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第2章 〜生死・逃れえぬ老婦と喫茶店〜
老婦の悩み
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私はどうして生きているのか。
ふとした瞬間、そう考えてしまう。それは年老いたからなのか職業癖からくるものなのか分からないけれど、そう考えてしまうことが多くなった理由はある。
もうすぐ80を迎えることもそうだが、長年連れ添った夫が先に逝ってしまったことが大きな理由だ。他にも娘夫婦との関係、自身の周りに親しい人間関係がないことも挙げられる。
若い頃に感じていた全能感も、希望の見える不安も無くなってしまった。先に残ったのは自分が果たして生きていて良いのかという、死に対する恐れと興味だけ。
私はどうして生きているのか。ただ死を待つばかりの私が、どのように生きていけば良いのか。
私自身、分からないのだ。
――第2章~生死・逃れえぬ老婦と喫茶店~――
* * *
午前5時、日課の散歩をしている。私が生きてきた間で少しずつ変化していった色田市だが、変わっていないところもある。それは若干の海風と1年を通じて比較的暖かいことだ。ビルが建とうが住宅地が出来ようがそれはなんら変わりない。毎年数回現れる海辺の満月も、涙が出るほど美しい地平線の夕陽も。
けれど私は変わってしまったんだなぁと感じる。ずっと住んできたこの街とともに、歳を重ねてしまったから。
まだまだ動きはするが鈍くなった反射神経に、軋む関節、物忘れが酷くなった頭脳。刻まれたシワも、若干染めてはいるが、真っ白になった頭髪。そして長年連れ添った夫の死。きっと思い悩むようになったのはあそこが転機だ。静けさの中ひとり歩き、そう思う。
歩道の側にずっしりと立つ黒々したビルの窓ガラスに、朝陽が映る。すっかり登るのが早くなった太陽は夏を予感させるものだ。瞳の奥を刺すような光の刺激が目を細めさせる。しかし同時に、見たくないものまで映す。
それはガラス扉に映った、老ぼれの姿。よれたジャージを身にまとい、ショートヘアの白髪がみすぼらしく見える。極めつけはシワがれていて死相が現れたような顔。ところどころ影を付け、目は透明感を失っている。
それに思わず首を振り、足早にその場を後にする。どんな歳になっても、こんな顔は見たくないのだ。
そのままの勢いで帰路に着く。……もうすぐ人が増える時間帯になっていくだろう。そうなった時、こんな老婆が街中に居ては空気が澱んでしまう。早く家に篭ってしまおう。
* * *
国道沿いを曲がって住宅地に入り、その中の一軒家に鍵を開けて入る。家の中はシーンとしていて、朝だからか廊下の床は少し冷たい。
リビングに入ると、記入された原稿用紙と無数の本が乗せられたテーブルが目に飛び込んでくる。それぐるりを回って、和室へ向かう。8畳の空間にひっそり佇んでいる仏壇の前で座り、線香をあげる。そしておりんを鳴らして1枚の写真へと手を合わせる……しばらく目は瞑ったままだ。
特に言うこともないので、おはようとだけ煙に乗せて伝える。死後の世界や幽霊というのは科学的根拠がないけれど、私は信じている。そちらの方が、なんだかロマンチックな気がするもの。
瞼を上げ、立ち上がって和室を後にする。今日は……えっと、そうだ。娘夫婦がやってくる。
娘夫婦は定期的に一人暮らしとなった私の家に来る。夫が亡くなってしまう前は年に1度ほどの頻度だったが、亡くなってからは毎月だ。それが嫌というわけではないし、むしろ嬉しいぐらいだ。しかしなんだか2人に迷惑な気がして……私は気が引けてしまう。
娘夫婦には娘がいる。私にとっては孫だが、もう成人し遠くの地で暮らしているらしい。最後に会ったのはいつだろう?確か10年ほど前に会ったきりのはずだ。もうどんな顔をしていて、どんな声で、どんな名前だったかもよく覚えていない。
そんな状況なので子育てが終わった娘夫婦に子どもの心配をしているわけではなく……単純に、申し訳ないのだ。いくら親とはいえ、こんな老い先短い者のために2人が色々と心配をかけてくれるのが。
