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第1章 〜喪失・失った青年と喫茶店〜
青年は止まる
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夢を、見ていた。
そのために俺は、俺の人生のほとんどを野球に費やした。必要な勉強はした。必要なトレーニングもした。プロになって、悠然とグラウンドを駆ける姿を。俺のプレーが、誰かに夢を見せる姿を。何度も何度もなんども、夢見た。
そのおかげで、私立の強豪校に入れた。一年の秋にはスタメンを勝ち取り、あと少しで春の甲子園も届きそうだった。惜しいところで負けてしまったが、夏こそは……夏こそは、このメンバーでいけると感じた。
肩に違和感を感じたのは、そのあとだった。
病院での診断は、きっと誰かの嘘なのだろうと思った。趣味の悪いドッキリだとも思った。けれど違った。診断書に書かれた文字の意味、医者の視線、そして付き添ってくれた母の悲痛な面持ち。これらが、俺に現実だと突きつけた。
もうボールは、思い切り投げられない。
わけが、分からなかった。
だってそうだ。俺がどれほどの時間を野球に費やしてきたと思ってる。どれだけ張り詰めていたと思っている。許せない……許せないゆるせないゆるせないゆるせない。
けれど、どれだけ恨んだとしても、怒ったとしても。もう元には戻らない。それが分かったとき――
野球の全てが、どうでも良くなった――。
――第1章 ~喪失・失った青年と喫茶店~ ――
* * *
「もちろん、アキラの意思は尊重する。前と同じようにプレーが出来なくなってしまったことも、顧問としては残念でならない……。でも、なにも部活を辞めなくとも――」
「いえ、もう決めたことです。……これまで、お世話になりました。次の授業があるので失礼します」
「お、おう……」
そう告げ、足早に体育教官室を出る。そして廊下を駆ける。幸い廊下に人はいない。次の授業がもう始まってしまっているからだ。……クソっ!
前と同じようにプレーが出来なくて、残念?……所詮、他人のくせに何を言うか。お前が俺の何を知っていると言うのだ。この中年独身デブがっ!
退部届を休み時間に出そうとしたらこれだ。おかげさまで、本鈴が鳴ってしまった。駆け足で階段を登る。体育教官室から俺の所属しているクラスまでは3階分の階段がある。息を切らしつつ、右肩をなるべく刺激しないよう走る。
自分のクラスの引き戸を開ける。思いのほか強く開けてしまったからか、引き戸がガラッと大きな音を立ててしまい、クラス内にいる生徒、教員が一斉にこちらを見る。俺はすぐさま「……すみません」と小さく言って、頭を下げながら自身の席についた。
「どうした赤松、大便かー?」
数人の生徒がクスクスと笑う。それとは別に、女子数人が「平林、キモ……」と小さく言っている。平林先生は、この下品な発言がウケたと思っているようで、こちらをニマニマと見ている。
「……少し、鈴木先生と話をしていました。遅れてしまって、すみません」
「そうかウンコじゃないのかぁ~。……ま、気をつけろよ~」
変わらずニマニマしながら、視線を黒板に移す。俺はそんな下品な顔から逃げるように教科書とノートを取り出し、遅れた分の板書をサッと済ませ、平林の話をぼんやりと聞いた。
ふと外を見れば、前まで俺が転がったり走ったりしていた黒土のグラウンドが見える。思わず、視線を逸らした。あまり見ていて気持ちの良いものではないから。前まで、あれだけ好きで情熱を持ってやっていたことが、これほどまでに憎く気分の良くないものになるとは思っていなかった。
こう思ってしまうのは、俺が費やしたさまざまなものが無駄になってしまったから。裏切られたと思った。これだけ真面目に、夢に向かっていたにもかかわらず俺は裏切られたのだ。まだやりたいことがあった。目指したいものがあった。なのにどうして、どうして。
……こんな自問自答を何度も繰り返した。そのたびに思い知らされる。俺はもう、満足に野球が出来ないってことを。だから嫌いになった。そうすることでしか、俺は目を背けられないから。
