悪辣と花煙り――悪役令嬢の従者が大嫌いな騎士様に喰われる話――

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3.千変万化

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・千変万化(せんぺんばんか)
 物事がさまざまに変化すること。





 あの密約の夜から、三日ほど経った。つまり、約束の夜だ。
 相変わらず、アリシアは殿下の周りを飛び回り、殿下は殿下でのほほんと微笑むばかりで、好きなようにさせている。
 学園内では「殿下はアリシア嬢に思いを寄せているのではないか?」と、おぞましい噂まで流れ出し、お嬢様が笑顔を浮かべる回数は日に日に少なくなっていた。

「エリアーシュ、入るぞ」

 指定した時刻ぴったりに、扉を叩く音が三度。どうぞ、と扉の向こうに声をかけてやれば、声の主は躊躇うことなく、隙間からするりと滑り込んできた。
 ハイドフェルト様は、視界に俺の姿を入れるなり、端正な顔を不快げに歪める。正確には、俺が吸っている煙草に。

「成人しているとは言え、学園に籍を置いている以上、学園施設内での喫煙はどうかと思うが。前は吸っていなかったろう」
「最近、精神的負荷が酷いものです……というか、他家の使用人の年齢をよくご存知でしたね」
「……友の年齢くらい知っていて当然だ」

 またそれか、と舌に乗せかけた言葉を飲み込むように、紫煙を肺いっぱいに吸い込んだ。
 本題に入る前に、ハイドフェルト様の機嫌を損ねる訳にはいかないからな。俺はできる使用人なので。

「煙草っつっても、薬用ハーブと乾燥させたリアの花を刻んで巻いただけの、吸おうと思えば、お子ちゃまだって吸える花煙草だよ」

 他の生徒の前では吸わないし、普通の煙草と違って、不快な匂いもなく、部屋を汚すこともない。匂いが残らないよう、窓を開けて吸っている。この程度の楽しみくらい、目を瞑って欲しいもんだ。
 だが、ハイドフェルト様の表情は変わらない。どころか、眉間に寄ったシワが、さらに深まったような気さえする。なんだ、どうした。

「薬、とは……その、どこか悪いのか?」

 ……ああ、そういう。ハイドフェルト様はお優しいことで。
 冷静に考えれば、身体に障りがある使用人を、旦那様がお嬢様の側に置く筈はないんだがな。

「滋養強壮と気分転換。グリニコフ商会が北の大国から仕入れた、行軍兵士用の嗜好品だと。身体にも害はない」
「……北の大国、か」

 現状、この大陸に戦の気配はないが、海を越えた先の大陸からは、随分とキナ臭い話が流れて来ている。
 たとえば三年後、ないし五年後。隣の大陸で広がっている戦火に、ウチが巻き込まれないとも限らない。
 殿下やハイドフェルト様には、あんな能天気女にいつまでも拘っていないで、自分の立場をもっと磐石にしてもらわないと困るんだよ。

「一先ず、エリアーシュに障りがないのならば良い。イルゼ嬢が王妃となった暁には、王宮付きになるおまえに何かあっては堪ったものじゃない」
「…………は?」

 今、何か聞き捨てならない言葉を聞いた気がしたんだが?
 呆然としている俺を見て、ハイドフェルト様が小首を傾げながら「なんだ、その顔は」なんて言う。
 いや、何バカなこと言ってんだよ。鈍痛を訴え出した米神を軽く押さえ、短くなった煙草を灰皿へ押し付けた。
 ふわりと香るリアの花の匂いも、残念ながら安らぎにもなりゃあしねえ。

「……私は、コースフェルト家の従僕であり、お嬢様個人の従僕ではございません。旦那様のお許しがなければ、認められることではないでしょうし、そもそも主人を変えるつもりもありません」
「――――なんだと?」
「いや、そっくりそのまま返しますけど、なんですかその顔」

 なんで、こいつ正気か? みたいな目で見られなきゃなんねえんだよ。
 正気と常識を疑いたいのは俺の方なんだが?