こんなことならばいっそ、2人と同居をすれば良いではないかと自分でも思ってしまう。しかし、ここを離れる気にはどうしてもなれないのだ。わがままであると分かってはいても、素直な想いに勝るものはない。
特にする必要はないが掃除をする。毎日暇で、同じようなところを掃除するもんだから、それらの場所はいつも埃一つ見当たらない。しかしそれ以外やることもないため、また掃除をする。
それから茶菓子の準備や2人を出迎える支度をしているうちに、昼になる。……確か午後2時ごろに着くとだけ言っていたはずだ。来るまでに昼食を取ってしまわないと。
台所の棚から手ごろなパンとお茶を取り出し、ゆっくりとよく噛んで食べる。近ごろは餅や他の食品で喉を詰まらせる事故も増えている。そうなってしまうのはあまりに悲しすぎる。なかなかに苦しそうで、考えただけで悪寒が走る。しかし他人事では無いのだ。
食べ終わるころにはすっかり昼下がりで、なんだか眠くなってしまうが昼寝はしない。せっかく色田市外から来てくれる娘夫婦に失礼があっては申し訳ない。
台所の流しで顔を洗い、無理やり目を覚まさせる。夏が顔を出したぐらいの冷水が1番気持ち良い。これでしばらくは眠くならなくて済むだろう。
娘夫婦を待っている間、テレビを点ける。……ここで1冊本を読んだり何か書き物をしたりすれば眠ってしまう。私にとってテレビは眠気覚ましにもってこいの手段なのだ。
ぼんやり見るテレビに映っているのは、「お宝オープン!」と高らかに言うコメディアンと、そのお宝を持ってきていた1人の中年男性。被せられた布がサッととれて、お宝の全貌が映し出される。見ればそれは焼き物だった。変な形状をしていてとても工芸品には見えないが、なんでも著名な人物が作成したものらしい。場面が変わり、紹介ムービーが流れ始める。
ムービーを見ているとどうもあの奇妙な焼き物は、お宝として持ってきた中年男性の両親が家宝として所有していたもののようだ。なんでも先祖から受け継いできたものだとか。果たして、いったいいくらの代物なのだろうか――
ピンポーン
……自宅のチャイムの音に少しだけ驚くが、すぐに娘夫婦が来たのだと分かった。惜しいところだがテレビを消し、玄関に向かう。
しかしどうにも、玄関扉をすぐに開く気にはなれなかった。
ふとした瞬間、そう考えてしまう。それは年老いたからなのか職業癖からくるものなのか分からないけれど、そう考えてしまうことが多くなった理由はある。
もうすぐ80を迎えることもそうだが、長年連れ添った夫が先に逝ってしまったことが大きな理由だ。他にも娘夫婦との関係、自身の周りに親しい人間関係がないことも挙げられる。
若い頃に感じていた全能感も、希望の見える不安も無くなってしまった。先に残ったのは自分が果たして生きていて良いのかという、死に対する恐れと興味だけ。
私はどうして生きているのか。ただ死を待つばかりの私が、どのように生きていけば良いのか。
私自身、分からないのだ。
――第2章~生死・逃れえぬ老婦と喫茶店~――
* * *
午前5時、日課の散歩をしている。私が生きてきた間で少しずつ変化していった色田市だが、変わっていないところもある。それは若干の海風と1年を通じて比較的暖かいことだ。ビルが建とうが住宅地が出来ようがそれはなんら変わりない。毎年数回現れる海辺の満月も、涙が出るほど美しい地平線の夕陽も。
けれど私は変わってしまったんだなぁと感じる。ずっと住んできたこの街とともに、歳を重ねてしまったから。
まだまだ動きはするが鈍くなった反射神経に、軋む関節、物忘れが酷くなった頭脳。刻まれたシワも、若干染めてはいるが、真っ白になった頭髪。そして長年連れ添った夫の死。きっと思い悩むようになったのはあそこが転機だ。静けさの中ひとり歩き、そう思う。
歩道の側にずっしりと立つ黒々したビルの窓ガラスに、朝陽が映る。すっかり登るのが早くなった太陽は夏を予感させるものだ。瞳の奥を刺すような光の刺激が目を細めさせる。しかし同時に、見たくないものまで映す。
それはガラス扉に映った、老ぼれの姿。よれたジャージを身にまとい、ショートヘアの白髪がみすぼらしく見える。極めつけはシワがれていて死相が現れたような顔。ところどころ影を付け、目は透明感を失っている。
