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終章
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空色の瞳に影をかけてゆく。
事前に下書きしていた部分にマルをつけ、追加情報として『濃淡を海の如く』の文言を、その横に書き加える。
色鉛筆を握りかえて再び画用紙に入る。黒、青、黄、白が混ざり合う世界に命を宿すように、血の色を巡らせてゆく。そこまでの作業をして時計を見れば、長針が『9』の時をいまにも指そうとしていた。
窓辺から離れた机にも、朝の匂いを含んだ風と、暖かく足下を包む陽光が届く。――ひと息つこう。そうして丸めていた背中を楽にするために大きく伸びをして、肺いっぱいに空気を取り込み、吐き出す。心地の良い深呼吸と眼前に存在する画用紙で身が震え、おもわず腕をさする。……いくらか暖かくなってきた昨今とはいえ、やはりまだまだ冬の香りを残すこの初春。少し眉をひそめてから、その寒気にフッと口端を上げてから、椅子から立ち上がり、作業部屋を後にする。
洗面台に向かって顔を洗い、身支度をして玄関へと向かう。その工程はさながら一人の職人のようにスムーズで、いつも通り。「行ってきます」と、今は誰も居ない自宅へ向かって声をかけ、少しばかり軋む玄関扉を開けて、そしてきちんと閉める。
あの、不思議で確かな日々から数年――俺は今でも、片時も。あの日々を思い出してはこうして、目的もなく散歩に出かけるのだ。
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交通量の多さと道幅の広さを主とする国道『1』号から少し横にある道を、のんびりゆっくりと歩く。一昨日に降った雨で散ってしまった花があれば、その雨水を飲んで成長し、春の訪れを自らの緑と花の色で表すものもあった。きっと世界はそうして回っている。散歩に出るたびにそうして自己と世界とをかえりみているのも、なんだかおかしな話ではあるが。
悠然とそびえ立つ富士山に雲が少しばかりかかって、一瞬雨を心配したが、笠雲ではないのですぐに心配が安堵に変わる。十字路を右に曲がってみれば、歩いているのは老人ばかり。それもそのはず、なにしろ今日は平日である。こんな時間に二十代の男が歩いている方が珍しい。こうして歩けているのも仕事柄である。在宅で一人集中していれば出来る仕事なのだから当然と言えば当然だ。
そうしてある程度歩いたところで、いつも休憩場所として使っている寂れた公園のベンチへと向かった。あそこは人が来なくて助かる。とにかくゆっくりと、自然の中で、息ができる。木々が数本立ち並び、今にもはち切れそうな蕾を何個も抱えて、春を待っている。公園の遊具は手入れがされていないのか、塗装が剥がれ、錆が遊具の半分を飲み込んでいる。ブランコに滑り台に……いや、それだけである。以前まであったであろうシーソーや、パンダやウサギがモチーフであった騎乗具が撤去されたらしき跡が残っている。昨今の風潮だろうか、そうして無くなってしまった遊具たちに憐れみを覚えつつ、ベンチから立ち上がり、蜘蛛の巣が張った自販機へと向かう。
ガシャン、と買った水が音を立てて落ちる。それに続けて小銭がカラカラと落ち、水を取ってから小銭も回収する。すると背後で必死にボタンを連打する人物がいた。よく知っている、見慣れた柄の入ったTシャツとダボついたズボン、そして土のついたスニーカーを履く人物。そいつは目線を向けた俺にニヤリと片頬をあげてこちらに笑う。それに小さくため息をつき、先ほど回収した小銭を投入口へと入れる。するとそいつは迷いなく炭酸飲料を押し、ガシャンと落ちてきた炭酸飲料を取って、俺が座っていたベンチへと向かう。それに続いて、そいつの横に座る。
座って蓋を開け、喉を鳴らして水を体内に取り込む。散歩の休憩で飲む水が、一番美味しい。横ではプシュッと心地良いさわやかな音を立てて蓋を開け、ゴクゴクと飲んでから気持ちの良い息を吐く音が聞こえる。無言のうちに奢らされた側としては、なんとも形容しがたい不満に似た感情が脳を駆け巡る。そしてゆっくりと底に沈んでいき、ひと息ついてから話し始めた。
