悪辣と花煙り――悪役令嬢の従者が大嫌いな騎士様に喰われる話――

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13.宣戦布告

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・宣戦布告(せんせんふこく)
 戦争を開始する意思を宣言すること




 めでたしめでたしで終わった物語。しかし、物語が終わった後も、幸福な日常が続く保証はどこにもない。例えば、王子様と結ばれたお姫様が、別の男に恋をしてしまったとか、王子様が別の女を抱いてしまったとか。

「……ま、物語にその先なんて存在しないんだろうけどぉ」

 今、巷で話題らしいロマンス小説、『ミス・エロティカの初恋』をごみ箱に放り投げ、ヴェンツェル・グリニコフはぐんっと伸びをした。
 エリアーシュが読んでいたから試しに読んではみたものの、主人公たちの恋情にはちっとも共感できなかった。
 恋愛は理屈ではないのだと、誰もが口を揃えて言う。ヴェンツェルには、それが理解出来ない。本当に欲し求めている相手を手に入れる為だからこそ、最も効率的で効果的な方法を取るべきだ。

「……さてと!」

 適当な言い訳で待たせている客人のもとへ、流石にそろそろ向かうべきだろう。果たして、どんな用件でこんな場所まで来たのやら。
 よりにもよって、この国の守りの要になるだろう男が、黒い噂の絶えないグリニコフ商会本部に足を運んだと知られたら、白い目で見られることは間違いない。それを分からない男ではないだろうし、分かった上で来訪したのだとしたら、おそらく用件は一つきり。

「お待たせお待たせ。ようこそ、グリニコフ商会へ。それでご用件はなにかな、シルヴェリオくん?」

 応接間の豪奢なソファに腰掛け、ヴェンツェルを一瞥する瞳は刃のように鋭い。ヴェンツェルに会いに来たのは業腹なのだと、全身が叫んでいるかのようだ。
 この場が戦場であったなら、まず間違いなく首を落とされているだろうなぁ、とヴェンツェルは苦笑をこぼす。

「単刀直入に言う。エリアーシュに悟られずに、コースフェルト公爵に渡りをつけ、取引を手伝って欲しい」
「エリィに悟られずに、ねぇ?」
「当然、見返りは用意している。俺に手を貸した方がグリニコフ商会としても利益になるだろう」

 そうして、シルヴェリオはヴェンツェルに取引を持ちかけるに至った経緯を明かした。
 コーレイン辺境伯のご令嬢との婚約の話が持ち上がったこと。既に断れない段階まで話が進んでいること。裏で、エリアーシュが動いていたこと。
 ああ、とヴェンツェルは笑いたいのか呆れたいのか分からない心地で天を仰いだ。
 エリアーシュが言っていたとはこのことか。引導どころか導火線に火を着けているではないか。肝心なところで読み間違える辺りがエリアーシュらしいと言えば、らしい。
 シルヴェリオがエリアーシュに並々ならぬ執着を向けていることは誰の目にも明らかなのに、当の本人だけはいつまでも「俺はハイドフェルト様が嫌いだし、あっちも俺のことが嫌いなんだよ」と言って、まったく気付いていなかったくらいだ。
 シルヴェリオが引導を渡され、かえって燃え上がるくらい予想がつきそうなものだが、エリアーシュにはちっとも考え付かなかったのだろう。

「……それで、俺への見返りは?」
「まず、俺がコーレイン辺境伯の令嬢を妻に迎えることによる不利益の回避だ。国境警備が厳しくなると困るのはおまえたちだろう」
「なるほど、なるほど。確かに、国境警備が厳しくなると、ウチとしては困っちゃうかなぁ」

 けれど、それだけではハイドフェルトに手を貸すまでには足りない。まだ明かしていない手札があるだろう、と嗤う。
 ハイドフェルトが、複数枚の書類を取り出した。促されるままに受け取り、文字に目を滑らす。思わず口笛を吹きそうになった。

「ウチの裏帳簿の一部じゃん。どこで仕入れたの?」
「入手経路は黙秘する。だが、これを表に出されては困るだろう?」
「握り潰してやるからって?」
「それだけではない。将来的に、俺が騎士団を統べる地位に就いた際にはグリニコフ商会への不可侵を約束しよう」
「太っ腹ぁ」

