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しおりを挟む雨の音がする。
ああ、また雨が降り出したのかと南人は思った。
なのに月が出ていた。
おかしなものだ。
障子の向こうに誰かがいる。
じっと、もの言いたげにしてこちらを見ていた。
暗いのは怖くない。
怖いのは、いなくなること。
いなくなった人は帰って来ない。
おばあちゃんも帰って来なかった。
「えくぼー、まってえ」
小さな雨が降る森の中をえくぼが時々振り返りながら歩いて行く。おいでと招かれているようで、青衣は後をついて行った。
不思議とえくぼの周りは明るかった。
体の中に明かりを飲み込んでいるように、茶色の毛が、内側から金色にほのかに光っている。
「えくぼ、きれいだね、おつきさまみたいだねー」
えくぼは振り返って目を細め、にゃあと鳴いた。
長い尻尾がゆらゆら揺れる。青衣は手を繋ぐようにそれを握った。
さっきまで握っていたみーくんの手は温かかった。
離してしまって、少し寂しいと思った。
***
なぜ、目が覚めたのだろう。
目頭に溜まっていた涙が零れる。
「……」
柔らかな橙色の光が部屋に満ちていた。
そうだ、明かりはつけたままだったのだと南人は思った。青衣が怖がるといけないから…
青衣。
はっと南人は半身を起こした。
左手の中にあったはずの温もりがない。手を伸ばして辺りを探る。もぐっているのだろうか。けれど、柔らかな布団はかすかな暖かさだけを残して、ぺたんと潰れた。
いない。
青衣が──
トイレに行ったのだろうか。
南人は腹の上に乗った衿久の腕をそっとどけた。
衿久はよく眠っていた。きっと今日1日で疲れているのだと、起こさないよう静かに立ち上がり、部屋を出た。
廊下にも明かりはつけてあった。
夜中に起きた青衣がトイレに行くとき、怖がらせてはいけないと思ったから。
「……青衣?」
小さく廊下の先に声を掛ける。
家の中はかすかな雨の音で満ちていた。
しんと冷えた空気に心臓が音を立てる。
トイレに青衣はいなかった。
リビングだろうか。
南人は引き返してリビングに向かった。
「青衣…?」
開けたままにしていた扉から中を覗く。リビングは窓際のランプをひとつ点けておいた。
たくさんのぬいぐるみが、淡い光の中でじっと息を潜めるようにそこにある。夕食を食べたローテーブルの上には、寝る前まで遊んでいた青衣が並べたぬいぐるみがそのままに置かれていた。
ぱち、と暖炉の中で灰に埋もれた残り火が弾けた。
南人はそれをじっと見つめる。
そういえば、目覚める前に何かの音を聞いたと思った。
あれはなんだったのだろう?
「青衣──」
キッチンの方に行こうとして、足先に何かが引っかかった。見れば、それはアシカのぬいぐるみだった。
「──」
──えくぼ、えくぼはどこだ?
姿が見当たらない。南人は辺りを見回した。ふわふわの影たち、その中から光る目を捜す。
「…えくぼ」
かたん、とどこかが音を立てた。
南人は顔を上げた。
音はキッチンの奥の勝手口から聞こえていた。
***
しつこく鳴り続ける携帯電話の音に、舌打ちをしたい気分で奥村は手を止めた。
表示は会社からだった。
一体誰だ?
