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1巻
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しおりを挟む第一章 その聖女は悪魔を召喚する
広い海原の片隅に小さな島国があった。四季が存在するが、夏の暑さも冬の寒さも過酷ではないから住みやすく、国民の生活は比較的穏やかなものである。
宗教国家であり、国の中心部に建てられた豪奢な教会には、毎日多くの民が祈りを捧げに来ていた。信じられている宗教は多神教で、神様は天界だけでなく、人間が住む地上の至るところにいるとされている。
そして、神様の力を授かった特別な存在を「聖女」と呼んだ。
――聖女は天使を召喚して平和をもたらす。
それは、この国の国民なら誰もが知る教えである。
◆ ◆ ◆ ◆
「イサミナ、助けてくれ」
その弱々しい声が耳に届いたのは、イサミナが井戸へ水を汲みに行く途中のことだった。明けきらぬ空はくすんだ藍色で、今にも消えそうな星が微かに瞬いている。
イサミナの村は貧しく、井戸がひとつしかなかった。そのせいでどうしても朝は混むので、早起きして誰もいない時間に水を汲むのを習慣にしていたから、こうして誰かに声をかけられるなんて珍しい。
空の桶を持ったまま振り向くと、薄暗闇の中に男が立っていた。目をこらして見たところ、彼が大きな街へ出稼ぎに行っていた男だと気付く。
「久しぶり! 帰ってきたのね」
彼は今年、この村の娘と結婚したばかりである。子供ができたら色々と入り用になるから……と出稼ぎに行っていたため、ここ最近は姿を見かけなかった。ようやく帰ってきたようだが、久しぶりにお嫁さんと会えるというのに彼の顔は浮かない。
そもそも「助けてくれ」と言うからには、なにか問題が発生したのだろう。
「なにかあったの?」
まだ周囲は寝静まっている時間なので、声を抑えてイサミナが訊ねる。
「実は、嫁さんへのお土産にこれを買ってきたんだけど……」
そう言って、彼は後ろ手に隠していたものを差し出した。視界に飛びこんできた鮮やかな紅にイサミナは目を丸くする。
「すごい! これ、薔薇じゃない」
彼が持っていたのは薔薇の花束だった。この国では一部の地域でしか咲かないので、とても貴重で高価である。イサミナも薔薇の生花を見たことは片手で数えるほどしかない。
薔薇の芳香が鼻に届く。目でも鼻でも楽しめる素敵なお土産だと思うが、その薔薇の花びらはところどころ取れて、包んでいる紙の底に溜まっていた。
「もしかして……」
「そうなんだ。持ち帰ってくる途中にどんどん花びらが落ちてきて……。元気なのは真ん中の一輪だけだ。あとは、動かせば花びらが取れちまう」
花束を見つめながら、彼が悔しそうに呟く。
「せっかく帰ってきたのはいいが、このまま渡すのはみっともないだろう? 村についたものの、こんなお土産じゃ家に入れないと途方に暮れていたところ、お前の姿が見えて……。イサミナ、これをどうにかできないか? 頭のいいお前なら、元に戻せる方法を知っているんじゃないか?」
救いを求めるように、彼は懇願してきた。
――実はイサミナは村の中で一番頭の回転が速く、なにか問題が起きると、こうして頼られることがよくある。
しかし、取れてしまった花びらを戻す方法などさすがに存在しない。
「無理よ。私は神様じゃないもの、こうなってしまった花を元に戻すことはできないわ」
期待を持たせないよう、イサミナははっきりと告げる。すると、彼はがくりと肩を落とした。
「そうか……そうだよな。お前にだって無理だよな。嫁さんを喜ばせようと思ったのになぁ……」
彼は悲しそうに眉根を寄せて、とぼとぼと歩き出す。
「困らせて悪かったな、イサミナ。……このまま嫁さんに渡すよ」
「待って! 元には戻せないけど、お嫁さんを喜ばせる方法ならあるわよ」
イサミナは慌てて彼を引き留める。
