浴槽海のウミカ

ベアりんぐ

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序章

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 空色の瞳に影をかけてゆく。

事前に下書きしていた部分にマルをつけ、追加情報として『濃淡を海の如く』の文言を、その横に書き加える。

色鉛筆を握りかえて再び画用紙に入る。黒、青、黄、白が混ざり合う世界に命を宿すように、血の色を巡らせてゆく。そこまでの作業をして時計を見れば、長針が『9』の時をいまにも指そうとしていた。

窓を見れば青々とした山頂を越した太陽と、その下をそそくさと歩いてゆく学生の姿が切り抜かれている。毎朝この窓を見ると、憂鬱になる。



「そろそろ行くか……」



 鬱屈とした気持ちに蹴りを入れ、独りごつとともに、机に広がった色鉛筆と画用紙を片付けて椅子から立ち上がる。ずっと座っていたからかフラつきながらも、使いもしないキーボードの支えに掛けてある白地のトートバッグを手に取って、玄関へと向かう。

扉のチェーンと鍵を外し、やけに重く感じる玄関扉を開けて外に出る。朝から講義となると、実に憂鬱だ。



「行ってきます」



そう呟き、扉を閉めて鍵をかける。











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 通っている大学へ向けて坂道を下る。とは言っても、大学まで徒歩二分もない道のりなので大して苦ではない。ゆえにマンションの自室から大学やグラウンドが見えたり、運動部やサークルの声が聞こえたりするのはよろしくないが。

道路に落ちた鳥のフンや自販機の側から生える雑草を見ながら歩いていると、あっという間に大学敷地内へ入った。そこからは一限に出席するであろう人ばかりで、ため息が出た。

ここ、『葦野文化大学』(通称アシブン)は山間の少し開けた部分に建つ、自然に囲まれた大学だ。おかげで夏場は虫や鹿、熊が出没し、冬場は雪によって世界が真っ白になる。唯一の利点と言えば、夜が静か、ということぐらいだ。雪に関しては、俺の出身地が静岡県の海辺であるため降ってくれると嬉しいので害ではない。

もともと教員育成校としての歴史を持つアシブンは大学となった今でも教員育成に力を入れており、教育学科生が学生の半分以上を占め、俺もその内の一人である。正直なところ、とくに教師になりたいと思っておらず、ただ共通テストの出来がこの大学の募集要項に合っていただけの俺からすれば、はえ~といったような感想しか出てこないものでしかない。

『一号館』の玄関口から構内に入り、履修している講義がある教室を目指して階段を登る。階段は一限の生徒が多くおり、小さくため息をついてその潮流に飲まれるようにして歩いた。

階段を登り切り三階にある目的の教室に着くと、まだ教授こそいないものの、幾人かの生徒が既に最後列の椅子に座っていたことから、その前にある長机の席に着くことにした。トートバッグから必要な教科書と筆入れを取り出し準備をする。

 やがて教授がやってきて講義が始まる。……眠い。ハーメルンよろしく睡魔を誘う教授のふわふわとした声に、とつとつとリズムを持ちながら白紙上を踊るペンの音。または自前のノートパソコンでキーボードをカチャカチャと奏でる音。そして決め手は晩春の、穏やかな心地良い風。だめだ、ねむい。

こんな時、誰かメッセージアプリで密かに話せるやつがいたら――と考えたが止めた。。失った関係を考えても仕方ないじゃないか。切り替えて絵を描こう。そう考え直し、依然として真っ白な紙に朝、描いていた絵のパーツを描き始めた。

目、口、鼻、髪。いずれも青々としたイメージでうっすら描き上げる。良し、こんなもんか。

描き上げたパーツに自身の構想を文字にして書いていく。この作業があることで確かな輪郭を描くことが出来るので、他の絵を描く時もよくやっていた。

しかし今描いている絵はどうにも上手くいかない。この絵にはなにか、論理性が通じないものがある。文字を書いては消し、書いては消しを繰り返していると、いつの間にか講義は終わっていた。











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 絵のことを考えていると、いつの間にか今日最後の講義が終了し、他の学生がぞろぞろとリアクションペーパーを前の机に置いていく。何も書いていなかった俺は必死にペンを走らせ、支離滅裂ながらもそれなりに行を埋めて立ち上がる。

リアクションペーパーを指定の位置に置き、教室を出る。今日はこの後、バイトであるコンビニの夜勤があるので睡眠を取らなければならない。当初の予定通り坂道を登り、マンションの階段を登って三階の自室へと直帰した。

