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三章
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降っているはずの雨音が遠のいていく感覚に襲われる。脳に何かが流れ込み、走りだし、しかしその思考は行動となることなく、動かせない手足にメリメリと静脈が浮き出るほどの力が入った状態で、ただ立ち尽くしている。やがてどうにも身体を動かせないことを再度理解し、ただ、眼底や眉間から血管を圧迫するほどの力が入るのみ。そうして、唯一の表現として、目の前にいない、元凶の翁を虚空に捉えて、睨みつける。
翁は背後で小さく咳払いをし、先ほどのように杖を突きながら歩き、やがてもう一度、俺の視界へと入ってきた。そしてくるりと半回転、こちらに向き直って、同じことを言う。
「なんせ、お主の過去改変そして、海歌さんやの願いを叶えているのは、わしなんじゃから」
「……どうして、海歌なんだ」
精一杯の睨みとドスの効いた声で翁に問う。拳が届く距離にあって殴りかかることが出来ないのは明白。それならば、まずワケを聞かなければ話が進まない。そうして捻り出した問いに翁は、こちらの思考を読み取ったのだろう、弁明するようにして問いに答えた。
「わしもな、別に無条件で人を選んでるわけじゃあない。いくら神といえど、ある程度のルールは弁えておる」
「ルール……?」
そうじゃ、と言ってもう一度咳払いをし、話を続けた。
「まず問おう、青人よ。お主は運命とやらがどういうものか、分かるかの?」
「いや、よく知らないけど……予め決まっていた未来、みたいなのを運命って、言うんじゃないのか」
「そう。なんだ、分かっておるじゃないか」
しかぁし!っと言って突いていた杖の先を俺の目と鼻の先に向ける。思わず仰け反りそうになったが、依然として動かない身体はいうことを聞かず、ただギュッと目を瞑るだけであった。それを見た翁はケラケラと笑い、杖を下ろす。……このジジイ、厄介である。
「運命とはまた難儀なもの。何度も何度も枝分かれし、どの道へと進むのかは、誰にも、神でさえ知ることのないものじゃ」
「……神でさえ」
「そう神でさえ、じゃ!しかしな……そんなお主ら人間には、幾ら枝分かれしようとも、絶対に通過する地点が存在する。青人、お主にも当然その地点がある、ここじゃ」
杖を二回地面に突き、その地を指し示す。
「この葦野の地に来るということ。これだけは、どれだけ運命が分かれようと決まっていたのじゃ。……そこでもう一度、わしのルールの話をしよう」
「あんたは……ここに来る運命を持つ人々の願いしか、叶えられないってことか?」
「なんじゃ、物分かりが良くて助かるのぅ~!……そう、お主の言った通りじゃ。しかしもう一つ、ルールがある」
「もう一つ?」
「わしはその運命を持つ者に対して、直接願いを叶えることは出来ないのじゃ。昔は出来たんじゃがの……ちと、無理をしたせいで制約をかけられてな。だから――」
「運命を持った俺に近しい死者――海歌の願いとして、俺の願いを、叶えている、のか?」
そう言うと翁は突いていた杖を手放し、う~ん、と唸って腕組みをした後、口を開く。
「正確にはお主の願いで合ってるんじゃ。こちらからすれば、双子というのは同じ存在じゃからな。お主の言っていた、近しい死者……というより、双子だった者の願いを叶えておる。今はもう、それしかできないんじゃ」
「……」
「お主の言いたいことは、よーく、分かる。しかしこれがわしの精一杯なんじゃ。そればっかりは、理解してくれ。それと……わしは、決してお主らを不幸にしようとしているわけじゃない。それが神のつとめでもあるからなぁ」
この翁の言っていることは、きっと間違いない。そして決して不幸にしようとしているわけではないのだ。出なければ、この翁が言っていたように、無数に枝分かれする運命を、過去改変によって変えられるようにする力を海歌に、あのキーホルダーに、与えるわけがない。
だが、こればかりは、聞かなければならない。
「海歌は、どうにかならないのか?」
すると翁は分かっていたかのように頷き、そして首を横に振る。
「お主の気持ちは分かる。じゃが、お主の両親のようにはいかないのじゃ」
「どうしてっ!?海歌を……そう、あの溺れた海歌を助ければ、きっと――」