時計を見れば深夜を回っていた。終わらない仕事に切りをつけようとしているうちに、時間を忘れて没頭していたと気づく。
しかし、こんな時間に鳴る電話にろくなことなどない。
「はい?」
眼鏡を外し、両の目頭をもみほぐしながら、奥村は電話に出た。
『社長──』
聞こえてくる声はひどく焦っていた。話し始めた内容に、次第に眉間の皺が深くなっていく。
雨は冷たかった。
冷たい霧雨が髪を濡らす。
鼓動が耳元までせり上がってくる。
どくん、どくん、と嫌な音を立てる。
「青衣!」
南人は思いつくままに勝手口から外に出て、散策路まで行き辺りを見回した。誰もいない。直感的にこちらではないような気がした。引き返し、家の奥の茂みの中に分け入った。
柔らかく積もった枯れ葉の上を踏む。濡れて滑りやすい。
南人は裸足だった。
むせ返るような土の匂い、それに混じる雨の匂い。
「青衣…!」
こんな夜中にどこに行ったというのだろう。
えくぼは一緒にいるのか。
せめて一緒にいて欲しいと思った。
せめて、傍に。
あの子の傍に。
「あおいー!」
どうして雨なのだろう。
こんなときこそ月が出ていればいいのに。
額の髪から落ちる雫を払って南人は進んだ。
家に帰りたいと望み、そして迷子になったのなら、きっとこの奥にいる。
近道をしようとして──
南人は衿久の家の方角へと向かった。この先は斜面があるはずだ。緩やかな下り、それを越えた向こうを車道が走っている。もしもこの考えが合っているのなら、青衣がそこに辿り着く前に見つけなければ。
「……」
衿久を起こせばよかっただろうか。
だが今さら、戻っている時間はなかった。
ひたすらに足を動かした。
濡れて重く、足に纏わりつく寝巻きに苛立った。
何かを感じた。
誰かがいる。
顔を上げたとき、ほのかな光が闇に沈む木立の中を、一瞬過った。
何かに急かされるように衿久は目が覚めた。
水面の上を揺らいでいるような感覚。
水──雨の音。
「──え?」
掠れた声がやけに響いた。
部屋には衿久ひとりだけだ。
横にある布団の膨らみの中は何もなかった。その隣にも誰もいない。
「南人?…青衣?」
青衣をトイレにでも連れて行ったのだろうか。
何かが聞こえる。
布団から出て、衿久はドアを開けた。
電話が鳴っていた。
霧雨の中で蠢く黒い影の表面が、光にぬらりと反射する。ビニール素材の大きな雨合羽を纏っているのは、青衣ではない。
斜面まであと5メートルほどというところだった。暗がりの先に、壊れた有刺鉄線が見える。人がひとり通れそうなくらいの隙間が空いていた。
その影は大きなシャベルで足下の土を掘り返していた。体は穴の中にあり、膝から下が見えない。
ざっ、ざっ、と音がした。
掘り起こされた土の匂いだ。
「──何をしている」
南人が声を掛けると、バッと、影が振り向いた。首から下げた懐中電灯が大きく揺れて、光を足下に躍らせる。
「何をしているんだ?」
体格から、南人は相手が男だと思った。影が雨合羽のフードを無造作に外す。現れた顔は、やはり男だった。男の口元から白い息が上がる。
「…あんた、なんだ?」
「ここの持ち主だ。ここは私有地で、立ち入りは許されていない」
濡れた髪の隙間から、男の目が南人を上から下まで舐めるようにゆっくりと動いた。
「へえ…それは悪かった」
シャベルを下ろした男が、穴から出てくる。背はそれほど高くはない。南人よりも低いか、同じくらいだった。歳は若そうだが、荒んだ気配がした。
「ここ、もうすぐ売られんだろ」
「ああ」
「そう聞いてさ、昔埋めたもんを取りに来たんだけどなあ…」
男は足先で掘り起こした土を蹴って穴に落とした。本気で埋め戻そうとは思っていないのが分かった。
「あんたは?こんな夜にさ、そんな恰好で何してんの」
男は口の端を持ち上げて、薄く笑った。
気味の悪いその笑い顔を南人はじっと見た。
「おまえには関係ない」
「そりゃそうだ…あんたの土地だもんな?」
長く生きてきて、様々な人と出会った。様々な人がいた。様々な、中には、人に言えないような秘密を隠して生きる者もいた。
男はその者たちと同じ目をしていた。暗い目だ。
この男は秘密がある。