 シルヴェリオ・ハイドフェルトとコーレイン辺境伯令嬢の婚姻は、国にとっても両家にとっても利益が大きい。加えて、コースフェルトが仲立ちしているとなれば、婚約の話を白紙にするには相当な理由が必要となる。
 彼の策は流石だったが、いかんせん相手がまずかった。目の前の男は、目的の為なら手段を問わない獣へ変貌を遂げていた。

「……良いよぉ、一時的に手を組んであげる。まず、エリィに内緒でコースフェルト公爵に連絡を取って、婚約を白紙に戻してくれるようオネガイすれば良いんだね?」
「そうだ。こちらも、コーレイン辺境伯令嬢にはお咎めがないような理由を提示する」
「因みに、どんな~?」
「エリアーシュ・メルカダンテを愛している。愛する余りに強姦するような性犯罪者のもとへ、ご令嬢を嫁がせるのはいかがなものか、と」
「気でも狂った?」

 思わず本音がこぼれ落ちた。とても正気とは思えない。
 だが、覆しようがない事実は何にも勝る。シルヴェリオがエリアーシュを愛している事実は紛れもなく本当で、きっかけはなんであれ彼を強姦したことにも間違いはない。大きな利益が見込めるとしても、自分の娘を性犯罪者のもとに嫁がせたいと思う親はいるだろうか。
 おそらく、エリアーシュの悪巧みは潰える。だが、シルヴェリオの真の望みが叶う訳でもない。

「そんなことをしたって……ううん。より一層、エリィが君を愛する可能性を削ることになると思うけど?」
「覚悟の上だ。元より、本当に欲しいものを得るためならば、お綺麗なだけでいられない」

 それを教えたのがエリアーシュなのだから、この結果は皮肉以外の何物でもない。
 シルヴェリオ・ハイドフェルトの策は劇薬だ。確かに、婚約の話は潰えるし、エリアーシュを手に入れられるかもしれない。
 毒は使い方を間違えなければ薬にもなる。だが、蓄積した毒はやはり破滅をもたらすのと、シルヴェリオは気付いていない。

「おまえこそ悠長に構えていて、足を掬われても知らんぞ」
「ご忠告どうもぉ」

 言われなくとも、油断する気はおろか手を抜く気さえない。もはや、あの悪辣の花を譲ってやるつもりは欠片もないのだから。
 排除する決めたのなら、後の禍根にならないよう、徹底的且つ情け容赦なく。
 さて、目の前の騎士様を排除するのに、最も効率的な手はなんだろうと考えたとき、ヴェンツェルの頭には一人の少女が浮かんだ。


 ◇


 ────君は思ったよりもつまらない。リチャードの隣には相応しくないね。
 ドナシアン王国の第二王子に言われた言葉が、棘となっていつまでも残っている。
 校内を案内してほしいと、親しげに頼んできた王子は、リチャードとエリアーシュに聞こえない位置まで来るや否や、イルゼにそう言ったのだ。
 デイクストラに言われずとも、自分がリチャードの婚約者に相応しくないことくらい、イルゼは理解していた。
 十何年と生きているのに、未だに貴族の在り方とやらはぴんと来ない。貴族同士の腹の探り合いには慣れそうもない。
 リチャードとの婚約を破棄したい一番の理由は、はコースフェルト家の没落に繋がるからだが、それ以外にも自分ではリチャードを支えられないだろう、と思うからだ。
 リチャードと国を思うならば、潔く破棄を申し出れば良い。自分に甘い父のことだから、上手くやってくれるだろう。

「……分かっているのに、どうしても、どうしても最後の一歩が踏み出せないなんて、情けないったらないわ」

 未練のかたちは既に見えている。まだ幼い頃、泣き腫らしてみっともない顔をしていたイルゼに、微笑みながら手を差し伸べてくれたから。
 リチャードにとって些細なことで、あの人が燃えるような恋をするのは自分ではないと分かっていても、それでも恋をしてしまったから。
 恋が実るのは、物語の中だけ。可愛らしいヒロインだけ。それはきっと自分ではないとずっと諦めようとしてきたのに、僅かな希望を抱かせた男がいた。