「ダメなんじゃ。……いや、正確に言えば、助けることは出来るやも知れぬ。それは改変に赴いた、お主次第じゃ。じゃが、あの海歌はどうしようも出来んのじゃ。彼女の願いはお主の願いでもある。その運命は、変えることの叶わん代物じゃ。すまんがの……」
いつの間にか動くようになっていた身体が自然と折り曲がり、膝を地面に着ける。ベチャッ、という雨水を含んでふやけた土壌の感触は不快であったが、それ以上のやるせなさと無力感が襲っていた。
神ですら、願いを叶えた張本人がこう言うのだ。きっと本当にどうしようもないのだろう。そもそもこれまで、俺と海歌が行ってきたこと自体、超常的で人ならざる者の手によってできていたのだ。そのことが、この翁の言っている真実を裏付ける。
雨降る中で風に揺られた木々がざわめき、鼓膜を伝ってはっきりと世界を、俺に示す。その、ただ中で。翁は俺を見下ろす形から腰を下ろし、同じ目線で目をばっちりと合わせる。やがて、先ほどまでの妖しげな笑みではなく、母親が子供を諭す時のような笑みで話す。
「願いの依代として、再び出逢うこととなったお主らの気持ちは分からぬ。心が読めると言ってもな、奥底に存在する純粋物は拾えぬのじゃ」
少し咳払いをして、続ける。
「でもな、海歌さんやの願い……あれはお主のことを第一として想う気持ちがあるからこそなんじゃ。……わしが言うのもなんじゃが、あの娘を、救ってやってはくれぬか」
「……」
俺がなすべきこと。
一呼吸、のち、吐き出す。ぐるぐると巡る考えをスッと、脳から排除して、入れ替える。そしてもう一度、考える。
それはきっと、願いをかけられた想いを無駄にしないこと。それがまた、海歌の願いならば――
「あー……おっほん。なんじゃ、その……わしが言うことでもなかったようじゃの。青人や」
「……ああ」
立ち上がり、膝の泥を払う。そして翁へと向き直り、その小さくも確かとなった覚悟を胸に宿し、自身を後押しする。瞬間、急降下してきた風が身体を突き抜け、葦野の地に吹きつけた。それがなんだか心地の良いもので、これまで絡まっていた糸がひと風で解けたような感覚がした。
翁に黙って一礼し、背中を向けて、歩き出す。
「あ、そうそう。こうしてお主とわしが会うことも、わしが動かしたんじゃ~お主を」
「えぇ……わざわざ散歩させて、ここに来させるために?」
そう言うと翁はケラケラ笑い、これが神様ってものじゃ!っと言った。……なんだか、神様と喋るってのは、変な気分になるなぁ……。
「まあ、それも運命じゃ。我慢せい。それと――」
――まだなにかあるのか。そう言いかけた時、不思議なことに気づく。辺りの木々が消え、社も濃く白い霧に包まれていて、見えない。先ほどまでは見えていたはずなのだが。
「そろそろ起きないと、風邪を引くぞ、お主」
「――ハッ!?」
……古びた社の下で眠っていたようだ。だとしたらあれは――
「ゆめ、か……?」
立ち上がって辺りを見渡しても、翁の姿はない。そして取り囲んでいた濃い霧も消えている。風に揺られた木々がザアザアと音を立てて、世界を感じさせる。そして空を見上げれば、茜色に染まった天が黄昏時を告げ、降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。
***
鍵を開け、自宅へとずかずか入っていき、軋みながら閉じる扉が静かになった頃小さく、ただいま、と言う。暗くなった部屋から返事が返ってくるはずもなく、闇広がる部屋に入って明かりを点けた。
遮光カーテンを閉じて、椅子に座りながらアナログ時計を確認する。——十九時二十分。あの小さく古びた社から帰ってくる頃にはすでに、星瞬き、街灯とアパートの部屋から漏れる光だけが世界を仄かに照らしていた。
フーッとため息を吐き、あの翁との出会いそして話を再度反芻する。……俺の願いが海歌の願い。そして逆も然り、海歌の願いは俺の願い。なら、もう迷う必要はない——俺は汗でベタつく衣服を身に纏ったまま、浴槽へお湯を張るために準備をする。
それから十分。俺と海歌の絵を少し眺めてから、浴室へと向かう。今日半日ほど歩いたとは思えないほど、身体には力が漲っている。沸々と湧き上がる感情の中に、原動力があるのかも知れない。
蛇口を捻って流れ出るお湯を止め、折り戸を閉じて、足から湯船へと浸かってゆく。これまで感じていた違和感や気持ち悪さは、もう感じることはなかった。ただ一つの願いを目的へと変えた先に待つ、一つの想いが、これだけ感じ方を変えさせてくれる。
肩まで浸かり、深呼吸をして——全身を浴槽の小さな海へと沈める。微睡みの中で見た最後の光はいつになく、温かいものに映った。