「えっ?」
「花びらが散ったからこその、とびっきりの贅沢があるのよ」
イサミナはにこりと微笑んだ。
結婚したばかりの彼とお嫁さんの仲がいいのは周知の事実だ。お嫁さんにしてみれば、出稼ぎでずっと会えなかった旦那が帰ってくるだけでも嬉しいだろうし、たとえ花びらが散っていても、珍しい薔薇をお土産に渡されたら喜ぶだろう。
だからイサミナが提案するのは、お嫁さんではなく彼が満足する方法だ。お嫁さんが喜ぶことはわかりきっているので、求められているのは彼が納得のいく形でお嫁さんにお土産を渡す術である。
「花束を貸して」
「あ、ああ」
イサミナは棘が刺さらないように気をつけながら、花束から一輪だけ引き抜く。彼が言っていた唯一の元気な薔薇だ。
「まず、無事なこの薔薇だけを綺麗に包みましょう。花びらが大ぶりだから一輪でも十分見栄えがするわ。そして残りの花は温泉に浮かべるのよ」
「えっ?」
「薔薇風呂にするの。薔薇の花びらを使ったお風呂なんて贅沢すぎて、普通はできないわよ。お嫁さん、きっと喜ぶわ」
取れてしまった花びらを眺めて、イサミナが言う。
この村は貧しいものの温泉が湧いているので、男女別の共同浴場がある。朝風呂に入る村人は滅多にいないので、朝の時間帯なら浴場を独り占めだ。
薔薇風呂にするなら、暗い夜よりも明るい時間帯のほうが絶対にいい。明け方のまばゆい光がきらきらと水面を照らし、その上に薔薇の花びらが浮かんでいたら、どれほど綺麗だろうか? この貧しい村ではなかなか目にすることができない、素敵な光景になること間違いなしである。
もっとも、薔薇の花びらを集めてポプリにしたり、押し花にしたりする方法もあった。
しかし、彼はわざわざ生花を選んで買ってきたのだ。薔薇を扱っているお店なら、ポプリも押し花も売っていただろう。それでも彼がお土産として選ばなかったことを考え、生花だからこその贅沢をイサミナは提案する。
「もうすぐ夜が明けるわね。浴場に薔薇を浮かべてきてあげるから、空が明るくなったらお嫁さんを起こして浴場に行くように伝えて。この元気な一輪は、私が綺麗に包んで脱衣所に置いておくわね。きっと、びっくりするわよ」
「……! わかった、ありがとうイサミナ!」
彼は軽い足取りで、自分の家へと戻っていく。その後ろ姿を見送ってから、イサミナは準備にとりかかった。
「ありがとう! ありがとう、イサミナ! 嫁さん、喜んでたよ!」
質素な朝食を食べ終えると、出稼ぎから戻ってきた男がイサミナの家まで礼を言いにやってきた。その表情は明け方に出会ったときと打って変わって、生き生きとしている。
どうやら、イサミナの案は彼を満足させたようだ。
「嫁さん、あんなの初めてだって……! すごく綺麗で、一生忘れないって言ってた」
「よかったわ」
イサミナは微笑んだ。
男という生き物は女の「初めて」に価値を見出す。お嫁さんが何気なく口にした「初めて」という言葉は、さぞかし彼の自尊心をくすぐったことだろう。新婚夫婦を喜ばせられたイサミナは嬉しくなる。
「俺のせいで、朝は汲めなかっただろう? 俺が代わりに並んで汲んできたから」
「ありがとう。あとで汲みに行こうと思っていたから助かるわ」
朝は薔薇風呂の準備をしたり、一輪だけ包み直したりと忙しく、いざ水を汲みに行こうとしたときには井戸に人が並んでいた。温泉水も飲めるけれど、いかんせん熱い。冷たい水が湧き出る唯一の井戸は貴重で、朝はどうしても長蛇の列ができる。
イサミナは空いてから水を汲もうと思っていたが、彼が汲んできてくれたとか。やはり朝は冷たい水を飲みたいので、これはありがたい。
「あと、これは嫁さんと俺からお裾分け。他のみんなには内緒な」
イサミナは包み紙を渡される。その中身は都会でしか買えない柔らかい干し肉だった。
村で干し肉を作ると、硬い上に味が濃くなってしまう。だから、優しい味付けの柔らかい干し肉はとても貴重だ。分けてもらえたイサミナは喜ぶ。