 ────俺は、エリアーシュ・メルカダンテを愛している。

 この国で、同性愛は認められていない。加えて、貴族と使用人の恋など許される筈もない。
 貴族の価値観に疎いイルゼでも、そんなことくらい分かっているのだ。シルヴェリオ・ハイドフェルトが分からない筈もない。
 だが、彼はその言葉を撤回することはなかった。心臓を貫かれそうなほど鋭くまっすぐな眼差しで、彼は言う。

「コースフェルト公爵に、エリアーシュを買い取れないか持ちかけるつもりだ」
「な……!」
「俺がエリアーシュを愛していることも、彼に何をしたかも既に伝えてある。あなたに話したのは、一応の義理を通すためだ」

 与えられる情報の密度に目眩がした。今、シルヴェリオはなんと言った? 彼の言葉をそのまま受け取ると、シルヴェリオはエリアーシュを半ば無理やり抱いたのではないか?
 しかも、シルヴェリオとエリアーシュの間に何があったのかを、コースフェルト公爵にも伝えたと言ってはいないか?

「ちょ、ちょっと待って……あなたは、もしかしたら知らないかもしれないけれど、エリアーシュはシルヴェリオのことが、その……」
「唾棄したいほど嫌いなのだろう。何度となく言われている」
「し、知っていて、あなた……」
「嫌われているからなんだ。その程度は些末なことだ。諦める理由にはならない。あなたとは違う」

 シルヴェリオの眼光はひどく冷たかった。憎らしいと言わんばかりの目だ。彼にそんな目を向けられたことは、これまで一度だってなかった。
 憎まれるようなことをした覚えなどなく、さすがのイルゼも不快感に眉を寄せる。
 あなたにそんな目で睨まれる理由はないと言えば、シルヴェリオは「理由ならある」とせせら笑った。

「イルゼ嬢は、エリアーシュがあなたの為にどんなことをしたのかなど知りもしないのだろう」
「……どういう意味?」
「あの慇懃無礼が息をしているかのような男が、理由はなんであれ、あなたの為には力を尽くしていた」

 シルヴェリオの気持ちが分からないとは言わない。だが、エリアーシュは自分の従僕で、自分のために力を尽くすことで給金を得ている。シルヴェリオの感情は、ずいぶんと身勝手過ぎないだろうか。

「……だから、エリアーシュを買い取ろうと言うの? そんなことをして、エリアーシュの気持ちはどうなるの?」
「最初に、俺の気持ちを踏み躙ったのはあの男だ。奴に配慮する義理はない」
「っ、そんなの、愛しているって言えないわ!」
「……そうだな、そうかもしれん。かつての俺が夢見ていた愛など、もはや見る影もない」

 シルヴェリオが自嘲げに呟いた。王国の騎士として、誰よりも正しく清くあろうとしていた彼が、誰かの思いを踏み躙る日が来るなんて、思いもしなかった。
 しかもその相手が、誰よりも傍で支えてくれたエリアーシュだなんて、どうして受け入れられるだろう。

「あなたに口を挟む権利などない。本当に欲しいものが何かを理解していながら、諦めようとしているあなたにだけは」
「な、にを、言って……」
「イルゼ嬢の人格と努力は認めている。だが、あなたにはリチャードの隣に立つ資格などない」
「ッ、そんなの、シルヴェリオに言われなくてもわかってるわ!」
「ならば、何故いつまでも婚約者の地位にすがり付いている?」
「そ、それは……」

 シルヴェリオの言葉は、覆しようがない事実だ。自分がリチャードに相応しくないことなど、イルゼとて理解している。
 リチャードの立場を本当に考えるのであれば、いつまでも婚約者の地位にすがり付いていないで、婚約破棄を願い出るべきなのだ。
 けれど、今日に至るまで言えないでいる。言えない意味に、気付かないふりをしている。
 浅ましくて身勝手な女が、頭の片隅で笑い声を上げた気がして、イルゼは涙が出そうになった。

