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三章
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けたたましく鳴る金属ベルとハンマーの音で目が覚める。
無理矢理ハンマーと金属ベルの間に手を入れて音を止め、スイッチをオフにする。五月六日の六時半、遮光カーテンを開ければ、窓の外には分厚い雲で覆われた空と無数の水線。山からは霧と目に見える冷気が降りてくるのが確認できる。生憎の雨模様、世界は驚くほど静かに満ちていた。
部屋を見れば無造作に置かれた画用紙と色鉛筆。ぐちゃぐちゃにズレたシーツと布団。溜まりに溜まった洗濯物と洗い物。ここに帰ってきてからそのままとなっているスーツケース。思わず大きなため息を吐く。
あの両親のカミングアウトから早四日。何を考えれば良いか、その『過去』とリンクした『今』をどうすれば良いのかわからないまま、俺はゴールデンウィークが終わる前にここ、葦野市にある自宅へと帰った。帰ったのは前日の昼過ぎだったが、またも長い鉄路に辟易し、そのままなにもすることなく長い長い眠りに就いたのだった。そして、今に至る。
本来なら朝食を摂る時間なのだが、どうにも食べる気が起きない。作業的に物を入れる気力も湧かない。四日前の夜以来ずっとそうだ。両親は当然心配してくれたが、その優しさはありがたいと同時に、申し訳なさと八つ当たり的な憎悪が湧いた。両親がカミングアウトをしなければ、今も過去改変で得た『今』のままでいられたのだというのに。
あのカミングアウトで俺が、あの事故でどれだけ大切なものを失ったか、そしてその大切なものを失った直後にどうなったのかという記憶の蓋が開き、同時に喪失感と絶望へと苛まれた。あの時感じていた、触れていたもの。それが俺にとっての全てであったというのに。
朝食は食べず、午前中はただひたすらボーッとするだけで、気づけば机に向かい、画用紙にやり場のない感情を発露していた。ガタついた曲線に不自然でいて素朴な面持ちを持つ一人の男。ただひたすらに海に向かって何かを想う。それが希望なのか絶望なのか。憎悪なのか悔恨なのか。ただ一つ言えるのは、黒々とした荒波に降り注ぐ慈雨と灰色が持つ意味は、決して前向きなものでは無いということである。
これが果たして俺の今なのか。それとも『過去』の幼き、在りし日の俺自身なのかということだ。描いている本人が分からぬ、得体の知れぬ絵というものは興味深くもあったが、それ以上に奇怪で許し難いものであった。数時間で描き上げたが、一つの作品として残すことに異常なまでの抵抗を感じ、一回、二回と折り曲げ、ゴミ箱に投げた。
描き終え、その絵を捨てた頃には黄昏時となっており、外は狐の嫁入り状態となっていた。厚い雲の夕の色と降り続く雨が織りなす風景は幻想的であったが、言い表し難い哀愁と寂寥感に嫌気が差し、思わず遮光カーテンを閉め、外界との接続を断ってしまった。
――なにか食べなければ。そう感じひとまずパスタを茹で始める。パスタが茹るのを待っている時、側にある暗く、シーンとした浴室とカラの浴槽が目に入った。……ウミカ――いま会った時、俺は何を言うべきなのか。そして何故こうして現れ、何が目的なのか。聞きたいことも、言いたいことも沢山ある。
麺を熱湯から取り出し、ミートソースと合わせて皿に盛り付け、机へと戻る。手を合わせ、昨日まで三人で行っていた挨拶を、一人で行う。
「……いただきます」
***
完全に陽が落ちて、少し伸びた爪の白い部分のような月がひっそりと闇を照らす夜。たまにかかる雲で今にも消え入りそうなその月は、確かに俺の目に届き、今までうやむやにしてきた考えを確かなものにした。
行こう。『深層心理の投影』という偽りを纏ったあの世界へ――。
浴槽にお湯を張り始める。お湯が溜まるのを待ちながら、この後話すであろう『過去』と、こうしてウミカと出逢うことになった経緯への疑問を頭の中でまとめていた。ふわふわと漂ってしまうヘリウム風船に重りを一つずつ付けていくように。……そうしてまとめていると、体感ではあっという間に湯船が完成した。――行こう。
暖色系の光が浴室を包む。お湯が張られた浴槽から立ち昇る湯気がこちらを誘うように纏わりつく中で、その誘いを受け入れるように、右足を浸ける。温度に反してどこか冷たい印象を受けるというある種の矛盾が右足から脳へと伝わる。……まるで拒絶されているような感じだ。
続けて左足。そこからゆっくりと下半身から上半身にかけて、身につけている黒のハーフパンツと青のTシャツを濡らしてゆく。残るは頭部となったところで、声がした。
……来るの?