「ありがとう!」
「こちらこそ、ありがとう。じゃあな!」
彼はそう言って帰っていく。
その後、ちょうど今日はイサミナが浴場の清掃当番だったので、薔薇風呂の後片付けを終えると、声が聞こえてきた。
「聖女様だ!」
「聖女様がいらしたぞ!」
家の中にいた者は外に出て、畑を耕していた村人は一斉に農具を置く。皆、村の中心にある広場に集まった。もちろんイサミナも広場へと向かう。
人の群れに加わって待つこと少し、ひとりの娘が村人の前にやってきた。彼女はイサミナと同じくらいの年だ。彼女が一歩足を進めるたびに、ふわふわの茶色い髪が風になびく。
そんな彼女の後ろを、長くまっすぐな水色の髪をした男がついていった。抜きん出た美貌の持ち主で、その端整な顔は女性はもちろんのこと、男性さえ魅了すると言っても過言ではない。
人間離れした容姿――そう、彼は人間ではない。背中には、白い翼が生えている。
彼こそが天使であり、天使を連れている娘が聖女だ。
「聖女様、今日もありがとうございます」
村長のゼプが代表して聖女に挨拶をする。それに併せて、村人全員が彼女に頭を下げた。
「いえいえ、このくらい構いませんよ。それでは、始めますね」
聖女は微笑み、手にしていた聖書を開いて朗読を始める。村人たちは手を組みながら、そのありがたい言葉に耳を傾けた。
このように、週に一度、隣の村に住む聖女がやってきて聖書の朗読をしてくれる。
一回につき数分の朗読。分厚い聖書は一年かけて読まれ、年が明ければまた最初の項目に戻った。
毎年繰り返されるとはいえ、聖書のそれぞれの項目は一年に一度だけしか読まれない。聖書は聖女しか持つことを許されず、村人たちは幾度も聞かされたその内容に「聞き覚えがある」と思っても、細部まで覚えてはいないので、真剣に聞き入っていた。
今日朗読される内容は悪魔についてである。聖女の鈴のような可愛らしい声が響き渡った。
「悪魔は神や天使と敵対する存在であり、すなわち神を信仰する我々にとっても敵である」
(通常、悪魔は魔界に住んでいる。なんらかの方法で地上に現れると、殺戮を楽しんだり、人間を惑わしたりして不幸をもたらす。ゆえに、悪魔は発見次第、排除しなくてはならない――ってね)
聖女が読むより先に、イサミナは心の中で次の文を読む。それと一字一句違えず、聖女が同じ文章を朗読した。
実はイサミナは聖書の内容を全て記憶している。このくらい、彼女には簡単なことだ。
だから、聖女によるありがたい聖書朗読の時間はイサミナにとって暇な時間でもあった。祈るふりをして俯くと、サラリと流れてきた桃色の髪が視界に入ってくる。
十八歳になったばかりのイサミナは、この国では珍しい桃色の髪をしていた。肩より少し下で切りそろえた髪は、自分でも気に入っている。
村人たちに頼られるほどの頭のよさ、聞いただけで聖書を全文覚えられるほどの記憶力、そして一風変わった桃色の髪。それをもってしてもイサミナはただの村娘であり、目の前にいる特別な存在――そう、神様に選ばれた聖女の足下にも及ばない、ちっぽけな存在だった。
美しい顔をした水色の髪の天使も、ただの村娘であるイサミナのほうなど見向きもしない。彼は愛おしそうに聖女だけを見つめている。
(私も聖女になれたら、もっとみんなの役に立てて、この村の暮らしも楽になるのに……)
そんなことを考えているうちに聖書の朗読が終わり、暇な時間から解放された。朗読の時間は苦痛だが、それでも週に一度の聖女の来訪は嬉しい。
「今週の施しは村の入り口に置いてあります。それでは、また来週にお会いしましょう」
聖女は優雅に礼をして、天使とともに村を出ていく。
彼女の背中が見えなくなるまで見送ったあと、村人たちはそわそわしながら入り口に置かれた木箱を開けた。そこには野菜が山盛りに入っていたが、どれも傷んでいる。
「チッ、なんだこれ」
誰かの舌打ちが響く。木箱の中を覗いた村人たちは次々に肩を落とした。
