41 / 44
三章
10
しおりを挟む
10
海歌がぷくぷくと口から泡を出して沈みゆく中、水を掻き分けて、だんだんと近づいていく。海歌の上には在りし日の俺がバタバタと水中でもがいていた。すると、パッと一瞬目が合う。こちらに精一杯助けを求めながらも、その助けは妹である海歌へと向いている。どうか、いもうとをたすけて!そんな悲痛の声が、表情と海歌を指す右手に込められていた。何も変わってなどいない、昔も今も。
それに応えるように、海歌の左腕を掴んで、海面に向かって苦しむ身体を動かす。海歌の身体は浮力を受けているというよりも、何かおもしのように、重たい。これが海中のゴミならばすぐに離していただろうが、絶対に離すことは出来ない。右手の握力が限界を迎えていたが、歯を食いしばって耐えた。そしてバタ足を死力を尽くして上昇し、水という死の空間からなんとか顔を出すことが出来た。それでも海歌が目を覚ます気配はない。
荒々しく肩を上下させながら呼吸をして、肺にいっぱいの空気を取り込み、もう一度潜水する。今度は俺自身を助けなければならない。
在りし日の俺はバタバタとしていたからか、海歌ほど沈むこともなく比較的浅い場所にいたので、すぐに引き上げ、海面上へと顔を出させた。だいぶぐったりとしているが、なんとか自発的に呼吸は出来ているし、今にも泣きそうな表情で海歌を見つめていた。……ここからが正念場だ。
離岸流は長距離短幅の異常的な海流だ。そのラインから逸れてさえしまえば押し戻される心配はない。それは良い。問題はどう二人を砂浜まで連れていくかだ。一人の力ではどうしたって無理だ。俺にそれを成し遂げるだけの体力と水泳能力があれば話は別だが、スイミングサークルに入っていた程度の泳ぎである(海歌との記憶に蓋をした後、両親によって入れられた)。そしてもう一つは――
「にいちゃん、うみかがっ……うみかがぁ……!」
そう、もう一つは、海歌の反応がないこと。呼吸が乱れる中、その音や波の音を自身の世界から排除して、海歌の口もとに耳を寄せる。……自発的になんとか呼吸は出来ているようだが、こちらの呼びかけにも反応せず、ぐったりとしてぬいぐるみのような状態だ。在りし日の俺の右腕を掴み、もう片方の腕で海歌を支える。波の揺れと不自然なまでに強い風に当てられて、常にギリギリではあるが、唯一浮力によって助かっている。
どうすればこの状況から抜け出せる、どうすればここから二人を救える?手足の感覚が麻痺し、視界が揺れる。二人を掴んでいるだけでゆっくりと沖へと流されていく。このままじゃ……いや、諦めてなるものか。ここで諦めてなるものかっ!誰かに、俺に、負けてなるものか。喪失感と罪悪感と、諦観にうなだれ半ば自暴自棄に絵の世界へと入り込んだのは、逃げたのは誰か。
そうして過ごした世界で失ったものを、失った海歌が願ってくれた。友情もある種の恋も家族も、その全てが俺の一部として幸せになっても良いのだと、そう願ってくれた、海歌のためにも。唯一の俺が、この先逃げるわけにはいかないのだ。唯一の彼女を、死なせることなどあってはならないのだ。そうしてもらった、そうお膳立ててもらった。その先にある運命は、俺が掴むのだ。歩まなくてはならないんだ。
だから、どうか俺よ。もう少しだけ、あとほんの少しだけ……!