「本当に欲しいものを前にして、あなたはただ囀ずるだけか。その程度の想いならば、やはり婚約者を辞退しろ」
「ッ、」
「愛されたいだけならば、妻でなくとも構わんだろう。鳥籠の中の鳥のように、愛でられていたら良い」

 ただ愛されるだけなら、妻である必要はない。シルヴェリオの言う通りだ。
 けれど、それが果たして幸福と呼べるのか、自分が望む在り方なのか、イルゼには分からなかった。答えに詰まるイルゼを見て、シルヴェリオは失望したと言わんばかりに溜息をついた。

「俺は、エリアーシュを手に入れる為に、全てを賭けても良いと思った。騎士としては失格だと理解している。だが、それでも諦めたくなかった」

 シルヴェリオの言葉には迷いも躊躇いもなかった。かつて夢見た理想に背を向けることになっても、シルヴェリオはエリアーシュを選んだ。
 その在り方は到底許せる筈がないのに、覚悟を口にするシルヴェリオが羨ましくて堪らなかった。
 それが、昨日の出来事。エリアーシュがどうなったのかは分からないまま、イルゼは一人学園に復帰することになった。
 傍らにエリアーシュがいない。ただそれだけのことなのに、どうしようもなく心細かった。

「やぁ、イルゼちゃん。どうしたの? お腹痛い?」
「っ、グリニコフ先輩!?」

 中庭のベンチに腰掛け、ぼんやり物思いに耽っていると、声をかけられた。
 突然のことで驚いたと言うのもあるが、声をかけてきた相手が、ほかでもないヴェンツェル・グリニコフであったことも大きい。
 彼の人の──正確には家だが──悪名は、イルゼの耳にでさえ届いている。どうして彼のような人が、自分に話しかけてくるのだろう。思わず身を強張らせていると、ヴェンツェルがころころと人好きのする顔で笑い声を上げた。

「警戒しないで良いよぉ。俺、エリィとはそれなりに仲が良くって、イルゼちゃんのこともいろいろ聞いていたから、ちょっと心配になっただけなんだぁ」
「……エリィって、エリアーシュのことですよね?」
「うん。俺とエリィは仲良しなんだよぉ」
「私、何も知らなかった」

 エリアーシュが誰かと仲良くしていたことも、その相手がヴェンツェルであったことも。否、イルゼが知らなかったことは他にいくらもある。

「エリアーシュが私の為に頑張ってくれていたこと、シルヴェリオがエリアーシュを愛していること、それに……」
「────シルヴェリオくんが、彼らしからぬ手段でエリィを手に入れようとしてること?」
「……ご存知なんですね」

 ヴェンツェル・グリニコフならば、知っていても不思議はない。
 彼の言うように、シルヴェリオのやり方はあまりにも彼らしくないやり方だ。裏を返せば、それほどまでの激情をエリアーシュに向けているとも取れる。友を思うのであれば、シルヴェリオの想いを応援するべきなのかもしれない。
 だが、エリアーシュの気持ちはどうなるのだろう。エリアーシュがシルヴェリオに良い感情を持っていないことくらいは知っている。シルヴェリオを祝福するということは、すなわちエリアーシュの気持ちを蔑ろにするということだ。

「で、イルゼちゃんはどうしたいの~?」

 まるで、心を読んだかのようなタイミングだ、とイルゼは力なく笑った。
 自分はどうするべきなのだろう。何度となく繰り返してきた問い。
 死にたくないし、家族や使用人を巻き込みたい筈がない。たとえ、身の安全が保証されたとしても、自分が正妃に相応しい人間だとは到底思えなかった。
 ならば、一秒でも早く、リチャードとの婚約を破棄すべきなのだ。分かっているのに、最後の一歩がどうしても踏み出せないでいる。

「……俺はねぇ、無知は悪いことじゃないと思うんだぁ。知らなければ、これから知れば良いことだし」
「え?」
「────でも、欲しいものが分かっているくせに、行動を起こさないのは愚かしいと思うよ」