落胆する大人たちと木箱を見比べて、無邪気な子供が声を上げる。
「ねーねー。聖女様はケチなの?」
「しっ! 聖女様の悪口なんて言ってはいけないよ!」
「そうだぞ、坊主。そもそも、聖女様はこの施しの中身までは知らない。実際に用意するのは隣村の村長だ。ケチなのはそいつだよ」
「聖女補助金を沢山国からもらってるくせに、隣の村の村長は本当にろくでなしだ」
木箱の中身が大したことないとわかると、男たちは畑仕事に戻っていく。傷んでいても貴重な食料なので、女たちは木箱から野菜を取り出し、手分けして運び始めた。
「すぐに傷んでいる部分を切り落としましょう」
「そうね、結構食べられる部分があるわよ」
気分を落とさないように明るく言葉をかけ合う。
先ほど無邪気な質問をした子供が野菜を運ぶのを手伝いながら、再び疑問を口にした。
「ねえねえ、聖女ってなんなの? どうしてうちの村には聖女がいないの?」
どうやら、聖女やこの国の仕組みに興味が出てきたらしい。大人たちが彼に優しく教える。
「聖女っていうのは、神様の力を授かった特別な存在なの。聖女は天界から天使を召喚することができて、その天使は不思議な力で私たちにできないことを手伝ってくれるのよ」
「作物を育てるのには水が必要でしょう? ずっと雨が降らないと田畑が乾いて作物が枯れてしまうから、そういうときは雨を降らせてくれるの。あとは、天使様は空が飛べるから、崖に橋を架けるのも手伝ってくださるのよ。この国が発展してきたのは天使様のおかげだわ」
「すごい! 天使って雨を降らせることができるんだ!」
子供が目を輝かせる。天使には翼があるので、空を飛べることは予想がついていたようだが、天気を操れることまでは知らなかったようだ。
天使は雨を降らせるだけではなく、雨期に川が氾濫しそうになれば雨をやませてくれる。大雪で雪崩が起きそうならば、雪そのものを消すことすら可能だ。よって、この国では自然災害はとても少ない。
「さっき聖女様と一緒にいらっしゃった、あの水色の髪をしていた方が天使様なのよ。……本当、いつ見てもお美しいわよねぇ」
天使の美貌を思い出し、女性たちはうっとりとため息をこぼす。
「ええと……確か、隣の村はお金持ちなんだよね? それってつまり、天使がお金を作ってくれるの?」
「違うわよ、天使は人間の手助けをしてくれるだけ。隣の村がお金持ちなのは、聖女様がいるおかげなの」
「聖女がいる村は国から聖女補助金といって、沢山のお金をもらえるのよ。だから、隣の村は裕福なの」
この国において、聖女と天使は神様に次ぐ信仰の対象だ。聖女と天使が住む場所の環境を整えるために、聖女がいる村には国から補助金が支給される。聖女がいる村なら、どんな辺境にあろうと綺麗に整備されて豊かだった。
「この村にも聖女がいればねぇ……。こんな惨めな施しを受けずに済むのに」
誰かが呟いたその言葉に、皆が頷く。
イサミナの村はとても貧しい。
よって週に一度、聖女が聖書を朗読しに来る際に隣村から施しを受けていた。聖女補助金をもらっている村は、近隣に貧しい村があれば施しを与えることが法律で決められているのだ。
施しは隣村の若い男たちが運んできて、聖女の来訪の際に村の入り口に置いていく。
隣村に聖女が誕生した数年前、初めてもらった施しには新鮮な肉と野菜に酒まで入っており、その晩は皆で宴をした。しかし、その施しの内容が徐々に貧相になっているのだ。
まずは酒がなくなり、次に肉がなくなり、今では傷んだ野菜が入れられる始末である。
聖女補助金で隣の村は裕福になり、お金を手に入れた村長が欲深くなったという噂が流れていた。しかも最近は村を大きくするために、隣村を囲んでいる木を伐採する計画を立てているらしい。それにはかなりの資金が必要になるから、イサミナの村への施しを節約しているのだろう。
そういった事情もあり、聖女と天使のことは崇拝しているものの、隣村の村長の印象は悪かった。
