暁が燃えるとき

宇土為名

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 藤川から誘われて、仕事帰りに待ち合わせをした。
「おーい、久我!」
 僕は軽く手を挙げて、駅前の混雑から抜け出してくる藤川を待った。
「悪い遅れたっ」
「いいよ。大丈夫なのか?」
「え、ああ──まあな」
 苦笑いを浮かべた藤川は僕の肩を叩いた。
「行こうか」
 今日もまた藤川の妻子は家にいない。この間僕と飲んだ時から、実家に行ったままなのだという。つまり要するに、藤川は奥さんと今別居状態にあるという話だった。
 

「はいどうぞ、上がれ」
 ふたりで買い込んだ晩酌用の食材を持って、藤川の家に行った。玄関には子供の靴、僕はその隣に靴を脱いで上がった。
 部屋の中は見事に男のひとり暮らしの匂いがした。
「うわ、すごいな」
 ソファに脱いだままの服が置きっぱなしになっている。リビングは食べ物の散乱こそなかったが、あちこちに洗濯物が引っかかり、洗い物も溜まっていたりして、カーテンの向こうにはいつ干したのかもわからないようなバスタオルが風に吹かれてはためいていた。もう取り込んだ方がいいんじゃないかとは、さすがに言わなかったが。
 僕の部屋に呼んだ方が良かったかと、内心思いながら、ソファの前のテーブルに買ってきた惣菜を並べる。
「散らかってて悪いな、適当に避けといていいから」
 キッチンの方から藤川が言った。ガチャガチャと食器を引っくり返すような音がしている。
「うん」と返事をしながら、僕は確実に使用済みだと思われる服と、洗って放置された洗濯物を選り分け、洗濯済みはダイニングの椅子に、後のものは床の上にまとめておいた。
「おわっ」
 それが終ったころやって来た藤川はその小山を見て目を瞠り、一抱えしたそれを洗濯機に突っ込みに行った。


 出来合いの総菜は味付けが濃く、やたらと喉が渇く。そのせいもあるのか自然とビールが進み藤川の口も滑らかになっていった。
 よく喋る。
「俺は悪くないと思うんだよ!」
「はいはい」
 もう何度目になるか分からない自己弁護を聞きながら、僕はシンクに溜まった食器を洗っていた。
 手を出さないほうがいいのは分かっていたが、奥さんが帰って来た時にこれではまた揉めそうだと思ってしまった。まあとりあえずここだけでも綺麗にしておくか…
 場所をソファの前からダイニングテーブルに移して、藤川はビールを煽った。買ってきたビールは飲み尽してしまったので──ほとんどは藤川が──家の冷蔵庫から取り出している。
「もうそのへんにしておけよ」
「大丈夫だって、もうちょっと」
「そんなに飲んだら明日きついだろ」
「へーき平気」
 肩越しにため息をついて僕は皿洗いを終えた。
「俺は悪くない、だっておかしいだろ」
「何が?」
 テーブルの椅子に座りながら僕は言った。
「だって!勘違いしたのはあっちじゃん!俺はそうじゃないって言ってんのに聞かないほうが駄目だろ」
 僕は頬杖をついてテーブルの上に残っていた乾いた枝豆を摘まんだ。
 藤川の言う俺は悪くない事情というのは、いわゆる浮気を疑われたという話で、はじめは弁解していた(というより言い訳か?)藤川だったが、何をどう言っても奥さんが話を全く聞こうとしないので勢い余って喧嘩になり、口論の末に言わなくてもいい余計な一言を言ってしまったとのことだった。売り言葉に買い言葉で──要するに逆切れした挙句に出て行かれてしまったのだ。
 よくある話だ。
「僕にはおまえが怒る筋合いじゃないと思うけどね」
 ぐ、と藤川がビールを喉に詰めた。
 濡れた口元を拭い、皿の上から枝豆を選り分ける僕の指を藤川は目で追った。
「…あいつの味方すんの」
「どっちの味方でもないよ」
「女の気持ちが分かんの」
 その言葉をどう受け取ったら?
「分かるよ」と僕は言った。
 藤川の口の端がピクッと引き攣った。
「そりゃ
 沈黙。
 恐ろしいほどの。藤川の顔が青ざめた。
「そうだな」
 僕は立ち上がった。椅子が床と擦れ、ギッと嫌な音を立てた。
 藤川も立ち上がる。
「ごめ──ごめん、そんなつもりじゃ…!」
 ソファの背に掛けていた上着と床の鞄を手に取った。
「もう帰るよ」
「久我」
 すれ違いざまに腕を掴まれて目を上げると、藤川が僕を見下ろしていた。
「俺…違うんだ、そんなふうに考えてたんじゃなくて…」
 何も言わず、僕は藤川を見上げた。
「違うんだよ、時々、分からなくなって…」
 言葉が途切れて、藤川は僕の腕を離した。
「俺だけじゃない、きっと、あの人も」
 ハッと藤川は口をつぐんだ。
 彼の唇は震えていた。
 僕はじっと見つめた。今の言葉の意味を噛み締める。奥歯がきしんだ。
 絡み合った視線。何か言いたげに藤川の目が揺れている。
 先に逸らしたのは僕の方だった。
「おやすみ」
 そう言ってすり抜ける。
 玄関を出て扉を閉めるまで、背中にずっと藤川の視線を感じていた。