 心臓が大きく脈打った。ナイフの切先で背中を撫でられるような、そんな心地になった。
 ヴェンツェルは相変わらず笑んでいる。だが、その目には熱や情の一切がなかった。つい先ほどまでの人懐っこさは、もはやどこにもない。どうしようもなくおそろしいのに、イルゼはヴェンツェルから目が離せなかった。

「エリィは優しいから直接口にしたことは一度だってなかったんだろうけど、俺はそこまで優しくないから言ってあげる」

 抉じ開けられる、音がした。固く閉じた蓋を引き剥がされて、奥深くに押し込んだ感情が引きずり出される。
 愚かな罪人が罰を告げられるとき、こんな心地になるかもしれない、とどこか冷静な自分が思う。

「リチャード殿下が、君以外の女を横に置いて、君以外の女に跪く姿を見たいの?」

 ヴェンツェルの言葉は容赦がなかった。言葉の刃が心の臓を深々と貫いた。だが、容赦がないからこそ、余計な装飾がないからこそ、奥深くにまで真っ直ぐに正しく届いたとも言える。
 ずっと気付かないふりをして、分からないふりをしてきた。死ぬのは確かに怖い。けれど、好きな人が、いつか別の誰かに恋をするという事実も同じくらい怖かった。
 だったら、好きにならなければ良い。そうすれば余計な痛みを抱えることもない。そう思っていたのに、あの人を好きになってしまった。
 初めて会った日、「どうか僕と結婚してください」と跪いて手を差し伸べてくれた王子様に。

「エリアーシュが、不幸になると分かっていて、指を咥えて見ているの?」

 エリアーシュの人間性には少々難があることくらい、イルゼにだって分かっている。
 けれど、エリアーシュがイルゼの悩みを踏み躙ったことは一度だってなかった。「そんなことですか?」と呆れられたことはある。笑われたこともある。
 それでも、最後はどうすべきかを一緒に考えてくれた。エリアーシュだけが夢のような前世の話を聞いてくれたのだ。
 自分のために働き続けてくれた彼の行き着く果てが、不幸な結末だなんて許せる筈もない。

「────どうすれば良いか、教えてあげようか」

 それは、悪魔の甘言に似ていた。彼の手を取れば、願いは叶うかもしれない。
 だが、あたたかくて優しいだけの楽園を追われることになるだろう。もしかしたら、家族や使用人を巻き込んでしまうかもしれない。

「どうしたら、良いですか」

 それでも、耳を貸さずにはいられなかった。


 ◇


 さて、どうしたものだろうか。リチャードは微笑という仮面の下で、対応を決めかねていた。
 目の前で座っているのは、固い表情のイルゼと底知れない笑みを浮かべているヴェンツェル・グリニコフ。
 イルゼが自らの意志で登城してきたことなど、今日まで一度もなかった。加えて、ヴェンツェル・グリニコフを伴っているのだから、驚愕と警戒を抱いて当然だ。
 グリニコフ商会は、時に非合法な商品を扱い、売りさばいていると聞く。顧客の中に有力な貴族がいるのか、今日に至るまで確固とした証拠を手に入れられずにいるらしい。
 そんなグリニコフの人間と、婚約者が連れ立ってやってきたのだから、城内はにわかに浮き足立った。何か良からぬことが起きるのではないか、とリチャードでさえ考えている。
 さて、婚約者殿は何を言い出すだろうか。溜息をつきたい気持ちを堪え、イルゼの言葉を待った。

「……リチャード様、私をあなたの妻にしてください」
「本気かい?」

 リチャードは、思わず目を丸くする。イルゼは、この婚約を破棄したいのではなかっただろうか。
 だが、冗談を言っているようにも見えない。彼女が、何かしらの覚悟を決めていることくらい、リチャードにだって理解できた。
 突然の豹変には、ヴェンツェル・グリニコフが関わっているのだろうか。一瞥すれば、彼はにやりと笑みを深めた。

「譲れないものがふたつできました。その為に、正妃になりたいのです」
「譲れないものが何かを訊いても?」
「まずひとつは、エリアーシュの幸福です。シルヴェリオ様と一緒になっても、エリアーシュが幸せになるとは思えません」
「……なるほど」