チャイムが鳴る。クラスの総代が号令をかけ、立ち上がり礼をする。いつの間にか授業は終わって昼休みの時間となっていた。鞄から弁当を取り出し机の上に広げていると、周りに見知った奴らが来た。
「アキラ、ホントはうんこだろ?」
「隠さなくていいんだぜ~?」
「……ホントにちげーよ。鈴木と話してきた」
机を動かし、俺の席の前に座るのはユウトとキョウスケ。同じ野球部……だった奴らだ。こうして昼休みは3人で昼食を取るのだが、どうも今日はそんな気になれない。
「鈴木となに話すんだよ。アイツ、野球のことしか考えてないだろ」
「それな~。……あ、そういや怪我はどうだったんだ~?」
黙々と食べる俺に問うのはキョウスケ。2人は箸を止め、こちらをジッと見ている。そう、彼らに俺の怪我の状況を伝えていないのだ。……正直、今は話したくないと思ってしまった。
答えない俺にしびれを切らしたのか、再度キョウスケは聞いてくる。
「なあどうだったんだよ~。夏には間に合いそうか?」
「……もしかして、結構ヤバい感じなのか?」
またも沈黙が訪れる。他のグループの喧騒がいつもの倍ぐらいに聞こえる。しかしそんな中でも俺は弁当を黙々と食べ進め、やがて空になった弁当をサッと片付けて立ち上がる。……やっぱりどうも、今日は話したくない。
俺の行動をどう捉えたのかは分からないが、2人は無言で立ち上がる俺を静かに見ていた。未だ箸は止まったままだ。
「すまん、今日早退する」
「お、おう……」
「どっか体調でも悪いのか~?気をつけろよ~」
俺がそう告げると、ユウトは困惑気味に返事をした。キョウスケは普段通りマイペースだ。しかしどちらも深く言及はしてこない。それが、今の俺にとってはありがたかった。
「それじゃ、また明日な」
* * *
荷物を持って職員室に寄り、担任に早退する旨を伝え、校門前に立つ現在。さて……これからどうしようか?自分に問いかける。どうしたいかという問いに対する答えは反射的に出された。……どうも今日は歩きたい気分だ。よし、駅の方にでも行ってみよう。
そう思い立って、駅方面に歩き出す。学校から近いのは色田駅だ。もう一つ、色田東駅があるのだが、あちらは少し遠い。そこまで歩きたいわけではない。
路傍の石をコツンとひと蹴りして、俺は1人、色田駅へと歩き出した。
そのために俺は、俺の人生のほとんどを野球に費やした。必要な勉強はした。必要なトレーニングもした。プロになって、悠然とグラウンドを駆ける姿を。俺のプレーが、誰かに夢を見せる姿を。何度も何度もなんども、夢見た。
そのおかげで、私立の強豪校に入れた。一年の秋にはスタメンを勝ち取り、あと少しで春の甲子園も届きそうだった。惜しいところで負けてしまったが、夏こそは……夏こそは、このメンバーでいけると感じた。
肩に違和感を感じたのは、そのあとだった。
病院での診断は、きっと誰かの嘘なのだろうと思った。趣味の悪いドッキリだとも思った。けれど違った。診断書に書かれた文字の意味、医者の視線、そして付き添ってくれた母の悲痛な面持ち。これらが、俺に現実だと突きつけた。
もうボールは、思い切り投げられない。
わけが、分からなかった。
だってそうだ。俺がどれほどの時間を野球に費やしてきたと思ってる。どれだけ張り詰めていたと思っている。許せない……許せないゆるせないゆるせないゆるせない。
けれど、どれだけ恨んだとしても、怒ったとしても。もう元には戻らない。それが分かったとき――
野球の全てが、どうでも良くなった――。
――第1章 ~喪失・失った青年と喫茶店~ ――
* * *
「もちろん、アキラの意思は尊重する。前と同じようにプレーが出来なくなってしまったことも、顧問としては残念でならない……。でも、なにも部活を辞めなくとも――」
「いえ、もう決めたことです。……これまで、お世話になりました。次の授業があるので失礼します」
「お、おう……」
そう告げ、足早に体育教官室を出る。そして廊下を駆ける。幸い廊下に人はいない。次の授業がもう始まってしまっているからだ。……クソっ!
前と同じようにプレーが出来なくて、残念?……所詮、他人のくせに何を言うか。お前が俺の何を知っていると言うのだ。この中年独身デブがっ!