「私がいる、大丈夫」
波と、太平洋の遥か彼方から届く懐かしいような音に混じって、すぐそばから、これまで聞いてきた彼女の声が聞こえた。振り返らずともわかる声。それにどれだけ感情が動かされてきたかは言うまでもない。それまで感じていた疲労感や抗うと決めた諦観は飛んでいき、感覚をなくした右腕は、再び血が通い、恐れとなって先ほどまで停滞していた血が、勇気となって胸に還る。つかない足をくるりと回し、身体を声の主へと向ける。
「海歌……!どうして!?」
「説明はあとっ!とにかく上がろう!このままじゃ全員もれなくあの世行きの潮流に乗るよ」
「っ!!……ああ、分かった!そっちを頼む!」
「任せて!散々暗闇を歩いたから、体力はあるっ!……私を、よろしくね」
そうして現実に干渉することが出来ないはずだった海歌が海へと現れた。俺の腕の中には海歌、海歌の腕の中には青人。俺たちは、俺たちを。二人で一つだった私たちを、俺たちで。
「いこう、海歌!」
「うんっ!いこう!」
ゆっくりと海水を蹴って、離岸流の末端から逸れて、海岸へ向けて再出発を果たす。海歌との合流に勇気づけられた身体。しかし疲労はすでに限界を迎えている。ギュッと、腕の中の海歌を抱き止め、そこから発現する激情という麻薬によって足の疲れを海底に捨てる。死力と、最後の活力を振り絞って、隣で同じ場所、同じ結末を願う彼女とともに、太陽に照らされて白く輝き、運命の煌めくあの海岸へと。
片手と両足と勇気で泳ぐ、いや、諦観も後悔もやるせなさも全て、その全てを尽くして泳ぐ。現実をどこか絵空事のように泳いできた俺が、ゆっくりと、しかししっかりと泳ぐ。泳いでいる。押し寄せる海岸からの自然現象でありながら、その存在を否定するような波を受けながらも、だんだんと近づいていく。横目で海歌を見れば、その時、海で海水に似た瞳でゆっくりと、その海を流していた。それがまた、俺の推進力となる。
はぁはぁと息を切らしながらも、足裏から僅かに感じられる地面の感触。それはやがて――
「あしがっ……」
もう少しで地面という所で、足の力が完全に抜ける。もう一歩だって、一ミリだって動かすことが出来ないということを、本能で悟る。眉をひそめ、歯を歯が割らんばかりに噛み締める。
「私にっ……任せて!」
後ろから海歌が押す。背中に確かな手のひらの感触とエネルギー。海歌の吐息が聞こえる。否、聞こえるほどに大きい。ぜぇはぁと俺以上に息を切らし、途中で意識を失ったらしき青人を片手でおぶって、もう片方の手を俺に当てていた。そうしてやがて、地面に足が着く。海水に浸された砂利の感触に安堵し、ふらふらと戻ってきた足の力を振り絞って、渚へと上がる。そうして二人を波が来ないところで寝かせ、俺たち二人は倒れ込むようにして座り込んだ。
「ハァハァ……なんとか、たすけっ!られた……」
「はぁ……泳ぐのって、はぁ……けっこう、キツイね……!!……ぷっ」
「……っ、ははっ!」
海歌が吹き出し、それにつられて俺も口を開け、軽快な笑いが込み上げる。そうして二人で大笑いをして、地面へと転がっていた。それをどのぐらいしていたかはわからない。しかしそれが少しおさまった時、すでに俺たちの両親がそばまで来ており、近くには救急車とその隊員が来ていた。
「あおと……よく無事で……!」
「うみか……よかった、ごめんなぁ……っ!!」
眠り込む双子の側で座り込んで泣く両親を見て、なんだか、全てが終わった気がした。……すると突然、横にいた海歌が俺の右手を両手で握ってきた。少しびっくりしたが、やがてその意味を知り、優しく微笑みかける。それに反応して、海歌も目を細め、頬を軽く上げて、俺が想像していた言葉を、その口から発する。それはどことなく、満足げであった。