 シルヴェリオとエリアーシュの一件は、リチャードも聞き及んでいた。シルヴェリオも思い切ったことをしたものだと、感心半分呆れ半分といった感想を抱いた。
 エリアーシュもエリアーシュだ。シルヴェリオに舞い込んだ婚約話は、どうやらエリアーシュが一枚噛んでいたらしい。良くも悪くも、シルヴェリオを煽るのが上手い男だ。
 リチャードとしては、シルヴェリオがコーレイン辺境伯令嬢と婚姻を結ぶのもありだと思っていた。国益になることはもちろんだが、エリアーシュへの想いが叶わずとも、騎士シルヴェリオ・ハイドフェルトの理想は果たされるからだ。
 悪を憎み、弱きを助ける清廉潔白な騎士。物語に相応しく、麗しい女性を妻に迎える。
 だが、シルヴェリオは理想よりもエリアーシュを選んだ。悪辣を呑み込んで、己だけの幸福を優先した。
 故に、エリアーシュと最も多くの時間を過ごしたイルゼが怒りにかられるのも理解はできる。彼女がシルヴェリオの幸福ではなく、エリアーシュの幸福を優先するのもむべなるかな。

「リチャード殿下。ヴェンツェル・グリニコフは私の後ろ楯になってくださいます。彼もまた、エリアーシュを助けたいと考えているのです」
「二人の利害は一致している訳だね」
「ええ。お分かりですか、殿下。エリアーシュを救うためなら、彼は助力を惜しまないそうです。彼の商会の力がそのまま我が国の物となるでしょう」
「それは確かに、耳を傾けざるを得ないかな」

 グリニコフ商会という毒は、良い意味でも悪い意味でも看過し難い。
 毒を身の内に取り込む危険性は見逃せないが、毒は上手く使えば薬にもなり得る。グリニコフ商会を見す見す他所にやるには、彼の商会には価値があり過ぎた。
 加えて、イルゼと協力関係を築いたことで、ヴェンツェル・グリニコフが商会の代表となる可能性が高まった。グリニコフ商会の次期代表が後ろ楯になったイルゼを正妃と迎えるべきだという声も増すだろう。
 グリニコフ商会の人間を城の内側に引き込むことを不安視する声も出るだろうが、ふたりの目的ははっきりしている。ヴェンツェルの話を頭から信じるつもりはないが、エリアーシュに並々ならぬ感情を抱いていることは確かと見た。目的が分かれば御しやすい。

「……僕個人としては、イルゼが正妃となってくれるのは願ってもないことだよ」

 イルゼは見目も良く、正妃に相応しい教養を身に付けている。加えて、彼女は貧しい民にも手を差し伸べられる美徳を有しているのも良い。
 裏を返せば、少し精神が薄弱な点は気にかかっていたが、覚悟を決めた今の彼女ならば、王宮の魑魅魍魎共を相手にやっていけるだろう。今から他の正妃を見繕うよりもよほど効率的だ。
 リチャードの言葉に嘘はない。だが、イルゼは何故か悲しげに微笑んだ。どうして悲しむのか、何が不満なのか、リチャードは訝しむ。

「私、ずっと殿下が怖かったんです」
「僕が? どうして?」
「あなたが何を考えているのかも、私のことをどう想っているのかも分からないから」
「イルゼのことは好きだよ。当たり前じゃないか」

 だが、イルゼが言いたいことは別のなのだろうな、とリチャードは朧気ながらに察してもいた。
 ふと、エリアーシュの言葉が脳裏によみがえる。彼の指摘通り、リチャードには誰かを強く想ったことはない。シルヴェリオのような愛執も、イルゼの決意も、覚えがない種類の感情だった。

「あなたにとって、私は道端に咲く花と一緒。愛らしいとは思っても、摘み取るほどの価値も慈しむほどの意味もない。必要ならきっと踏み潰せてしまうのでしょう」

 自分ならばするだろうな、とリチャードは思った。イルゼのことは好いているけれど、執着と呼べるような感情は抱いていない。彼女の代わりはいくらでもいる。リチャードにとって、イルゼは代替が利く存在でしかなかった。
 イルゼがゆっくりと立ち上がる。そして、リチャードの傍らで足を止めた。見上げたイルゼの深い青の瞳はきらきらと輝いていて、場違いにもその美しさに見惚れた。
 視界いっぱいに広がった彼女の深紅の髪。ふわり、とリアの花の華やかな香りがした。