「イルゼ嬢の側にいられるんだぞ?」
「私の主はお嬢様ではなく、旦那様なのですが?」
「……イルゼ嬢の側にいたいんじゃないのか?」
「一体、いつ、俺がお嬢様のお側にいつまでもいたいと望んだよ?」
「違うのか?」
「違う」

 どこでどうして、そんな考えに至ったんだ。ハイドフェルト様が、ますます分からないという顔をする。

「てっきり、おまえはイルゼ嬢が大切で仕方がなくて、それ故に俺や殿下が気に食わないのかと思っていたんだが」
「はァ? 何、今流行りのロマンス小説か?」
「即物的なおまえが、寝る間も惜しんで、アプリムローズ嬢イルゼ嬢の憂いについて調べ回っているんだ。勘繰っても仕方がないだろう」
「誤解甚だしいな。あくまで仕事だ、仕事」

 とは言え、ハイドフェルト様がどうしてそんな誤解をしていたのかは分かった。
 ハイドフェルト様や殿下、ついでにイルゼお嬢様は高水準の教育と環境の下、豊かな人間性を獲得している。
 俺の性根が歪んでいることを理解しつつも、「自分にも何か非があって、だからエリアーシュはあんな言動をするのではないか」と考えるほどだ。
 そこまで考え至るくせに、善良という名の刃を振りかざしていることには気付かないんだから、いっそギャグか何かか? と思わなくもない。
――――閑話休題。善良なハイドフェルト様は、俺の言動の理由は、自分の振る舞いにあると誤解していた訳だ。
 誤解とはつまり、俺がイルゼお嬢様を心から大事に思っていること。そんなお嬢様と俺を引き離す(失笑)殿下やハイドフェルト様が気に食わなかった。
 そして、あの自己中女が入学してからと言うもの、殿下やハイドフェルト様はお嬢様を蔑ろにしているので、以前にもまして不愉快に思っていたのだろう、と。
 さァて、どこから繙いていくべきか。

「まず第一に。俺の将来を、俺と旦那様に承諾を得ずに勝手に決めるんじゃねえよ」
「……それは、すまなかった。おまえがイルゼ嬢を肉親も同然に、大切に思っているように見えたんだ」
「で、第二に。生憎と、愛や忠義目に見えないものを信じられるほど、夢見がちな生き方はしていない」

 即物的とは、言い得て妙だ。ハイドフェルト様も、よくお分かりで。
 愛や忠義で飢えは凌げるか? 答えは否である。
 公爵家に仕える上質な使用人だって、いや、公爵家に仕える使用人だからこそ、見合った働きをしなければ、すぐにでも追い出されるだろう。

「寝る間も惜しんで働いているのは、イルゼお嬢様が健やかに過ごせるようお守りすることが、俺の“仕事”だからだ。そこに個人的な情を挟む余地はない」

 愛や忠義のために、力を発揮する人物もいるだろう。意欲に繋がる点も認めよう。
 だが、愛や忠義が有るか無しかで労働の質を変える輩を、どうして信用できるのか。
 俺は、ハイドフェルト様の思想に嫌悪感を抱いているし、信用する気も毛頭ないが、労働の質を下げたりはしない。対価分の働きはするつもりだ。
 ……ああ、信用していないだけで、否定するつもりはないし、利用しない訳でもない、とは言っておくが。
 さて、ハイドフェルト様と言うと、誤解については「おまえの主義主張については理解した」と、一応の納得を見せてくれたものの、訝しげな表情は何故だか晴れない。

「……今の話を聞いて、更に分からなくなったのだが」
「何でしょうか」
「エリアーシュが、俺と殿下を目の敵にする理由だ。個人的な情を挟む余地はないと言いながらも、おまえの態度は友好的とは言い難い」
「それが?」
「理由を知りたい」
「何故、お知りになりたいのです?」
「現状の目的は合致しているし、可能ならば友好的な関係を構築していきたいと考えている」

 友好的な関係、ねえ?
 俺のことを信頼出来ていないくせに、友好的な関係を構築したいと考えているのか?
 確かに、仕事をするにあたって、ある程度の相互理解は必要だと思うが……それにしたって、相手は“俺”だぞ。

「仕える主の為ならば、胡散臭い俺とも仲良しこよしができると?」
「金銭が支払われている限り、おまえは信用できる」
「それはそれは。恐悦至極にございます」
「茶化すな」

 見上げた忠誠心と称えるべきか、おめでたいことだと失笑するべきか、迷うところだな。
 とまあ、雑談はこの辺にしておいて。机に置いておいた書類を、何やらまだ言いたげなご様子のハイドフェルト様へと差し出した。

