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しおりを挟む怜は待っていた。
誰もいない広い家はやはり落ち着かない。慣れない場所だからか、時折誰かに見られているような気さえする。
ソファに座りゆったりとした背もたれに体を預けた途端、眠気に襲われた。まずいと思って膝を抱えるが、けれどどうにも眠くてたまらなかった。
逸巳を待っていたいのに、瞼が落ちる。次第に身体が重く沈み込み、眠りにつくのにそう時間はかからなかった。
そして夢を見た。
ほんの短い夢。
どうしてそんな夢を見たのか分からない。逸巳の母親と話をしたからなのか──あの夏の日の夢を見た。
同じことを繰り返す。
その暑さに息が出来ない。
汗が落ちる。
記憶そのままの夢の中で、怜は傍にいた誰かを見上げている。
逆光の中の暗い顔。
目を凝らしても見えなかったそれは、いつしか逸巳の姿になっていた。
ぎくりと怜は目を見開いた。
逸巳が、薄闇の中に立っていた。
怜を見下ろしている。
「大丈夫?」
「──」
夢と同じ言葉。
いや、違う。
夢じゃない。あれは。
あれは現実だった。
「れ、っ──」
目の前に立つ逸巳に怜は手を伸ばした。きつく腰を抱き締め力づくで引き寄せる。そのまま自分と入れ替えるようにソファに押し付けて平らな腹に顔を埋め、逸巳を掻き抱いた。
温かい。
「…れ、…ごとうく…っ」
逸巳が驚いた声を上げた。怜の肩を押し、逃げようとする。腕の中で身じろぐ体を怜はさらに抱き締めソファに押し付けた。
なんで、と漏れる呟き。
なぜ?
そんなのひとつに決まっているのに。
だが逸巳にはどうして怜がここにいるのか分からないのだ。それはそうだろう。別に約束をしたわけでもない。なにか言ったわけじゃない。なのに、帰ってきた自分の家の中に──それも真夜中にいるなんて思いもしない。自分の体を抱いて離さない怜に戸惑っているのが伝わってくる。逸巳の胸に埋めた耳から、心臓の音が聞こえる。それは速く、強く、規則正しかった。
「…どこ行ってたの」
そう言った自分の声はひどく掠れていた。
まるで咎めているようだ。
「何してたんだよ」
そうじゃない。違う、こんなことが言いたいんじゃない。
こんな、嫌な言い方じゃなくて。
今まで関わってきた彼女たちと自分は同じだ。今まさに、彼女たちに対して気持ち悪いと思ったことを怜自身が繰り返している。
顔を顰め、怜は逸巳の背中のシャツを握りしめた。
「ごめん、…」
顔を押し付けている薄い胸が膨らんで、沈む。前髪をひと房摘まむ指先。
「友達の家にいて…、気づいたら寝てて」
友達。
「ともだちって、あいつ?」
そう言われてすぐに思い浮かぶのは寺山だ。
あいつは俺を毛嫌いしていた。
心の底から憎んでいるような目をして、捲し立てていた。
逸巳が頷いた。
「変な感じだったから、寺山が。少し話したくて、でも」
目が覚めたらベッドの上だった。
「──っ」
埋めていた胸の上から、ばっと怜は起き上がった。月明かりの差し込む薄い闇の中で、ソファに横たわる逸巳が驚いたように怜を見上げている。
「ベッド?」
自分の息が荒くなったのが分かる。肩が上がり、呼吸が早くなる。ベッド? ベッドで眠っていた?
あいつと?
「なに、したの」
「なにって…なにも」
知らず声が低くなる。頭の芯がぐらぐらと揺れる。今まで味わったことのない、内臓から煮えるような感情が怜を支配していく。逸巳の顔の横についた腕が震えそうになるのを怜は必死で抑えた。腹に力を入れ、唸るように言う。
「何もってなんだよ」
ソファに散らばった黒い髪。露わになった綺麗な耳の形。ほっそりとした首筋。逸巳は困惑の表情を浮かべた。
「何もないよ」
「あんまり覚えてないんだ。ほんとに…眠ってた。コーヒーを零して服が汚れて…そのあとはぼんやりして、起きたら寺山はいなくなってて」
ぼんやりした記憶。
気が付いたら眠っていた?