あの足下の穴の中に、誰にも言えないような秘密を隠している。
大体の想像はつく気がしたが、今はどうでもよかった。
いずれ暴かれるときは来る。
南人はさっと辺りを見回した。青衣はきっと別のところを通ったに違いない。引き返すより、あの斜面を下って行く方が早いはず。
このまま男の横を通るしかない。
にやついた笑いを男は浮かべていた。
「用が済んだのなら帰れ」
南人は少し距離を取り、男を見ながら横を通った。通り過ぎたところで足の下で枯れ枝を踏み折り、一瞬目が逸れた。
「──」
鋭い舌打ちが耳元で聞こえ、南人は振り返った。激しい痛みが左腕に走り、男の胸の前で乱反射する光に目が眩んだ。
暗い道を歩きながら、左手を青衣は見た。
みーくんと繋いでいた手は反対の手だ。今はえくぼの尻尾を握っている。えくぼは青衣に寄り添うように、真横を歩いていた。
森の中では家に帰る道が分からなかった。どうしようかと迷っていると、えくぼが青衣の前を歩いて教えてくれた。明かりを体の中に宿して、何度も振り返って待ってくれた。やがて森を抜け、普通の道に出た。見覚えのある道は、兄と一緒に昼間歩いてきた道に見えた。
えくぼ、すごいね、と撫でてやると、喉をごろごろ言わせてえくぼが青衣の手に頭を擦りつけた。雨に濡れて冷たくて、パジャマの裾で拭ってあげた。
「おうちにね、おくすりあるの。おばあちゃんの」
みーくんは眠りながら泣いていた。
どこか痛いのかな、と思った。
だから青衣はおうちに取りに行くことにした。
おばあちゃんのおくすりはお庭にある。
いつも青衣を治してくれた。
だからきっとみーくんも治してくれる、そう青衣は思ったのだ。
降り降ろされるシャベルから咄嗟に頭を庇った左腕が、嫌な音を立てた。息が止まりそうなほどの痛みと衝撃に、南人は土の上に倒れ込んだ。
「チッ」
男はまたシャベルを振り上げた。無言で振り下ろされるそれを、南人は体を丸め反転して避ける。向かってくる男の足を払った。
「くそ…ッ!」
男が倒れた隙に南人は起き上がり、よろめきながら斜面の下り口を目指した。降り積もった枯れ葉に足を取られ思うように進まない。倒れた男が這いずって追いすがり、南人の足を掴んだ。
「離せ!」
男の顔を南人は思い切り蹴り飛ばした。男は仰のき、掴んだ指が緩んだ。南人は足を引き抜いて這いながら立ち上がり、走った。あとほんの少しだ。
「待て!このクソがああ!」
男も立ち上がり追いかけてくる。南人は振り返らずに走った。滑る足に転びそうになる。左腕は肩からぶらんと下がったまま持ち上げることさえ出来ない。
青衣、どこにいるんだ。
雨に滲む視界がぶれていく。
どこかで月が光っている。
「アアあああ!」
有刺鉄線を越えた瞬間、叫びながら男が追いつき、南人の寝巻きの背中を強く引っ張った。南人は肩越しに振り返る。男の手にシャベルはない。狂気を孕んだ男の目が懐中電灯の光を映し込み、煌めいている。
星だ。
ああ、星のようだと南人は思った。
あの夜──
橘花の瞳の中にあったあの星のようだ。
踵ががくんと下がった。
そこは斜面だった。
後ろ向きに南人は体を倒し、男の腕を掴み引き寄せた。男が目を見開いた。
「おまえ──」
そのまま、ふたつの体は斜面を落ちていった。
***
記憶の蓋が開いている。
月の夜だ。
南人は自分の泣き叫ぶ声を聞いた。
『きっか、きっか、駄目だ、目を開けろ!』
白々とした闇の中で蹲っているかつての自分がいた。今とほとんど変わらぬ姿に、これは紛れもない自分だと確信する。
その腕の中には小さな体があった。
傍らにはもうひとり、男が膝をついている。奥村の父親だ。その姿は今の奥村よりも若く、やはり面影がよく似ていた。奥村は腹を血に染めていた。
そして、かつての南人も背中に傷を負っていた。
『南人様、揺らしてはいけない、さあ下ろして下さい』
奥村が差し出した手が、南人には見えていないようだった。
『きっか…!』
橘花の小さな声がした。
おじいさま、というあの声を南人は覚えている。
南人と橘花は、あの夜、事故にあった。
離れの解体作業を明日に控え、作業がしやすいようにと森の中の木を伐採し、道を切り開いていた。
