目が覚めたら見知らぬ夫が隣にいた。どうやら私は記憶喪失らしい

キスケ

文字の大きさ
上 下
3 / 5

ローズマリー③

しおりを挟む
 私とオルハイドは、冬の間中ずっと二人きりで暮らした。一緒にいるうちに、私は少しずつオルハイドについて詳しくなった。例えば、彼は領主に仕える騎士で、今年二十八歳になること。今は休職しているけれど、春からまた仕事に復帰する予定らしい。それから、彼は私を眺めるのが好きだ。彼の視線を感じるのは日常のふとした瞬間で、それは薬草の世話をしている時だったり、台所に立って料理をしている時だったりする。オルハイドは決して手を触れてこようとはせず、ただ鳥や花を愛でるような柔らかい眼差しで私を見つめているだけだった。けれどもし目を合わせたら何かが変わってしまう予感がして、私はその紫の瞳に気が付かないふりをしている。
 このままでいい。このまま、今の関係のままで、私たちはすごく上手くいっている。だから私は過去のことを振り返ろうとは思わなかった。ひいてはオルハイドのことも──。
 
 それで、あれは冬の終わりのことだった。その日は朝から雪が降っていて、オルハイドはいつものように魔法薬を売りに行こうとしていた。白く曇った窓ガラスを見て、外はさぞ寒かろうと思った私は、何か懐を温めるものを用意してやることにした。炭化したヤシ殻を更に賦活したものと、鉄粉、塩水をよく混ぜると長時間発熱してくれるので、それを麻の小袋に詰めて懐に入れておくと温かいのだ。気休め以上の価値はない代物だけれど、ないよりはいいだろう。
 玄関でオルハイドを見送る時、その小袋を手渡すと、彼はまるで宝物を貰った子供のようにそれを受け取って、上着の内ポケットに仕舞った。そうして嬉しそうに「ありがとうございます」と微笑んだ。

「気をつけて」
「ええ、行ってきます」

 オルハイドが出て行ってしまったあと、私はいつも通り温室にこもって薬草の採取と魔法薬の調合をして過ごした。夕方には食事の支度を始めてオルハイドの帰りを待ったが、いつまで経っても彼は帰って来なかった。
 日が沈んで辺りが暗くなると、吹雪が窓を叩きつけた。あの小袋はとっくに効果が切れて冷たくなっているだろう。もしかしたら彼の身に何かあったのかもしれない。私は不安でいっぱいになり、彼を探しに行くべきかどうか逡巡した。でも、この吹雪の中、道も分からないまま無闇に出て行ったところでどうにもならないのは分かりきったことだった。
 結局、それからすぐにオルハイドは帰って来た。窓の向こうにうっすらと霞む人影を見つけた瞬間、安堵のあまり全身の力が抜けていくのを感じた。思わず玄関を飛び出してしまいそうになったけれど、無理やりそれを抑え込み、すぐに風呂を沸かし始める。
 玄関の扉が開いて、凍えるような空気と共にオルハイドが家の中に入ってきた。私は目も合わさずいきなり彼の腕を引っ張り、浴室に向かった。

「ローズ──」

 オルハイドが何か言おうとしたけれど、聞きたくなかった。湯気で温まった浴室に彼を押し込んで、閉めた扉の外から突っ撥ねるように言った。

「ちゃんと体が温まるまで出て来ないで」

 この時なぜか私は怒りが湧いてきてどうしようもなかった。彼を心配してやきもきしたせいか、平静でいられなくて、訳もわからず腹を立てていた。でも、こんなのは幼稚な癇癪だと自覚していたので、辛うじて彼を責め立てる言葉は呑み込んだ。
 冷めてしまった料理を温め直してテーブルに並べる間に、私はかなり落ち着きを取り戻すことができた。そして、あとから後悔の念が込み上げた。よく考えてみれば、オルハイドだっていい大人なのだから帰りが遅くなることくらいあるに決まっている。いくら仮にも夫婦といえども、そんなことを怒るのは筋違いだ。ああ、私はどうしてあんな態度を取ってしまったのだろう。
 しばらくしてオルハイドが浴室から出てきたけれど、一体どうやって声を掛けていいものか分からなかった。すると、黙って椅子に座っている私のそばまでやって来たオルハイドが、その場に跪いた。