「読んだら燃やしてくださいませ。国に提出する必要が生じた際には、報告書を用意する手筈が整っておりますので、ご心配なく」
「随分調べてあるな」
「そうは言っても、学園内での動きだけですよ」
「…………学園内での動きだけで、この量か?」

 ハイドフェルト様が、胸焼けを起こしたような、何とも言えない顔をした。
 そして、紙を捲る度に、吐き気を覚えたかのような表情に変わっていく。気持ちは分からんでもない。いや、正直よく分かる。

「学園内での性行為。その際にアニマを使用、と。高級娼婦の方がまだ慎み深いでしょうね」
「……プリムローズ嬢も然ることながら、貴族子息の愚かしさも悩ましいな。間違っても、政には関わらせられん」

 貴族の坊っちゃん方も、ひとときの恋に現を抜かした結果、将来を棒に振ることになるとは思っていなかったろうな。
 色仕掛けに嵌まるような男なんて、危なっかしくて使えやしない。内政が一時的に不安定になる可能性は高いが、殿下の即位前に膿は取り除いておくべきだ。
 そして、未来ある貴族子息を誑かした毒女には、罰を受けてもらわねえとな。

「アニマを使った証言は得ています。貴族の坊子息にアニマを盛った事実だけでも、十分に罪に問えるでしょう」
「ああ。だが、どうせならば、コルデーを入手した確証も欲しい」
「……本当に伯爵はコルデーを入手したのですか? いくら娘可愛さとは言え、そこまで危険な橋を渡るとは考えにくいのでは?」

 騎士団の捜査能力の高さを考えれば、プリムローズ伯爵が未だに上手く逃げ回っている事実は、にわかに信じがたい。
 おそらく、正攻法で事態が好転する可能性は極めて低いだろう。
 ハイドフェルト様の情報次第では、少し危ない橋を渡ることになるかもしれないな。

「口惜しいが、まだ疑いの域を出ていない……だが、隣国からの物資を抜き打ちで監査した際、荷にコルデーが紛れていた」
「まさか、その荷の受取人が伯爵だったのかすか?」
「送り主も受取人も、知らぬ存ぜぬといった様子ではあったが、幾人の手を経由して、最終的に伯爵家に届く手筈になっていた」

 無関係な人間の手を何人も介して、足取りを誤魔化してた、か。
 なるほど、娘バカではあるが、それなりに悪知恵は働くようだ。やはり、現状を打開するには仕込みが足りない。
 それにしても、監査というのが気にかかる。抜き打ちの監査自体は珍しい話じゃないが、たまたまコルデーを発見できるものか?
 そんなこと、不可能だ。ゴミ山の中から、目当ての宝石を探すようなもの。
 誰かが、偶然を装った必然的な監査を仕掛けた可能性がある――――。

「エリアーシュ? 何か考え込んでいるようだが、気になる点があったか?」
「いえ……穿った見方かもしれませんが、娘可愛さは建前という可能性もある、と考えていました」

 迷った末に、まだ秘めておくことした。手がかりがなさすぎる。その誰かが、俺やコースフェルト家の味方かどうか分からない状況で行動し、薮蛇を突付く真似は避けたい。
 幸いにして、ハイドフェルト様は俺のもう一つの疑問に気付いた様子もなく、「どういう意味だ」と訝しげに眉を寄せた。

「娘の為だけにコルデーを入手したとは考えにくい。娘はあくまでついで……例えば、伯爵が誰かの暗殺を企んでいる可能性はありませんか」

 ハイドフェルト様が、微かに息を呑んだ。その考えには至っていなかったのか、或いは意図的に考えないようにしていたか。
 コルデーは、所持しているだけで重罪にあたる劇薬だ。伯爵ともあろう御仁が知らない筈もなく、にもかかわらず入手した以上、使用する予定がある――――と、考えることに不自然さはないよなァ?