「帰ろう、あおと」
それに頷き、瞼を閉じる。そこで意識は、プツリと途切れた。
***
「起きて、あおと」
「ん……はっ!?……ここ、は?」
「帰って、きたんだよ」
「そうか……俺は、俺たちは、私たちを救ったの、か」
上体を起こして見渡せば、限りなく闇。しかし、海歌の背には青白く光る、ドーム型のアクアリウムが薄らと映る。そこで瞬時に、感覚的に理解した。――ああ、これが、最期なんだな、と。
海歌は無い椅子にゆっくりと腰掛け、こちらを覗き込む。その瞳はどこか揺れているようで、見つめる場所は一点である。それが何を意味しているのか。気づけばゆっくりと立ち上がって、身体を海歌の方へと向けて、話しだした。
「……これで、未来の今は変わるかな」
何故か、いつもの口調より丸みを帯びる。
「変わるとも。私は、その世界に行けないだろうけど……それでも」
そこで指を髪に向け、やがてするすると指に髪を巻きつけ、悲しく笑い、続ける。
「それでも、もし。また生まれて逢えたら……そしたらっ、また、妹になれるかなぁ……?」
海歌の頬にスッと一筋、幕が降りていく。柔らかそうな肌に流れて、顎からポツリと落ちる。そして彼女の足下で波紋となる。彼女の気持ちに、後悔とやるせなさが湧き上がる。あの翁とも会話の中で確認したが、今なら自身の感覚としてハッキリと分かる。この過去だけは、覆せない。報いかあるいは、代償。どこかで代償という表現を口上でしたが、良くも悪くも、と言う点においてはきっと、報いなのかも知れない。
海歌の問いに、わけもわからず見えない力が働く。その刹那、息に乗せて言葉を紡ぐ。それが糸のように、俺たち、私たちを繋ぎ止めるように、と。願いながら。
「きっと、なれるさ……いつになるか、それとも。俺が死んで、来世というものでなるかも知れない。その先か、そのまた先になるか……それでもっ!」
乱暴に息をして、もう一度、同じように紡ぎながら話す。流れる涙も汲み込んで、編んで、繋ぎ止める糸にするのだ。
「俺は……おれはっ!……もう一度、海歌に、君にっ、会いたいっ……」
「……そっか。なら、心配ないよねっ!」
腕で涙を拭って立ち上がる海歌は、ポケットをまさぐって、二つのキーホルダーを取り出す。それはいつかの、別れ印。右手のひらにスッと置かれたそれを、俺の方へとゆっくり差し出す。
「これ、持ってて。それにもう一つは、青人のだし!……それにこれが、これがあれば、また出会えるかも、ねっ」
「……いつまでも、待ってる」
左腕を上げ、手のひらでキーホルダーを掴んだ、その時。
「……あ、れ?」
瞬きの奥に焼きついた、海歌の泣き笑いは、浴室の鏡へと変貌を遂げ、情けなく立ちすくむ俺自身の姿が目の前に現れる。
「なんで……まだ、話してないっ、のにっ……!なんでぇっ!!」
拳にあるキーホルダー二つを強く強く握り、ただ涙を流した。暖色の中で一人しばらく、嗚咽がこだまする浴室内で、うずくまっていた。
……つぎに目が覚めた時、濡れた着衣からは潮の香りがした。それに気がついた時、もう一度、泣いた。……それから、着衣で湯船に浸かっても、もう二度と、あの空間へは行けなかった。
◇◆◇
「もう、終わっちゃった、かぁっ……」
静かに立ち尽くし、自身の終わりが来るのを待った。背後から近づくアクアリウムが、それを暗に意味している。
「もっとっ……はなし、たかったなぁっ……!最期ぐらいっ」