キィ……と軋む玄関扉を閉め、鍵をかけチェーンを下ろす。家に着くと一、三、四限の疲労が来る。この疲労感を利用して眠りに就こう。そうして短い廊下をすり足で歩き、遮光カーテンを閉めて、ボスっと身体をベットの低反発に預けた。薄暗い部屋の天井をしばらく眺め、目を閉じる。

………

……



……寝れない。

 ベットから身を起こし電気を点けて、椅子に腰掛ける。なんだか頭が冴えてしまい、机に向かう。



「描くかぁ……」



 呟き朝描いていた画用紙を眼前に広げ、眺める。どうにもしっくりこないものである。もともとこの絵は俺の記憶、いや、脳裏にぼんやりと浮かぶ女性を描いたものであり、その画を思い返して描いていれば難なく描けるものだと思っていたが、何度やっても上手くいかない。なにか一つ、パーツが足りないのである。

そう考えながら、はや半年。少しずつしっくりくる顔、手、背景、色を描いてきていたが、今も描けていない。そんな一枚である。

 しかし、くよくよ考えていても埒が明かないのでとりあえず描くことにしている。とは言っても、しっくりこない理由を悩んでいる時間の方が長いが。

時刻は五時半。少し描いて寝れば、迎えの来る十一時半頃には間に合うだろうと楽観的に考え、色鉛筆を手にとって画用紙上の世界へと入っていった。











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青人あおと寝れなかった?大丈夫?」

「実は目が冴えて寝れなくて……あ、仕事はちゃんとするんで、大丈夫です」

「そう?とりあえず前半俺やるから、それまで寝てても大丈夫よ」

「すいません……ありがとうございます」



 ――バイト先コンビニにて。時刻は午前0時を過ぎた頃である。

 あの後結局寝れず、気づけば迎えが来る十一時半になろうという時間になっていた。絵を描いているといつもこうである。臆病な割に計画性がない自分を呪った。今日のバイトがツーオペであることには感謝である。しかも相手は四年の田牛 弘海とうじ ひろみさんだ。俺の二つ上(俺は二年。どちらも現役入学)であり、同じ学科専門の授業で去年夏に知り合った。そこでこの夜勤を紹介してもらい、面倒を見てもらった恩がある。

なにより弘海さんは面倒見が良く、仕事もできる。夜勤のバイトメンバーでも一目置かれる存在であった。

 とりあえず迷惑をかけまいと、防犯カメラの映像が映るモニターの置いてあるデスクに持参した飲み物を置いて、その席に着く。しばらくすると接客を終えた弘海さんがバックヤードに戻ってきた。

弘海さんの手には水を入れたプラスチックの容器とタバコ紙箱。席に着くとシルバーのジッポライターをポケットから取り出し、紙箱からタバコ一本取り出す。

カチャン、ジッ。

火のついたタバコから口を離し、紫煙を吐く。その行動に当てられ俺もポケットから紙箱とゴールドのジッポライターを取り出し、タバコを一本咥える。

カチャン、ジッ。

口から肺へと入る感覚の後、紫煙を吐く。ジッポライターと紙箱をデスクの上にコトリと置き、眠気を覚ます。そうしてしばらく互いに吸っていると、弘海さんから口を開いた。



「寝れなかった理由、当てていい?」

「おっ、分かるんですか」

「答えは……女だ!」

「いやぁ……そうじゃないんですよねぇ~」



 半分当たりでもあるが、実質的には違うので不正解だ。えぇ~、と言いながら再度タバコを咥えて吸う。それに続き俺も同じ動作をする。ほぼ同時に煙を吐き出し、空間を煙たくする。

あまり悔しそうにしていないところが実に弘海さんらしい。そのまま目を細めて口角を上げながら話を続ける。



「それじゃあ、例の絵か?」

「さすが!ご名答です」



 弘海さんは以前から趣味を話し合う仲となり、俺の絵のことも話していた。会話に間を空けないために急いで煙を吐き出しそう言うと、弘海さんは苦笑いしながら咥えていたタバコを容器に吸い殻を捨て、肺に残った煙を吐く。



「趣味に時間を使うのは良いけど、ちゃんと寝ろよな~」

「ですよね……な~んか今日は寝れなくて」

「ま、俺にも似たような時期あったからなぁ……ちょうどこのぐらいの時に」

「それは演劇に関して、ですか?」

「いや女」

「おんなかぁ~……」



 弘海さんは苦笑し二本目に火をつけ紫煙を吐く。弘海さんは演劇に関して情熱を持っており、わざわざ山梨県葦野市から電車を使って東京の演劇団に顔を出している。そのことかと思って回答したが不正解だったようだ。俺は頬を緩ませながら最後の一吸いをして吸い殻を容器に捨てた。



