暁が燃えるとき

宇土為名

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 腕の中で僕はもがいた。
「…常盤くん、離し…っ」
「ごめん」
 常盤は僕をきつく抱き締めていた。背中から回る腕がもがく僕を離すまいと、僕の肩を抱え込んでいく。その体にすっぽりと収まってしまう体格差が恨めしい。
 こんなことはとても無理だ。
 常盤の体温を間近に感じることに、耐えきれる自信などなかった。
「…嫌だ…!」
 うなじに常盤は顔を埋めた。
「直さん──ごめん、少しだけ…」
 少しだけでいいから、と落ちてきた囁きに僕はようやくそこから抜け出そうとするのをやめた。
「逃げないで」
 常盤の声は震えていた。
 体から力を抜くと、それに気づいた常盤が僕を胸の中に閉じ込めるようにさらに腕を回した。胸の前で交差した腕、彼の髪が耳元をくすぐった。安堵したように深く彼は息をついた。
 重なった場所から少し早い鼓動が響いてくる。
 僕の、あるいは常盤の。
 宥めるように唇で肩を辿っていく。
「頼むから…話を聞いてくれ」
 やがて僕の髪に口づけながら常盤はそう言った。

***

 3度目に同じ場所でその人を見たとき、ついに常盤は自分から声を掛けていた。
『何か見えますか?』
 穴を覗いていたその人は、ゆっくりと振り返った。
『いいえ何も』
 まるで以前からの知り合いであったかのように彼女は常盤に微笑んだ。
『見たいと思うものは目に見えないものね』
 謎かけのようだった。
 その次も、その次も、常盤が城址跡を訪れると、いつも彼女は同じ場所にいた。毎日来ているのかもしれない。撮影を終え、機材を抱えて帰ろうとして、常盤は彼女に声を掛けた。
『何か見えましたか?』
 前と同じように彼女は言った。
『いいえ何も、見えないわね』
『…誰かを待ってるんですか?』
 ふと思いついて常盤は尋ねた。
『あなたはカメラマンなの?』
 そのとき初めて常盤の姿をじっくりと眺めてから、彼女は言った。
 ええまあ、と常盤は頷いた。
 父親がそうだったから、その背中を見て興味を持って進んだ道だった。
『父親が死んだんで戻って来たんです』
 なぜそんなことを言ったのか分からない。
 一、二度口を利いただけの相手にする話でもなかった。
『そう』
 案の定大して関心もなさそうにその人は言った。反応を期待したわけでもない。常盤は立ち去ろうと踵を返した。
『私も大事な人を失くしたわ、ここで』
『──え?』
 振り返ると、彼女はまっすぐに常盤を見ていた。
『今も捜しているの』
 彼女は明日香真紀と自分を名乗った。


 互いの事情を話すのに時間はかからなかった。
 そうして常盤は父親が撮った写真を彼女に見せた。明日香に見せながら、自分自身もまた父親の足跡を辿っていく。生涯を小さな写真屋の主人として生きてきた父親の仕事ぶりを、誰かに見てもらいたいと言う単純な気持ちからだった。
 その中で明日香の手が止まった一枚があった。
『これ──』
 仕事の電話で席を外していた常盤が戻ってくると、写真館の応接セットに座った明日香が息を呑んでいた。手には一枚の写真があった。
 ああ、と常盤は言った。
『それ親父の遺品整理してたら出て来たやつなんだ。何か後で送るつもりだったみたいだけど忘れてたみたいで…』
 そこまで話して、常盤は彼女の様子がおかしいことに気がついた。
『真紀さん?』
『…見つけたわ』
 裏返した写真を見つめたまま明日香は呟いた。
 そこには父親の字で何かが書き記されていた。
『これが私が見たいと思っていたものだわ』

