目が覚めたら見知らぬ夫が隣にいた。どうやら私は記憶喪失らしい

キスケ

文字の大きさ
上 下
5 / 5

オルハイドの独白②

しおりを挟む
 
『ねえ聞いて、オルハイド! 卒業パーティーでね、王太子殿下が私のダンスパートナーになって下さるんですって』

 十五歳になったローズが、嬉しそうにそう話していたのを覚えている。彼女が王立学院に入学する年のことだ。
 王太子は毎年一度だけローズを王宮に招いて茶会を開く。護衛騎士として随行するたび、二人が交わすどこか事務的な会話を聞いていた俺は、ある時からローズの瞳にちらつく淡い恋情に気が付いた。けれど彼女を見つめ返す王太子の目は、自らの婚約者に対する一欠片の温もりさえ映すことはなかった。
 それでも彼女は王太子の瞳を美しいと言う。──俺と同じ、紫の色の瞳を。
 胸を締め付けるこの感情を、どう言い表せばいいだろう。悲しみでもなく、怒りでもない。どうか、と神に祈らずにはいられなかった。どうか彼女を幸せにしてあげて下さい。たとえそれが俺じゃないとしても、いくらでも祈りを捧げるから、どうか誰よりも幸せにしてあげて下さい。

 だが、祈りは聞き届けられなかった。
 三年後の冬、王立学院を卒業したローズが屋敷に戻ってきた時、彼女は物言わぬ人形となり果てていた。
 事の顛末は王国中で人々の口の端に上った。ある公爵令嬢と婚約していた王太子が、あろうことか婚約者の異母妹と不貞を働いたという、聞くに堪えない醜聞。なぜこれほど露骨に噂が広まったかといえば、王立学院の卒業パーティーの日、衆人環視の中で、王太子自らが婚約破棄を宣言したからに他ならない。
 その悍ましい行為が、おそらくは既に疲弊し、憔悴しきり、悲鳴を上げていたローズの心を、無惨にも打ち砕いたのだろう。彼女はその場で呪いを掛けた。人の精神に干渉する魔法は「呪い」と呼ばれ、膨大な魔力を消費するため行使した術者が死に至ることもある禁術だ。それを、彼女は彼女自身に向けて行使した。
 一体どんな呪いだったのか、それは術者本人にしか分からない。ただ、今になって思うのは、きっとローズは苦痛に満ちた世界から解放されたかったのではないかということだ。彼女の歩んできた人生は、辛く苦しい記憶ばかりだった。卒業パーティーで好きな人とダンスを踊りたいという、取るに足らないささやかな願いすら、叶いはしなかった。あまつさえ、本来なら彼女が享受すべきだったもの全てを手にしている異母妹に、たった一人の婚約者までも奪われて──。
 
 屋敷のベッドに寝かされたローズは、窶れて、痩せ細っていた。
 三年前よりも少し大人びて見えるその横顔は、作り物のように静謐だった。
 こんこんと眠り続ける彼女の手を、そっと握る。

「……ローズマリー様」

 返事が返ってこないのを分かっていて問いかける。
 いつかの冬、生まれて初めて雪に嫉妬した日のことを思い出す。彼女の肌の上に降る雪。自分の知らない彼女の温もりに触れる、その雪が羨ましかった。
 冷たい手を両手で包み、額に押し当てた瞬間──俺は、落涙していた。
 ああ、俺はなんて愚かだったのだろう。愛する人が、手をのばせば届く距離にいたのに、触れることもできなかったなんて。こんなことになるくらいなら、あの雪の日に連れ去ってしまえばよかったのだ。この小さな手を引いて、どこか遠くへ。
 
「……俺が、貴女を守ります」

 そうだ。もっと早く、こうするべきだった。
 もう誰にも傷つけさせはしない。彼女がありのまま幸せになれる世界で、どんな風にもあてず、真綿で包むように、この手の中で彼女を守ろう。


◇◇◇

 
 あれから一年以上の年月が過ぎた。
 王国では、王太子に婚約破棄された噂の公爵令嬢が拐われたという、新たな醜聞が露呈し、未だに騒ぎの収拾がつかないようだ。ここは王国から離れた隣国の小領地なので、風の便りに聞く程度だが、どうやら王太子は責任問題を問われて王位継承権を返上したらしい。それも今となってはどうでもいいことだった。
 
 一年と少し前、昏睡したままのローズを連れてこの地に辿り着いた俺は、町の外れに家を買った。美しい草原と小さな家。俺の手が届く精一杯の、彼女のためだけに存在する箱庭の世界。
 
「おはようございます、オルハイド」

 朝、二階の部屋から降りてきたローズは、台所に立つ俺を見て、寝ぼけ眼を丸くした。

「なんだかいい匂いがするなあと思ったら。朝食を作ってたんですか?」
「おはようございます、ローズ。ええ、もうすぐ出来ますよ」

 微笑んで答えると、彼女はぱっと顔を輝かせ、いそいそとテーブルの準備を始めた。ありふれた、何気ない、平穏な日常。まるで夢の中にいるような錯覚を与える、あたたかな日々。

