あした魔法が解けたなら

宇土為名

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 ああ。
 ああ、なんだ。
 そうか。
 具合が悪いわけじゃない。
 あのときと同じだ。
 やっぱり、と心の奥で誰かが笑う声がした。
『千鶴ちゃんはさ、本当に──』
 そのあとに続いた言葉を思い出し、千鶴は自嘲気味に笑った。
「おまえさ、嘘吐いてまで会社休むなよ」
 部屋着のままの時枝が驚いた顔をする。会社とは違う姿。整えていない髪は緩く額に落ちていて、家の中ではいつもそうだったことを思い出した。
 時枝は瞬きをすると、大きく息を吐いた。スウェットの肩が上下に揺れる。
「なんでここに」
「おまえが言ってたから」
「言ったけど…でも」
 でも。
 来るだなんて思ってなかった、と言外に感じて千鶴は小さく鼻を鳴らした。
「沢村くんが連絡取りたがってた。おまえに今日中に訊かなきゃいけないことがあるって。スマホぐらい見ろよ」
「あ…」
「あとこれ」
 かすかに狼狽えたような時枝を一瞥してから、千鶴は持っていたレジ袋を突き出した。
 早く帰りたい。
 今日もくたくただ。
 帰ってもう何もしたくない。
「調子悪いって聞いたから買って来たけど、無駄だったな」
「千鶴」
「要らないなら捨てろ」
 ぐっと胸に押し付けて手を離した。落ちそうになった袋を咄嗟に時枝が手を伸ばして掴む。それを横目に千鶴は背中を向けた。
「ちょっと、待って…!」
 歩き出した瞬間、肩を掴まれて強引に振り向かされた。
「あの女は」
 は? と千鶴は顔を顰めた。
「どうでもいいよ」
「よくない、俺は…」
「関係ない、って!」
 カッと力任せに時枝の手を払った。思わず大きくなった千鶴の声がコンクリートの廊下に反響する。夜のこんな時間だ、誰かが出てきてもおかしくはない。
 案の定、すぐそばのドアの内側から音がした。
「来て」
 時枝に腕を引っ張られ強引に部屋の中に押し込まれた。同時に隣のドアが開き、悪態を吐く男の声が聞こえてきた。
 息を殺してやり過ごすと、荒々しくドアが閉まった。
「あの人うるさいんだよ」
 耳元で時枝がほっと息を吐いた。
 気付けば、千鶴は時枝に抱きこまれていた。暗く狭い玄関の中で、覆いこむ体温に眩暈がする。離れろ、と千鶴は時枝の胸を押した。
「ごめん」
「帰る」
 ここは息苦しい。
 早く出ないと。
 時枝の腕が離れた隙に身を捩って背を向けた。ドアノブに手を掛けた瞬間、千鶴の手の上から時枝の手のひらが重なった。
「待って」
「おい…っ」
「また怪我したの?」
 甲に貼っている絆創膏に気付いたのか、時枝が声を潜めた。くそ、と胸の中で毒づく。大した怪我でもないのに貼っていた自分が恨めしい。
「おまえに関係ない」
 強引にドアを開けようとするが、手を覆う時枝の力は強かった。
「待って、帰らないで。話がしたい」
「話すことなんかないだろ」
「俺にはあるから」
 ドアノブを握りしめる指の間に、時枝の指が割って入ってくる。
 ぞくりと項の毛が逆立った。
「電話しても出なかったのに、来てくれたのって──」
 ぴたりと背中に寄り添う体温、服越しに時枝の体を感じた瞬間、千鶴はその手を激しく振りほどいた。
「やめろっ…!」
 ドアに背を押し付け向かい合う。
 暗がりの中、叩き落とされた時枝の手が白く宙に浮いている。
 千鶴は肩で息を整えた。
 ここは息が出来ない。
 甘い匂いにくらくらする。あの女の匂いだ。
 帰りたい。
「…っ話なら会社でする」
「千鶴」
 睨みつけた時枝は、もの言いたげにこちらを見下ろしていた。
 その表情に千鶴は苛立った。
 気に入らない。
 なんでそんな目をする?
 なんでそんな傷ついた顔してるんだ?
 俺のほうがよっぽど──
(──)
 そこまで思って千鶴は考えるのをやめた。
「じゃあな」
 今度こそ千鶴は時枝に背を向け、ドアから飛び出した。
 エレベーターを待たずすぐ横の階段を駆け下りる。時枝は追って来なかった。そんなの当り前でそうであるべきだ。拒絶したのは自分なのだから。
 なのに。
「……なんだよ…っ」
 来た道を駅に向かって足早に歩く。
 笑い声が耳の奥で甦る。
 呆れたように笑う。
『本当に馬鹿で、どうしようもないよね』
 思い出したくもないあの声で。


