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オルハイドの独白②
しおりを挟む『ねえ聞いて、オルハイド! 卒業パーティーでね、王太子殿下が私のダンスパートナーになって下さるんですって』
十五歳になったローズが、嬉しそうにそう話していたのを覚えている。彼女が王立学院に入学する年のことだ。
王太子は毎年一度だけローズを王宮に招いて茶会を開く。護衛騎士として随行するたび、二人が交わすどこか事務的な会話を聞いていた俺は、ある時からローズの瞳にちらつく淡い恋情に気が付いた。けれど彼女を見つめ返す王太子の目は、自らの婚約者に対する一欠片の温もりさえ映すことはなかった。
それでも彼女は王太子の瞳を美しいと言う。──俺と同じ、紫の色の瞳を。
胸を締め付けるこの感情を、どう言い表せばいいだろう。悲しみでもなく、怒りでもない。どうか、と神に祈らずにはいられなかった。どうか彼女を幸せにしてあげて下さい。たとえそれが俺じゃないとしても、いくらでも祈りを捧げるから、どうか誰よりも幸せにしてあげて下さい。
だが、祈りは聞き届けられなかった。
三年後の冬、王立学院を卒業したローズが屋敷に戻ってきた時、彼女は物言わぬ人形となり果てていた。
事の顛末は王国中で人々の口の端に上った。ある公爵令嬢と婚約していた王太子が、あろうことか婚約者の異母妹と不貞を働いたという、聞くに堪えない醜聞。なぜこれほど露骨に噂が広まったかといえば、王立学院の卒業パーティーの日、衆人環視の中で、王太子自らが婚約破棄を宣言したからに他ならない。
その悍ましい行為が、おそらくは既に疲弊し、憔悴しきり、悲鳴を上げていたローズの心を、無惨にも打ち砕いたのだろう。彼女はその場で呪いを掛けた。人の精神に干渉する魔法は「呪い」と呼ばれ、膨大な魔力を消費するため行使した術者が死に至ることもある禁術だ。それを、彼女は彼女自身に向けて行使した。
一体どんな呪いだったのか、それは術者本人にしか分からない。ただ、今になって思うのは、きっとローズは苦痛に満ちた世界から解放されたかったのではないかということだ。彼女の歩んできた人生は、辛く苦しい記憶ばかりだった。卒業パーティーで好きな人とダンスを踊りたいという、取るに足らないささやかな願いすら、叶いはしなかった。あまつさえ、本来なら彼女が享受すべきだったもの全てを手にしている異母妹に、たった一人の婚約者までも奪われて──。
屋敷のベッドに寝かされたローズは、窶れて、痩せ細っていた。
三年前よりも少し大人びて見えるその横顔は、作り物のように静謐だった。
こんこんと眠り続ける彼女の手を、そっと握る。
「……ローズマリー様」
返事が返ってこないのを分かっていて問いかける。
いつかの冬、生まれて初めて雪に嫉妬した日のことを思い出す。彼女の肌の上に降る雪。自分の知らない彼女の温もりに触れる、その雪が羨ましかった。
冷たい手を両手で包み、額に押し当てた瞬間──俺は、落涙していた。
ああ、俺はなんて愚かだったのだろう。愛する人が、手をのばせば届く距離にいたのに、触れることもできなかったなんて。こんなことになるくらいなら、あの雪の日に連れ去ってしまえばよかったのだ。この小さな手を引いて、どこか遠くへ。
「……俺が、貴女を守ります」
そうだ。もっと早く、こうするべきだった。
もう誰にも傷つけさせはしない。彼女がありのまま幸せになれる世界で、どんな風にもあてず、真綿で包むように、この手の中で彼女を守ろう。
◇◇◇
あれから一年以上の年月が過ぎた。
王国では、王太子に婚約破棄された噂の公爵令嬢が拐われたという、新たな醜聞が露呈し、未だに騒ぎの収拾がつかないようだ。ここは王国から離れた隣国の小領地なので、風の便りに聞く程度だが、どうやら王太子は責任問題を問われて王位継承権を返上したらしい。それも今となってはどうでもいいことだった。
一年と少し前、昏睡したままのローズを連れてこの地に辿り着いた俺は、町の外れに家を買った。美しい草原と小さな家。俺の手が届く精一杯の、彼女のためだけに存在する箱庭の世界。
「おはようございます、オルハイド」
朝、二階の部屋から降りてきたローズは、台所に立つ俺を見て、寝ぼけ眼を丸くした。
「なんだかいい匂いがするなあと思ったら。朝食を作ってたんですか?」
「おはようございます、ローズ。ええ、もうすぐ出来ますよ」
微笑んで答えると、彼女はぱっと顔を輝かせ、いそいそとテーブルの準備を始めた。ありふれた、何気ない、平穏な日常。まるで夢の中にいるような錯覚を与える、あたたかな日々。
冬の最中に目覚めた彼女は、重い記憶障害が残り、自分の名前さえ覚えていなかった。俺のことも、王太子のことも、屋敷での暮らしも、王立学院での出来事も、何もかも忘れてしまっていた。だが、それで良かったのだと思う。彼女が今までの人生で得られなかったものを、代わりにこの手で与えてやれる。今度は一つも取りこぼさないように。
夫だと偽ることに罪悪を感じないわけではない。ローズのうちにあるのが、俺の思うような愛情でないことも分かっている。それでも、彼女がなんの屈託もなく無垢な笑顔を見せてくれるから、このままでいいのだと思えた。
このままでいい。気付かれないまま、そっと、小さな幸せを積み重ねるような日々を贈り続けよう。
冬の終わりだった。窓の向こうで、雪解けと春の訪れを告げる、暖かい風が吹いていた。
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