降っているはずの雨音が遠のいていく感覚に襲われる。脳に何かが流れ込み、走りだし、しかしその思考は行動となることなく、動かせない手足にメリメリと静脈が浮き出るほどの力が入った状態で、ただ立ち尽くしている。やがてどうにも身体を動かせないことを再度理解し、ただ、眼底や眉間から血管を圧迫するほどの力が入るのみ。そうして、唯一の表現として、目の前にいない、元凶の翁を虚空に捉えて、睨みつける。
翁は背後で小さく咳払いをし、先ほどのように杖を突きながら歩き、やがてもう一度、俺の視界へと入ってきた。そしてくるりと半回転、こちらに向き直って、同じことを言う。
「なんせ、お主の過去改変そして、海歌さんやの願いを叶えているのは、わしなんじゃから」
「……どうして、海歌なんだ」
精一杯の睨みとドスの効いた声で翁に問う。拳が届く距離にあって殴りかかることが出来ないのは明白。それならば、まずワケを聞かなければ話が進まない。そうして捻り出した問いに翁は、こちらの思考を読み取ったのだろう、弁明するようにして問いに答えた。
「わしもな、別に無条件で人を選んでるわけじゃあない。いくら神といえど、ある程度のルールは弁えておる」
「ルール……?」
そうじゃ、と言ってもう一度咳払いをし、話を続けた。
「まず問おう、青人よ。お主は運命とやらがどういうものか、分かるかの?」
「いや、よく知らないけど……予め決まっていた未来、みたいなのを運命って、言うんじゃないのか」
「そう。なんだ、分かっておるじゃないか」
しかぁし!っと言って突いていた杖の先を俺の目と鼻の先に向ける。思わず仰け反りそうになったが、依然として動かない身体はいうことを聞かず、ただギュッと目を瞑るだけであった。それを見た翁はケラケラと笑い、杖を下ろす。……このジジイ、厄介である。
「運命とはまた難儀なもの。何度も何度も枝分かれし、どの道へと進むのかは、誰にも、神でさえ知ることのないものじゃ」
「……神でさえ」
「そう神でさえ、じゃ!しかしな……そんなお主ら人間には、幾ら枝分かれしようとも、絶対に通過する地点が存在する。青人、お主にも当然その地点がある、ここじゃ」
杖を二回地面に突き、その地を指し示す。
「この葦野の地に来るということ。これだけは、どれだけ運命が分かれようと決まっていたのじゃ。……そこでもう一度、わしのルールの話をしよう」
「あんたは……ここに来る運命を持つ人々の願いしか、叶えられないってことか?」
「なんじゃ、物分かりが良くて助かるのぅ~!……そう、お主の言った通りじゃ。しかしもう一つ、ルールがある」
「もう一つ?」
「わしはその運命を持つ者に対して、直接願いを叶えることは出来ないのじゃ。昔は出来たんじゃがの……ちと、無理をしたせいで制約をかけられてな。だから――」
「運命を持った俺に近しい死者――海歌の願いとして、俺の願いを、叶えている、のか?」
そう言うと翁は突いていた杖を手放し、う~ん、と唸って腕組みをした後、口を開く。
「正確にはお主の願いで合ってるんじゃ。こちらからすれば、双子というのは同じ存在じゃからな。お主の言っていた、近しい死者……というより、双子だった者の願いを叶えておる。今はもう、それしかできないんじゃ」
「……」
「お主の言いたいことは、よーく、分かる。しかしこれがわしの精一杯なんじゃ。そればっかりは、理解してくれ。それと……わしは、決してお主らを不幸にしようとしているわけじゃない。それが神のつとめでもあるからなぁ」
この翁の言っていることは、きっと間違いない。そして決して不幸にしようとしているわけではないのだ。出なければ、この翁が言っていたように、無数に枝分かれする運命を、過去改変によって変えられるようにする力を海歌に、あのキーホルダーに、与えるわけがない。
だが、こればかりは、聞かなければならない。
「海歌は、どうにかならないのか?」
すると翁は分かっていたかのように頷き、そして首を横に振る。
「お主の気持ちは分かる。じゃが、お主の両親のようにはいかないのじゃ」
「どうしてっ!?海歌を……そう、あの溺れた海歌を助ければ、きっと――」
「ダメなんじゃ。……いや、正確に言えば、助けることは出来るやも知れぬ。それは改変に赴いた、お主次第じゃ。じゃが、あの海歌はどうしようも出来んのじゃ。彼女の願いはお主の願いでもある。その運命は、変えることの叶わん代物じゃ。すまんがの……」