溢れてくる、これまでの全てが、身を焦がす。どうしてこんなにも熱いのか、こんなにも、苦しいのか。簡単だけどそうじゃない、情動が生まれていたが、それが臨界に達するよりも早く、崩壊する。
「いつまでもっ……、いつまでも。あなたが安息の中で、息ができますように――私が、息ができなかったぶんまでっ!」
崩壊が身体を貫き、やがて、溶けていく。その時が訪れる、数秒前に——再会の言葉を、祈りとともに。
「またねっ」
海歌がぷくぷくと口から泡を出して沈みゆく中、水を掻き分けて、だんだんと近づいていく。海歌の上には在りし日の俺がバタバタと水中でもがいていた。すると、パッと一瞬目が合う。こちらに精一杯助けを求めながらも、その助けは妹である海歌へと向いている。どうか、いもうとをたすけて!そんな悲痛の声が、表情と海歌を指す右手に込められていた。何も変わってなどいない、昔も今も。
それに応えるように、海歌の左腕を掴んで、海面に向かって苦しむ身体を動かす。海歌の身体は浮力を受けているというよりも、何かおもしのように、重たい。これが海中のゴミならばすぐに離していただろうが、絶対に離すことは出来ない。右手の握力が限界を迎えていたが、歯を食いしばって耐えた。そしてバタ足を死力を尽くして上昇し、水という死の空間からなんとか顔を出すことが出来た。それでも海歌が目を覚ます気配はない。
荒々しく肩を上下させながら呼吸をして、肺にいっぱいの空気を取り込み、もう一度潜水する。今度は俺自身を助けなければならない。
在りし日の俺はバタバタとしていたからか、海歌ほど沈むこともなく比較的浅い場所にいたので、すぐに引き上げ、海面上へと顔を出させた。だいぶぐったりとしているが、なんとか自発的に呼吸は出来ているし、今にも泣きそうな表情で海歌を見つめていた。……ここからが正念場だ。
離岸流は長距離短幅の異常的な海流だ。そのラインから逸れてさえしまえば押し戻される心配はない。それは良い。問題はどう二人を砂浜まで連れていくかだ。一人の力ではどうしたって無理だ。俺にそれを成し遂げるだけの体力と水泳能力があれば話は別だが、スイミングサークルに入っていた程度の泳ぎである(海歌との記憶に蓋をした後、両親によって入れられた)。そしてもう一つは――
「にいちゃん、うみかがっ……うみかがぁ……!」
そう、もう一つは、海歌の反応がないこと。呼吸が乱れる中、その音や波の音を自身の世界から排除して、海歌の口もとに耳を寄せる。……自発的になんとか呼吸は出来ているようだが、こちらの呼びかけにも反応せず、ぐったりとしてぬいぐるみのような状態だ。在りし日の俺の右腕を掴み、もう片方の腕で海歌を支える。波の揺れと不自然なまでに強い風に当てられて、常にギリギリではあるが、唯一浮力によって助かっている。
どうすればこの状況から抜け出せる、どうすればここから二人を救える?手足の感覚が麻痺し、視界が揺れる。二人を掴んでいるだけでゆっくりと沖へと流されていく。このままじゃ……いや、諦めてなるものか。ここで諦めてなるものかっ!誰かに、俺に、負けてなるものか。喪失感と罪悪感と、諦観にうなだれ半ば自暴自棄に絵の世界へと入り込んだのは、逃げたのは誰か。
そうして過ごした世界で失ったものを、失った海歌が願ってくれた。友情もある種の恋も家族も、その全てが俺の一部として幸せになっても良いのだと、そう願ってくれた、海歌のためにも。唯一の俺が、この先逃げるわけにはいかないのだ。唯一の彼女を、死なせることなどあってはならないのだ。そうしてもらった、そうお膳立ててもらった。その先にある運命は、俺が掴むのだ。歩まなくてはならないんだ。
だから、どうか俺よ。もう少しだけ、あとほんの少しだけ……!