***

 明日香さんは常盤の所で愛の写真を見つけた。常盤の父親が記していた日付けは、愛がいなくなった当日のものだった。
 彼女はこれを運命だと思った。
 3年間何の手がかりもなかったのだ。確かに、僕でもきっとそう思うだろう。
 そして明日香さんはその写真を茅山に送りつけることにした。茅山が愛を手に掛けたという明確な証拠は何もない、ただ、愛の口からその日会うと聞かされていたからだ。
 彼女にとってはそれで充分だったのだろう。
 違っていればそれでいい。
 だがもしも自分の考えが当たっていれば──
 茅山が死んだとき、彼女は何を思ったのだろう。
 

 僕は黙り込んだ。
 常盤も何も言わなかった。
 いつの間にか窓から入る日差しは傾いて、部屋の奥にまで届いていた。彼女が出て行ってから時間が随分過ぎたのだと分かった。
 僕たちは床の上に向き合って座っていた。
 やがて常盤が言った。
「真紀さんとは茅山さんが死んだ後から連絡が取れなくなったんだ。家に行ってみたら農園も何もかも売り払った後で、もぬけの殻だった。それから必死で捜して…1週間前に向こうから連絡があった」
 1週間前、僕は何をしていただろう。
 藤川とのことがあった。そう──確か、常盤に電話をした…
 僕の顔を見て、常盤が少しだけ困ったように微笑んだ。
「あのとき真紀さんから連絡があった後で、俺は直さんに本当のことを言おうと思ったんだ。でも、電話切られたから…」
「……ごめん」
「電源も落としただろ?」
 俯いた顔を覗き込むようにされて目を逸らすと、掠れた笑いを常盤は零した。
「真紀さんは、直さんが今日来るって知らなかったよ」
「え…?」
 顔を上げると、常盤は笑みを消して、じっと僕を見つめていた。
「真紀さんは出発の日を俺に教えてくれたけど、直さんを連れてこいとは言わなかったよ。でも俺は直さんを、あの人にどうしても会わせたかった」
「どうして…なんで?」
「会って、言って欲しかった。知って欲しかった」
 常盤がそっと僕の手を握り持ち上げた。
「妹に言いたかったことを真紀さんに言って欲しかったんだ」
 僕が妹に言いたかったこと。
 僕がずっと愛に言いたかったこと。
 言えずにいたこと。
 愛がいなくなる前、僕たちは喧嘩をした。
 僕の部屋に入り浸る愛を僕は叱った。
『来ていいって言ったけど来過ぎだよ。しばらく来るな』
 だって、と言う愛の言葉を僕は遮った。
『おまえの家はここじゃないだろ』
 酷い兄だった。
 どうしてあんなことが言えたんだろう。
 僕は本当に自分のことばかりだ。
 愛がいなくなったと知らされたとき、僕は自分のせいだと思った。そして、何もかもに蓋をして、忘れたふりをしていたのだ。
 今までずっと。
 頬を常盤に撫でられて、自分が泣いていることに気づいた。
「直さん…自分を責めるのはもうやめろよ」
 嗚咽が零れそうになり、みっともなくて唇を噛んでいるとそこをそっと辿られた。
「もういいだろ?直さんのせいじゃない。あんたの妹は自分で決めて行動したんだ」
 唇の端から涙が入ってくる。
「でも明日香さんは僕が来るって分かってた…」
 ドアを開けたとき、彼女は僕を見て驚きもしなかった。テーブルの上に用意された3人分のカップ、別れ際に置いて行った妹の日記。
 僕が来ることを知らなければ出来ないことだ。
「あの人はずっと誰かに責められたがってた。多分、直さんに」
 両手で僕の頬を拭う。常盤の視線が落ちていくものを追って動いた。
「だから俺に言えば直さんを連れて来るだろうって思ってたんだろうな」
「…ずるいな」
 ああ、と常盤が苦笑した。
「そうだよ、すごくずるい人だ」
 愛を失ったことで生まれた──あるいは愛を引き受けたことでずっと自分の中にあった罪悪感を、僕をなじり、煽り、怒りを自分に向けさせることで、消して欲しかったのだろうか。見て見ぬふりをすることが出来ないのなら、いっそ、断罪されたいと。
 常盤が言い合う僕たちを止めに入ったとき、視線だけで制したあの行動が、多くを物語っているように思えた。
「俺にはこんなことしか出来ない」
 上着のポケットから常盤は封筒を取り出して、僕の手に握らせた。
「あんたの妹が直さんに書いた手紙だ」
「え──」
「真紀さんはこの手紙のことを知らない。だからずっと渡せなくて…必ず会って全部話してからにしようと思ってた。遅くなってごめん」
 手の中の封筒を僕は見つめた。
「どうして、明日香さんに言わなかったんだ?」
「これは直さんのものだろ。妹が直さんだけに宛てたものだ」
 封筒の中には便箋が1枚入っていた。取り出す指先が震える。
 ゆっくりと開いた。