声は若干、震えている。俺は湯船に体操座りをして、答える。
「ああ。もちろん」
……そう、かぁ~
安堵にも、諦めにも似た声が聞こえる。その声を合図に、俺は残していた頭部を完全に沈め、やがて完全な意識の途切れへと至った――。
***
「もしも~し」
「……ん、ついたか」
「そうです、つきましたよ~寝坊助さん」
いつものように起き上がり、ソファに座り直す。そして空いたスペースに、ウミカは座る。
辺りを見渡せば、以前まであったはずのダイニングスペース、不思議な窓、キッチンスペースが消え、それらがあったはずの場所には虚空だけが広がっていた。よくよく見れば、白い天井や床にも、所々虚空の割れ目が蔓延っている。
「いや~それにしても、今日はどうされたんですか?なんだか思い詰めたような顔して~。ただでさえ根暗な顔してるんですから、もっと明るく来ましょうよー!」
変わらぬ口調。挑発的で、まるでクソガキ感が残る表情。出会った当初は随分イライラさせられたなぁと、今になって懐かしむ。懐かしむといっても、せいぜい二週間前に会ったばかりだというのに。
出会ってからは俺の、ゆっくりと蝕まれて死んでいくだけだと思っていた人生を大きく変えてくれた。きっとこの先も、続いていくものだと思っていた。過去改変というものが無くとも、そうありたいと願っていた俺がいた。心のどこかでは、いつか必ず別れが来ると知りながらも。
「あれ、聞いてますー?無視は良くないんですよ~!まったく……」
腕を組んで拗ねたようにそういうウミカを、俺はどういう表情で見ていたのだろう。悲しみ?憐み?それとも――いや、きっと。一言で表すにはあまりにも足りない、そんな面持ちだっただろう。ウミカもそれまでの口調や仕草が嘘のように静まる。
言わなければ――。いま、ここで。
唾を飲み込み、ウミカの青い目を見つめる。自然と拳が角張り、肩が上がる。そうした中で俺は、ここに来る前に考えまとめていた言葉を言う。
「妹だったんだな。お前――いや、ウミカは俺の」
ウミカは一瞬キョトンとした後、明らかに目を泳がせて、震える声で、いつもの口調で言い返してきた。
「なっ……何言ってんですか~!前にも言ったでしょ?ここは――」
「『深層心理の投影』。だから、本人の深層心理の具現化が現れるはず……すなわち、名前や性別が違くとも、同一人物がここに居るはず、そう言いたいんだろ?」
「……分かってるなら!――」
「双子はある意味二人で一つだ。現実では別人と言えるが、同時に同一人物と定義することも出来る。だから違和感だったんだ、だろ?ウミカ――いや、絵馬 海歌」
「……っ!!」
海歌が口を大きく開け、目を見開いて硬直している。瞳は激しく揺れ、今にもどこかへ走り去ってしまうような顔をしていた――が。
スンっと。今までの海歌が嘘だったかのように、天真爛漫なクソガキムーブを一転させるように、酷く大人しい、座った目をする孤独な少女へと変貌を遂げた。全てを透かすような青い目でこちらを見つめ、ゆっくりと目を閉じ、もう一度こちらを見て、口を開く。
「……この時が来るのを、ずっと待ってた。同時に、来て欲しくもなかった。そうでしょう、青人」
「……わざわざバレないように、キャラ作ってたんだな」
「本当はバレても良かったの。でも、気づいて欲しくもなかった。心が二つあるって言うのは、こういうことを言うんだね、兄さん」
「絵馬 海歌……俺と同じ四月二十一日生まれ。俺と一緒に生まれ、俺と一緒に海難事故に巻き込まれ、溺死。わずか三年という歳月でこの世を去った、もう一人の家族……」
海歌は青髪セミロングをふわりと揺らし、深く頷いた。
「やはり、そうだったのか……両親から名前が出た時、本能的にお前が妹、海歌であるということは分かったんだ。同時に、どれだけ大切にしていたかも。そしてその存在を失った時、矮小な俺が巨星のような喪失感に押し潰され、その記憶に蓋をすることでしか元に戻る方法がなかったことも」
「うん……ずっと見てたから。知ってるよ」
今までにない距離感。無いようであるし、あるようで無い。とにかく不思議な心情だった。――しかし、時間は限られている。聞けることは聞いておかなければ。
「改めて、聞かせて欲しい。どうしてこの空間が生まれたのか。こうして過去を変えることになったのか。一つずつ、ゆっくり……」
「……時間も限られてる。実は知ってることも限定されてるんだぁ~。……でも、私が知ってることはちゃんと、話すよ」