「私がいる、大丈夫」
波と、太平洋の遥か彼方から届く懐かしいような音に混じって、すぐそばから、これまで聞いてきた彼女の声が聞こえた。振り返らずともわかる声。それにどれだけ感情が動かされてきたかは言うまでもない。それまで感じていた疲労感や抗うと決めた諦観は飛んでいき、感覚をなくした右腕は、再び血が通い、恐れとなって先ほどまで停滞していた血が、勇気となって胸に還る。つかない足をくるりと回し、身体を声の主へと向ける。
「海歌……!どうして!?」
「説明はあとっ!とにかく上がろう!このままじゃ全員もれなくあの世行きの潮流に乗るよ」
「っ!!……ああ、分かった!そっちを頼む!」
「任せて!散々暗闇を歩いたから、体力はあるっ!……私を、よろしくね」
そうして現実に干渉することが出来ないはずだった海歌が海へと現れた。俺の腕の中には海歌、海歌の腕の中には青人。俺たちは、俺たちを。二人で一つだった私たちを、俺たちで。
「いこう、海歌!」
「うんっ!いこう!」
ゆっくりと海水を蹴って、離岸流の末端から逸れて、海岸へ向けて再出発を果たす。海歌との合流に勇気づけられた身体。しかし疲労はすでに限界を迎えている。ギュッと、腕の中の海歌を抱き止め、そこから発現する激情という麻薬によって足の疲れを海底に捨てる。死力と、最後の活力を振り絞って、隣で同じ場所、同じ結末を願う彼女とともに、太陽に照らされて白く輝き、運命の煌めくあの海岸へと。
片手と両足と勇気で泳ぐ、いや、諦観も後悔もやるせなさも全て、その全てを尽くして泳ぐ。現実をどこか絵空事のように泳いできた俺が、ゆっくりと、しかししっかりと泳ぐ。泳いでいる。押し寄せる海岸からの自然現象でありながら、その存在を否定するような波を受けながらも、だんだんと近づいていく。横目で海歌を見れば、その時、海で海水に似た瞳でゆっくりと、その海を流していた。それがまた、俺の推進力となる。
はぁはぁと息を切らしながらも、足裏から僅かに感じられる地面の感触。それはやがて――
「あしがっ……」
もう少しで地面という所で、足の力が完全に抜ける。もう一歩だって、一ミリだって動かすことが出来ないということを、本能で悟る。眉をひそめ、歯を歯が割らんばかりに噛み締める。
「私にっ……任せて!」
後ろから海歌が押す。背中に確かな手のひらの感触とエネルギー。海歌の吐息が聞こえる。否、聞こえるほどに大きい。ぜぇはぁと俺以上に息を切らし、途中で意識を失ったらしき青人を片手でおぶって、もう片方の手を俺に当てていた。そうしてやがて、地面に足が着く。海水に浸された砂利の感触に安堵し、ふらふらと戻ってきた足の力を振り絞って、渚へと上がる。そうして二人を波が来ないところで寝かせ、俺たち二人は倒れ込むようにして座り込んだ。
「ハァハァ……なんとか、たすけっ!られた……」
「はぁ……泳ぐのって、はぁ……けっこう、キツイね……!!……ぷっ」
「……っ、ははっ!」
海歌が吹き出し、それにつられて俺も口を開け、軽快な笑いが込み上げる。そうして二人で大笑いをして、地面へと転がっていた。それをどのぐらいしていたかはわからない。しかしそれが少しおさまった時、すでに俺たちの両親がそばまで来ており、近くには救急車とその隊員が来ていた。
「あおと……よく無事で……!」
「うみか……よかった、ごめんなぁ……っ!!」
眠り込む双子の側で座り込んで泣く両親を見て、なんだか、全てが終わった気がした。……すると突然、横にいた海歌が俺の右手を両手で握ってきた。少しびっくりしたが、やがてその意味を知り、優しく微笑みかける。それに反応して、海歌も目を細め、頬を軽く上げて、俺が想像していた言葉を、その口から発する。それはどことなく、満足げであった。
「帰ろう、あおと」
それに頷き、瞼を閉じる。そこで意識は、プツリと途切れた。
***
「起きて、あおと」
「ん……はっ!?……ここ、は?」