「────」

 彼女の傷ひとつない手が、頬にそっと添えられた。唇を掠めた熱と感触に、彼女に口付けられたことを理解する。
 口付けは、たった一瞬の出来事で。唇が離れていくも、リチャードは身動ぎひとつ出来ずに、ただイルゼを見上げる。彼女は大輪の花のように優美な微笑を浮かべていた。

「リチャード殿下、イルゼ・コースフェルトはあなたをお慕いしております。あなただけの花になりたいのです。あなたの愛を、得たいのです。他の誰にも譲りたくない。だからどうか、私だけのものになってください」

 そのとき、リチャードはイルゼと初めて出会ったときのことを思い出した。見上げた彼女に形ばかりの求婚をして、あの日のことを。
 あの日とは違って、求婚まがいのことをしたのはイルゼの方で。そして何故か、リチャードの心臓はどうにも慌ただしく脈打っていて、彼女の美しい微笑みから目が離せなかった。


 ◇


 ────これが茨の道だと、頭の端では理解していた。何かに執着するということは強みにもなるが、弱点にもなり得る。常に蹴落とし合いの中で生きてきたヴェンツェルにとって、エリアーシュという存在は極めて危険なモノへと成り果てた。
 本当ならば、切り捨てるべきだ。あの男の毒に溺れれば溺れるほど、堕ちていくことになる。今ならばまだ引き返せるのだ。


「簡単だよ。君が、リチャード殿下の愛を勝ち取って正妃になれば良い」

 けれど、ヴェンツェルは致死の毒を飲み干すことを選んだ。これまでの保身に長けた己を殺し、愚かな男へと成り果てた。
 たとえ、この毒が身を滅ぼそうとも、エリアーシュ諸共に破滅することになろうとも、誰かに奪われる絶望に比べれば恐れることはない。

「リチャード殿下の愛を勝ち取って、正妃としてエリィを救えば良い。さすがのシルヴェリオくんも、正妃には逆らえない」

 イルゼの望みは、リチャードに愛されること。そして、エリアーシュを救うこと。
 ならば、話は簡単だ。リチャードの愛を勝ち取って、正妃の地位を得れば良い。そして、正妃としてシルヴェリオからエリアーシュを守れば良いだけのこと。

「……簡単に言うんですね」
「まあ、リチャード殿下の愛を勝ち取るのはちょっと難しいかもしれないけど、正妃の座を確固たるものにするお手伝いはできるよ~?」
「本当に?」

 グリニコフ商会の次期代表レースは、今のところヴェンツェルが頭ひとつ飛び抜けている。コースフェルト家とのパイプは、思ったよりも影響が大きかった。イルゼの後ろ楯ともなれば、おそらくグリニコフ商会の次の代表は決まったも同然だ。
 王家としても、グリニコフ商会を子飼いにできるのであれば、イルゼを正妃とすべきと判断を下すだろう。自分であれば、伏魔殿の中でイルゼに知恵を与えることもできる。
 手を組めば、両者ともに目的が果たせるという訳だ。

「エリィのためなら、なんだってするよ」

 エリアーシュに魅了され、恋をした。愛されたいとは思うけれど、それ以上にどこまでも、地獄の果てだろうと諸共に堕ちたいと思う。
 正しい愛のかたちが何かは分からないし、美しい恋とも思えないが、それでもかまわなかった。
 あんな悪辣の花に囚われたのだ。この恋が、真っ当である筈もない。元より、正々堂々は性分ではないのだ。
 悪魔に身を捧げようとも、自ら悪魔になろうとも、譲れないものができたから。

「イルゼちゃん、悪魔と手を組む気はある?」

 ヴェンツェル・グリニコフはエリアーシュの毒を誰よりも飲み干し、そしてを誰よりも恋慕する。諸共に堕ちることになろうとも、毒を飲まないという選択肢はないのだ。

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