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ローズマリー①
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「俺は、貴女の夫です」
一切の感情を押し殺したような、平坦な声だった。「どなたですか」と尋ねた時、目の前の青年はそう答えたのだ。でも、それはつまらない冗談だと私は思った。なぜなら彼はたった今初めて顔を合わせた相手なのだから。
私はベッドに横たわっていて、力の入らない片手を彼の両手に包まれていた。彼の手は大きくて武骨で、そして冷たかった。触れ合ったところから体温と一緒に彼の緊張が伝わってくるようだった。
「本当なんですか」と私は訊いてみた。部屋の中は暖炉の火が燃えているおかげで暖かいけれど、まるで雪が降る前のようにしんとしている。
少し間があって、青年が言った。
「誓って嘘ではありません。貴女は記憶を喪失してしまったんです。自分の名前を思い出せますか?」
思わず呆気に取られたものの、彼の言葉通り自分の名前を思い出そうと試みて、私は愕然とした。一文字も頭に浮かんでこない。それどころか、自分の年齢も身分も、髪と目が何色だったかすら全く覚えていなかった。
「あれ? どうして……」
なんとか記憶を探ろうとするけれど、必死になればなるほど頭の中が真っ白になっていく。慌てて身体を起こそうとすると、青年が腕を背中に回して支えてくれた。
「目を覚ましたばかりだから混乱してしまうのは当然です。これを飲んで。気分が落ち着くはずですから」
「……」
私はまだ呆然としていて、彼の声があまり耳に入らなかった。彼がもう一度辛抱強く「飲んで下さい」と繰り返したので、その時ようやく、何か薬湯のようなものが差し出されているのに気がついた。促されるままにそれを受け取って一口飲んだ途端、爽やかな香りが鼻腔を抜ける。同時に、体内の枯渇していた魔力が僅かに満たされる感覚があった。
(この味には覚えがある……。ああ、上級回復薬だわ)
そう思った途端、私は上級回復薬が非常に高価な薬であることも思い出した。そういう知識はちゃんと記憶に残っているのだと分かると少し安堵して、青年に向き直って礼を言う。
こうして間近に見てみると、彼は本当に美しい人だと感じた。顔は彫刻のように整っていてまさに非の打ち所がない。水晶のような紫の瞳と、光に透ける淡い金髪が綺麗だった。
「俺のことはオルハイドと呼んで下さい」
彼が淡々とした声音で言った。オルハイド、と何度か口の中で転がすように呟いたが、私はその名前をたった今初めて聞いたとしか思えなかった。でも、確かにオルハイドという名前は彼によく似合っている気がする。そういえばオルハイドというのは花の名前だと私は思い出した。花弁の形が羽を広げた蝶のように見える美しい花。
「あの、私の名前も教えて頂けますか?」
ローズマリー、と青年が答えた。やはり耳馴染みのない響きだ。私は少し首を傾げ、それから「オルハイド様」と呼びかけた。すると彼が訂正するように言う。
「オルハイド、と。呼び捨てで構いません」
「……以前はそう呼んでいたということですか?」
「ええ、そうです」
オルハイドは優しく瞬いて言葉を続けた。
「その記憶障害は魔法で治せる類のものではありません。ですが、これからも俺がそばで貴女をお世話するつもりです。……どうかあまり不安に思わないで下さい」
それを聞いて、私は不思議な気分になった。彼の言葉にはちゃんと夫としての愛情がこもっている。私からすれば彼は見ず知らずの他人だが、彼からすれば私は人生を分かち合う伴侶なのだろう。
オルハイドの手がのばされて私の頭にそっと触れる。思わず首をすくめてしまったけれど、その手は優しく気遣うように髪を撫でてくれた。彼は不器用な微笑みを浮かべていて、それが氷のような美貌にどこか温かみを与えているように見えた。
