを見つけた。そしてそこに神田と思われる人物が、何度も書き込みをしているのを知った。江島は神田の居場所教えろと、A・Kに昔の事で脅しをかけた。
 どうして江島がA・Kの過去を知り得たのか、それは分からない。
 ほんの小さな情報から、何もかもを拾い集めてくることの出来る時代だ。江島はそうやって神田にたどり着いた。A・Kのこともそうやって知ったのだろう。
 何もかもが、ぐるぐると廻っている。
 そして全部くだらない自己満足に見えてしまうのは、怜の気のせいなんだろうか。
 何もかもみんな自分の事ばかりだ。
 そういう俺も──俺も、そうだ。
 逃げたいばかりに嘘をついた。
 抗うだけの力がなかったから。
 その噓が覆されても、一度付いたイメージは拭えない。
 怜がその事に気づいたときにはもう全てが遅かったのだ。


 顔を上げると、逸巳がこちらに向かって来ていた。
「ごめん、遅くなって──怜」
 軽く手を上げてにこりと笑う。怜も小さく手を上げた。
「話どうだった? 終わった?」
「ああ、終わったよ」
 テーブルを挟んで向かいの席に逸巳が座る。ふたりの傍を、多くの生徒が通り過ぎていく。ちらちらとこちらを見る視線に、怜は居心地の悪さを覚えた。
「なあ…先輩」
「ん?」
「ここじゃなきゃ駄目なの…?」
「うん」
 にこりと笑う逸巳に、怜は目を泳がせた。
「死ぬほど恥ずいんだけど」
「大丈夫だよ」
 周りは学校の生徒だらけだ。
 それも当然で、ここは学食の中だった。
「何食べるか決まった?」
 逸巳の肩越しに見える女子のグループが、聞くとはなしにこちらをちらちらと見ていた。
 三沢先輩だ、と話す声が耳に入る。憧れを見るような眼差し。
 怜はメニューを指差した。
「ナポリタン、かな」
「わかった。取って来る──」
 立ち上がろうとした逸巳の手首を怜は掴んだ。自分のほうに引き寄せ耳元に口を寄せる。
「…座ってて」
 俺がやるから。
「…っ」
 逸巳の首筋にわざと指を滑らすと、その頬が赤く染まった。じろりと後ろにいた女子たちを睨みつけると、皆一斉に顔を真っ赤にし、さっと背を向け俯いた。

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