「ローズ、まだ俺に怒っていますか……?」

 彼はまるで哀れな捨て犬のように私を見上げて尋ねた。こんなにも打ちしおれた様子の彼を見るのは初めてで、少々狼狽していると、オルハイドは再び謝罪を口にする。

「本当にすみません、こんなに遅くなるつもりではなかったんです。どうか許してください」
「も、もういいですから」

 私はちょっと顔を赤らめて言った。別に彼を謝らせたかったわけではないのだ。

「この話はおしまいにして、食事にしましょう」
「その前に少しだけ時間をくれませんか。貴女に渡したいものがあるんです」

 そう言ってオルハイドが持ってきたのは、大きな革の鞄だった。見覚えのない新品のもので、どうやらこれを持ち帰るために帰りが遅くなったらしい。「開けてみてください」とオルハイドに促され、私は椅子を降りて絨毯の上で鞄を開けた。
 中に入っていたのは衣服だった。それもものすごく上等な、貴族が着るような服が何着も。どの服にもレースがふんだんにあしらわれ、宝石のボタンが飾られ、緻密な刺繍が施されていた。

「これ、どうしたんですか?」

 困惑してオルハイドを見ると、彼は少し緊張を滲ませて答えた。

「仕立て屋に頼んでおいたものです。貴女に似合う服を見繕いたくて」
「私に……?」
「はい。受け取りに時間がかかってしまいましたが、どうしても今日渡したかったんです。今日は貴女の誕生日だから」

 私は大きく目を見開いた。

「二十歳おめでとうございます、ローズ」

 そう言ってオルハイドは不器用に微笑んだ。けれど、この瞬間まで自分が誕生日を迎えたことなど全く知らなかった私は、思わずぽかんとしてしまった。

「今日って誕生日だったんですか? 私の?」
「ええ、花束も用意できればよかったのですが……」
 
 残念そうに言うオルハイドに、何度も首を横に振る。

「そんな、もう充分です。花束なんてなくても」

 おそらく、仕立て屋で予想外に時間を取られたために花束を買いに行けなかった、ということだろう。彼は私の誕生日を祝おうと一生懸命に準備して、吹雪の中を急いで帰って来てくれたはずだ。それなのに当の私に冷たい態度を取られてしまって、さぞ困っただろうし悲しかったに違いない。私は彼に対してますます申し訳なくなり、それと同時に胸の内側がじわりと少し温かくなった。
 
「嬉しいです、とても。こんなに綺麗なドレス、ありがとうございます」

 ああ、どうしてもっと気の利いた言葉が出てこないのだろう。口下手な自分に嫌気が差す。だがオルハイドには私の気持ちがちゃんと伝わったのか、彼は嬉しそうに笑った。私はふと、彼のその顔が好きだと思った。

 それから二人で遅い夕食を食べた後、贈ってもらったドレスを着てみることにした。貴族の衣装というのは無駄な装飾が多くて、一人では着用が難しい。オルハイドはまるで従者のように恭しく私の着替えを手伝い、最後は足元に跪いて真新しいビロードの靴を履かせてくれた。

「なんだか、本当に貴族になったみたいですね」

 私がくすぐったそうに笑うのを見て、オルハイドもまた微笑んだ。その時、ほんの一瞬、彼の目がここではない何処か遠くを見つめるような眼差しをしたことに気が付く。けれど私がそのことを深く考えようとする前に、彼は跪いたまま洗練された仕草で片手を差し伸べた。

