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しおりを挟む何をするにも自分本位な人だった。
生まれた子供が自分の理想をはるかに超えて美しく、まるで等身大の生きた人形のようだと思った瞬間から、彼女の中にはそのイメージが深く根付いた。
自分好みに着飾り、あらゆる場所に連れ出した。
そして誰もが子供を称賛した。
声を掛けてくる人たちの反応で彼女はいかに自分の子供が優れているかを実感した。
この子は特別な子だ。
可愛くて仕方がない、もっと多くの人に見て貰えたら。
その願いはすぐに人の耳に入り、彼女に届けられた。よかったらあなたの子供を今よりもたくさんの人に見て貰いませんか? あなたがよければ、そしてその子が頷いてくれたなら。
怜、と母親は言った。
『お母さん、怜のこと大好きだから、もっとみんなに怜のこと自慢したいな。ね、いいよね?』
いいよ、と言った記憶はない。だが、きっとそう言ったのだろう。たかだか二歳の子供に何が分かっていたわけでもない。ただ、母親が好きだったから──当時の怜の世界の全ては母親そのものだったから、頷いただけだ。
母親が笑っているなら幸せだった。
怜の世界はそこから大きく変わった。
見知らぬ大人たちに囲まれる日々。母親と一緒に撮影現場に行き、子供慣れしたスタッフと遊んでいるところを写真に撮られる。いわゆる子供モデルというやつで、母親に声を掛けてきた事務所はそれほど大きなところではなく、規模や所属タレントも少ない業界ではいわゆる後発組だった。怜の写真もネットの商品紹介で使われるのが主で、後は大手のタレントの穴埋めばかりだ。そのことに母親が満足していなかったのは、今でもうっすらと思い出せる。
『うちの怜のほうがよっぽど可愛いのにどうしてなの』
家に帰ると独り言のように愚痴をこぼしていた。
もっと、もっと、みんなに見て貰おうね。
幼稚園や保育園に行く時期になっても母親は撮影のほうを優先し、父親と揉めることが多くなった。怜の父親は子供に関心はあまり示さない人だったが、愛情はそれなりにあったようで、出来れば普通の子供と同じに過ごさせたいと母親に訴えていた。だが母親はそれが気に食わなかった。ますますタレント活動にのめり込むようになっていき、父親とは深い亀裂を作ったまま修復されることはなかった。
外では華やかな雰囲気と笑いに満ちていたが、家の中は冷たく薄暗かった。母親は怜にべったりと構いどおしだったし、父親はそれを冷たい目で見るだけでほとんど会話もない。重苦しい空気は幼かった怜にもやがて段々と伝わってくる。両親の不仲はゆらゆらと揺れる水の中に始終浮いているようなどっちつかずの浮遊感を怜に味合わせた。実際当時の記憶はほとんどないにも拘らず強いイメージだけを怜に残していた。外で楽しくしているときも笑っているときも、どこか薄暗い影が背中に貼り付いていたように思う。そんな生活を小学二年生まで続けた。気がつくと父親は家に帰って来なくなった。そのことを怜は母親に聞かなかった。夜中に怒鳴り合う声を聞かなくなって、それだけで安堵している自分がいた。もうあんな嫌な思いはしなくていいのだと。
タレント活動も小学校に上がったと同時に下火になり、業界から少し距離を置くことになった。母親はまだ諦めていないようだったが、父親が家を出たことで収入減がなくなり、働かざるを得なくなったため、怜に割ける時間は減っていった。物事がゆっくりと元に戻る兆しがあったそのころ、怜は再び人の注目を浴びることになった。
『見て、怜! あなた載ってるわよ、すごい、すごいね!』