  直へ

  元気にしてますか。
  きっと怒ってるだろうなあ。
  たくさんごめんね。
  でも私が自分で決めたことです。
  自分が望んだことです。
  私のことは大丈夫です。優しい人と一緒に
  いるよ。
  直にも本当に欲しいものを欲しいと言え
  るときが来ます。
  きっと必ず。
  直のこと毎日思い出します。 
  ちゃんと笑ってますか?
  でもうまく笑えなくていつも照れていた
  直が好きです。
  祈っています。いつも直が笑えるように。
        
                愛

 便箋を持つ手が震えた。
 確かにこれは妹の書いたものだった。
 どうしようもなく涙が落ちていく。
 本当に欲しいもの、その言葉だけで愛が何を言っているのかが分かる。
 僕が本当に欲しかったもの。

 夕焼けに染まった教室。
 窓の外を誰かが笑いながら走っていった。
『直くんはいいなあ、わたしもそんなふうになりたかったな』
 閉じてしまったドアを見つめる。
 明日香さんは何を欲しがったのだろう。
 僕は彼女に聞くべきだった。
 あなたの望むものは手に入ったのかと。

「…ア、…っ」
 堪えきれなくなった嗚咽が零れていく。
 常盤が僕を抱きしめた。抱きすくめられ、宥めるように背中を撫でられる。
「泣かないで…ごめん、──ごめん、こんなに遅くなって」
 泣きたくない。こんなみっともない──でも一度決壊した涙は止まる気配もなく、後から後から溢れ出てきた。
 どうしようもない。
「会いたかった。ずっと会いたかったよ」
 僕の背を擦りながら常盤が呟く。僕の髪に口づけ、耳元に頬を擦りつけ、まるで大きな犬が主人を慰めているかのようだ。
「直さんが好きなんだ」
 耳元で囁かれ、ひく、と僕の喉が引き攣った。
 常盤の大きな手が僕の後頭部を撫で、自分の肩口に僕を押し付ける。涙が服に染み込み、濡れていくのが分かった。
 僕は彼の服を握りしめていた。
 首を振る。
「きみは僕に引きずられてるだけだ…」
「違う、そんなわけないだろ」
 肩を掴まれて体を離された。見られたくなくて俯いていると、顎を取られ、顔を上げさせられた。
「俺を見て」
「…嫌だ」
「直さんが好きだよ」
 背けた目を追って覗き込み、常盤は言った。
 滲んだ視界の中になぜか藤川の顔がちらついて、僕は目を伏せた。
「僕がきみをそうさせたんだ」
「直」
「きみだって本当は女の子の方がいいに決まってる。いつかそのことに気がついて、僕を要らなくなる」
「…直」
 常盤が僕の顔を両手で包み込んだ。
「皆そうだったんだ。皆、いなくなって…」
 そうしてひとり残される。
 義父も母も、かつて恋人だと思っていた人たちも、友人も。欲しがるほどに遠くなっていく。
 だから最初から欲しがらなければ諦めもつく。欲しいとさえ思わなければ。好きだと思わなければ。
 その声を諦められる。
 ずっとそう思っていた。
 そっと親指で目尻を拭われた。ざらついた指の感触に、背筋が震えた。
「そうやっていつも諦めてきたのか?自分を好きになってくれるやつをそんなふうにして遠ざけるの?」
 唇に常盤の指が触れる。
 直、と呼ばれた。
「俺が嫌い?」
「…っ違う」
 この声が好きだ。
 彼の僕を呼ぶ声が。まっすぐに僕を見る目が。彼のことが。
 好きだ。
 好きだと言う一言がこんなにも難しい。
「俺を見て、こっち向いて」
 僕の顔を見て、常盤がふっと微笑んだ。
 滲むように笑うその顔を前にも見た気がした。
「俺を好きなら、もっと俺を欲しがって」
 どうしてみんな同じことを言うのだろう──
『直、笑って』
 笑ってるよ。
 でも、上手く笑えない。
 馬鹿ね、と愛が笑う。思い出の中で呆れたように名前を呼ばれる。
 僕の顔なんか撮らなくてもいいのに。
 いつでも会えるのに。
 だって、と愛は言った。
 強い風の中で花びらが舞う。
『だって直の笑った顔、忘れたくないんだもん』
「──」
 直、と常盤が囁いた。
 ぽたりと常盤の手に雫が落ちた。
「俺を諦めないで」
 大きな手が僕のうなじを引き寄せた。ゆっくりと近づいていく。
 常盤は滲むように笑っていた。
 その顔をどこで見たか、僕は思い出した。
 視界が歪んで溶けだしていく。
 僕は欲しかったものをもう見つけ出していた。あの日、振り返った瞬間──
 唇が触れる寸前、僕は言った。
「…ずっと会いたかった」
 好きだと言った言葉ごと、深く貪るように口づけられた。


