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背中

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 10月の中旬。僕らは瀬辺地を訪れていた。もともと理香はパン屋の仕事があったが急遽休みをとっていた。事情を話すと店長はすぐに了承してくれたそう。秋色コーデに身を包んだ理香は大人びて見えるが、それがただ陰鬱としていることに僕はやはり辛く思ってしまう。

駅舎にはすっかり大きな蜘蛛の巣が張っており、人が利用している痕跡も少ない。土曜の昼だというのに全く人がいない。周囲にある木々はだんだん色めき始め、雲もだんだん遠くなって空が高くなった。そんな中に2人、僕らはポツンと座っている。理香は自前のジッポーと金ピースを取り出し、火をつけて黙々と吸っている。僕も横で同じように、どこか落ち着かない心持ちで素早く吸っている。

 今日ここに来ようと言ったのは理香だ。あれから僕らには不必要であったはずのこの地に戻ろうとするのは少し抵抗があった。しかしそうしなければ瓦解してしまう心が理香にはある。現に彼女はいま、小説を一切書いていない。今ごろパソコンのキーボードには埃が溜まり始めたことだろう。



 理香の最高傑作は、一次選考すら通過しなかった。



 10月頭に発表された選考結果を見ている時、僕は狐につままれたようだった。理香も同じような状態だったと思う。それだけ自信があったし、なにより一次で落ちることなどこれまで無かったのだ。僕らは数十分間、空気を振動させなかった。

その沈黙は理香の嫌悪と悲哀に満ちた涙で破られた。そこから三日三晩泣き続けた。僕はそのときずっと側にいた。もちろん恋人としてパートナーとして側にいたいと願ったからである。しかしもう一つ……ただ、彼女の純粋なマイナス感情からひり出された涙の雫が美しいと感じてしまった。

赤く泣き腫らしてなお涙を流す顔、嗚咽に変わった声、忙しなく動く手足も、時折震える背中も。どうしようもなく美しいと感じた。まるで冬に凍えて誰かを待つ人が、積もった寂しさに負けてしまうような状況。それがたまらなく心を打ったのだ。

 そうして少し落ち着いた今、ここにいる。煙草は吸い終わり、彼女が地面に捨てた吸い殻を僕が拾い、僕の吸い殻とともに携帯灰皿に入れる。それを見ていた理香は小馬鹿にした様子で笑い、やつれた声でこちらに言う。

「ゴミなんて拾っても意味ないわ」

「それでも、ここに捨てて良い理由にはならないよ」

「ふふっ、智樹くんはここを守りたいの?」

「っ!……理香、やめよう。それにここ以外でもゴミは捨てちゃ駄目だよ」

 変わらずこちらを見続ける理香はどこか怖い。心地良いと感じていた視線での会話も、今となっては控えてしまいたくなるほど怖い。口論となりそうな予感があったので立ち上がり、外に出ようとする。すると左手を理香が掴む。そして続ける。

「ここ以外でもゴミは無価値よ、落ちてようがそれを拾おうが無意味。なんの意味があるの?私の作品と同じよ」

「……理香」

「そう、同じよ。本当に笑っちゃうわ、今まで私は何をしてきたのかしら?」

「やめてくれ、理香」

「それにここも同じよ、智樹くん。過去の想い出なんて全てゴミみたいな――」

「やめろッ!」

 咄嗟に彼女の眼前まで顔を持ってゆく。彼女の微笑みは消えない。ずっと同じように座っている。まるで善悪などの認識が最初から無かったかのような発言をしている。これまで話してきたことがガラガラと音を立てて崩れてゆく。それを彼女は笑って見送る。

しかしどうにも言えない。だって彼女が1番辛い。僕は所詮付き添いでしかない。その不幸を背負う覚悟がない。どうにも踏み出せないのだ。きちんと彼女のことを愛しているし、そこに嘘はない。作品だってこれまで真摯に向き合ってきた。

だと言うのに未だに僕は、僕の大切な何かを時や人の流れに失くしたくないと思っている。だからなのか?彼女とともに背負えないのは。

 掴まれていた手をゆっくりと繋ぎなおし、彼女を少し引っ張る。

「……少し、海に行こう」

「……わかった」

 彼女は僕に引っ張られるかたちで立ち上がり、僕に引かれるがまま、やつれ微笑む姿で歩く。空は若干の雲がもくもくと泳いでいる。そこに水気はない。ここで……ここで雨が降れば、彼女は潤うだろうか。

海辺に向かって、慣れた足取りで歩く。足音がやけに耳に残り、呼吸は浅く感じる。ここじゃない、ここじゃないという予感と言葉が反響し、彼女と想い出の地を歩いているのに、居心地が悪い。しかしなぜだろう、見えない雪を感じる。心から噴き出しているのか、ハラハラと僕の目線から地面に舞う。

国道を越えようとするも、なぜだか車が多い。なかなか渡れず、ようやく渡れるかというところで、理香が僕の裾を引っ張った。振り返ると、彼女は変わらず微笑みながら、スッと頬に雫が伝っている。

「ど、どうしたの?」

「あ……いや、ごめんなさい。ふふっ、なんでっ、でしょうねっ……」

 彼女自身もわけが分からないと言った様子だった。作品のことを思い出したのか、それともまた別のことなのか。……とにかく、今は彼女が少しでも前を向けるようなんとかしなければ。そうしてまた、あの日々を始めるのだ。



 ――このあと、2人の世界には雨が降る。必然で何度も反芻するであろう、雨が――。
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