 暗い部屋の中で呼び出し音が鳴り続けている。
 冷蔵庫から水を取り出す間だけ光が部屋を照らした。それもすぐに消える。
 放り出した携帯の画面に藤川の名前が出ている。
 冷たい水を飲み干した。
 何もかもが僕のせいか?
 そう思えて仕方がない。
 妹がいなくなったのも、両親が死んだことも、茅山が死んでしまったのも、茅山が最後の瞬間に僕の写真を握りしめていたことも、全部全部、僕のせいか?
 ──きっと、あの人も。
 そうかもしれない。
 自意識過剰に泣きそうだ。
 くたばれ。
「畜生…ッ!」
 壁に投げつけたペットボトルが派手に跳ねて床に落ちた。
 呼び出し音が止み、静かになると僕は後悔した。
 落ちたペットボトルを拾う。
 床にこぼれた水が足先を濡らした。やるせなさが満潮《みちしお》のように込み上げてきた。携帯がまた鳴りだした。

***

 小学校の頃、直くんは女の子でみたいでいいよね、とその子は僕に言った。
 誰もいない放課後の教室。僕とその子は何かの係で残っていた。ふたりきり、窓から差し込む夕暮れの光が影を斜めに落としている。
『生まれつきそうだと得だね』
 彼女はどちらかと言えば男の子みたいな女の子だった。黒い髪のショートカット、人よりも頭一つ高い背丈、きっと日に焼けやすい浅黒い肌、顔は思い出せない。でも僕はその子のことが嫌いではなかった。
 甲高い声で話す他の女の子たちよりも少しだけ低い彼女の声が好きだった。
『そうかな』
『羨ましいよ』
 そうだろうか?
 女の子みたいだと言われることに何の得が?
 好奇の目にさらされることの身の置き所のなさを、知りもしないくせに。
 僕を羨ましい?
 一瞬で憎しみを抱いた。
『欲しければあげようか』
 気がつけばそう言い返していた。
 
 彼女が僕の容姿に焦がれていたように、僕だって望むものがあった。
 普通でありたいと──人の言う一般的な意味での男でありたいとどれだけ思ったか。願っても手に入れられないものをどれだけ欲しいと──思わなかったとでも?人と違う衝動を抱えた自分を受け入れるのにどれだけ時間がかかったと?親しかった人が、友人が、僕を見る目が僕のせいで変わっていく様を何度見てきたと思う?それは一時の熱情で長く続きもしない。受け止めたところで、熱が冷めればいつも僕だけが置いていかれる。繰り返し繰り返し、ずっとそんなことばかり。
 慣れていくわけなどない。
 あのとき彼女がどんな顔をしていたのかまるで思い出せない。
 それきり話す事もなくなった。
 あれから、あの子はどう成長しただろう。
 望むものを手に入れられただろうか。

 鳴り止んだ携帯を握りしめて押した。
 出て欲しい。
 でも出てくれないほうがいい。
 声が、聞きたいだけ。
 何かカサついた音がした。
『はい』
 びくっと僕の手が震え、携帯が床に落ちた。
『もしもし?…』
 なんとかそれを拾い上げた。
 僕からだと分からないように店の番号に掛けていた。耳に押し当てる。
 これを知ったらきっと気味悪がられるだろうな。
 本当に僕はどうしようもない。
『…──』
 この声が好きだ。
 彼のこの声が。
『──直さん?』
 僕の名を呼ぶ彼のことが。
「──…」
 切らなければ。今切らないと、声が出てしまう。
『直さんだろ?なあ、返事しろよ』
「……」
 すっと、息を吸い込む音がした。
『返事して、直』
 背筋が震える。
「………はい」
『そのまま──待ってて』
 がさがさとどこかに移動するような音がする。
 背後の雑音の中に女性の声が聞こえた気がした。
 女──そうだ、どうして忘れていたんだろう。
 女性がいたのだ。必要以上に掛けてくるなと言われていた。
 胸の内がひやりとした。
 切らなければ。
『切るなよ』
 通話を切ろうとした瞬間、常盤が言った。
『絶対に切るな』
 まるでどこかから見られているようだ。
 遠い場所に離れているのに。
 どうして。
「──悪かった」
『なお…っ!』
 そのまま断ち切るように通話を切った。