「ま、今となっちゃ別れた女なんて知ったこっちゃないよ。……あ~あ、良い人いないかなぁ……」

「弘海さんのせいじゃないですって。良い人、見つかりますよ」



 弘海さんは今年の二月に三年以上付き合った彼女と別れた。原因は彼女側の浮気。京都と山梨の遠距離恋愛が祟ったようだ。今が四月二十日——いや、四月二十一日だから、だいたい二ヶ月前のことである。



「――ってあれ、今日、四月二十一日ですか?」

「ん?……フゥー。そうだけど……あ、青人誕生日じゃん!おめでとうー!」

「自分でも忘れてました……ありがとうございます!」



 今日、誕生日じゃん!……自分でも忘れていたことに驚いたが、弘海さんが俺の誕生日を覚えてくれていたことに込み上げるものがあった。二人で口を開けて笑いながらタバコを吸う。気づけば俺も二本目に突入していた。



「あ、お客さんレジにいるじゃん!ちょ、タバコ持ってて」

「はーい。お願いします」



 レジに向かって走っていく弘海さんの背中を見ながらタバコを吸う。

 それからは談笑しながら接客をし、やるべき仕事をこなして夜を流した。結局そのバイト中、寝ることはなかった。











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「それじゃ、おつかれ~」

「はい、おつかれさまでぇ~す……」



 はぁ……疲れた。送迎を担っている別の先輩の車が視線の先の坂道を下って行く。それを見送り重い足取りで階段を登って、自宅へと戻った。



「ただいまぁ……」



 荷物をドサっと置き、玄関扉に鍵をかけてチェーンを下げる。

このまま眠ってしまおうか……そう思ったがどうにも身体が気持ち悪い。せめてシャワーだけでも——



「……湯船、浸かりたい」



 なぜそう思ったのか、分からない。分からないがそう思ったなら身体は動く。どこかに座ってしまう前に玄関横のバスルームへと入り、栓をしてお湯を示す赤い丸の描かれた蛇口を捻る。それからはバスルームにある乾き切った椅子に腰掛けスマホをいじる。

……眠い。非常に眠い。瞼が重く感じる。スマホを落としそうになり、ハッとなって手に取る。危ないあぶない……椅子から立って廊下の先、自室へと行こうとした、その時――猛烈な眠気の波が、身体を飲み込んだ。



ボッチャーン!!!



 ……ああ、ここは?あれ、俺は…‥何して……確か湯船に……。……あったかぁぁい。このまま眠って――


 
 そうして俺は着衣のまま。黒地のスキニーパンツと空色長袖Tシャツ、紫のくるぶしソックスを濡らして浴槽の底へと、身体も意識も沈んでいった。











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 ……なんだか懐かしい夢を見ている感じがする。夏場の海辺、そこではしゃぐ二人の子供。それを微笑ましそうに見ている両親と思しき男女。海は太陽の輝きを乱反射しながら白波を上げている。そんな、夏の一枚。

 変な感覚だ。俺は。それなのになんでこんなにも懐かしく、そして、のだろう。

だんだん両親と二人の子供の距離が遠くなる。駄目だ!……何が?二人の子供が笑みを浮かべ、手を繋いで海へと走っていく。駄目だ、そっちへ行ったら!……だから一体、何が駄目なんだ!?

自問自答しながらその二人に、決して触れることのできない自身の手を伸ばす。駄目だ……ダメだダメだダメだ……!!


 
「駄目だぁ!?!?」



 ……どうやら本当に夢を見ていたようだ。しかし右手は伸ばされていて、心臓もどくんどくんと激しく脈打っている。まるで悪夢を見ていたような感覚である。



「……ん、ここ、どこだ?」



 俺は確か、夜勤から帰ってきて……浴槽にお湯を溜めていた時に……うとうとして……ああっ!?



「やっべぇ!!」



 とするとここは自室で、湯船が溢れて!……って、ここ、本当にどこだ?さっきは寝ぼけ眼で見て言っていたが……どうやら本当に知らない場所らしい。それに俺が寝ていた場所もベットやカーペット上ではなく、白地のソファであった。

とりあえずもう一度ソファに腰掛け、辺りを見渡す。ソファ前にはテーブルとラジカセ。横の空間にはダイニングテーブルと思しきものがある。ということは誰かの家族の家だろうか?しかし、やけに物が少ない。家族で住んでいてこれだけ物がないのも不思議である。

立ち上がってソファの後ろを見ると大きな窓があったがどうもおかしい。窓には闇が広がっており、どんなに目を凝らしてもなにも見えない。テーブルの向こうにある扉を開けようとしても、開かない。