「もう仕事は終わったのか、虹輝」
「あたぼうよ。じゃなきゃここに来てねぇっつうの。ああ、徹夜明けの散歩は控えた方が良さそうだな、このサイダーは格別だけど」
「目線だけで奢らされた俺の気持ちも考えてくれ……」
「お疲れの仕事人を労うってのが、仕事仲間の役目だろ?」
「はぁ……今度会った時、きっちり奢ってもらうからな」
「はいはい、覚えてたらな」
そうして互いにもう一度喉を鳴らし、身体に水分と心地良さを沁み渡らせる。
虹輝と俺はイラストレーターになった。在りし日の大学時代、虹輝からSNSでの立ち回りや人気の出し方を学び、知名度と少ない仕事を得た。そのお陰で、大学を卒業する頃には、互いに大小の仕事をいくつか、休みが無いぐらいには受けられるようになっていた。それもそのはず、4回生の後期までギリギリの単位数で立ち回らざるを得なかったほど、俺たちは絵に没頭していた。いま思えば、あのまま芽が出ず路頭に迷っていた世界線だってあったはず……そう考えると少しゾッとするが、当時はそんなこと、微塵も思っていなかった。ひとえに俺と虹輝が描く絵が上手いだろう、というのもあったが、なにか確信めいたものがあったのも、間違いない。
そうして何故か似たようなところに住む、ということにもなって、たまに散歩やご飯に行く。と言ってもこうして予定が合うこともないため、基本的にはスマホ上での繋がりが主である。もちろん仕事が被って連絡を取りあうこともあるが。
遠くにそびえる山々を見つつ最近起きた出来事や仕事上での細かな連絡事項、絵の話などをのんびり絶え間なく話していると、ふと何かを思い出したかのように虹輝が話し出す。
「そういえばお前、妹は元気か?てかもう海歌ちゃん紹介してくれよ~。これでも結婚願望は残ってるからさ」
「元気そうだけど……てか、お前に紹介するぐらいなら、とっくに誰かほかのマシな男に紹介してるっつーの。お前に海歌は紹介しねぇよ。うん、絶対しない、てか面識あるじゃねえか」
「まあそうだけどさ……なんかこう、ほら!ちゃんとお見合いみたいな感じで紹介してくれよ。それでちょっと意識づけみたいな――」
「やらん、ぜったい、やらん」
そう言って立ち上がり、備え付けのゴミ箱に空になったペットボトルを入れる。背伸びをする横で虹輝も飲み干したペットボトルを勢いよくゴミ箱にシュートし、同じように背筋を伸ばす。そうしてとぼとぼと公園から出て、並んで歩く。いつも通り、虹輝の家まで俺もいっしょに歩き、きちんと送り届けるために。別に心配などではない。流れでそう決まっているだけである。歩きながら虹輝はふーっとため息を吐き、再び会話を始める。
「良いよなぁ~お前には海夏ちゃんが居てさ……どうせそのまま結婚するんだろ?」
「まあ、いずれそうなれば良いな、とは思ってるけど……このままいけば、の話だな」
「けっ、それは結婚するやつの言うことさ。はぁ~……良いなぁ大事にしろよ?」
「言われなくても、な」
そうしてまた無言になり、歩く。車通りは依然として多く、通り抜けるたびに木々や草花が揺れて、その香りを漂わせる。その風を受けながら黙々と歩き、やがて虹輝が住むマンションの前に着く。手を挙げて端的に別れを告げ、帰路に着く。二人ではなく一人で歩くのは、少しばかり寂しくはあるが。
それでも一人で歩くのは楽しい。あの日それが運命であったように、こうして散歩を日常的にしているのもまた定められた俺の習性であり運命なのだと思う。あの出来事がなければ運命だの宿命だの、所詮は人のまやかしやまぼろしに過ぎないと思っていただろう。でも、交わった運命の特異点を通過した俺ならば、その特別で当たり前の存在を馬鹿らしく感じたり、ないがしろにしたりする気は毛頭ない。むしろそれを大事にしたい。だからこうして散歩をして、また運命の交点に向かって、歩いているのだ。
だんだんと昼に近づくにつれて暖かくなっていく空気を感じながら、履いている運動靴がコンクリートと奏でる徒歩音を聴き、またも在りし日の出来事に想いを馳せて、ただ歩く。そこに車と人々の生活音が入って時折めんどうに感じたり鬱陶しく感じたりするのだが、それもかまわない。ただ俺はそうして、他人と決して共有することのない、刹那の偶然と呼ばれる運命の今を、歩き続けるのだ。
