明けの星の境界線

宇土為名

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 クー・シーの定休日は木曜日だ。
 店の前に立った逸巳はあれと思った。
 今日は水曜日、店は閉まっている。
 塾が急遽休講になったのでつい足が向いてしまったが、店の入り口から見える奥は薄暗く人気がなかった。いつもは賑やかな空気が外まで漏れ出ているのだが、それもない。急に休みにでもなったのか、もしくは定休日が変わったのか。怜に連絡しようかとちらりと考えたが、そんなことをわざわざ訊くことに逸巳は躊躇った。連絡先を交換したと言っても、昨夜のやり取りだけで、それだけだ。普段ほとんどスマホを弄らない逸巳にはいささかハードルが高かった。
「まあいいか…」
 仕方がない、別のところに行こうと逸巳は踵を返した。腕時計を見ればまだ十六時で、家に帰るには当然早すぎた。
 出来るだけ遅く帰りたい。そのほうがあの人も気を遣わずに済むのだ。
 逸巳は駅の方に戻りながらどこに行こうかと思案した。長く居座れるのは人の多いところだが、今日はなんとなくそういう気分ではなかった。
 通りを抜け、駅に出た。他校の学生が入り混じるロータリーの周り、帰宅の列が出来るバス乗り場の前で何気なくポケットに手を入れると、指先に当たるものがあった。
「あ…」
 カードだ。
 昨日怜に見せた会員証をそのままポケットの中に入れていた。
 すっかり忘れていた。
 カードを手の中で回す。派手な色で書かれた店名を見て、そういえば最近行っていないなと思った。一度嫌なことがあると、簡単に人の足はその場所に向かなくなる。逸巳もそうで、ここしばらく足が遠のいていた。
 でもあれから少し経ったし、もういいかもしれない。マリオンは完全個室で、料金も安いし独りになれてとても落ち着くから、逸巳の今の気分には合っていた。
「行こうかな」
 逸巳は進路を変え、駅の構内に向かった。店へ行くにはここから一度駅の中を通って反対出口から出なければならない。夕方の時間帯、ごった返している人混みの中を歩く。蒸し暑い空気と店舗からのエアコンの冷たい空気が混じり合い、人とすれ違うたびに夏の匂いがした。あと少しで七月、夏休みが来る。
 長い休みだ。
 きっと毎日家にいることは出来ない。塾の夏期講習を入れているから昼間はいいが、夜は都合の良い言い訳を考えておかなければいけない。
 ぼんやりと考えながら出口を抜け、駅の反対に出た。表とは違い少し落ち着いた景色、商業ビルが立ち並ぶ道沿いを通り、チェーンのカフェの前を歩く。漂ってきたコーヒーの香りにふと、逸巳は立ち止まって目を向けた。
 窓ガラスの向こうでは怜によく似た店員がテーブルを回ってオーダーを聞いている。
 無駄のない動きに何となく目が離せなくて見ていると、視線を感じたのか、店員がこちらを向いた。
 目が合ってにこりと微笑まれ、どうぞとその唇が動いた。
「…っ」
 慌てて逸巳は頭を下げた。逃げるようにその場を離れる。恥ずかしさに頬が熱い。着替えたばかりのシャツが汗で濡れる気がした。
 何してるんだろう。
 一瞬店員の彼が怜に見えた。
 怜に見えて…
『ふらふらするなら俺も…』
 昨夜の言葉を思い出す。
 本当に?
 呼んだなら、ここに来てくれるんだろうか?
 どこまで本気で──
「…馬鹿だな」
 鞄の中に手を伸ばしかけて、逸巳は苦笑した。あれはきっとその場限りのもので、本気にしてはいけないものなのだ。
 怜だって忙しいだろう。本来ならお互い関りを持たないまま、知らないままだったはずなのだ。偶然が重なって、話すようになっただけで。
 目の前の路地を入り、逸巳は歩いた。ビルとビルの間の日陰が心地いい。通りを挟んだ右側にマリオンの看板が見えてきた。片道の狭い道路を渡ろうとしたとき、誰かが呼ぶ声に逸巳は振り向いた。