退部届を休み時間に出そうとしたらこれだ。おかげさまで、本鈴が鳴ってしまった。駆け足で階段を登る。体育教官室から俺の所属しているクラスまでは3階分の階段がある。息を切らしつつ、右肩をなるべく刺激しないよう走る。
自分のクラスの引き戸を開ける。思いのほか強く開けてしまったからか、引き戸がガラッと大きな音を立ててしまい、クラス内にいる生徒、教員が一斉にこちらを見る。俺はすぐさま「……すみません」と小さく言って、頭を下げながら自身の席についた。
「どうした赤松、大便かー?」
数人の生徒がクスクスと笑う。それとは別に、女子数人が「平林、キモ……」と小さく言っている。平林先生は、この下品な発言がウケたと思っているようで、こちらをニマニマと見ている。
「……少し、鈴木先生と話をしていました。遅れてしまって、すみません」
「そうかウンコじゃないのかぁ~。……ま、気をつけろよ~」
変わらずニマニマしながら、視線を黒板に移す。俺はそんな下品な顔から逃げるように教科書とノートを取り出し、遅れた分の板書をサッと済ませ、平林の話をぼんやりと聞いた。
ふと外を見れば、前まで俺が転がったり走ったりしていた黒土のグラウンドが見える。思わず、視線を逸らした。あまり見ていて気持ちの良いものではないから。前まで、あれだけ好きで情熱を持ってやっていたことが、これほどまでに憎く気分の良くないものになるとは思っていなかった。
こう思ってしまうのは、俺が費やしたさまざまなものが無駄になってしまったから。裏切られたと思った。これだけ真面目に、夢に向かっていたにもかかわらず俺は裏切られたのだ。まだやりたいことがあった。目指したいものがあった。なのにどうして、どうして。
……こんな自問自答を何度も繰り返した。そのたびに思い知らされる。俺はもう、満足に野球が出来ないってことを。だから嫌いになった。そうすることでしか、俺は目を背けられないから。
チャイムが鳴る。クラスの総代が号令をかけ、立ち上がり礼をする。いつの間にか授業は終わって昼休みの時間となっていた。鞄から弁当を取り出し机の上に広げていると、周りに見知った奴らが来た。
「アキラ、ホントはうんこだろ?」
「隠さなくていいんだぜ~?」
「……ホントにちげーよ。鈴木と話してきた」
机を動かし、俺の席の前に座るのはユウトとキョウスケ。同じ野球部……だった奴らだ。こうして昼休みは3人で昼食を取るのだが、どうも今日はそんな気になれない。
「鈴木となに話すんだよ。アイツ、野球のことしか考えてないだろ」
「それな~。……あ、そういや怪我はどうだったんだ~?」
黙々と食べる俺に問うのはキョウスケ。2人は箸を止め、こちらをジッと見ている。そう、彼らに俺の怪我の状況を伝えていないのだ。……正直、今は話したくないと思ってしまった。
答えない俺にしびれを切らしたのか、再度キョウスケは聞いてくる。
「なあどうだったんだよ~。夏には間に合いそうか?」
「……もしかして、結構ヤバい感じなのか?」
またも沈黙が訪れる。他のグループの喧騒がいつもの倍ぐらいに聞こえる。しかしそんな中でも俺は弁当を黙々と食べ進め、やがて空になった弁当をサッと片付けて立ち上がる。……やっぱりどうも、今日は話したくない。
俺の行動をどう捉えたのかは分からないが、2人は無言で立ち上がる俺を静かに見ていた。未だ箸は止まったままだ。
「すまん、今日早退する」
「お、おう……」
「どっか体調でも悪いのか~?気をつけろよ~」
俺がそう告げると、ユウトは困惑気味に返事をした。キョウスケは普段通りマイペースだ。しかしどちらも深く言及はしてこない。それが、今の俺にとってはありがたかった。
「それじゃ、また明日な」
* * *
荷物を持って職員室に寄り、担任に早退する旨を伝え、校門前に立つ現在。さて……これからどうしようか?自分に問いかける。どうしたいかという問いに対する答えは反射的に出された。……どうも今日は歩きたい気分だ。よし、駅の方にでも行ってみよう。
そう思い立って、駅方面に歩き出す。学校から近いのは色田駅だ。もう一つ、色田東駅があるのだが、あちらは少し遠い。そこまで歩きたいわけではない。
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