両手を膝につき、海歌を見る。そうして海歌はゆっくりと、話し始めた……。
けたたましく鳴る金属ベルとハンマーの音で目が覚める。
無理矢理ハンマーと金属ベルの間に手を入れて音を止め、スイッチをオフにする。五月六日の六時半、遮光カーテンを開ければ、窓の外には分厚い雲で覆われた空と無数の水線。山からは霧と目に見える冷気が降りてくるのが確認できる。生憎の雨模様、世界は驚くほど静かに満ちていた。
部屋を見れば無造作に置かれた画用紙と色鉛筆。ぐちゃぐちゃにズレたシーツと布団。溜まりに溜まった洗濯物と洗い物。ここに帰ってきてからそのままとなっているスーツケース。思わず大きなため息を吐く。
あの両親のカミングアウトから早四日。何を考えれば良いか、その『過去』とリンクした『今』をどうすれば良いのかわからないまま、俺はゴールデンウィークが終わる前にここ、葦野市にある自宅へと帰った。帰ったのは前日の昼過ぎだったが、またも長い鉄路に辟易し、そのままなにもすることなく長い長い眠りに就いたのだった。そして、今に至る。
本来なら朝食を摂る時間なのだが、どうにも食べる気が起きない。作業的に物を入れる気力も湧かない。四日前の夜以来ずっとそうだ。両親は当然心配してくれたが、その優しさはありがたいと同時に、申し訳なさと八つ当たり的な憎悪が湧いた。両親がカミングアウトをしなければ、今も過去改変で得た『今』のままでいられたのだというのに。
あのカミングアウトで俺が、あの事故でどれだけ大切なものを失ったか、そしてその大切なものを失った直後にどうなったのかという記憶の蓋が開き、同時に喪失感と絶望へと苛まれた。あの時感じていた、触れていたもの。それが俺にとっての全てであったというのに。
朝食は食べず、午前中はただひたすらボーッとするだけで、気づけば机に向かい、画用紙にやり場のない感情を発露していた。ガタついた曲線に不自然でいて素朴な面持ちを持つ一人の男。ただひたすらに海に向かって何かを想う。それが希望なのか絶望なのか。憎悪なのか悔恨なのか。ただ一つ言えるのは、黒々とした荒波に降り注ぐ慈雨と灰色が持つ意味は、決して前向きなものでは無いということである。
これが果たして俺の今なのか。それとも『過去』の幼き、在りし日の俺自身なのかということだ。描いている本人が分からぬ、得体の知れぬ絵というものは興味深くもあったが、それ以上に奇怪で許し難いものであった。数時間で描き上げたが、一つの作品として残すことに異常なまでの抵抗を感じ、一回、二回と折り曲げ、ゴミ箱に投げた。
描き終え、その絵を捨てた頃には黄昏時となっており、外は狐の嫁入り状態となっていた。厚い雲の夕の色と降り続く雨が織りなす風景は幻想的であったが、言い表し難い哀愁と寂寥感に嫌気が差し、思わず遮光カーテンを閉め、外界との接続を断ってしまった。
――なにか食べなければ。そう感じひとまずパスタを茹で始める。パスタが茹るのを待っている時、側にある暗く、シーンとした浴室とカラの浴槽が目に入った。……ウミカ――いま会った時、俺は何を言うべきなのか。そして何故こうして現れ、何が目的なのか。聞きたいことも、言いたいことも沢山ある。
麺を熱湯から取り出し、ミートソースと合わせて皿に盛り付け、机へと戻る。手を合わせ、昨日まで三人で行っていた挨拶を、一人で行う。
「……いただきます」
***
完全に陽が落ちて、少し伸びた爪の白い部分のような月がひっそりと闇を照らす夜。たまにかかる雲で今にも消え入りそうなその月は、確かに俺の目に届き、今までうやむやにしてきた考えを確かなものにした。
行こう。『深層心理の投影』という偽りを纏ったあの世界へ――。
浴槽にお湯を張り始める。お湯が溜まるのを待ちながら、この後話すであろう『過去』と、こうしてウミカと出逢うことになった経緯への疑問を頭の中でまとめていた。ふわふわと漂ってしまうヘリウム風船に重りを一つずつ付けていくように。……そうしてまとめていると、体感ではあっという間に湯船が完成した。――行こう。
暖色系の光が浴室を包む。お湯が張られた浴槽から立ち昇る湯気がこちらを誘うように纏わりつく中で、その誘いを受け入れるように、右足を浸ける。温度に反してどこか冷たい印象を受けるというある種の矛盾が右足から脳へと伝わる。……まるで拒絶されているような感じだ。
続けて左足。そこからゆっくりと下半身から上半身にかけて、身につけている黒のハーフパンツと青のTシャツを濡らしてゆく。残るは頭部となったところで、声がした。
……来るの?