「聖女って、どうやったらなれるの? 僕でもなれる?」
聖女がいれば村が裕福になると理解した子供が明るく訊ねてくる。
「聖女は女の人しかなれないのよ」
「そうなのかぁ……。それって、生まれつき決まってるの?」
「いいえ。ある日突然、神様から聖女に選ばれるという話よ。隣村の聖女も、五年前に聖女になったばかりなの」
「神様から力を授かると、手の甲に花の形の痣が浮かぶのよ。それが、聖女として選ばれた証というわけ」
ひとりの村娘が、己の手の甲を眺める。それにつられるように、他の女たちも自分の手の甲を確認し始めた。もちろん、そこに花の痣などない。それでも、この村に聖女が現れれば暮らしが楽になると思うと、確かめずにはいられないのだ。
イサミナも何気なく自分の手の甲を見る。先ほど浴場の掃除をしている途中に見たときは痣などなかった。だから、なにもないと思っていたのだが――
「えっ」
イサミナは持っていたトマトを落とした。熟しすぎたそれは、地面の上でぐちゃりと潰れる。
「ちょっと、どうしたのイサミナ」
「ま、待って! こ、これ、これ……っ」
動揺しながら、手の甲を差し出した。それを見た女たちが驚いて目を瞠る。
「ええっ!?」
「嘘っ、これ――」
――イサミナの右手には、聖女の証である花の痣が浮かんでいた。
◆ ◆ ◆ ◆
イサミナが聖女になったという噂は、あっという間に村中を駆け巡った。帰りかけていた隣村の聖女を呼び戻して確認してもらう。
「おめでとうございます。これは、間違いなく聖女の証です」
隣村の聖女のお墨付きをもらったことで、村人たちは歓喜に沸いた。ただちに寄合所へ村人が集まる。
「まさか、うちの村にも聖女が現れるなんて……!」
「よくやった、イサミナ!」
「神様はやっぱり見ていてくれたのよ。隣村からの施しが酷いのを見かねて、この村にも聖女を使わしてくださったのね!」
国に聖女が現れたと申請すれば、審査のあと聖女補助金の支給が開始される。この貧しい村も豊かになっていくだろう。暮らしが楽になると、誰もが喜んでいる。
「国に申請する前に、本物の聖女である証明として天使を召喚しておくんだよな?」
誰かの呟きに皆が頷く。聖女に選ばれたら、まずは天使を召喚しなければならないのだ。
「早く儀式をして、この村に天使様を喚ばないと!」
「イサミナ、頑張って! 隣村の天使に負けないくらい、素敵な天使を召喚してちょうだい!」
若い村娘に手を握りつつ励まされて、イサミナは苦笑する。
突然のことで、自身には聖女になった自覚などなかった。
だって、つい先ほどまで手に痣なんて浮かんでいなかったのだ。にわかに気持ちがついていかない。イサミナ本人より周囲の村人たちのほうが、この状況を喜んでいる。
「すぐにでも儀式をしたいが、なにを準備したらいいのかわからんな」
村長のゼプが腕を組みながら小首を傾げた。
「隣村の聖女様が、天使を召喚する儀式に必要なものと、儀式の手順を書いた手紙を送ってくださるそうです」
「そうか! では、手紙が届き次第、できる限り早く儀式を執り行おう。……イサミナよ」
ゼプがイサミナの青い目を覗きこんでくる。
「お前のおかげで、この村は救われる。ありがとう」
「村長……! 私こそ、村長のおかげで生きてこられたのよ。恩返しができるのは嬉しいわ」
実はイサミナの両親は十歳のときに亡くなっていた。ひとりでどうやって生きていこうと途方に暮れていたところに、村長のゼプが救いの手を差し伸べてくれたのだ。彼がなにかとイサミナのことを気にかけてくれたおかげで、なんとかひとりでもやっていくことができた。
イサミナにとって、ゼプは親代わりであり、恩人でもある。だから聖女に選ばれたことよりも、聖女補助金で村長に恩返しできることを嬉しく思っていた。
未だに実感は湧かない。それでも、儀式を行い、天使を召喚すれば聖女としての自覚が出てくるだろう。
(一体、どんな天使様が来てくださるのかしら?)