──きっと二人はとても良い夫婦だったんだわ。
まるで窓辺の景色を眺めるように、そう思った。
一切の感情を押し殺したような、平坦な声だった。「どなたですか」と尋ねた時、目の前の青年はそう答えたのだ。でも、それはつまらない冗談だと私は思った。なぜなら彼はたった今初めて顔を合わせた相手なのだから。
私はベッドに横たわっていて、力の入らない片手を彼の両手に包まれていた。彼の手は大きくて武骨で、そして冷たかった。触れ合ったところから体温と一緒に彼の緊張が伝わってくるようだった。
「本当なんですか」と私は訊いてみた。部屋の中は暖炉の火が燃えているおかげで暖かいけれど、まるで雪が降る前のようにしんとしている。
少し間があって、青年が言った。
「誓って嘘ではありません。貴女は記憶を喪失してしまったんです。自分の名前を思い出せますか?」
思わず呆気に取られたものの、彼の言葉通り自分の名前を思い出そうと試みて、私は愕然とした。一文字も頭に浮かんでこない。それどころか、自分の年齢も身分も、髪と目が何色だったかすら全く覚えていなかった。
「あれ? どうして……」
なんとか記憶を探ろうとするけれど、必死になればなるほど頭の中が真っ白になっていく。慌てて身体を起こそうとすると、青年が腕を背中に回して支えてくれた。
「目を覚ましたばかりだから混乱してしまうのは当然です。これを飲んで。気分が落ち着くはずですから」
「……」
私はまだ呆然としていて、彼の声があまり耳に入らなかった。彼がもう一度辛抱強く「飲んで下さい」と繰り返したので、その時ようやく、何か薬湯のようなものが差し出されているのに気がついた。促されるままにそれを受け取って一口飲んだ途端、爽やかな香りが鼻腔を抜ける。同時に、体内の枯渇していた魔力が僅かに満たされる感覚があった。
(この味には覚えがある……。ああ、上級回復薬だわ)
そう思った途端、私は上級回復薬が非常に高価な薬であることも思い出した。そういう知識はちゃんと記憶に残っているのだと分かると少し安堵して、青年に向き直って礼を言う。
こうして間近に見てみると、彼は本当に美しい人だと感じた。顔は彫刻のように整っていてまさに非の打ち所がない。水晶のような紫の瞳と、光に透ける淡い金髪が綺麗だった。
「俺のことはオルハイドと呼んで下さい」
彼が淡々とした声音で言った。オルハイド、と何度か口の中で転がすように呟いたが、私はその名前をたった今初めて聞いたとしか思えなかった。でも、確かにオルハイドという名前は彼によく似合っている気がする。そういえばオルハイドというのは花の名前だと私は思い出した。花弁の形が羽を広げた蝶のように見える美しい花。
「あの、私の名前も教えて頂けますか?」
ローズマリー、と青年が答えた。やはり耳馴染みのない響きだ。私は少し首を傾げ、それから「オルハイド様」と呼びかけた。すると彼が訂正するように言う。
「オルハイド、と。呼び捨てで構いません」
「……以前はそう呼んでいたということですか?」
「ええ、そうです」
オルハイドは優しく瞬いて言葉を続けた。
「その記憶障害は魔法で治せる類のものではありません。ですが、これからも俺がそばで貴女をお世話するつもりです。……どうかあまり不安に思わないで下さい」
それを聞いて、私は不思議な気分になった。彼の言葉にはちゃんと夫としての愛情がこもっている。私からすれば彼は見ず知らずの他人だが、彼からすれば私は人生を分かち合う伴侶なのだろう。
オルハイドの手がのばされて私の頭にそっと触れる。思わず首をすくめてしまったけれど、その手は優しく気遣うように髪を撫でてくれた。彼は不器用な微笑みを浮かべていて、それが氷のような美貌にどこか温かみを与えているように見えた。
──きっと二人はとても良い夫婦だったんだわ。
まるで窓辺の景色を眺めるように、そう思った。
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