声は若干、震えている。俺は湯船に体操座りをして、答える。
「ああ。もちろん」
……そう、かぁ~
安堵にも、諦めにも似た声が聞こえる。その声を合図に、俺は残していた頭部を完全に沈め、やがて完全な意識の途切れへと至った――。
***
「もしも~し」
「……ん、ついたか」
「そうです、つきましたよ~寝坊助さん」
いつものように起き上がり、ソファに座り直す。そして空いたスペースに、ウミカは座る。
辺りを見渡せば、以前まであったはずのダイニングスペース、不思議な窓、キッチンスペースが消え、それらがあったはずの場所には虚空だけが広がっていた。よくよく見れば、白い天井や床にも、所々虚空の割れ目が蔓延っている。
「いや~それにしても、今日はどうされたんですか?なんだか思い詰めたような顔して~。ただでさえ根暗な顔してるんですから、もっと明るく来ましょうよー!」
変わらぬ口調。挑発的で、まるでクソガキ感が残る表情。出会った当初は随分イライラさせられたなぁと、今になって懐かしむ。懐かしむといっても、せいぜい二週間前に会ったばかりだというのに。
出会ってからは俺の、ゆっくりと蝕まれて死んでいくだけだと思っていた人生を大きく変えてくれた。きっとこの先も、続いていくものだと思っていた。過去改変というものが無くとも、そうありたいと願っていた俺がいた。心のどこかでは、いつか必ず別れが来ると知りながらも。
「あれ、聞いてますー?無視は良くないんですよ~!まったく……」
腕を組んで拗ねたようにそういうウミカを、俺はどういう表情で見ていたのだろう。悲しみ?憐み?それとも――いや、きっと。一言で表すにはあまりにも足りない、そんな面持ちだっただろう。ウミカもそれまでの口調や仕草が嘘のように静まる。
言わなければ――。いま、ここで。
唾を飲み込み、ウミカの青い目を見つめる。自然と拳が角張り、肩が上がる。そうした中で俺は、ここに来る前に考えまとめていた言葉を言う。
「妹だったんだな。お前――いや、ウミカは俺の」
ウミカは一瞬キョトンとした後、明らかに目を泳がせて、震える声で、いつもの口調で言い返してきた。
「なっ……何言ってんですか~!前にも言ったでしょ?ここは――」
「『深層心理の投影』。だから、本人の深層心理の具現化が現れるはず……すなわち、名前や性別が違くとも、同一人物がここに居るはず、そう言いたいんだろ?」
「……分かってるなら!――」
「双子はある意味二人で一つだ。現実では別人と言えるが、同時に同一人物と定義することも出来る。だから違和感だったんだ、だろ?ウミカ――いや、絵馬 海歌」
「……っ!!」
海歌が口を大きく開け、目を見開いて硬直している。瞳は激しく揺れ、今にもどこかへ走り去ってしまうような顔をしていた――が。
スンっと。今までの海歌が嘘だったかのように、天真爛漫なクソガキムーブを一転させるように、酷く大人しい、座った目をする孤独な少女へと変貌を遂げた。全てを透かすような青い目でこちらを見つめ、ゆっくりと目を閉じ、もう一度こちらを見て、口を開く。
「……この時が来るのを、ずっと待ってた。同時に、来て欲しくもなかった。そうでしょう、青人」
「……わざわざバレないように、キャラ作ってたんだな」
「本当はバレても良かったの。でも、気づいて欲しくもなかった。心が二つあるって言うのは、こういうことを言うんだね、兄さん」
「絵馬 海歌……俺と同じ四月二十一日生まれ。俺と一緒に生まれ、俺と一緒に海難事故に巻き込まれ、溺死。わずか三年という歳月でこの世を去った、もう一人の家族……」
海歌は青髪セミロングをふわりと揺らし、深く頷いた。
「やはり、そうだったのか……両親から名前が出た時、本能的にお前が妹、海歌であるということは分かったんだ。同時に、どれだけ大切にしていたかも。そしてその存在を失った時、矮小な俺が巨星のような喪失感に押し潰され、その記憶に蓋をすることでしか元に戻る方法がなかったことも」
「うん……ずっと見てたから。知ってるよ」
今までにない距離感。無いようであるし、あるようで無い。とにかく不思議な心情だった。――しかし、時間は限られている。聞けることは聞いておかなければ。
「改めて、聞かせて欲しい。どうしてこの空間が生まれたのか。こうして過去を変えることになったのか。一つずつ、ゆっくり……」
「……時間も限られてる。実は知ってることも限定されてるんだぁ~。……でも、私が知ってることはちゃんと、話すよ」
両手を膝につき、海歌を見る。そうして海歌はゆっくりと、話し始めた……。
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