それに思わず首を振り、足早にその場を後にする。どんな歳になっても、こんな顔は見たくないのだ。
そのままの勢いで帰路に着く。……もうすぐ人が増える時間帯になっていくだろう。そうなった時、こんな老婆が街中に居ては空気が澱んでしまう。早く家に篭ってしまおう。
* * *
国道沿いを曲がって住宅地に入り、その中の一軒家に鍵を開けて入る。家の中はシーンとしていて、朝だからか廊下の床は少し冷たい。
リビングに入ると、記入された原稿用紙と無数の本が乗せられたテーブルが目に飛び込んでくる。それぐるりを回って、和室へ向かう。8畳の空間にひっそり佇んでいる仏壇の前で座り、線香をあげる。そしておりんを鳴らして1枚の写真へと手を合わせる……しばらく目は瞑ったままだ。
特に言うこともないので、おはようとだけ煙に乗せて伝える。死後の世界や幽霊というのは科学的根拠がないけれど、私は信じている。そちらの方が、なんだかロマンチックな気がするもの。
瞼を上げ、立ち上がって和室を後にする。今日は……えっと、そうだ。娘夫婦がやってくる。
娘夫婦は定期的に一人暮らしとなった私の家に来る。夫が亡くなってしまう前は年に1度ほどの頻度だったが、亡くなってからは毎月だ。それが嫌というわけではないし、むしろ嬉しいぐらいだ。しかしなんだか2人に迷惑な気がして……私は気が引けてしまう。
娘夫婦には娘がいる。私にとっては孫だが、もう成人し遠くの地で暮らしているらしい。最後に会ったのはいつだろう?確か10年ほど前に会ったきりのはずだ。もうどんな顔をしていて、どんな声で、どんな名前だったかもよく覚えていない。
そんな状況なので子育てが終わった娘夫婦に子どもの心配をしているわけではなく……単純に、申し訳ないのだ。いくら親とはいえ、こんな老い先短い者のために2人が色々と心配をかけてくれるのが。
こんなことならばいっそ、2人と同居をすれば良いではないかと自分でも思ってしまう。しかし、ここを離れる気にはどうしてもなれないのだ。わがままであると分かってはいても、素直な想いに勝るものはない。
特にする必要はないが掃除をする。毎日暇で、同じようなところを掃除するもんだから、それらの場所はいつも埃一つ見当たらない。しかしそれ以外やることもないため、また掃除をする。
それから茶菓子の準備や2人を出迎える支度をしているうちに、昼になる。……確か午後2時ごろに着くとだけ言っていたはずだ。来るまでに昼食を取ってしまわないと。
台所の棚から手ごろなパンとお茶を取り出し、ゆっくりとよく噛んで食べる。近ごろは餅や他の食品で喉を詰まらせる事故も増えている。そうなってしまうのはあまりに悲しすぎる。なかなかに苦しそうで、考えただけで悪寒が走る。しかし他人事では無いのだ。
食べ終わるころにはすっかり昼下がりで、なんだか眠くなってしまうが昼寝はしない。せっかく色田市外から来てくれる娘夫婦に失礼があっては申し訳ない。
台所の流しで顔を洗い、無理やり目を覚まさせる。夏が顔を出したぐらいの冷水が1番気持ち良い。これでしばらくは眠くならなくて済むだろう。
娘夫婦を待っている間、テレビを点ける。……ここで1冊本を読んだり何か書き物をしたりすれば眠ってしまう。私にとってテレビは眠気覚ましにもってこいの手段なのだ。
ぼんやり見るテレビに映っているのは、「お宝オープン!」と高らかに言うコメディアンと、そのお宝を持ってきていた1人の中年男性。被せられた布がサッととれて、お宝の全貌が映し出される。見ればそれは焼き物だった。変な形状をしていてとても工芸品には見えないが、なんでも著名な人物が作成したものらしい。場面が変わり、紹介ムービーが流れ始める。
ムービーを見ているとどうもあの奇妙な焼き物は、お宝として持ってきた中年男性の両親が家宝として所有していたもののようだ。なんでも先祖から受け継いできたものだとか。果たして、いったいいくらの代物なのだろうか――
ピンポーン
……自宅のチャイムの音に少しだけ驚くが、すぐに娘夫婦が来たのだと分かった。惜しいところだがテレビを消し、玄関に向かう。
しかしどうにも、玄関扉をすぐに開く気にはなれなかった。
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