天使は皆美しい姿をしているらしい。隣村の聖女が召喚した天使もかなりの美貌だから、まだ見ぬ天使のことを想像しただけで、イサミナはどきどきしてしまうのだった。
――そして翌日、隣村の聖女から手紙が届いた。
「これで、うちの村が施しをする必要はなくなったな。毎週あの荷物を運んでくるのも大変だったんだ。感謝しろよ」
手紙を持ってきた隣村の男は、そんな憎まれ口を叩いていた。いつもなら憤慨するところだが、今日ばかりは村人たちも浮かれているので聞き流す。皆で肩を寄せ合いながら手紙を見た。
手紙を覗きこんだイサミナは、書かれていた内容にほっとする。
「お供えものさえ準備できれば、儀式自体は簡単なのね」
人ならざる天使を召喚するのだから、どれだけ大変な儀式が必要になるのかと心配していたけれど、儀式の内容は神への供物を並べて召喚の呪文を唱えるという簡単なものだった。
村人たちも儀式の内容に安堵している。
「とりあえず、神様へのお供えものを準備しないとな!」
「ええと、まずは馬。……馬っ? おい、馬なんてうちの村にはいないぞ」
「茶色い牛がいるから、それでいいだろう」
「そうだな。四本足で、尻尾も耳もあって、馬と同じ茶色だし、牛で十分だ。よし、オレたちが牛を準備する」
そう言って村の男たちが牛舎へと向かう。イサミナは思わずゼプの顔を見た。
「う、牛……? 牛で大丈夫かしら……!?」
「馬を準備するのは難しいし、隣村から借りるにも、あとであの村長になにを要求されるかわからないからなぁ……」
ゼプは眉根を寄せる。
「確かに隣村の村長はケチだし、うちの馬のおかげで天使様を召喚できたのだから、補助金をいくらか寄越せって言ってきそう……」
イサミナは牛舎に視線を向けた。早速、茶色い牛がゆっくりと連れ出されてくる。どこからどう見ても立派な牛だ。
「……うん、遠目に見れば馬に見えないこともないかも……。……ほぼ馬と言っていいわね」
一抹の不安がよぎりつつも、イサミナは「あれは馬だ」と自分に言い聞かせる。気を取り直すように、他に必要なものを確認した。
「あとはトマトだって」
「それなら昨日イサミナが落としたやつがあるわね。聖女騒ぎで、あそこに落としたままになっているはずよ」
「もったいないから、それを使いましょう。私、取ってくるわ」
村娘が立ち上がり、トマトを落とした場所へと向かう。
「あの潰れたトマトを……?」
イサミナは再び不安になった。
昨日落としてしまったトマトは潰れて原形を留めていない。しかも、熟れすぎていて腐る一歩手前だ。
「でも、トマトであることは変わらないわよね……? 隣村の聖女様からの手紙でも、トマトの状態は指定されていないし。潰れていても腐りかけていても、トマトはトマトよね、うん」
深く考えないことにしたイサミナは、次の項目を確認する。すると、「大きな赤い布」と書かれていた。
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