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しおりを挟む頭の中で警告が鳴っていた。
やめておけ、と。
だがこの衝動を抑えても、元に戻れるわけじゃない。
「…ん、ぅん…っ」
久しぶりに聞く甘い声。どろどろと煮える頭、掠れて途切れる喘ぎが時枝をおかしくする。
壁に押し付けた体を犯したくてたまらない。キスだけじゃ足りない。もっともっと、…
もっと欲しい。
千鶴が悪いのだ。
あんな顔をするから。
あんな、嬉しそうに──笑って。
『悪い、俺先に出るよ』
『え?』
慌てて立ち上がる千鶴に時枝は驚いた。
上着を羽織り片手のスマホを急いで切る仕草に、何事かと視線を向ける。
『社に知り合いが尋ねて来てる。戻らないと』
『じゃあ俺も──』
『いや、いいよ』
立ち上がりかけた時枝を千鶴は見もせずに制した。
『いいからゆっくりしてこい』
そう言って足早に店を出ていった。途中すれ違った店の娘とは愛想よく挨拶をするくせに。
時枝のことは振り返りもしない。
『お仕事忙しそうですねー』
傍を通りかかった彼女が訳知り顔で言う。
そうですね、と返し時枝はコーヒーを一気に飲み干した。
そして後を追うように店を出て、戻って来てみれば…
「あいつが初めて?」
ちがう、と千鶴の唇が動く。
掠れた声に上がっていく体温。時枝は千鶴の尻を鷲掴みにし、揃えた指先をその奥に入れた。跳ねる体を抑え込むと、綾人、と千鶴は言った。
背中に縋りつかれ、立てられた爪の痛みに胸が締め付けられる。
こんなに。
「本当に?」
「そう、だって…っ! 言って…、あ、ア…ッ」
その声をもっと引き出したくてスラックス越しに奥を撫でた。円を描くように触れ、ノックをする。強く弱く、また強く。そして押し込むようにぐっと力を籠めると、千鶴が引き攣れた声で震えた。
「…そうだよね」
もっと、俺に縋って。
もっと──もっと。
「んっ…」
「最初に千鶴を気持ちよくさせたのは、俺だもんね?」
あんな男なんかよりずっと俺のほうがいい。幼馴染だか何だか知らないが、千鶴をここまで感じさせるようにしたのは俺だ。
「あ、あ、っア、ンんん…―、っ」
怖がっていた千鶴を解したのも俺なのに。
(それなのになんで…)
理由も言わず一方的に別れるなんて時枝はまだ認めていなかった。
駄目だ。
絶対に嫌だ。
「ん、ぅ───」
千鶴の胸をきつく摘まみ上げる。
塞いだ口の中に千鶴の悲鳴がこだまする。時枝はそれを飲み込み絶頂に硬直し震える体を力いっぱい抱き締めた。
「…かわいい」
可愛い。
可愛い。
「は…、あ…っ、ぁ…っ」
俺の、俺だけのもの。
こんなに好きなのにどうして──
「千鶴──」
汗の浮いた首筋を舐めた。腕の中で感じている体が愛おしい。震えのおさまらない唇にもう一度キスをしようとしたとき、激しい痛みが頬に走った。
***
黙って話を聞いていた男が、やおらに口を開いて言った。
「…おまえ、馬鹿なんじゃないか?」
冷ややかな声に時枝は息を詰めた。その後に続く呆れ混じりのため息とともに、湧き上がる後悔に押し潰されそうになる。
そんなこと言われずとも分かっている。
「分かっててやってるならどうしようもないな」
時枝の顔色を見て察したのか、男は嫌味のように言った。誰かの声に彼は振り向くと、時枝を放り、カウンターの中をそちらのほうに歩いていく。
ざわめく人の動き。
聞き取れるか聞き取れないくらいの声量の話し声。ひそかな笑い。
ここは先日時枝が女に絡まれた店だった。
大阪に行くまで、時枝はこの店の常連だった。店というよりは、知った顔がいるからという理由なのだが。
「で?」
グラスを新しいものに取り換えられる。琥珀色の液体に黄金比で乗った柔らかな泡。相変わらず酒を作るのだけは腕のいい男だと時枝は思った。
「で、って?」
「それからどうしたんだ」
長い前髪は今時の流行りなのか、その隙間からじっと見下ろしてくる。真っ黒な髪に片耳だけびっしりと付けたピアス。およそ碌でもない人間の典型のようなこの男とは、別の店で知り合った。
その腕を見込まれた男がこの店に移ってからも、何かと縁は続いている。
「どうしたもこうしたもねえよ」
「逃げられたか」
「……」
「まあそりゃそうだな」
男を睨みつけると、かすかな笑みを浮かべて他の客のところに行った。カウンターの端で飲んでいた女は男に気があるようで、さっきから何度も彼のことを呼んでいる。
それを横目で眺めながら、時枝はグラスに口を付けた。滑らかなビールの泡が唇に付くのを舐め取る。頬の内側が少し滲みて、顔を顰めた。
千鶴に殴られたとき、運悪く歯で切ったのだ。
「……」
馬鹿なことをしたと自分でも分かっている。
どうしてあんなに頭に血が上ってしまったのだろう。
何の余裕もなかった。
全然、全く──しかも会社の中で。
「……最低だな」
男に言われるまでもない。
時枝を殴ったあと、千鶴は資料室から出て行った。我に返り追いかけようとしてやめ、落ち着いてから戻ったフロアにはいつもの千鶴がいた。
勤務中だ。それは当たり前なのだ。
だが一切目を合せなくなった。まるでそこにいないかのように振る舞われ、退勤時間を迎えた。