「……有り得るな。念のため、父上にも先の話を伝えておく。陛下の耳にも直ぐに入るだろう」
「それがよろしいかと」

 俺の思惑のまま、ハイドフェルト様はプリムローズ家へ、より猜疑の色を深めてくれた。
 何と愉快なことか。込み上げて来る笑いを、押し止めていかにも神妙な顔を作る。

「ハイドフェルト様、確認をしてもよろしいですか」
「かまわない」
は、プリムローズ伯爵の所業を把握し、断罪する備えがあるという認識で相違ありませんか」
「当然だ。何故、そんなことを確認する?」
「仮に、王太子殿下がプリムローズ嬢を愛しているとしても、特例を認めることは断じてないと、そう判断しても構いませんね」
「……ああ。王族に、罪人の血を混ぜるなど、断じて許容できるものではない、と他でもない王からお言葉を賜った」

 なるほど。王は、全てを把握しておられるのか。つまり、プリムローズ嬢を追い詰める行為は、王の御旗により正当化される、と。
 が聞けたら十分だ。

「その言葉を聞いて安心しました。いくらなんでも、罪人に傅くほど歪んではおりませんから」

 冗談のような声音を発すると、ハイドフェルト様も微かに目尻を下げた。
 ハイドフェルト家は、王家の剣。王を守り、国に仇なす者を討ち滅ぼす為の剣だ。
 つまり、シルヴェリオ・ハイドフェルトという騎士は、王太子殿下ただひとりの為に、在る訳ではない。
 現在、王太子殿下の護衛騎士を務め、ゆくゆくは護衛騎士の中で、最も位が高い《筆頭護衛》になるだろう、と言われていても。
 幼い頃から共に育ち、本当の兄弟のように信頼し合い、生涯の忠義を捧げていても、だ。
 国の最高指導者が命じる以上、ハイドフェルト様は、国の為に、王家の為に、王太子殿下の意向を無視しなければならない。
 加えて、いけすかない俺と手を組まなければいけないのだから、さすがに同情の一つくらいはする。
 難儀な男だよ、この人は。まあ、仲良しこよしする気はさらさらないが。

「それで」
「はい、何でしょう」
「おまえが、俺達を……特に、俺を目の敵にする理由だ」
「……まだ続いていたんですか、それ」

 上手く茶化したつもりだったのに、しつこい奴め。しつこい男は嫌われるぞ。もっとも、俺は既に嫌いだ。

「別に、良いではありませんか。ハイドフェルト様とて人間です。誰にでも好かれようなど、どだい無理な話です。もし、万人に好かれなければならないとお考えでしたら、それは傲慢と言うものでしょう」
「言っておくが、誰にでも好かれたいと思ったことはない。リチャードの信頼と、ただ一人恋しい相手に同じだけ想ってもらえたら、それで十分だ」

 随分と食い込み気味に話し出したな、と思わず目を瞬かせていたら、ハイドフェルト様がはっと息を飲んだ。らしくもなく、目が泳いでいる。

「そろそろ失礼する」
「あ、はい」

 勢いよく立ち上がったかと思えば、脇目も振らずに部屋を出て行った。
 結局、質問に答えず仕舞いだったんだが、良かったのだろうか。良いか。――――それにしても。

「……まさか、だよな」

 ハイドフェルト様は、俺を嫌っている。俺も、あの人が嫌いだ。
 嫌う余り、ハイドフェルト様の夢と希望を、俺が直々に踏み潰してやったこともある。どう前向きに考えたって、あの人が俺に好意的な感情を向ける筈がない。
 ……ないんだが、先程のハイドフェルト様の様子はまるで――――いや、考えるのは止しておくべきだ。
 感情の答え合わせをしたところで、正しく理解し合える日は訪れない。俺は、ハイドフェルト様の生き様を許容出来ないのだから。





――――次の日。
 俺の姿を認めるや否や、ツェルが輝かんばかりの笑みを浮かべ、一直線に駆け寄ってきた。
 何も知らない人間が見たら、愛らしい犬に見えなくもない。中身は、なんかこう、ハイエナみたいな男だが。

「会いたかったよぉ、エリィ!」

 何が楽しいんだか、遠慮なしに抱き付いてきやがった。真っ昼間に、学園の中庭で。野郎と野郎が、抱き合う。
 冷静に考えると、かなりおぞましい光景じゃなかろうか。今が授業中で良かった。本当に良かった。

「お呼び立てして申し訳ありません、グリニコフ先輩」
「それは良いけどぉ、なんでツェルって呼んでくれないの?」
「障りがございます故」

 授業中とは言え、俺のように授業を入れていない生徒や、ツェルのように自主的に休んでいる生徒もいるのだ。
 誰が見ているか分からない状況で、従者としての仮面を外せる訳がない。しかも、相手は後ろ暗い噂に事欠かない、ヴェンツェル・グリニコフだからな。