そして寺山はいなくなっていて…
ぎゅう、と怜のこめかみが引き攣れた。
「…っ、な、っ、や…!」
怜は逸巳の服に手をかけるとむしり取るようにボタンを外した。首のネクタイが邪魔だ。乱暴に緩め、馬なりに腰の上に跨ったままシャツをはだけていく。ベルトを引き抜きウエストを緩める。緩んだそこからシャツを抜き出して前を全開にした。
「怜…っ!」
「──」
怜を押しのけようともがく逸巳の肌には何もない。
シャツを両手で開いたまま、怜は肩で荒く息をした。
何もない。
でも。
「何、するんだよ…!」
何もない痕を探すように怜はその肌に手を這わせた。なめらかな感触に体温が上がる。あの男がもしも、逸巳を故意に眠らせたのなら──
ぎくりと怜の手が止まった。
身を捩って逃げようとする逸巳の腰から落ちたズボンから下着が見えていた。そのウエストから覗いている腰骨に目が吸い寄せられる。
「や、やだ、怜! や…!」
迷わず怜はそこに歯を立てた。ぎり、と肌に食い込む感触。逸巳が大きく体を震わせて怜を押しのけようと頭を掴んだ。
「痛い、いた、っやだ、れい、や、っ! やめっ…」
逸巳の抵抗を躱しながら、怜は下着の隙間から手を這わせ、後ろをそれとなく探った。奥に指先が触れるが逸巳は噛まれた場所に意識が向いているのか声を上げない。
あいつに何をされたのか大体想像がついた。
ほっと、怜は内心で息をついた。それと同時に激しい怒りが腹の底に溜まっていく。
抑えなければ──今は。
「れい、れい…っ」
怜の口の中にかすかな鉄の味が混じる。怜は噛むのをやめるときつくそこに吸い付き、肌を舐めた。逃げようと上に上がる逸巳を引き戻し、甘く噛んでは赤い痕を残す。
「なんで、…っ、れ…痛、い」
「ごめん、でも…まだ駄目だ」
「あ…っは、あ、い…!」
「こうしないと──」
元の噛み痕を消すまで怜は執拗に繰り返し、顔を上げた。
途中から諦めたように両腕で顔を覆っていた逸巳を見下ろす。そっと手首を掴み、その腕を外した。
「逸巳…、ごめん」
真っ赤になった逸巳が、目に涙を溜めて怜を見上げた。
「ごめんって、じゃあ、なんで…っ」
こんなことをするのか。
困惑と羞恥と怒りの入り混じった視線を受け止めて、怜は逸巳の頬をゆっくりと撫でた。
「あいつに嫉妬した」
「? …え…」
思い出さないようにするためだ。
だが怜は言わなかった。
余計なことは言わずにおきたい。
「痛くしてごめん」
思い出さないで。
覚えていないのなら、そのほうがいい。
眠っていたなら夢で終わる。
嫌な記憶は塗り潰してしまえばいい。
この痕は俺が付けたものだ。
「──ん、っ、…」
よく分からないという顔をした逸巳に苦笑を落とし、怜は唇を塞いだ。驚いて開いた隙間から舌を差し入れ、逸巳の舌を捕らえる。角度を深くしてその舌先を甘噛みすると、びくりと逸巳の体が震えた。苦しさに藻掻く腕が怜の髪を掴んだが、やがてその力は緩く解け、怜の髪を梳くように撫でていく。
「は、あ…っ、あ、んう…」
ゆっくりと唇を離すと、逸巳は荒く胸を上下させていた。
「俺のこと嫌いになった?」
「…っ──」
くしゃりと逸巳の顔が崩れる。顔を顰めたその目尻から涙がこぼれ落ちていく。
それを舐め取って、怜はもう一度口づけた。全部欲しい。逸巳の全部を自分のものにしたい。
熱く滾ったものを押し付けると逸巳の細い脚が怜の腰をそっと挟んだ。背中に回った指先が爪を立てる。
小さな声でずるい、と逸巳が言った。
あんな言い方はずるい。
怜は卑怯だ。
嫌いになんてなれないのが分かっているくせに、訊くなんて。
「あ…、っ、は…」
熱に浮かされたようにひっきりなしに喘いでいる。のしかかった体重で息が出来ない。合わさった肌が熱くて火傷しそうだ。
「逸巳、…」
怜の声に逸巳は振り向いた。背中に覆いかぶさっていた怜が、その唇を吸い上げる。
「ん、ん…っ、」
散々蹂躙された口の中をまた熱い舌で舐め回される。そうされるとぼうっと頭が霞み、息苦しさが気持ちよさにすり変っていく。たまらない。怜は経験が豊富なのか、ひどくうまかった。甘い苦しさに逸巳の体はずっと翻弄されっぱなしになっている。
「ね、もっと腰上げて」
「っあ、ん、」
耳元に落とされた声に全身が震えた。そう、と怜は耳朶を噛み、項に向かって舌を這わせていく。
「れい、や、…」
「大丈夫、今日は…入れないから」
「ん、あ…っあ、ア…!」
さっきから何度と繰り返されるやり取りに、逸巳はもう限界だった。男同士のこういった行為にほとんど知識はないが、後ろの穴を使うことくらいは分かる。それがすぐに出来ないことも…なんとなく。
「! や、やだ、れい、…あ、あ、っああああ、あー…っ」
「ここ、でしょ…、ね? 逸巳」
「い、いやあっ」
仰け反った逸巳はぶるぶると首を振った。
「やあああ、やだ、やだも、ぬい、てえ、っ」
ずっと入れっぱなしの怜の指が逸巳の中を探る。怜によって見つけられたそこは、逸巳をおかしくさせた。押されると声が止まらない。甘く痺れる快感が全身を震わせる。
怖い。
「れい、怜…っ」
こわい、こわい。
ふと、奇妙な既視感に逸巳は襲われた。
こんなふうに怜の名前を何度も読んでいた気がする。
いつ?