 熱い手のひらが僕の体の隅々を埋めていた。
 唇が柔らかなところを辿り、痕を残していく。
 長いキスをした。
「何だよこれ…」
 体の奥を探っていた指が激しく出入りする。弱い所を見つけられ仰け反ると、僕の口から堪えきれずに声が上がった。
「ハ、あ、…んっだめ、だめっや…っ」
「くそ、…ッ直…」
「あ、んんっ、…!」
 自分でも甘すぎる声に驚くと耳朶に噛みつかれて背中にのしかかられる。肩越しに振り向かされ深く唇が重なる。舌を絡めるようにされ震えると、もっとと言うように貪られた。
「も、や…ンン…!」
「駄目だ、まだ、こっち向いて」
「ん…っ」
 常盤の熱い体がぴったりと僕の体と合わさって、まるではじめからひとつだったかのような錯覚に陥っていく。
「好きだ」
「…あ、ア、あッ、あーっ」
 柔らかくほぐれたところに捻じ込まれる。狭い場所をこじあけられ、征服される快感が背筋を駆け抜けていく。開いた足を抱え込み、正常位で突き上げられると、僕の背が反り返りシーツから浮いた。
 気持ちいい。どうしようもなく。好きな相手と繋がることがこんなにも気持ちいいなんて…
「直、声、抑えないで」
 声を抑えようと口に当てた手を取り上げられる。
 両手で腕を抑え込まれ、シーツにのたうつ体を縫いとめられた。目を合わせて追い上げられ、激しく揺さぶられる。汗にまみれた常盤が僕を見据えながら舌なめずりをした瞬間に、頭の中が白く弾け飛んだ。
「ンンう、ア、やあッ…!」
 口づけられ、口腔を深くなぞられる。
 ビクビクと跳ねる体の奥に常盤の熱を感じた。大きく膨れ上がり痺れるような愉悦が走り抜け、僕はそれを追うようにまた絶頂を迎えた。
「は…」
 急速な眠りに引き込まれていく。
「直」
 もう動けそうになかった。
 弛緩した体を常盤がきつく抱き締めた。僕の肩に顔を埋める。力の入らない腕を持ち上げて僕は彼の髪を撫でた。
 抱き締める腕が強くなった。
 瞼が落ちていく。
 目を開けていられない。
 そっと、僕の髪を梳いていく指先。僕を見つめている気配。
「…直?」
 好きだと泣きそうな声で常盤が呟くのを、まどろみの中で僕はぼんやりと聞いていた。

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