「つれないなぁ。あっ! 夜にふたりきりだったら呼んでくれる?」
「先輩はお戯れが巧みでいらっしゃいますね」
「褒められてる気がしなぁい」

 はーぁ、とつまらなそうな溜息をついたツェルが、ようやっと離れてくれた。
 ふと、上着のポケットに違和感を覚える。確認してみると、いつの間にやらシガレットケースが入っていて。

「……スリの才能もおありのようですね?」
「まぁね! 、手に入れるの本ッ当に大変だったんだよ? 特別料金貰うからね?」
「もちろんですとも、グリニコフ先輩」

 労働には見合った報酬を。騎士団が警戒を強める中、僅か四日でを入手してくれたのだから、それ相応の対価を支払うつもりだ。
 まったく、グリニコフ商会の手腕には、素直に舌を巻く。

「ところでさぁ、めっちゃリアの花の匂いすんね。新しいやつあげてから何本吸ったの?」
「七本ほど」
「はァ!? いくら花煙草だからって吸いすぎじゃん!?」
「近頃、腹に据えかねることが多いもので」

 ツェルに指摘されるまでもなく、自分でも吸いすぎている自覚はある。
 因みに、あの花煙草だが、実は一本で平民一人の一日分の食費に相当するので、普通の煙草のように吸うもんではない。本ッ当に。

「普通の煙草に変えようかとも思いましたが、部屋が汚れますし、何より公爵家の使用人が煙草臭いのもいかがなものかと」
「まぁねぇ……」
「そういう訳でして、事が落ち着くまで花煙草を定期的に買わせていただけませんか?」
「俺は儲かるから良いけどぉ……次は七日後、かなぁ。残り一本、保ちそう?」
「…………困ったことに、自信がありませんね」

 あの無遠慮女の振る舞いはもちろんだが、ハイドフェルト様との一時的協力関係は、俺に多大な負荷を与えている。息抜きをする機会もないため、精神的疲労が重なるばかりだ。

「……顔色悪くなぁい? 寝てないんじゃないの?」
「仕事ですから」
「ほどほどにしなよぉ」

 頬を撫でる指先は、男のくせに随分とすべすべしているのが、妙に腹立たしい。
 止めろと振り払えば、ツェルの指先はあっさりと離れていった。

「君のとこのお嬢様のことだけどさぁ」
「イルゼお嬢様が何か」
「いつだか話してくれたような……えーっと婚約破棄からの断罪パーティーだっけ? ってことにはならないと思うよ?」

 心配そうな顔をして「断罪パーティーからの没落なんて、ちょっと見てみたい気もするけど」と、心配してんだか面白がってんだか、微妙なことを言う。
 優しい顔をして、ぞっとするほど恐ろしいことをする男。
 ぞっとするほどおぞましいことをして、あたたかい言葉をかけてくる男。
 はてさて、前者と後者は同じようでまったく違うんだが、この男の本性はどちらなんだろうな。

「大半の仔猫ちゃんたちは、イルゼちゃんのこと同情してるし、イルゼちゃんは悪いことなーんもしてないじゃん?」
「そうですね」
「初めて聞いたときはさぁ、『こいつ何トンチンカンなこと言ってんの?』って素で思ったけど、なーんか聞いてた話と似たような展開になっちゃったし」
「とんちんかん」
「……エリィはどうしたいの?」

 もう、五年も前のことか。可愛らしい見た目に反して、傍若無人な振る舞いを繰り広げていたイルゼお嬢様が、大泣きをした日があった。
 いくら幼くとも、貴族の令嬢として感情を表に出してはいけないと育てられた筈のお嬢様が、顔面をぐしゃぐしゃにして。
 まるで見てきたかのように「リチャード殿下の好きな人をいじめて、婚約破棄されて、断罪されるの」と、具体的な未来を口にして。
 ならば、俺のすべきことなどひとつきり。お嬢様が死なないよう最善を尽くすことが、従者の仕事だ。