母親と一緒に出掛けた際に街中で撮られたスナップが、有名な雑誌に掲載されたのだった。怜は知らなかったが、母親は知らされていたらしく、本当に載るなんて、と子供のように大はしゃぎしていた。
その掲載記事が評判を呼び、怜は再び注目を集めることになった。休止状態だった活動も母親の強い希望で再開された。
そのとき怜は十一歳、小学五年生にしては背が高く、中学生と思われてもおかしくない体つきになっていた。
『後藤くん見たよー!』
『あ、私も!』
再開したのは夏休み中だったのにも拘らず、夏休み明けには学校中に知れ渡っていた。黙っていても何も言わずとも、人はそういうものを感知する能力があるらしい。
『エルトの十月号、あれ怜でしょ? うちのお母さん言ってたもん、ほんとすごいよね!前からいいなって思ってたけど、写真だともっといいし!』
『そうかな…? 俺よく分かんないんだけど』
『えーなんで、すごいことだよ』
同級生に褒められ、怜は首を傾げた。自分の容姿が人の目を惹くことは何となくわかってはいるが、何故そうなるのか怜には理解が出来なかった。顔があって目と鼻と口、皆同じものがあるのに、どうしてその形にばかり目を向けるのだろう。
皆同じだ。
けれど周りの人間はそうではないらしい。
『あ、ねえ、君──後藤、怜君──だよね?』
出歩けば見知らぬ人から声を掛けられる。
『そうですけど』
怜はまだ子供だった。だがそんなことは構わずに色目を使う大人、嫌悪感にぞっとした。
それでも母親や事務所から言われた通りに笑って対応した。
決して無下にしてはいけない。
皆あなたを見ているのだから、きちんとそれらしく──『怜』らしく笑っているように、と。
『サイン貰えるかなあ? 私あなたみたいな子ほんとに大好き。ハーフじゃないよね? 綺麗な目だね』
『ありがとう』
と怜はにっこりと笑った。
子供らしい口調で、あどけなく。
『これにサインすればいい? まだあんまりしたことなくて』
『そうなの? じゃあこれレアだね! うん、この表紙にサインして欲しいな』
怜の載った雑誌を差し出された。街中の人通りの多い場所。夏の暑い昼下がりだった。
『ありがとう怜君、これ一生大切にするね』
日差しに晒されくらくらとする頭で適当に描いたサインを胸に、その人はそう言って雑誌を胸に抱きしめた。
『うん、嬉しいな。僕こそありがとう』
本当はそんなこと微塵も思っていなかったくせに、口からはすらすらとそんな嘘が零れ出ていた。
『怜君本誌デビューしてからもうすぐ一年だね、おめでとう。あの、これ私が書いたファンレターなの。出す勇気なくて持ち歩いてて…、よかったら貰ってくれない?』
『ありがとう』
怜はそれを受け取った。
去っていく彼女に機械のように手を振った。背中を向けて見えなくなった途端、怜の顔から笑みは消えた。
こめかみから汗が伝う。
そうか、もう一年も経つのか。
母親からは小学生の間だけ、と言われていた。あと少し。三月の卒業を迎えたら、こんなことはもうしなくて済むのだ。
手の中の手紙に目を落とした。綺麗な字で事務所の住所と、怜の名前が書かれている。
封筒は少し分厚かった。
開けるか躊躇し、何度も表と裏を見る。差出人の欄に名前はなく、なぜかイニシャルだけが綴られていた。
『……』
いい人そうに見えた。
だがこの一年色んな人が怜に近づいてきた。
言い寄って来る人間は皆、何もないようで何か含みを持っていた。純粋な目で何もないよという顔をしながら、こちらが隙を見せた途端、一気にその態度を豹変させる。今の人が、そうではないとなぜ言い切れるだろう?