 礼人の家の前で出会った男は、数年後再び千鶴の前に姿を現した。
 長く伸びていた髪を整え、にこやかに笑う姿はまるで別人のようだった。
『…え』
 なんで、と目を丸くすると男は面白そうに笑った。
『意外? オレ先生になるんだよ』
 昔の記憶が強烈過ぎてついていけない。あんな派手な身なりをしていたのに、人は変わるものだ。
 何か言わなければと思うが、何も思いつかず千鶴はただ頷くだけだった。
 はは、と男は愉快そうに声を立てた。口元のふたつのほくろがそれに合わせて揺れた。
『いいね、その反応。ちっちゃいときと全然変わってない』
『……』
 なんだか馬鹿にされた気がして、むっと千鶴は押し黙った。見た目は変わったが中身はきっとそう変わってないのだろう。前に会ったときも散々千鶴を揶揄い、礼人に怒られていた。
 早く教室に戻らなければ授業に遅れそうだ。もういいかと千鶴が男に背を向けると、またね、と声を掛けられた。
『今度礼人と飯でも行こうよ』
『あっ、先生ーっ、こんなとこにいたー』
 ばたばたと、誰かが駆け寄ってくる足音がした。男に親しそうに声を掛ける。おそらく実習先のクラスの女子生徒なのだろう。背中越しに聞こえる弾んだ声に千鶴はうんざりしたため息を吐いた。
 よかった。
 自分のクラスじゃなくて。
 礼人には会いたいが、あいつがいるのは何となく嫌だった。
『もう、安永先生ってばー聞いてるのー?』
『んー? 聞いてる聞いてる』
『はやく!』
 笑い合う声が遠ざかっていく。
 小さく鳴る声を聞きながら、ああ、と千鶴は思った。
 ああ、そうだった。
 あいつの名前、安永だ。
 安永東明やすながはるあき
 笑った目元はちょっと…、ほんのちょっとだけ礼人に似ている。
『…あーくん』
 今頃何してるんだろう?
 教室への階段を昇りながら、ぼんやりと千鶴は礼人の顔を思い出していた。

 ***

 玄関に落ちていた絆創膏を時枝は拾い上げた。
 部屋に上がり、家中に立ち込めた匂いを追い出そうと、時枝は目に付く全部の窓を開けた。夜の少し冷たい空気が、さっと部屋の中を通り過ぎていく。あちこちに澱んだように落ちていた甘い香りが水に溶けたように薄くなり、押し流されて行った。まったく、なんだってこんなことになったんだか。
 それもこれも全部、あの女のせい──いや、自分のせいか。
「……」
 ベランダに出て、煙草を口に咥えた。最近ではすっかり電子に移行しているのだが、たまにこうやって紙煙草が吸いたくなる。やめようと思っているのにやめられなくて、買い物に出るたび、つい一箱買い置くのが癖になっていた。
 千鶴はもう電車に乗っただろうか。
 あの女のことをどう説明すればいいだろう。
 丸一日一緒にいたが何もなかった。
 そんな話を誰が信じる?
「はあ……──」
 俺なら信じないだろうな、と時枝は自嘲気味に笑った。
 煙草を半分まで吸うと、置きっぱなしにいている灰皿にぎゅっと押し付けて消した。部屋に戻ると匂いは随分と薄れていた。
 千鶴が持って来たレジ袋を開ける。
 ゼリー飲料がいくつかとスポーツドリンク。時枝はドリンクを開けて口を付けた。まだ冷えていたそれが喉を下りていく。半分ほど一気飲みして息を吐けば、ひどい頭痛がいくらか引いた気がした。
 まさか家に来るとは思いもしていなかった。
 手を開き、握り込んだままだった絆創膏をじっと眺める。
 明日千鶴は話を聞いてくれるだろうか。
 最後まで、何も言わずに?
「……無理だろ」
 あのまま抱き締めて無理やり部屋に入れることも出来た。でもそんなことをすれば、もう二度と口をきいてもらえないと思った。
 説明はいくらでもしたい。
 こちらを向いてくれるまで何度でも。
 そして、──千鶴がかたくなに言わずにいる別れの理由も聞き出したい。
 だが、その前に時枝にはやることがあった。絆創膏を丁寧に丸め、ゴミ箱に入れた。
「電話どこだよ…」
 今朝からスマホがないのだ。
 会社に掛けたところまでは覚えている。だがその後の記憶がない。
 どこだ?
 女が隠しことは分かっていた。本当にとんでもない女だった。痛む頭を抱えながら探し回り、ようやく見つけたときには真夜中を過ぎていた。キッチンの棚の奥から見つかった。
 ご丁寧にも電源が切られていた。電源を入れ、再起動を待つ。
 換気扇の下でもう一本、時枝は煙草に火を点けた。
 立ち上がった画面には恐ろしいほどの通知が来ていた。それらは一旦無視し、時枝は連絡帳をさかのぼって目当ての番号を見つけた。
 忠告はしておかなければならない。
 そして文句のひとつも言いたい。
 そうでなければ割に合わないからだ。
「おい──」
 長峰が出た瞬間、時枝は沸騰しそうなほど溜まった苛立ちをぶつけた。
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