「お手をどうぞ、ローズマリー様。エスコート致します」

 立派な剣もマントもなく、洗いざらしのシャツを身に纏っているオルハイドは、今、確かに私だけの騎士だった。彼の手にそっと自分の手を重ねる。彼が呟くように呪文を唱えると、どこからともなく華やかな管弦楽の旋律が部屋に流れ始めた。
 彼のエスコートは少々ぎこちなかったが、私の足は不思議と軽やかにステップを踏んだ。どうやら私は意外にもダンスが得意だったらしい。大きな手が私の腰を優しく引き寄せる。視線を上げると、オルハイドの綺麗な瞳が間近にあった。淡い金色の睫毛に縁取られた紫の瞳。どうしてか胸がいっぱいになってしまい、それ以上彼と見つめ合い続けることはできなかった。
 ああ、私はずっと、こんなふうに、もう思い出せない誰かと踊ることを夢見ていた。その人の瞳の色が緑か青か、それとも紫だったのかも忘れてしまったけれど、ただ、とても美しい瞳だったことだけは覚えている。
 ──その人がオルハイドならいいなあ。そんなことを密かに思って、私は彼の肩に頬を寄せた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

【完結】真実の愛だと称賛され、二人は別れられなくなりました

紫崎 藍華
恋愛
ヘレンは婚約者のティルソンから、面白みのない女だと言われて婚約解消を告げられた。 ティルソンは幼馴染のカトリーナが本命だったのだ。 ティルソンとカトリーナの愛は真実の愛だと貴族たちは賞賛した。 貴族たちにとって二人が真実の愛を貫くのか、それとも破滅へ向かうのか、面白ければどちらでも良かった。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

お飾り王妃の愛と献身

石河 翠
恋愛
エスターは、お飾りの王妃だ。初夜どころか結婚式もない、王国存続の生贄のような結婚は、父親である宰相によって調えられた。国王は身分の低い平民に溺れ、公務を放棄している。 けれどエスターは白い結婚を隠しもせずに、王の代わりに執務を続けている。彼女にとって大切なものは国であり、夫の愛情など必要としていなかったのだ。 ところがある日、暗愚だが無害だった国王の独断により、隣国への侵攻が始まる。それをきっかけに国内では革命が起き……。 国のために恋を捨て、人生を捧げてきたヒロインと、王妃を密かに愛し、彼女を手に入れるために国を変えることを決意した一途なヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は他サイトにも投稿しております。 表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID:24963620)をお借りしております。

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【溺愛のはずが誘拐?】王子様に婚約破棄された令嬢は引きこもりましたが・・・お城の使用人達に可愛がられて楽しく暮らしています!

五月ふう
恋愛
ザルトル国に来てから一ヶ月後のある日。最愛の婚約者サイラス様のお母様が突然家にやってきた。 「シエリさん。あなたとサイラスの婚約は認められないわ・・・!すぐに荷物をまとめてここから出ていって頂戴!」 「え・・・と・・・。」 私の名前はシエリ・ウォルターン。17歳。デンバー国伯爵家の一人娘だ。一ヶ月前からサイラス様と共に暮らし始め幸せに暮していたのだが・・・。 「わかったかしら?!ほら、早く荷物をまとめて出ていって頂戴!」 義母様に詰め寄られて、思わずうなずきそうになってしまう。 「な・・・なぜですか・・・?」 両手をぎゅっと握り締めて、義母様に尋ねた。 「リングイット家は側近として代々ザルトル王家を支えてきたのよ。貴方のようなスキャンダラスな子をお嫁さんにするわけにはいかないの!!婚約破棄は決定事項です!」 彼女はそう言って、私を家から追い出してしまった。ちょうどサイラス様は行方不明の王子を探して、家を留守にしている。 どうしよう・・・ 家を失った私は、サイラス様を追いかけて隣町に向かったのだがーーー。 この作品は【王子様に婚約破棄された令嬢は引きこもりましたが・・・お城の使用人達に可愛がられて楽しく暮らしています!】のスピンオフ作品です。 この作品だけでもお楽しみいただけますが、気になる方は是非上記の作品を手にとってみてください。

もうあなた様の事は選びませんので

新野乃花(大舟)
恋愛
ロベルト男爵はエリクシアに対して思いを告げ、二人は婚約関係となった。しかし、ロベルトはその後幼馴染であるルアラの事ばかりを気にかけるようになり、エリクシアの事を放っておいてしまう。その後ルアラにたぶらかされる形でロベルトはエリクシアに婚約破棄を告げ、そのまま追放してしまう。…しかしそれから間もなくして、ロベルトはエリクシアに対して一通の手紙を送る。そこには、頼むから自分と復縁してほしい旨の言葉が記載されており…。

処理中です...