 ***

 教室を出ると、怜はスマホの画面を操作し折り返した。
 着信は店長からだ。
 何の用だろう。
「あ…お疲れ様です」
 人気のない場所で少し声を潜める。
『ああ、悪い、メッセージ入れようと思って間違えて掛けた…、まだ授業中だろ?』
「いや、今自習中…」
 そう言うと、電話の向こうで苦笑する声が聞こえた。
『サボってんのか』
「見張りの教師いないし」
 へえ、と店長は笑った。
『結構緩いな』
「そんなもんでしょ…、それで」
 なに、と訊くよりも早く、店長は言った。
『ああそう、悪いけどな、今日店休みにしてるから』
「え?」
『急ですまん。どうしても外せない用が出来てな。その代わり明日は開けるんだけど、おまえ来れるか?』
「そりゃ、まあ」
 何か予定があるわけじゃない、毎日バイトと学校と家を行き来するだけだ。
「大丈夫っすけど」
『そうか? じゃあ頼むわ』
 少しほっとした声で言ってから、ああ、と店長は続けた。
『今日練習したかったら店入ってやっていいぞ? 鍵は前のとこと変わってないから』
「え? いいんすか?」
 驚きで怜は思わず声を上げた。声が廊下に反響して、少し恥ずかしくなる。
『いいよ、好きに使ってな』
 くぐもった笑いを含んで店長はそう言うと通話は切れた。それと同時にチャイムが鳴り、授業の終わりを告げた。
 教室に戻ろうと、スマホをポケットに入れようとして怜は手を止めた。そうだ、逸巳に連絡しておかなければ。柚木に頼まれたことも伝えないといけない。
 怜はメッセージアプリを開いた。たしか今日は塾があるはすで──昨日聞いたのだ──その終わり時間に合わせてどこかで待ち合わせをすればいい。どちらにしろ逸巳は店に寄ると言っていたから、それは大丈夫だろう。
 各教室から生徒たちが廊下に出てくる。ざわざわとした空気の中で怜はメッセージを送った。
『今日店休みになったから、先輩の塾終わったあと待ち合わせしませんか』
 こんなもんか、と怜は息をつく。親しい友人に適当に送るメッセージとはどこか勝手が違って妙に緊張する。
「おう、怜」
 気がつけばすぐそばに中井が立っていた。
「終わったらオレらカラオケ行くんだけどさ、おまえバイトだっけ?」
「ああ…、あーいや、休みになった」
「マジ? 行く?」
「いや…」
 一瞬考えて怜は首を振った。逸巳が終わるまでの間かなり時間はあるが、やりたいことがある。
「あーなに、女?」
 スマホを手にしていた怜を見て中井がにやりと笑った。面倒だと思いながらも、誤解はされたくなくて怜は違うと否定する。
「三沢先輩に連絡したんだよ」
「あーユズの? もう? いつでもいいんじゃね?」
「早い方がいいだろ」
「まあ確かにな」
 中井もスマホを取り出して手早く操作した。校内はスマホの持ち込みは許されているが、使用できるのは授業の合間と終業後だけだ。
「じゃあ先輩もうどっかで待ってんだ?」
「夜な」
 よるう? と中井は眉を顰めた。
「三年授業もう終わってんのに?」
「…は?」
 終わってる? と怜は訊き返した。今五限が終わったばかりだ。十五時にもなっていない。
「短縮だって朝マルボーが言ってたじゃん、なんだっけ? 進路関係のなんとかって。おまえ聞いてなかったのかよ」
 マルボーとは担任のあだ名で、本当は石丸という。ボーがどこから来たのかは怜は知らない。
「もう家じゃん?」
「いや、それはねえ…」
「ふーん? でも帰って出るかもよ?」
 家に帰れないと言っていた逸巳がこんなに早く自宅に帰るとは思えない。塾までの時間、どこかで時間を潰しているはずだ。
 もしかしたら…
「中井、俺帰るわ」
「あ?」
 ちらりと目を落としたメッセージは既読になっていない。
「まだ授業あるじゃん」
「サボる」
「またかよ、あんまやってるとマジで呼び出し食らうぞ」
 ただでさえ目を付けられているのに、という中井の声は無視した。次の授業は数学だ。目ならとっくに付けられているし、なんなら憎まれてもいるだろう。でも、だから何だというのだ。
「関係ねえよ」
 勉強などどうにでもなる。点数さえ落とさなければいいのだ。
 誰にも文句は言わせない。
「おい、怜──」
 中井の声を無視して怜は教室に戻り荷物を鞄に放り込んだ。休み時間の騒がしい教室を出て、足早に昇降口に向かう。靴を履きながら確認したスマホの画面には、まだ既読の文字が見つからなかった。
 正門近くには誰かがいた。まだ授業中だというのに鞄を持っている怜を訝しげに見ている。だが怜は気にせずに門を抜け、逸巳に通話を掛けた。
 