事前に下書きしていた部分にマルをつけ、追加情報として『濃淡を海の如く』の文言を、その横に書き加える。
色鉛筆を握りかえて再び画用紙に入る。黒、青、黄、白が混ざり合う世界に命を宿すように、血の色を巡らせてゆく。そこまでの作業をして時計を見れば、長針が『9』の時をいまにも指そうとしていた。
窓辺から離れた机にも、朝の匂いを含んだ風と、暖かく足下を包む陽光が届く。――ひと息つこう。そうして丸めていた背中を楽にするために大きく伸びをして、肺いっぱいに空気を取り込み、吐き出す。心地の良い深呼吸と眼前に存在する画用紙で身が震え、おもわず腕をさする。……いくらか暖かくなってきた昨今とはいえ、やはりまだまだ冬の香りを残すこの初春。少し眉をひそめてから、その寒気にフッと口端を上げてから、椅子から立ち上がり、作業部屋を後にする。
洗面台に向かって顔を洗い、身支度をして玄関へと向かう。その工程はさながら一人の職人のようにスムーズで、いつも通り。「行ってきます」と、今は誰も居ない自宅へ向かって声をかけ、少しばかり軋む玄関扉を開けて、そしてきちんと閉める。
あの、不思議で確かな日々から数年――俺は今でも、片時も。あの日々を思い出してはこうして、目的もなく散歩に出かけるのだ。
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交通量の多さと道幅の広さを主とする国道『1』号から少し横にある道を、のんびりゆっくりと歩く。一昨日に降った雨で散ってしまった花があれば、その雨水を飲んで成長し、春の訪れを自らの緑と花の色で表すものもあった。きっと世界はそうして回っている。散歩に出るたびにそうして自己と世界とをかえりみているのも、なんだかおかしな話ではあるが。
悠然とそびえ立つ富士山に雲が少しばかりかかって、一瞬雨を心配したが、笠雲ではないのですぐに心配が安堵に変わる。十字路を右に曲がってみれば、歩いているのは老人ばかり。それもそのはず、なにしろ今日は平日である。こんな時間に二十代の男が歩いている方が珍しい。こうして歩けているのも仕事柄である。在宅で一人集中していれば出来る仕事なのだから当然と言えば当然だ。
そうしてある程度歩いたところで、いつも休憩場所として使っている寂れた公園のベンチへと向かった。あそこは人が来なくて助かる。とにかくゆっくりと、自然の中で、息ができる。木々が数本立ち並び、今にもはち切れそうな蕾を何個も抱えて、春を待っている。公園の遊具は手入れがされていないのか、塗装が剥がれ、錆が遊具の半分を飲み込んでいる。ブランコに滑り台に……いや、それだけである。以前まであったであろうシーソーや、パンダやウサギがモチーフであった騎乗具が撤去されたらしき跡が残っている。昨今の風潮だろうか、そうして無くなってしまった遊具たちに憐れみを覚えつつ、ベンチから立ち上がり、蜘蛛の巣が張った自販機へと向かう。
ガシャン、と買った水が音を立てて落ちる。それに続けて小銭がカラカラと落ち、水を取ってから小銭も回収する。すると背後で必死にボタンを連打する人物がいた。よく知っている、見慣れた柄の入ったTシャツとダボついたズボン、そして土のついたスニーカーを履く人物。そいつは目線を向けた俺にニヤリと片頬をあげてこちらに笑う。それに小さくため息をつき、先ほど回収した小銭を投入口へと入れる。するとそいつは迷いなく炭酸飲料を押し、ガシャンと落ちてきた炭酸飲料を取って、俺が座っていたベンチへと向かう。それに続いて、そいつの横に座る。
座って蓋を開け、喉を鳴らして水を体内に取り込む。散歩の休憩で飲む水が、一番美味しい。横ではプシュッと心地良いさわやかな音を立てて蓋を開け、ゴクゴクと飲んでから気持ちの良い息を吐く音が聞こえる。無言のうちに奢らされた側としては、なんとも形容しがたい不満に似た感情が脳を駆け巡る。そしてゆっくりと底に沈んでいき、ひと息ついてから話し始めた。
「もう仕事は終わったのか、虹輝」
「あたぼうよ。じゃなきゃここに来てねぇっつうの。ああ、徹夜明けの散歩は控えた方が良さそうだな、このサイダーは格別だけど」