 冬の最中に目覚めた彼女は、重い記憶障害が残り、自分の名前さえ覚えていなかった。俺のことも、王太子のことも、屋敷での暮らしも、王立学院での出来事も、何もかも忘れてしまっていた。だが、それで良かったのだと思う。彼女が今までの人生で得られなかったものを、代わりにこの手で与えてやれる。今度は一つも取りこぼさないように。
 夫だと偽ることに罪悪を感じないわけではない。ローズのうちにあるのが、俺の思うような愛情でないことも分かっている。それでも、彼女がなんの屈託もなく無垢な笑顔を見せてくれるから、このままでいいのだと思えた。
 このままでいい。気付かれないまま、そっと、小さな幸せを積み重ねるような日々を贈り続けよう。

 冬の終わりだった。窓の向こうで、雪解けと春の訪れを告げる、暖かい風が吹いていた。

しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

【完結】真実の愛だと称賛され、二人は別れられなくなりました

紫崎 藍華
恋愛
ヘレンは婚約者のティルソンから、面白みのない女だと言われて婚約解消を告げられた。 ティルソンは幼馴染のカトリーナが本命だったのだ。 ティルソンとカトリーナの愛は真実の愛だと貴族たちは賞賛した。 貴族たちにとって二人が真実の愛を貫くのか、それとも破滅へ向かうのか、面白ければどちらでも良かった。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

お飾り王妃の愛と献身

石河 翠
恋愛
エスターは、お飾りの王妃だ。初夜どころか結婚式もない、王国存続の生贄のような結婚は、父親である宰相によって調えられた。国王は身分の低い平民に溺れ、公務を放棄している。 けれどエスターは白い結婚を隠しもせずに、王の代わりに執務を続けている。彼女にとって大切なものは国であり、夫の愛情など必要としていなかったのだ。 ところがある日、暗愚だが無害だった国王の独断により、隣国への侵攻が始まる。それをきっかけに国内では革命が起き……。 国のために恋を捨て、人生を捧げてきたヒロインと、王妃を密かに愛し、彼女を手に入れるために国を変えることを決意した一途なヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は他サイトにも投稿しております。 表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID:24963620)をお借りしております。

【完結】ええと?あなたはどなたでしたか?

ここ
恋愛
アリサの婚約者ミゲルは、婚約のときから、平凡なアリサが気に入らなかった。 アリサはそれに気づいていたが、政略結婚に逆らえない。 15歳と16歳になった2人。ミゲルには恋人ができていた。マーシャという綺麗な令嬢だ。邪魔なアリサにこわい思いをさせて、婚約解消をねらうが、事態は思わぬ方向に。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【溺愛のはずが誘拐?】王子様に婚約破棄された令嬢は引きこもりましたが・・・お城の使用人達に可愛がられて楽しく暮らしています!

五月ふう
恋愛
ザルトル国に来てから一ヶ月後のある日。最愛の婚約者サイラス様のお母様が突然家にやってきた。 「シエリさん。あなたとサイラスの婚約は認められないわ・・・!すぐに荷物をまとめてここから出ていって頂戴!」 「え・・・と・・・。」 私の名前はシエリ・ウォルターン。17歳。デンバー国伯爵家の一人娘だ。一ヶ月前からサイラス様と共に暮らし始め幸せに暮していたのだが・・・。 「わかったかしら?!ほら、早く荷物をまとめて出ていって頂戴!」 義母様に詰め寄られて、思わずうなずきそうになってしまう。 「な・・・なぜですか・・・?」 両手をぎゅっと握り締めて、義母様に尋ねた。 「リングイット家は側近として代々ザルトル王家を支えてきたのよ。貴方のようなスキャンダラスな子をお嫁さんにするわけにはいかないの!!婚約破棄は決定事項です!」 彼女はそう言って、私を家から追い出してしまった。ちょうどサイラス様は行方不明の王子を探して、家を留守にしている。 どうしよう・・・ 家を失った私は、サイラス様を追いかけて隣町に向かったのだがーーー。 この作品は【王子様に婚約破棄された令嬢は引きこもりましたが・・・お城の使用人達に可愛がられて楽しく暮らしています!】のスピンオフ作品です。 この作品だけでもお楽しみいただけますが、気になる方は是非上記の作品を手にとってみてください。

もうあなた様の事は選びませんので

新野乃花(大舟)
恋愛
ロベルト男爵はエリクシアに対して思いを告げ、二人は婚約関係となった。しかし、ロベルトはその後幼馴染であるルアラの事ばかりを気にかけるようになり、エリクシアの事を放っておいてしまう。その後ルアラにたぶらかされる形でロベルトはエリクシアに婚約破棄を告げ、そのまま追放してしまう。…しかしそれから間もなくして、ロベルトはエリクシアに対して一通の手紙を送る。そこには、頼むから自分と復縁してほしい旨の言葉が記載されており…。

処理中です...