9 / 17
第1章 〜喪失・失った青年と喫茶店〜
喪失と赤い石
しおりを挟む「……えっ?」
するとツーッと、頬に温かいものが通った。触ってみればそれは水。いつの間に、ガラスコップに入っていたはずの水が顔に付いたんだろう?そう思っているともう片方の頬にも、温かい水。
それはしばらく止むことなく流れ続けた。声は出ないし別に泣いているわけでもない。しかし、溢れ続けた。ただ自然と溢れていた。
脳に巡る思考は先ほどから同じで、ただ俺はどうすれば良かったのかという問いだけだった。けれど、涙を皮切りに別の言葉が湧き出てきた。
「ツムギさん、俺……」
それからポツポツと、ツムギさんに話し始めた。プロ野球選手になるのが夢だったこと。肩を壊してしまったことで野球を辞めてしまったこと。そして先ほど妹のミカと喧嘩しここに来たこと。ゆっくりと、出来上がってしまった氷を溶かすように話した。涙は依然として流れていたが、あまり気にはならなかった。少し恥ずかしかったけれど。
ツムギさんはそんな俺の話を、一切口を挟むことなく静かに聞いてくれた。俺はそれを見て思った。
ああ、だからここは居心地が良かったんだ、と。
* * *
話し終えるころには午後9時半を過ぎていた。ツムギさんは話し終えた俺に一杯のコーヒーをくれた。「サービスです」とだけ告げて。俺はそのコーヒーを飲んだ時、今までにない清涼感を感じた。きっと特別なものなんだろうと思った。けれど少しだけ、しょっぱかった。
「……そんなことがあったんですね」
「はい……。それで俺、どうしたらいいのか分からなくて」
ツムギさんはいつの間にか俺の座っている席の横にいた。椅子に座って、こちらを見ている。
「妹のミカがどうして急にそんなことを言ったのかも、これから俺がどうしたいかも……すみません、ホント急にこんなこと」
「いいんですよ。もともとここは、そういう人のためにある場所ですから」
「え、でもここ喫茶店ですよね?」
「はい、喫茶店ですよ」
あっけらかんと言うツムギさんに俺はどう反応したらよいか分からなかったが、ツムギさんが言うのだから、きっとそうなのだろう。
「バッティングセンター、ありますよね?」
「あ、はい」
「バッティングセンターも、ボールを打つという行為はみな等しいですけど、来る理由はさまざまですよね?」
確かにそうだ。単純に野球でのバッティングが上手くなりたくて来る人もいるが、それだけではない。野球のバントをしに来る人もいれば、はたまたストレス発散やバッティングの爽快感を求めて来る人もいる。
「それと同じ感じです。とくにここは、そういった場所であって欲しいと願って作った喫茶店ですから、アキラさんみたいな人に来て欲しいのです」
「へぇ……」
「ここの喫茶店の名前……『アウローラ』というのはそうした願いから付けた名前です」
「アウローラ。そうか、夜明け……」
「ですから、その夜明けに導くのも店主である私の役目です」
そう言って、ツムギさんは首に着いているネックレスを取り始めた。いったい何をする気なんだろうと思っていると、ツムギさんが言った。
「ここに付いている赤い石に、触れて、目を閉じてください」
「え、えっ?」
「この石には、ある不思議な力があります。きっとアキラさんが求めているものが見られるはずです」
「求めているもの……」
急にオカルトチックな話が出てきてしまい困惑したが、今はそんなことに動揺している場合じゃない。それにこう話すツムギさんの目は、真剣そのものだった。優しい笑みに乗せられた真っ直ぐに深い青の眼。力強く、それでいて柔らかい。矛盾しているが真理的なものだ。それだけで、信じる価値を持たせる。
言われたとおり、ツムギさんの手のひらに置かれたネックレスの先の赤い石に触れ、目をゆっくり閉じる……。じんわり感じるツムギさんの手の温もりと、徐々に温かくなっていく赤い石。ふわりと香るコーヒーの落ち着く匂い。
しばらく触れていると、喫茶店の中に風を感じる。どこかで触れたことのある、水気を帯びた風。草木の揺れる音と砂ぼこりの感触。遠くでは誰かが俺を呼んでいる。この声は、誰だ?