いつの間にか動くようになっていた身体が自然と折り曲がり、膝を地面に着ける。ベチャッ、という雨水を含んでふやけた土壌の感触は不快であったが、それ以上のやるせなさと無力感が襲っていた。
神ですら、願いを叶えた張本人がこう言うのだ。きっと本当にどうしようもないのだろう。そもそもこれまで、俺と海歌が行ってきたこと自体、超常的で人ならざる者の手によってできていたのだ。そのことが、この翁の言っている真実を裏付ける。
雨降る中で風に揺られた木々がざわめき、鼓膜を伝ってはっきりと世界を、俺に示す。その、ただ中で。翁は俺を見下ろす形から腰を下ろし、同じ目線で目をばっちりと合わせる。やがて、先ほどまでの妖しげな笑みではなく、母親が子供を諭す時のような笑みで話す。
「願いの依代として、再び出逢うこととなったお主らの気持ちは分からぬ。心が読めると言ってもな、奥底に存在する純粋物は拾えぬのじゃ」
少し咳払いをして、続ける。
「でもな、海歌さんやの願い……あれはお主のことを第一として想う気持ちがあるからこそなんじゃ。……わしが言うのもなんじゃが、あの娘を、救ってやってはくれぬか」
「……」
俺がなすべきこと。
一呼吸、のち、吐き出す。ぐるぐると巡る考えをスッと、脳から排除して、入れ替える。そしてもう一度、考える。
それはきっと、願いをかけられた想いを無駄にしないこと。それがまた、海歌の願いならば――
「あー……おっほん。なんじゃ、その……わしが言うことでもなかったようじゃの。青人や」
「……ああ」
立ち上がり、膝の泥を払う。そして翁へと向き直り、その小さくも確かとなった覚悟を胸に宿し、自身を後押しする。瞬間、急降下してきた風が身体を突き抜け、葦野の地に吹きつけた。それがなんだか心地の良いもので、これまで絡まっていた糸がひと風で解けたような感覚がした。
翁に黙って一礼し、背中を向けて、歩き出す。
「あ、そうそう。こうしてお主とわしが会うことも、わしが動かしたんじゃ~お主を」
「えぇ……わざわざ散歩させて、ここに来させるために?」
そう言うと翁はケラケラ笑い、これが神様ってものじゃ!っと言った。……なんだか、神様と喋るってのは、変な気分になるなぁ……。
「まあ、それも運命じゃ。我慢せい。それと――」
――まだなにかあるのか。そう言いかけた時、不思議なことに気づく。辺りの木々が消え、社も濃く白い霧に包まれていて、見えない。先ほどまでは見えていたはずなのだが。
「そろそろ起きないと、風邪を引くぞ、お主」
「――ハッ!?」
……古びた社の下で眠っていたようだ。だとしたらあれは――
「ゆめ、か……?」
立ち上がって辺りを見渡しても、翁の姿はない。そして取り囲んでいた濃い霧も消えている。風に揺られた木々がザアザアと音を立てて、世界を感じさせる。そして空を見上げれば、茜色に染まった天が黄昏時を告げ、降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。
***
鍵を開け、自宅へとずかずか入っていき、軋みながら閉じる扉が静かになった頃小さく、ただいま、と言う。暗くなった部屋から返事が返ってくるはずもなく、闇広がる部屋に入って明かりを点けた。
遮光カーテンを閉じて、椅子に座りながらアナログ時計を確認する。——十九時二十分。あの小さく古びた社から帰ってくる頃にはすでに、星瞬き、街灯とアパートの部屋から漏れる光だけが世界を仄かに照らしていた。
フーッとため息を吐き、あの翁との出会いそして話を再度反芻する。……俺の願いが海歌の願い。そして逆も然り、海歌の願いは俺の願い。なら、もう迷う必要はない——俺は汗でベタつく衣服を身に纏ったまま、浴槽へお湯を張るために準備をする。
それから十分。俺と海歌の絵を少し眺めてから、浴室へと向かう。今日半日ほど歩いたとは思えないほど、身体には力が漲っている。沸々と湧き上がる感情の中に、原動力があるのかも知れない。
蛇口を捻って流れ出るお湯を止め、折り戸を閉じて、足から湯船へと浸かってゆく。これまで感じていた違和感や気持ち悪さは、もう感じることはなかった。ただ一つの願いを目的へと変えた先に待つ、一つの想いが、これだけ感じ方を変えさせてくれる。
肩まで浸かり、深呼吸をして——全身を浴槽の小さな海へと沈める。微睡みの中で見た最後の光はいつになく、温かいものに映った。
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