妙に高鳴る鼓動と身震い。まるで心霊スポットに来たみたいだ。部屋の明かりが温かに全身を包んでいるのが嘘みたいだ。



 ガタッ。その音に全身の毛が逆立つのを覚えた。……この部屋の中に、誰かいる!?今にして思えば当たり前なのだが、この時は頭が働いておらずこのことにパニックになっていた。



 音がした部屋の右隅、引き戸があった。恐る恐る近づく。慎重に、しんちょうに……しかし恐怖が臨界点に達した俺は、ええいままよ!と心で唱え、勢いよく引き戸をガラッと開けた。



「きゃ!?」

「え、あ」



 おんな!?いや、それよりも……はだか――



「へ、へ……へんたぁーいっ!?」

「ぶっへえぇ!?」



 ビッターンッ!と全体重が乗っかったビンタを喰らい、後ろへ倒れ込む。この感覚……また、意識が……。そう感じながらも、幽霊とかじゃなくて良かったということ。ラッキースケベにあずかれたことを良しとし、そのまま無音の闇へと落ちていった。











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「う、う~ん……」

「あ、起きました?」



 今度は何も夢を見ずに目を覚ます。同じ場所に寝ていても先ほどとは多少の違いがあった。かけられたタオルケットと、側に座って水を飲む女性がいることである。……ん?



「うわぁ!?」

「え!?な、なんですか!?」

「いやあんたに驚いたんだよこの変態女!」

「あー私ですね、私――って、はあぁ!?変態はそっちなんですけどぉ!?」

「人が引き戸の外にいそうなら声ぐらいかけるだろ、ふつう!」

「人がいそうならいきなり引き戸開けるのもどうなんですかねぇ!?」



 閑話休題。

 言い合いに疲れたのか、女性は、はぁ~……とため息をつく。先ほどはすっぽんぽんだったが、今はデニム生地のオーバーオールに、白の半袖Tシャツを身に纏っている。

隣り合うようソファに座りながらやれやれ顔で沈黙していると、ゆっくりとこちらに顔を向けてその女性は俺を凝視し、ついギョッとしてしまった俺を怪訝そうに見た。



「なんですか。まだ何か言いたいことでも?」

「いや、さっきのことはもういいんだ……それより、ここは一体どこなんだ?俺は確か、寝ぼけて湯船に入ってたはず……」

「……なんにも知らずに、ここに来たんですか?」



 俺がそう言うと、怪訝そうな顔から一転、ぽかんとした表情に変わる。そんなに変なこと言ったか俺?

 しばらく見つめ合っていると女性は突然、破顔し手を叩いて立ち上がった。……そんなに可笑しいのか、俺……。



「いやぁ、まさか知らずにここに来るとは思ってませんでした!あっははっ!」

「……知らずに来て悪いかよ」

「ごめんなさい!……馬鹿にするつもりはないからさ、そんな怖い顔しないでよっ」

「はぁ……それで、ここはどこなんだ?そもそもアンタは一体誰なんだよ」

「つくづく礼儀のない人ですねぇ……まずは、自分から名乗るもんでしょ」



 くっ……喋らせておけばこのアマ……!でも実際、こちらが名乗らずに相手の名前を聞くのは失礼だから、代わりに嫌味ったらしく名乗ることにした。



「……絵馬えま青人」

「はい、知ってまーす!私は。よろしくぅ~」

「チッ……ってあれ?知ってる?初対面だろ、俺たち」

「実はですねぇ……あなたのことは知ってるんですよわたし~――絵馬 青人、今日で二十歳!高校で両親と死別し精神が捻じ曲がった末、大学で出来た親友と彼女をうしな――」

「あーわかった、わかったからやめてくれっ!てかなんで知ってんだよ!?」



 ウミカと名乗った女性はにんまりと、勝ち誇った様子でこちらを見下ろす。まるで狐に化かされている気分だ。気味が悪い。



「ふっふっふ……そんなあなたに教えてしんぜようではないか!実はな——」



 そう溜めて言おうとするウミカを見てハッとする。デジャヴというか、この一場面、どこかで――



「私とこの世界は、なんだよ~!」



 青みがかったセミロングの髪をふわりと揺らし深海の如き蒼眼でこちらを微笑で覗くウミカはそう言う。

この時、疑心や不安が出るだろうが何故だろう、そんな感情が湧き上がることはなくむしろ、欠けていた人生の、小さなちいさな歯車がようやく、あるべき場所へと戻ってくるかのような安心を感じた。
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