 
 嫌だと思っていることは往々にして現実になることが多いという。
 強く願うほど、近づいてくる。
 そう言ったのは誰だったか。
「あれ、久しぶり」
 マリオンの入り口まであと少しというところで、逸巳は立ち止まった。見覚えのある顔がこちらに近づいてくる。
「最近顔見ないからどうしたのかって思ってたけど、また会えて嬉しいよ」
「……」
「おっと」
 じり、と後退った途端男は逸巳の手首を掴んだ。ぞっと鳥肌が立ったが、振り払うのを我慢する。
 刺激しては駄目だ。
「逃げないで、ね?」
 優し気に微笑む男は明らかに年上だった。二十歳を越えている、大学生──ではない。社会人だ。二十五よりも上…
 今日はスーツを着ていた。濃いグレーの仕立てのよいスーツが見事にその身体にぴたりと合っている。高価そうな生地、手首を掴む上半身から柔らかな香水の香りが漂ってくる。
 逸巳は腕を引いた。
「放してください」
「放したら逃げそうだけど」
「逃げません」
「本当?」
 掴まれた個所から男の体温がじわりと伝わってくる。日陰にいても外の気温は夏と同じくらい暑いのに、その手は妙に冷たかった。
「じゃあ放すけど、逃げるのはナシだよ? この間みたいに」
「……」
 ゆっくりと男は逸巳の手首を解放した。指一本一本動かして放す仕草に、ひやりと背中が冷たくなる。
 逸巳はじっと男を見た。相変わらず人好きのする笑顔を浮かべている。きっと周りからは好青年だと言われているような、そんな男だった。
(…でも)
 でも、決してそうではないことを逸巳は知っている。
「よかった。また逃げられたらどうしようかと思ったよ」
「…逃げてません」
「うそ、いなくなったでしょ?」
「そ…」
 それは。
「約束したのは君だよ? あの女の子の代わりになるって」
「代わりって、それは──」
「今日はどう? 時間あるよね?」
 言いかけた言葉を遮って男はにっこりと笑った。先月の嫌な記憶が蘇る。もっと上手くやれたはずなのに。絡まれていた女子高生を助けて、店員に報告したまではよかったけれど…
「ありません、これから用があるので」
「そう? 今マリオンに入るように見えたけど。おれの見間違いかな」
 路地を入って来る人影が見えた。大学生くらいの二人連れが大きな声で笑い合っている。
 逸巳は男から視線を離さずに言った。
「…もういいですか」
 今しかない。
 近づいてくる笑い声に背中を押されるように逸巳は踵を返した。だが歩き出した瞬間、肩を強く掴まれた。
「用って?」
 ぎこちなく振り返ると男はにこりと笑った。
「あなたに関係ないです」
「まあそうだね、残念だな」
 逸巳たちのすぐそばを大学生たちが通り過ぎていく。笑い声に向きそうになる視線を、逸巳は堪えた。
 少しでも距離を取りたくて身を引くと、肩を掴んでいた手がするりと離れ、今度は二の腕を掴まれる。そして思いきり引き寄せられた。
「──っ」
 息を呑んだ逸巳の顔に、男はぎりぎりまで顔を寄せた。
「じゃあ、次の約束はいつ?」
 近い。
 息が──
「やくそく、なんか──」
「するよね。だってそれが…」
 頬にかかる息にぞくりと悪寒が走ったとき、男の体が目の前から消えた。
「…え?」
 逸巳は目を見開いた。
 さっきまで立ち塞がっていた男は道の上に尻もちをついたように座り込んでいた。スーツの上着は妙な具合に首が抜け、呆気に取られた顔でこちらを見上げている。
「あー悪い」
 すぐそばでした声に、はっと逸巳は顔を上げた。長い髪を掻き上げながら、怜が男を見下ろしていた。
「あんた大丈夫?」
「──」
 なぜ、怜が。
「ご…」
 名前を言ってはいけない気がして逸巳は口を噤んだ。
 怜が逸巳を振り返った。
「電話…、なんで出ねえの?」
 そう言った怜のこめかみから汗が滴り落ちた。


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