……だんだん近づいてくる。それに伴って、やけに喫茶店内がうるさく感じる。物音が増えていって――あれ、コーヒーの香りがしない?これは――
「お兄ちゃん!!」
声にハッとして、目を開ける。
そこにはいつかのミカと、おれがいた。思わず辺りを見渡し、それが幻想や妄想ではなく現実のものだと知る。
いつの間にか俺は、いつかの河川敷にいた。手や脚はいつもの俺。しかし目の前には、幼い妹のミカと、幼い、おれ。周囲に人はおらず、先ほどまでいたはずのツムギさんはいない。喫茶店も当然なかった。……いったい、なにが――
「やっぱりミカは上手いなー!」
「えっへへ、そうでしょ!」
もう一度幼いミカとおれを見る。どうやらまたキャッチボールをしているらしく、互いにボールを投げ合いながら会話をしているようだ。
お揃いのグローブに、色違いの服を着て、同じボールを投げ合っている。こんな時期もあったなぁ……。
そう思って懐かしむように見ていると突然、おれがボールをとって投げずにいる。ミカは首を傾げ、グローブをパカパカしている。
「なぁミカ」
「ん?なぁに~?」
「ミカもさ、一緒にプロ目指そうよ」
おれが言う。
「どうして?ミカ、別にそこまで野球好きじゃないよ?」
「……だって、ミカ野球上手いだろ?プロ目指してみてもいいじゃんか」
そう言って、おれが投げる。ポスッという音とともに、ミカのグローブに届く。しかしミカはそのままボールを持って、先ほどのおれのように投げなかった。
「ミカね、お兄ちゃんと野球ができればいいの。正直、お兄ちゃんがプロ目指すのもちょっぴり反対だし」
「え!?」
そうだったっけ……?俺は記憶を辿るが、どうにも思い出せそうになかった。続けてミカが言う。
「ミカはね……なによりも楽しそうに野球してるのが好きなの!いちばん頑張ってて、いちばん楽しそうなお兄ちゃんが、好きなの!」
「だから、そのままでいてねっ!」
……ミカが精一杯投じたボールは、おれのグローブに力強く届く。おれはボールを持って、投球モーションを取りながら言う。
「じゃあ、約束なっ!」
投じられた球は先ほど投げた時よりも強く、ミカのグローブを震わせる。それからおれは、続ける。
「お兄ちゃんは、ずっと野球続けるよ!プロになれなくても……ずっと!!」
「ほんとっ!?……ふふっ、約束ねお兄ちゃん!」
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】貴方をお慕いしておりました。婚約を解消してください。
暮田呉子
恋愛
公爵家の次男であるエルドは、伯爵家の次女リアーナと婚約していた。
リアーナは何かとエルドを苛立たせ、ある日「二度と顔を見せるな」と言ってしまった。
その翌日、二人の婚約は解消されることになった。
急な展開に困惑したエルドはリアーナに会おうとするが……。
【完結】捨ててください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。
でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。
分かっている。
貴方は私の事を愛していない。
私は貴方の側にいるだけで良かったのに。
貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。
もういいの。
ありがとう貴方。
もう私の事は、、、
捨ててください。
続編投稿しました。
初回完結6月25日
第2回目完結7月18日
【完結】家族にサヨナラ。皆様ゴキゲンヨウ。
くま
恋愛
「すまない、アデライトを愛してしまった」
「ソフィア、私の事許してくれるわよね?」
いきなり婚約破棄をする婚約者と、それが当たり前だと言い張る姉。そしてその事を家族は姉達を責めない。
「病弱なアデライトに譲ってあげなさい」と……
私は昔から家族からは二番目扱いをされていた。いや、二番目どころでもなかった。私だって、兄や姉、妹達のように愛されたかった……だけど、いつも優先されるのは他のキョウダイばかり……我慢ばかりの毎日。
「マカロン家の長男であり次期当主のジェイコブをきちんと、敬い立てなさい」
「はい、お父様、お母様」
「長女のアデライトは体が弱いのですよ。ソフィア、貴女がきちんと長女の代わりに動くのですよ」
「……はい」
「妹のアメリーはまだ幼い。お前は我慢しなさい。下の子を面倒見るのは当然なのだから」
「はい、わかりました」
パーティー、私の誕生日、どれも私だけのなんてなかった。親はいつも私以外のキョウダイばかり、
兄も姉や妹ばかり構ってばかり。姉は病弱だからと言い私に八つ当たりするばかり。妹は我儘放題。
誰も私の言葉を聞いてくれない。
誰も私を見てくれない。
そして婚約者だったオスカー様もその一人だ。病弱な姉を守ってあげたいと婚約破棄してすぐに姉と婚約をした。家族は姉を祝福していた。私に一言も…慰めもせず。
ある日、熱にうなされ誰もお見舞いにきてくれなかった時、前世を思い出す。前世の私は家族と仲良くもしており、色々と明るい性格の持ち主さん。
「……なんか、馬鹿みたいだわ!」
もう、我慢もやめよう!家族の前で良い子になるのはもうやめる!
ふるゆわ設定です。
※家族という呪縛から解き放たれ自分自身を見つめ、好きな事を見つけだすソフィアを応援して下さい!
※ざまあ話とか読むのは好きだけど書くとなると難しいので…読者様が望むような結末に納得いかないかもしれません。🙇♀️でも頑張るます。それでもよければ、どうぞ!
追加文
番外編も現在進行中です。こちらはまた別な主人公です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる