明けの星の境界線

宇土為名

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 休み時間の教室に入った瞬間、中井と目が合った。
「え、なにおまえ──どしたん?」
 その手、と指を差され、怜は顔を顰めた。相変わらず目敏いやつだ。
「ぶつけた」
「ぶつ…何に?」
 何に?
 そこまでの言い訳など考えてはいない。怜は面倒臭いため息を吐いて席に着いた。
「…別に何でもいいだろ」
「ふーん。で、それが遅れた理由?」
 今は二時限目が終わった休憩時間だ。本当はもう少し早く来ても良かったが、中途半端な時間に行って教師と顔を合せるのが嫌で休み時間を狙って来たのだ。出掛けにも嫌なことがあったが…、いちいちそれを説明する気にはなれない。
「まあな」
 言うべきことをすべて飲み込んで怜は頷いた。
「うわ、痛そうだな」
「そうでもねえよ」
「えー? いや、腫れてんじゃん…」
 手の甲に巻かれた包帯を中井は眺めた。湿布だけでよかったのに、大袈裟なのだ。慣れないことをしたから加減が分からなかっただけだ。
「お互い様だろ」
「へ?」
 首を傾げる中井に、それより、と怜は中井を睨んだ。
「もうあいつ連れてくるなよ」
「あー…ははは」
 中井の乾いた声に被さるようにチャイムが鳴った。それと同時に教室の扉が開く。入って来た教師と思わず目が合った瞬間、怜は嫌な気分になった。
 佐竹だ。
 そういえば今日の三時限目は数学だった。すっかり忘れていた。やはりもう一時間遅らせるべきだったか。
 昼休みに間に合えばそれでよかったのだ。逸巳に会いたくて来ただけで。
 朝起きると、逸巳からメッセージが送られて来ていた。
 昼休みに話したいと。
「……」
 黒板の上からスクリーンを下ろして佐竹が向き直る。
「はい、授業始めるぞ」
 正直聞く気にはなれない。小さく息を吐くと、頬杖をつこうとした怜は顔を顰めた。右手の鈍い痛み。白い包帯できっちり巻かれた自分の手は、中井が言ったように腫れていた。ペンを持とうとして上手く持てないことに気づく。
 怜はノートの上にペンを放り出し、左手で頬杖をついた。痛みは我慢できる。動かせば痛いが、それほどではないし、おそらく向こうのほうが何倍も痛いはずだ。
 喧嘩などいつぶりだろう。
 このことを知ったら、逸巳は怒るだろうか。
「……」
 怜は窓の外に目をやった。
 昨夜のことを何も言うつもりはない。寺山にも言うなと念を押した。寺山が逸巳にしたことを許すつもりは全くないが、無視することは出来る。
『先輩は覚えてない、まだ──だから…絶対に何も言うな』
 いいな、と強く繰り返すと、寺山は俯いたまま、殴られた口元を拭った。
『分かったのかよ!?』
 夜道に怜の声が響く。遠くにいた誰かが振り返った気配。怜がその方向を睨むと、誰かは走り去って行った。
 ああ、と寺山は頷いた。
『…悪かった』
『先輩に直接言えなくて残念だな』
 覚えていない逸巳には絶対に言えない──だから俺に言うのか。
『ふざけんなよ』
 どこまでも苛々する。握りしめた拳がずきずきと痛みだし、怜は顔を顰めた。いや、と寺山は首を振った。
『おまえのことも、…悪かったと思ってる』
『は?』
『決めつけて色々言った』
 悪かった、と寺山は顔を上げ、怜をまっすぐに見た。あれほど憎んだような目をしていたのに、それがもうどこにも見えない。
『俺はずっとおまえを最低な奴だと思ってた。でも、違うかもしれないと…』
『へえ? そうかよ』
『今日、逸巳とおまえの友達が話してるのを聞いた』
 口の端に滲んだ血を、寺山は親指で拭った。口の中が切れているのだろう。広がる鉄の味に顔を顰めている。
『聞く気はなかったけど…、逸巳を追いかけて、偶然』
 なんとなく想像が出来て、怜は顔を顰めた。おそらくその友人とは柚木のことだろう。
 今日店に来たのはそれが理由か。
『趣味悪』
『…ああ、俺は最低だ』
 あれからぎこちなくなった関係を、どうにか元に戻そうと寺山は逸巳と話せる機会を探していたのかもしれない。逸巳から最近寺山の様子がおかしいということは聞いていた。悩む逸巳に怜は当たり障りなく返したが、本当のことを言えば全部ぶちまけたってよかったのだ。
 そうすれば逸巳からこいつを引き剥がせる。
 でも、そんなことは絶対に出来ない。
 嫌な目に遭ったことはなくせない。だが覚えていないなら、そのまま蓋をしてなかったことにしてやりたい。
『わざとやってるのか?』
『……』
 怜は寺山を見返した。そしてふいと視線を逸らす。
『好きに思えよ』
『…わかった』
 寺山は踵を返し、怜に背を向けるとそのまま歩いて行った。路地の先は繁華街の光で明るい。やがて寺山の姿が見えなくなると、怜も歩き出した。
『おい』
 少し歩いたところで呼び止められる。振り返れば店長が煙草を咥えたまま、店先に立っていた。
『それ、後で痛むぞ?』
 煙草の先が上下に揺れる。
『知ってるよ』
『ああ…そうだったな』
 中に戻れと店長は顎をしゃくった。
 真っ白いノートの上の右手を、怜は開いて閉じた。
「この問題は1の公式に当てはめて考える──、おい、後藤」
 名前を呼ばれ、怜は顔を上げた。
「この問題解いてみろ」
 スクリーンに映し出された問題を、佐竹は指し示した。解けないと思っているのか、その表情はどこか笑っているように見える。相変わらず嫌われているようだ。
 怜はゆっくりと立ち上がった。
 クラスの視線がこちらに向く。
「(a + 1) (a - 1) (b + 1)」
 淡々と答えて座ると、正解、と佐竹は言った。
「流石だな。では、次の問題」
 名指しされた生徒が文句を垂れながら立ち上がる。
 それを聴きながら頬杖をつきまた外を眺めた。
 さらりと褒められたことに怜が気づいたのは、少し経ってからだった。


 三時限目が終わり、逸巳はスマホの電源を入れた。暗い画面が立ち上がるのを眺めていると、誰かが目の前に立つ気配がした。
 顔を上げて驚く。
「寺山」
「次、移動だけど」
「ああ…、うん──」
 驚いて声が変な具合になる。ここ一週間、話しかけても最低限の返事しかなく、目も合わせてもらえなかった。
 なのに。
 行こう、と促されて逸巳は頷いた。必要なものを用意し、手の中のスマホをポケットに入れる。
「持って行くのか?」
「昼休み、用があるから」
 移動先の教室は旧校舎に近い。授業の後戻らずにそのまま怜に会いに行くつもりだった。
「後藤と?」
 寺山は特に機嫌を害したわけでもなくそう言った。怜の名前にあれほど嫌悪を露わにしていたのに、寺山のほうから怜の名を口にしたことに逸巳は目を丸くした。
「そうだけど…」
「なに?」
「何って…、いや、何でも…ないけど」
 一体どうしたのだろう?
 なあ、と逸巳はもう一つ気になっていることを訊いた。
「その怪我、どうしたんだ?」
「ああ…ぶつけた」
「ぶつけた?」
「そう」
 そんな口の端を?
 うっすらと腫れている頬は、まるで──
「逸巳、行くぞ」
 寺山はそう言ってさっさと教室を出て行った。逸巳は仕方なく寺山を追いかけて教室を出た。
「あ、待って──三沢くん」
 行こうとしたところを呼び止められる。振り向くと、見知った女子が向こうからこちらに走って来ていた。去年同じクラスだった、今は隣のクラスの女子だ。
「ごめん! ちょっと待ってっ」
「どうしたの?」
 随分と慌てた様子に逸巳は心配になった。
「これ、どこにあるか分かる?」
「え?」
 彼女が差し出した紙を逸巳は受け取った。
「沢渡先生がいるみたいなんだけど、江島先生に貸した後わかんなくなったって。それで今教員室行ったらあいついないし! 三沢くんあいつに頼まれてよくなんか運んでるからさ、知らない?」
 それは江島がよく逸巳に持って来させていた資料の一覧だった。確か先月も取りに行かされた覚えがある。いつもはコピー室の隣の空き教室の中に置かれているのだが。
「たぶんそこだと思うけど」
「あーあそこかあ」
 空きスペースだらけの新校舎の中は、体のいいもの置き場も同然だった。江島がきちんと戻していれば、そこにあるはずなのだ。
「ありがとー! 行ってくる」
「え、ひとりで取りに行くの?」
 あれはかなり重い。分厚い資料は全部で三冊あり、ずっしりとしていて、男の逸巳でもかなり重いと感じたほどだ。
「当番の子、もうひとりいたけど今日休みなんだよねー」
「そうなんだ」
「午後使うんだけどさ、こっちも次移動だし、私昼休み委員会で取りに行けないから。沢渡先生腰痛めてて重いもの持てないらしいし」
 仕方ないよね、と彼女は笑った。沢渡先生というのは一度定年退職をした後、また復職で戻って来た教師だった。物腰の柔らかな老齢の男の先生で、皆からおじいちゃん扱いされている人だ。
 確かにあの人には無理そうだ。
 少し考えた逸巳は、じゃあ、と言った。
「僕が行くよ」
 えっ、と彼女は声を上げた。
「いいよいいよ! もう授業始まるし」
 大丈夫、と逸巳は苦笑した。
「授業が終わったら行ってくるよ。午後に間に合えばいいんだろ? 教室に置いておくよ」
「ほんとにいいの?」
「うん」
 ありがとう、という彼女とそこで別れ、逸巳は移動教室に向かった。もうみんな行ってしまったのだろう、廊下にクラスメイトの姿はない。
 廊下を歩いている途中にチャイムが鳴り出した。いけない、と急ぎ足になった逸巳は、ふと階段の前で足を止めた。コピー室はこの上だ。
 今取りに行ってもいいだろうか。
 ふいに浮かんだ自分の考えに悩む。
 どうせもう授業は始まってしまった。昼休みは逸巳も怜と会う。訊きたいことがあると、夜のうちにメッセージを送っていた。
 その時間を減らすのは嫌だ。
 それなら、今──
 逸巳は階段を上がりかけ、あ、と小さく声を上げた。
 鍵だ。
 そうだ、コピー室にはいつも鍵がかかっている。他の空き教室も同じなのだ。教員室に取りに行かなければならない。でも今行けばどうしたのかと他の教師に問われるだろう。その理由を説明するのは少し気が重い。
「しかたないか…」
 やっぱり後にしよう。
 怜には少し待ってもらおう。後で連絡を…
「…っ」
 くるりと向きを変えた逸巳は、はっと息を呑んだ。
 思わずびくりと肩が跳ねる。
「何してるんだ? 三沢…こんなところで」
 江島が立っていた。
「先生」
「授業始まってるぞ」
 こちらを見るその目が、暗い水の底のように窓からの光を受けて鈍く光っている。


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