怜は淡い水色の封筒を無造作にポケットに捻じ込んだ。捨てるにはここでは人目がありすぎる。
『あーごめんね、お待たせ』
聴き慣れた声に顔を向ければ、事務所の社員が人混みの中をこちらに向かって来ていた。元々事務職として入社したはずなのに、今ではすっかり怜のマネージャーのようになっている。
『大丈夫です』
『ほんと? 暑いねえ、ごめんね遅くなっちゃって、変な人に声かけられなかった? いやそれにしてもあっついなあ…』
早口でまくしたてながらハンカチで汗を拭く。この暑いのにスーツだからだろうと、ぼんやりと思っていると、さあ行こう、と背中を押された。
『撮影まで少し時間あるから、車の中で何か飲もうよ、そこのカフェの新作! ちょうどいいから買って行こう?』
どうやら近くのパーキングに車を置いているらしかった。
『あ』
促されて歩き出した途端、ポケットに捻じ込んだ封筒が路上に落ちた。
『え、なに?』
足を止めた怜をマネージャーは振り返った。
雑踏の中、落ちた封筒は道行く人に踏みつけられ、見る間に薄汚れていく。
ひしゃげたイニシャルのA・Kが小さく破れていた。
『手紙?』
『さっき貰って…』
頷くと、ええ、とマネージャーは声を上げた。
『しょうがないなあ』
人の往来の隙をついて手を伸ばし、さっと手紙を拾い上げた。
『こういうの直接貰っちゃだめだからねー』
勘違いするやつ多いんだから。
そう言って彼は面倒くさそうに手紙をスーツの内ポケットに突っ込むと、怜の手を引いた。
怜は黙ってそれに従い、言われるがままに歩いた。
強い日差しに眩暈がしそうだ。
なんだか気持ち悪い。
『──』
ふと、何気なく肩越しに振り返った。誰かに見られている気もしたが、マネージャーの急かす声でそれもかき消えてしまった。
***
バイトを終え、帰った家の中はしんと静まり返っていた。母親の香水の匂いはどこにもしない。今日は一度も帰ってきていないのか。怜は郵便物をテーブルの上に放り投げると、息を吐いてベランダに続くリビングの窓を全開にした。
生ぬるい夜の風が怜の前髪を持ち上げるように揺らし、部屋の中に入って来る。リビングを飾り立てる物たちもかさかさと風に揺れ、怜はしばらくその音に耳を澄ました。全部要らないものばかりだ。飾った母親は見向きもしないのに、いつまでも同じ場所にある。
今日も明日も明後日も、帰って来なければいいのに。
顔を合せたところで恨み言を言われるだけだ。それに対抗すればするほど、その日一日がどんどん色褪せていく気がする。
階下に見える夜の街。
風が強く吹きこんで、部屋の中で何かが落ちる音が聞こえた。
閉めようと窓に手を掛けたとき、鼻先を掠めた自分の髪から逸巳の名残りを怜は感じ取った。
「──」
心臓がぎゅっと縮む。
もっと抱き締めていたかった。
結局あのまま午後の授業をひとつ、またサボらせてしまった。お互いバイトと塾で別れ、塾の終わりに逸巳が店まで来て一緒に帰った。送るときの寂しさが胸を占める。
『ばか、また…っ』
離れがたくて人気のない駅の奥にあるトイレの個室に連れ込み、キスをした。抵抗する逸巳の真っ赤になった顔に体温が上がって、思うよりずっと長い時間放してやることが出来なかった。
『…ん、んっ…』
やだ、と言う逸巳の甘い声が耳の奥に残る。
もっと腕の中に囲っていたい。
もっと一緒にいたい。出来るなら、もう全部、自分のものにしてしまいたい。
早く、この家を出て──
自分の部屋に行こうとして、怜は足元の何かを蹴ってしまった。テーブルの傍、床の上にはいくつかの郵便物が散らばっている。
さっき、何か落ちる音がしたのはこれか。風で煽られたのだろう。
怜は拾おうと手を伸ばした。指先で摘まもうとして、ぎくりとその指先が震えた。
何の変哲もない郵便物だ。
ただの封筒。
だがその裏面に記されていたのは、A・Kという二文字だった。
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