「帰って、きたんだよ」
「そうか……俺は、俺たちは、私たちを救ったの、か」
上体を起こして見渡せば、限りなく闇。しかし、海歌の背には青白く光る、ドーム型のアクアリウムが薄らと映る。そこで瞬時に、感覚的に理解した。――ああ、これが、最期なんだな、と。
海歌は無い椅子にゆっくりと腰掛け、こちらを覗き込む。その瞳はどこか揺れているようで、見つめる場所は一点である。それが何を意味しているのか。気づけばゆっくりと立ち上がって、身体を海歌の方へと向けて、話しだした。
「……これで、未来の今は変わるかな」
何故か、いつもの口調より丸みを帯びる。
「変わるとも。私は、その世界に行けないだろうけど……それでも」
そこで指を髪に向け、やがてするすると指に髪を巻きつけ、悲しく笑い、続ける。
「それでも、もし。また生まれて逢えたら……そしたらっ、また、妹になれるかなぁ……?」
海歌の頬にスッと一筋、幕が降りていく。柔らかそうな肌に流れて、顎からポツリと落ちる。そして彼女の足下で波紋となる。彼女の気持ちに、後悔とやるせなさが湧き上がる。あの翁とも会話の中で確認したが、今なら自身の感覚としてハッキリと分かる。この過去だけは、覆せない。報いかあるいは、代償。どこかで代償という表現を口上でしたが、良くも悪くも、と言う点においてはきっと、報いなのかも知れない。
海歌の問いに、わけもわからず見えない力が働く。その刹那、息に乗せて言葉を紡ぐ。それが糸のように、俺たち、私たちを繋ぎ止めるように、と。願いながら。
「きっと、なれるさ……いつになるか、それとも。俺が死んで、来世というものでなるかも知れない。その先か、そのまた先になるか……それでもっ!」
乱暴に息をして、もう一度、同じように紡ぎながら話す。流れる涙も汲み込んで、編んで、繋ぎ止める糸にするのだ。
「俺は……おれはっ!……もう一度、海歌に、君にっ、会いたいっ……」
「……そっか。なら、心配ないよねっ!」
腕で涙を拭って立ち上がる海歌は、ポケットをまさぐって、二つのキーホルダーを取り出す。それはいつかの、別れ印。右手のひらにスッと置かれたそれを、俺の方へとゆっくり差し出す。
「これ、持ってて。それにもう一つは、青人のだし!……それにこれが、これがあれば、また出会えるかも、ねっ」
「……いつまでも、待ってる」
左腕を上げ、手のひらでキーホルダーを掴んだ、その時。
「……あ、れ?」
瞬きの奥に焼きついた、海歌の泣き笑いは、浴室の鏡へと変貌を遂げ、情けなく立ちすくむ俺自身の姿が目の前に現れる。
「なんで……まだ、話してないっ、のにっ……!なんでぇっ!!」
拳にあるキーホルダー二つを強く強く握り、ただ涙を流した。暖色の中で一人しばらく、嗚咽がこだまする浴室内で、うずくまっていた。
……つぎに目が覚めた時、濡れた着衣からは潮の香りがした。それに気がついた時、もう一度、泣いた。……それから、着衣で湯船に浸かっても、もう二度と、あの空間へは行けなかった。
◇◆◇
「もう、終わっちゃった、かぁっ……」
静かに立ち尽くし、自身の終わりが来るのを待った。背後から近づくアクアリウムが、それを暗に意味している。
「もっとっ……はなし、たかったなぁっ……!最期ぐらいっ」
溢れてくる、これまでの全てが、身を焦がす。どうしてこんなにも熱いのか、こんなにも、苦しいのか。簡単だけどそうじゃない、情動が生まれていたが、それが臨界に達するよりも早く、崩壊する。
「いつまでもっ……、いつまでも。あなたが安息の中で、息ができますように――私が、息ができなかったぶんまでっ!」
崩壊が身体を貫き、やがて、溶けていく。その時が訪れる、数秒前に——再会の言葉を、祈りとともに。
「またねっ」
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
もしもしお時間いいですか?