どこか──夢の中で。
「ぁあっ」
その考えも怜の動きに霧散していく。
だめだ、思い出せない。
「大丈夫、気持ちいいだけだよ…」
「んう、ううぅうぅ…、っ」
「逸巳」
好きだ、と怜が言う。怜の熱いものが逸巳の下に添えられ、ゆるゆると動いている。日本を束ねるように怜は大きな手でそれを握り、逸巳を抱えて腰を動かしていた。ぐちぐちと指先は狭い後ろの中をずっと突いてくる。逸巳が泣き叫ぶたびにあやしながら優しく、激しく求めてくる。
「れ、い、…っれい、あ、あっ、あ」
「逸巳、すき、好きだ、…っ」
首に掛かる熱い息に逸巳はもうだめだと思う。
怜の手の中で膨れ上がる。
駆け上がる快感に背を弓なりに反らせると、逸巳のものを握っていた怜の指が、ぐりっとその先端を抉った。
「ひ、あっ…!」
がくん、と目の前が真っ白になる。
怜が激しくしごいた。
絶頂に押し上げられる。
「い、あ、ア…、あああああっ」
「…ッ」
ベッドについた腕がぶるぶると震えた瞬間、逸巳は達していた。怜も同時に震え、逸巳を背後からきつく抱き締めた。
「あ、あ…、あ…っ」
熱い飛沫を腹に感じる。ずるりと腕から力が抜け、逸巳はベッドに頽れた。
背中から覆われる体温に下肢がぴくりと震える。
近づいてきた気配に逸巳は振り向いた。怜が唇を合わせてくる。逸巳はそれを迎え入れた。
「れい…」
好きだ、と合間にぽつりと漏らすと、力いっぱい抱き締められた。
心地いい。
このまま眠りたい。
まどろみの中で逸巳はあの既視感を思い出した。
あれはなんだったのだろう。
ふと、何かが浮上する。
水の底から湧き上がる気泡のように。
とても小さなさざ波を立てる。
何か大事なことだった。
やがてまどろみの中に溶けていく。
思い出せないまま、逸巳も眠りの中に落ちていった。
***
夜明けの住宅街を誰かが歩いている。
誰でもない。
何者でもない。
誰にも見られていない。
すれ違う者もいないのだから、いないのも同然だった。
立ち止まり、振り返る家はひっそりとしている。
きっともう眠りについたのだ。
私が見ていたことなんて、知るはずもないうちに。
***
それから一週間ばかりが過ぎた。
七月に入り、夏の暑さは増すばかりとなった。
「三沢」
おーい、と教室の入り口から呼ばれて、逸巳は振り返った。
クラスメイトがこっちに来いとばかりに手を振っていた。
「江島が呼んでる、教員室な」
「分かった」
ありがとう、と言って逸巳は教室を出た。
引っ越しの準備ももう終わる。とりあえず今使わない物だけを送ることにしていた。
配送業者を見送った位知花は、凝った首を手のひらで揉んで解した。普段力仕事などしないので身体がきつい。いつもなら店の従業員に頼むのだが、逸巳がいる家に彼らを呼びたくはなかった。
そういうことは出来るだけ見せないようにしてきたつもりだ。
自分の仕事を卑下するわけでもないのだが、逸巳にはあまり触れさせたくない世界だ。
門の外で伸びをすると、位知花は家の中に戻ろうと門をくぐった。玄関に向かおうとして、足を止める。そういえば最近ポストを開けていなかった。ポケットに入れていたキーケースを取り出し、ポストに鍵を差し込んだ。向かいの家の玄関が開き、住人と目が合った。
「こんにちは」
「こんにちは」
にっこりと当たり障りなく会釈を返す。
マンション住まいが当たり前だった位知花にとって、一軒家のわずらわしさはこういうところにあると思う。地域の繋がりなど、もはやあってないようなものだ。悪口しか言えない連中を慕えというほうがどうかしている。
「…?」
ポストを開けた位知花の手が止まった。中には封筒がいくつかと要らないDMばかりだ。近くのスーパーのチラシも押し込まれている。
その上に置かれていた。
宛先のない封筒。
「何これ」
位知花はそれを掴んで引っ張り出した。
何もないということは、誰かがおのずから入れたのか。
気味が悪い。
誰がこんなものを。
顔を顰めながら位知花は裏を返した。そこには赤い字でイニシャルと思われる文字が書かれていた。
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