***

「久我くーん、この数字間違ってるよ」
 目の前に、打ち出した書類を差し出された。
 先輩同僚から指摘された箇所の数字の羅列を目で追っていく。
 確かに間違っていた。
「あ、ほんとだ。すみませんすぐ修正します」
「珍しいねえ久我くんが間違えるの」
 僕を見下ろして彼女は言った。
「ちょっと寝不足かも」
「あーホント、隈出来てる。色白いから目立つね。クリーム貸したげよっか?」
 隈隠しの、と付け加える。よっぽど僕が不思議そうにしていたらしい。
「いや──大丈夫かな。ありがとうございます」
「そお?──あ」
 立ち去り間際、彼女はくるっと回転して、僕を振り向いた。
「午前のミーティングの議事録なんだけど、あれ今日中に出来そう?」
「はい、あともう──1時間ほどで」
「よかった。せっついてくるんだもん、…ごめん頼むね」
 最後の方は小声で言い、ほっとしたように彼女は肩を下ろした。誰が、と言わないところは共通認識なので僕にも分かる。
「はい、大丈夫です」
 と僕は頷いた。
 けれどそう話はうまくはなく、すぐに片付くと思っていた仕事は幾つかの予期せぬトラブルにより終業時間になっても終わらなかった。先方に事情を話して明日の朝までに出来ていれば良しという了承を渋々ながらも得て、残業することにする。
 誰もいないオフィス──室長は外出したまま直帰で、他の同僚は全員女性で家庭持ちの人が大半だ。定時帰宅する彼女たちを見送って、作業を進めた。実際、僕の仕事だった。
 ひとりの方が気を遣わずに済む。
「よし──、ン」
 2時間あまり残業して何とか終わらせ、大きく伸びをした。
 強張った肩を揉みながら帰り支度をしていると、携帯が鳴った。
 室長だ。
「はい久我です、お疲れさまです」
『おう、残業してるって聞いたけど』声の向こうが騒がしい。外にいるようだった。
「もう終わりましたよ。今から帰ります」
 パソコンの電源を落とし、オフィスの明かりを落としながら話した。報告は先輩同僚が済ませてあったようで、室長は悪かったな、と僕に言った。
「大丈夫ですよ。間に合って良かったですし」
 エレベーターホールでエレベーターを待ちながら僕は苦笑する。作成を急がせたのが先日室長と揉めた相手となれば、尚更だった。
『気をつけて』
「はい、じゃあまた明日。お疲れさまでした」
『お疲れ』
 会社を出ると外は風が冷たかった。日に日に冬に向かって季節は進んでいっている。
 まだ人の流れが多い駅までの道を歩く。
 何も考えないように。
 明日が終わればまた週末が来る。
 週末をどう過ごそうかとそれだけを思い浮かべた。先日見損なった映画を観に行くのもいいかもしれない。部屋の中を片付けて、読みかけの本を読んでしまう。誰のことも頭の中から締め出したい。茅山のこと、妹のこと。たくさんの散らばった欠片。
 繋ぎ合わせるには、僕は疲れ切っていた。
 藤川からはあれから何度も連絡があった。一度だけこちらから返事を送ると、それにまた返事が来た。返しはしなかったが、藤川はそれでようやく落ち着いたようだった。彼が酔っていたとはいえ、忘れたふりをするのも、なかったことにするにも早すぎる。そう、お互いに時間さえあればまた元のようになれるのかもしれない。
 出来れば以前のように。友人として、気持ち次第で。
 あるいは僕の気持ちか。
 駅の改札が見えてきた。
 なぜかまっすぐ帰りたくなくなって、別の路線にしようと踵を返した時、向かってくる人と肩がぶつかった。
「すみません」
「いえ──」
 会釈をして通り過ぎようとした。
 だがその人は僕の腕を掴んだ。
 驚いて見上げると、相手も驚いた目で僕を見ていた。


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