それがいけなかったのか。
聞きつけた近所の裕福な若者が親の車を盗み出し、仲間とともに酒の勢いに任せて森の中を走り回っていた。到底町の中ではありえないほどの速度で。
そしてたちの悪いことに猟銃を持ち出していたのだ。
若者たちは走りながら車の窓を開け、何発か銃を放った。
目当てのものがあったわけではない。
ただ闇に向かって撃った。
それが運悪く、騒ぎを聞きつけ、外に出て様子を見に行こうとした奥村に当たった。奥村は当時同じ敷地の外れに妻とともに住んでいた。
銃声の音に、橘花と南人は立ち止まった。
近いと感じて南人は橘花の手を引いて家に戻ろうとした。
時々猟場遊びをする若者が森に侵入するという話は奥村から聞かされていた。
『戻ろう、騒ぎが収まるまで家の中に──』
その瞬間、轟音とともに、低木を突き破って何かが飛びかかって来たのだ。
腕の中から零れ落ちていく。
橘花の血が南人の体を濡らしていく。
南人は橘花の名を叫び続けた。
日置のときと同じように。
その声を聞きつけて、ふらつく足で奥村が南人を捜し当ててくれた。
奥村の腹は血に染まっていた。若者たちが面白半分に闇雲に撃った銃弾が木に跳ね返り、それが当たったのだった。
『ああなんてことだ…医者を呼びます、南人様…!どうかこちらに』
南人は橘花を離さなかった。腕の中に抱いたまま、泣き叫び、黒い瞳の中の星を見ていた。
薄く開いた唇が花のように笑う。
南人を呼んで、ぱたりと腕が落ちた瞬間、目の前が白く弾けた。その光の中で、南人は2度目の力を解放した。
***
はじめ奥村が何を言っているのか、衿久にはよく分からなかった。南人の仕事部屋のライティングデスクにある電話の向こうで、奥村の声は少し焦っていた。
『西の端の有刺鉄線が故意に切断されていると連絡があったんだが、何も変わりはないかな』
「変わりは、って…いや、それが──」
『南人さんは眠っているのか?』
どうした、と奥村が続け、「故意に」と言う意味がじわりと衿久の中に染み込んでくる。
誰かが森の中にいるのだ。
コートの袖に手を通しながら、衿久は言った。
「いません。うちの妹も。一緒に外に出たらしい。今、見てきます」
奥村が息を呑んだ。
「西の端って、この家の奥ですね?」
先日南人が立っていた、あの先。
そうだ、と奥村の返事が聞こえるなり、衿久は電話を切った。
むせ返る土と雨の匂いに、南人は目を開けた。体を起こそうとして、全身に痛みが走る。
そうだと思い出す。斜面に身を投げ出し、落ちたのだ。
男と一緒に。
這うようにしてどうにか身を起こすと、男は南人から少し離れたところに仰向けに倒れていた。雨合羽に雨の当たる音が聞こえてくる。そっと近づき口元に手をかざすと息をしていた。気を失っているだけだ。
ここはどのあたりだろう。
傍の木に右手で掴まりながら立ち上がると、目の前に歩道との境のフェンスがあった。一部が切り取られ、大きく穴が開いている。どうやら男はここから入って来たようだった。
南人はフェンスの穴をくぐって歩道に出た。
車道が横切っている。
衿久の家に続く道だ。
「あおい…?」
人気のない歩道を見回す。この辺りは民家もなく、外灯が極端に少ない。
暗闇に慣れた目で、南人は目を凝らした。
雨に濡れた体が重い。
痛みは肺を突き刺すように繰り返しやってくる。左腕以外にもどこかを折っているのかもしれなかった。
だがどうでもいいと思った。
こんな体など、どうでもいい。
車道を挟んで向かいの歩道を、なにかぼんやりした光が動いていた。
その横を歩いているのは…
「青衣!」
光が立ち止まった。
光っているのはえくぼだった。
「あ、みーくん!」
青衣が手を振った。
「青衣、なにしてるんだ!」
青衣は満面の笑みでこちらに駆けてきた。南人も迎えに行こうと足を踏み出す。
「みーくんあのね、青衣ね──」
気がついたときには遅かった。
すぐ近くに眩しいほどの車の光が迫って来ていた。
小さな月が過る。
誰かが叫んでいた。
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