「さて。既に当初の問題は潰えましたし、後は転がるままに任せます。何にせよ、仕事内容は変わりません」

 あの日以来、お嬢様は変わった。我が儘を口にすることはなくなり、公爵令嬢に相応しい教養と気品を身に付けるだけでなく、下々の者にも慈悲深く在られる。誰も、お嬢様を“悪役令嬢”などと呼びはしないだろう。
 王太子の思惑が気にならないと言ったら嘘になるが、些末な問題と判断した。王太子殿下の意志より、お嬢様の「殿下と結婚したくない」という意志が第一だ。
 そして、仮に、王太子殿下がお嬢様との婚約を破棄する意向を示しても、お嬢様が謗られることも、公爵家が貶められることもないだろう。
 降りかかる火の粉は振り払った。恐れるものなど何もない。ない、筈なんだが、はてさてどうしたもんか。

「ほんとに仕事のためなの?」
「……何故そんなことを訊くんです?」
「だって、仕事にしてはやりすぎなんじゃない?」

 ハイドフェルト様にしろ、こいつにしろ、なんだって俺の真意を知りたがるんだか。
やりすぎ? 公爵家の使用人として、当然のことをしているだけだってのに。

「……ま、エリィが何を考えてようが、俺は報酬さえきっちり払ってくれるなら、どーでもいいんだけどね」
「左様でございますか」

 俺が答えないと思っているのか、ツェルの追及は思いの外あっさり終わった。
 本当に、理由らしい理由なんてないので、手を引いてくれて助かった、とこっそり安堵する。

「――――エリアーシュ」

 …………今日と言い、この前と言い、間の悪さは国一番じゃないか?
 ずんずんと近付いて来る“圧”。今にも抜刀しかねない雰囲気に、口の端を引き攣らせる俺とは対称的に、ツェルは闖入者に向け、朗らかな笑みを浮かべた。

「あー、シルヴェリオくんだぁ。今、授業中なのに、どしたの?」
「グリニコフ先輩とエリアーシュこそ、こんなところで何を?」
「えぇ~? 言わせたいのぉ? シルヴェリオくんってむっつりぃ?」

 ハイドフェルト様の眉間に、大峡谷が出来上がった。ツェルは、なんだ、心臓が鋼鉄製なのか?

「さて、用事も済んだしそろそろ行くよ。今度は、夜にふたりっきりで遊ぼうね、エリィ」
「機会があれば、よろしくお願いします」

 さすが商人。引き際を見極める目が半端じゃねえ。この状態のハイドフェルト様と俺を、二人きりにする辺り、イイ性格をしている。
 逃げ損ねた俺は、悪態を吐きたい気持ちをなんとか宥め、ハイドフェルト様と視線を交えた。さっきの視線がペーパーナイフなら、今の瞳はダガーナイフ並の鋭さだろうか。
 ……なんなんだ、この人は。やっぱり俺の勘違いなのか?

「今は授業中の筈だが」
「この時間は選択しておりませんので。ハイドフェルト様こそ、授業はいかがされました?」
「……ヴェンツェル・グリニコフとは仲が良いようだな」

 おまえの質問に答えてやったのに、俺の質問には答えないって、一体どういう了見だ。
 舌打ちをしなかった俺は、本当に優秀な使用人だと思う。給与査定に反映してくんねえかな。

「先輩は、グリニコフ商会の方です。商品を仕入れる際に、お世話になることもございます」
「それだけか?」
「何故です?」
「夜に、ふたりきりとは何の話だ」
「私的な話です。お答えする義理はありません」

 ダガーナイフから、サーベル並になった。どっちも人を殺める道具だが、後者はハイドフェルト様の得物なので、より殺傷力が上がった印象だ。
 ……今から逃げたとしても、腕を掴まれて終わるよなァ。多分。

「何を企んでる」
「それにも、お答えする義理はないかと」
「エリアーシュ……!」
「メルカダンテです、ハイドフェルト様」

 悪態の代わりに、溜息をついた。悪態じゃないだけまだ理性的だな、と自画自賛。
 まあ、ハイドフェルト様の気持ちも、分からないでもない。
 何せ、相手は後暗い噂に事欠かないグリニコフ商会の人間だ。
 そんな相手と、リチャード王太子殿下の婚約者側の人間――しかも、今は俺とハイドフェルト様の間で、手を組む密約が交わされている――が、二人でこそこそ密会をしていたら、何か企んでいるのではないか? と思うのも無理からぬことだろう。

「……ご心配なく。契約は継続しますし、いくら慇懃無礼が肉を得たような私でも、誉れ高き王太子殿下に何かしようなどとは思いませんよ」
「ッ、そういう話はしていない!」