「目線だけで奢らされた俺の気持ちも考えてくれ……」
「お疲れの仕事人を労うってのが、仕事仲間の役目だろ?」
「はぁ……今度会った時、きっちり奢ってもらうからな」
「はいはい、覚えてたらな」
そうして互いにもう一度喉を鳴らし、身体に水分と心地良さを沁み渡らせる。
虹輝と俺はイラストレーターになった。在りし日の大学時代、虹輝からSNSでの立ち回りや人気の出し方を学び、知名度と少ない仕事を得た。そのお陰で、大学を卒業する頃には、互いに大小の仕事をいくつか、休みが無いぐらいには受けられるようになっていた。それもそのはず、4回生の後期までギリギリの単位数で立ち回らざるを得なかったほど、俺たちは絵に没頭していた。いま思えば、あのまま芽が出ず路頭に迷っていた世界線だってあったはず……そう考えると少しゾッとするが、当時はそんなこと、微塵も思っていなかった。ひとえに俺と虹輝が描く絵が上手いだろう、というのもあったが、なにか確信めいたものがあったのも、間違いない。
そうして何故か似たようなところに住む、ということにもなって、たまに散歩やご飯に行く。と言ってもこうして予定が合うこともないため、基本的にはスマホ上での繋がりが主である。もちろん仕事が被って連絡を取りあうこともあるが。
遠くにそびえる山々を見つつ最近起きた出来事や仕事上での細かな連絡事項、絵の話などをのんびり絶え間なく話していると、ふと何かを思い出したかのように虹輝が話し出す。
「そういえばお前、妹は元気か?てかもう海歌ちゃん紹介してくれよ~。これでも結婚願望は残ってるからさ」
「元気そうだけど……てか、お前に紹介するぐらいなら、とっくに誰かほかのマシな男に紹介してるっつーの。お前に海歌は紹介しねぇよ。うん、絶対しない、てか面識あるじゃねえか」
「まあそうだけどさ……なんかこう、ほら!ちゃんとお見合いみたいな感じで紹介してくれよ。それでちょっと意識づけみたいな――」
「やらん、ぜったい、やらん」
そう言って立ち上がり、備え付けのゴミ箱に空になったペットボトルを入れる。背伸びをする横で虹輝も飲み干したペットボトルを勢いよくゴミ箱にシュートし、同じように背筋を伸ばす。そうしてとぼとぼと公園から出て、並んで歩く。いつも通り、虹輝の家まで俺もいっしょに歩き、きちんと送り届けるために。別に心配などではない。流れでそう決まっているだけである。歩きながら虹輝はふーっとため息を吐き、再び会話を始める。
「良いよなぁ~お前には海夏ちゃんが居てさ……どうせそのまま結婚するんだろ?」
「まあ、いずれそうなれば良いな、とは思ってるけど……このままいけば、の話だな」
「けっ、それは結婚するやつの言うことさ。はぁ~……良いなぁ大事にしろよ?」
「言われなくても、な」
そうしてまた無言になり、歩く。車通りは依然として多く、通り抜けるたびに木々や草花が揺れて、その香りを漂わせる。その風を受けながら黙々と歩き、やがて虹輝が住むマンションの前に着く。手を挙げて端的に別れを告げ、帰路に着く。二人ではなく一人で歩くのは、少しばかり寂しくはあるが。
それでも一人で歩くのは楽しい。あの日それが運命であったように、こうして散歩を日常的にしているのもまた定められた俺の習性であり運命なのだと思う。あの出来事がなければ運命だの宿命だの、所詮は人のまやかしやまぼろしに過ぎないと思っていただろう。でも、交わった運命の特異点を通過した俺ならば、その特別で当たり前の存在を馬鹿らしく感じたり、ないがしろにしたりする気は毛頭ない。むしろそれを大事にしたい。だからこうして散歩をして、また運命の交点に向かって、歩いているのだ。
だんだんと昼に近づくにつれて暖かくなっていく空気を感じながら、履いている運動靴がコンクリートと奏でる徒歩音を聴き、またも在りし日の出来事に想いを馳せて、ただ歩く。そこに車と人々の生活音が入って時折めんどうに感じたり鬱陶しく感じたりするのだが、それもかまわない。ただ俺はそうして、他人と決して共有することのない、刹那の偶然と呼ばれる運命の今を、歩き続けるのだ。
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