千鶴に謝りたいが、何度掛けても電話には出てくれなかった。多分今頃は、あの由良とかいう幼馴染と一緒にいるから、出たとしてもそんな話は出来ないだろう。
自分と同じ名前の幼馴染。
時枝の知らない千鶴を知る男。
「で?」
「『で?』」
「で? いつになったらその彼氏拝ませてくれんの?」
「は? 見せねえよ…」
「もう三年だぞ」
「関係ねえだろ」
「は? 人がこんなに親身に相談に乗ってやってるのに?」
親身かどうかは知らないが、確かに男にはずっと話を聞いてもらっていた。同じ趣味嗜好を持つ者は少ない。男も時枝と同じバイセクシャルだ。どちらかと言えば、男のほうに比重はあるようだが。
「そのうち」
「期待しとくよ」
何の期待だ、と時枝は男を睨んだ。さもおかしそうに男は肩を竦め、目を細めて笑った。
「長峰くーん」
カウンターの端からまた女が彼を呼んだ。長峰、と呼ばれた男はそちらに向かう。一瞬小さく聞こえた舌打ちは空耳ではないはずだ。
女と長峰のやり取りを見ながら本当に禄でもないんだろうな、と時枝は思う。あんなやつに千鶴を合せることなんて出来ない。他の誰も、千鶴に触って欲しくない。
「……」
腕に残る感触。千鶴をあんなに泣かせることが出来るのは俺だけだ。俺が、怖がる千鶴をゆっくりと解きほぐし、慣れさせたのだ。
『こわい、…俺、おれ』
『大丈夫だよ、大丈夫、先輩…俺がするから、ね?』
初めてその身体に触れたとき、千鶴は怯えていた。
誰とも付き合ったことがないと言っていた。
最初だからそうなのだろうと思っていたが、やがてそうではないことに時枝は気がついた。
千鶴は未経験ではなかった。
『あ、…っ、あ、あ…だめ、』
誰かに抱かれたことがある。
それもおそらく、酷い抱き方で。
無理やりに千鶴を暴いたのだ。
『大丈夫、ね、…大丈夫』
『いぁあ、とき…っ、ん、んっ…あやとぉ…っ』
だからそれを上書きするように優しくした。
大事に、大事にしてたのに。
「くそ…っ」
ぬるくなったビールを一気に煽る。
はしゃいだような女の声に苛々する。
千鶴も今あんなふうに笑ってるんだろうか。
あいつの傍で?
由良礼人。
小学校教師の幼馴染。
優しそうな男だった。だがそれが何になる? 見た目でその人間の中身までが分かるなら誰も苦労などしない。
違うと千鶴は言ったが…
本当にそうなのか?
***
は、と千鶴は顔を上げた。
「え?」
「どうかした?」
心配そうな顔でこちらを見る礼人に、ああそうだった、と千鶴は思った。向き合ったテーブルの上に広がる色とりどりの食べ物。
今自分は礼人と一緒にいるのだ。
「なんでもない」
「仕事終わりだからね、疲れてる?」
まるで子供のように心配する礼人に千鶴は笑った。
「あのさ、俺もう二十九なんだけど」
「大きくなったねえ」
「そうじゃないって」
子供の頃の三歳差は十も離れているように感じたが、今では違う。ほとんど同い年と言っても分かりはしないのに、礼人にとって千鶴は永遠に小さな子供のままのようだ。
「ああ、ごめん」
つい、と礼人は笑って烏龍茶を飲んだ。少し値の張る和食店に来ているのだが、千鶴も礼人もソフトドリンクだった。酒を飲まないのかと問うた千鶴に、礼人はこのあと人に会う予定がある、と言っていた。
「それで、なんだっけ」
話の途中からぼんやりしてしまって、千鶴はまともに内容を聞いていなかった。礼人と会話しているのになぜか時枝のことを思い出してしまって、気が散ってしょうがない。
(…くそ、あいつ)
昼間あんなことをされたからだ。
よりにもよって社内で。
(何考えてるんだよ…!)
『待っ…、千鶴っ』
殴りつけたあと時枝は我に返ったように千鶴を追ってこようとしたが、実際追いかけては来なかった。
何を考えているのか本当によく分からない。
「……」
ああ駄目だ、と千鶴は礼人に気付かれぬように嘆息する。時枝の顔を押しやり、目の前の礼人に集中した。
「だから、秋にはこっちに転職になると思う」
礼人は今私立の小学校に勤めているが、同じ系列の小学校から人手が足りないから来てくれと打診されたようだった。
そう、その話をしていたのだ。
今日こちらに来たのも、その下見だったという。
「そっか。住むところとかもう決めた?」
頷きながら料理に箸をつけた。礼人が来ると言った時期は例年に漏れず秋の引っ越しシーズンと被っている。いい物件はすぐになくなるため、早めに見つけておくのがいい。
「うん、大体はね」
「そうなんだ?」
烏龍茶を飲み、礼人は頷いた。
「知ってるやつがこっちにいるから、いいところ教えて貰って」
「知り合い?」
「ああ、実は親戚」
「──」
覚えてるかな、という礼人の言葉に、千鶴の心臓がどくん、と鳴った。
親戚。
「しんせき…?」
「って言っても死ぬほど遠い親戚だけどね。ほら、ちづが受験の年だったかな──」
そう言った礼人の言葉がゆっくりと遠くなる。
その夏がとても暑かったことを千鶴は覚えている。
覚えてる。
忘れたくても無理だった。
その人の顔も。
その痛みも──
『千鶴ちゃん?』
呪いをかけた、あの声も。
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