 激情をぎりぎりまで押し殺したような、苦し気な声だった。
 この男とは、かれこれ五年の付き合いになる。だが、堪えて堪えて、それでも堪えきれなかった情が滲む声など、ついぞ聞いたことがなかった。

「……ハイドフェルト様、は……」

 いや、どうでも良いか。ハイドフェルト様が、俺個人にどんな感情を抱いているかなど、興味もないし、知りたくもない。
 授業の終わりを知らせる鐘が鳴り出したのも、ちょうど良かった。
 先ほどの時間、授業を選択していたお嬢様をお迎えにいかなければ。ハイドフェルト様とて、殿下の護衛に戻らなければならないだろう。
 物言いたげな視線を無視し、お嬢様がいるだろう教室を目指す。

「……お嬢様?」

 お迎えに上がった教室で、お嬢様はぽつんと一人、窓の向こうの空を見上げている。けれど、抜けるような青空を“視”てはいなかった。
 お嬢様を除いて、他には誰もいない教室。確かに、次の時間でこの教室を使う予定はないが、それにしてもどこか異様な空気だ。不快な空気の名残が、項をちろちろと撫でる。

「ねえ、エリアーシュ……私は、殿下と結婚なんて、嫌なのに。嫌な、筈なのに」

 お嬢様の声が、微かに揺れる。今にも泣き出しそうな、決して泣くまいと堪えるような声。
 それだけで、先ほどの時間に何があったのか、大まかな事情を察してしまえた。

「さっきね、窓からリチャード様とアリシアさんが、一緒にいらっしゃるところを見たの。この展開は、願ったり叶ったりだわ」

 なのに、と。
 窓ガラスに映るお嬢様が、顔を伏せた。目の端に浮かぶ涙を、誰にも見せないように。

「……なのに、なんで……リチャード様と、アリシアさんが一緒にいるのを見ると、苦しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうになるの……!」

 例えば、王太子殿下がどうしようもないほど、最低な男だったら違ったのか。
 例えば、お嬢様が他の誰かに恋をしていたら、こんなことにはならなかったのか。
 全ては仮定の話だ。お嬢様は殿下に恋をした。恋に、落ちてしまった。無意味な“もしも”を夢想するだけ、時間の無駄だ。

「……お嬢様は、殿下をお慕いしているのでしょう。恋慕う方が、自分以外の女性と二人で過ごしているのを見れば、妬ましく思うのも当然のことですよ」

 死にたくないと震え、殿下と結婚なんかしたくないと泣いていたお嬢様は、いつしか殿下に恋をしてしまった。
 仕方ないと言えば、仕方がない。何故なら、アリシア・プリムローズがやって来るまで、殿下はお嬢様を婚約者として正しく扱っていた。
 殿下は「国の為の婚約だとしても、互いに思いやれる夫婦になりたい」と、自由に使える僅かな時間の大半を、お嬢様のために割いていたのだ。
 どうして、恋に落ちないでいられようか。いられるはずが、ないだろう。

「こうなるって、知ってたのに……リチャード様は、アリシアさんを選ぶって、分かっていたのに……」

 この世には、星の数ほどに人間がいて。幸せな恋物語と同じ数だけ、悲しい恋物語がある。
 これは、別に珍しい話でもない。何と言うこともない、ありふれた恋の話。恋に破れる、愚かな少女の話だ。


――――そして、割り切れない俺もまた、愚かだというだけの話だ。
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「エディ、お前もうパーティ抜けろ」ある夜、幼馴染でパーティを組むイーノックは唐突にそう言った。剣術に優れているわけでも、秀でた魔術が使える訳でもない。治癒術師を名乗っているが、それも実力が伴わない半人前。完全にパーティのお荷物。そんな俺では共に旅が出来るわけも無く。 追放されたその日から、俺の生活は一変した。しかし一人街に降りた先で出会ったのは、かつて俺とイーノックがパーティを組むきっかけとなった冒険者、グレアムだった。

友人の代わりに舞踏会に行っただけなのに

卯藤ローレン
BL
ねずみは白馬に、かぼちゃは馬車に変身するお話のパロディ。 王城で行われる舞踏会に招待された隣家の友人のエラは、それを即断った。困った魔法使いと、なにがなんでも行きたくない友人に言いくるめられたエミリオは、水色のドレスを着て舞踏会に参加する。壁の花になっていた彼に声をかけてきたのは、まさかの第二王子で——。 独自設定がわんさかあります。

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