ベアりんぐ
ライト文芸
日常の中に漠然とした不安を抱えていた中学1年の智樹は、誰か知らない人との繋がりを求めて、深夜に知らない番号へと電話をしていた……そんな中、繋がった同い年の少女ハルと毎日通話をしていると、ハルがある提案をした……。
2人の繋がりの中にある感情を、1人の視点から紡いでいく物語の果てに、一体彼らは何をみるのか。彼らの想いはどこへ向かっていくのか。彼の数年間を、見えないレールに乗せて——。
※こちらカクヨム、小説家になろう、Nola、PageMekuでも掲載しています。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
我らおっさん・サークル「異世界召喚予備軍」
虚仮橋陣屋(こけばしじんや)
青春
おっさんの、おっさんによる、おっさんのためのほろ苦い青春ストーリー
サラリーマン・寺崎正・四〇歳。彼は何処にでもいるごく普通のおっさんだ。家族のために黙々と働き、家に帰って夕食を食べ、風呂に入って寝る。そんな真面目一辺倒の毎日を過ごす、無趣味な『つまらない人間』がある時見かけた奇妙なポスターにはこう書かれていた――サークル「異世界召喚予備軍」、メンバー募集!と。そこから始まるちょっと笑えて、ちょっと勇気を貰えて、ちょっと泣ける、おっさんたちのほろ苦い青春ストーリー。
黄昏は悲しき堕天使達のシュプール
Mr.M
青春
『ほろ苦い青春と淡い初恋の思い出は・・
黄昏色に染まる校庭で沈みゆく太陽と共に
儚くも露と消えていく』
ある朝、
目を覚ますとそこは二十年前の世界だった。
小学校六年生に戻った俺を取り巻く
懐かしい顔ぶれ。
優しい先生。
いじめっ子のグループ。
クラスで一番美しい少女。
そして。
密かに想い続けていた初恋の少女。
この世界は嘘と欺瞞に満ちている。
愛を語るには幼過ぎる少女達と
愛を語るには汚れ過ぎた大人。
少女は天使の様な微笑みで嘘を吐き、
大人は平然と他人を騙す。
ある時、
俺は隣のクラスの一人の少女の名前を思い出した。
そしてそれは大きな謎と後悔を俺に残した。
夕日に少女の涙が落ちる時、
俺は彼女達の笑顔と
失われた真実を
取り戻すことができるのだろうか。
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
ボールの行方
sandalwood
青春
僕は小学生だけど、これでも立派な受験生。
放課後、塾のない日は図書館に通って自習するほどには真面目な子ども……だった。真面目なのはいまも変わらない。でも、去年の秋に謎の男と出会って以降、僕は図書館通いをやめてしまった。
いよいよ試験も間近。準備万端、受かる気満々。四月からの新しい生活を想像して、膨らむ期待。
だけど、これでいいのかな……?
悩める小学生の日常を描いた短編小説。
とある日
だるまさんは転ばない
ライト文芸
さまざまなジャンルが織り交ざる日常系の短編集をお届けします。青春の甘酸っぱさや、日常の何気ない幸せ、ほのぼのとした温かさ、そして時折くすっと笑えるコメディー要素まで幅広く書いていきたいと思ってます。
読み進めるごとに、身近な出来事が楽しくなるように。そして心温まるひとときを提供できるように、忙しい日々の隙間時間にほっと一息付けるようなそんな物語を書いていきたいと思います。
読んで見るまでジャンルがわからないようタイトルにジャンルに記載はしてません。
皆さんが普段読まないジャンルを好きになってもらえると嬉しいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる