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「じゃあ、一時間後に集合でー」

 ヴィクスルート王国首都、レーヴェ。賢君が続いて治めていることもあってか、アヴァリス王国に比べると、街行く民の顔にも覇気があった。
 言い方は悪いが、《魔の王》の対応をアヴァリス王国とユルティア神殿にほぼ任せている結果、ヴィクスルート王国とオルディニア帝国は内政に力を入れられているのだろう。
 この二国に共通しているのは、政治に干渉したがるユルティア神殿とは距離を置いていることだ。ルシウスもまた、三国のおよそ中央に位置する独立自治区ユルティアからアヴァリス王国に足を運ぶことは多々あれど、他の二国に赴く機会はあまりなかった。
 他の二国の人々を見てみたい、というルシウスの望みを、アスモデウスは快諾した。「ついでに魔術用品見ても良い?」と笑って。
 その言葉通り、アスモデウスは魔術用品を扱っている店に吸い込まれて行った。楽しげな背中を苦笑を浮かべつつ見送り、ルシウスは時間を潰すべく、雑踏へと足を向ける。
 アスモデウスは、魔術に関しては随一の才能を持っているくせに、児戯にも等しい人間の魔術にも興味関心を向けている。曰く「人間の着眼点は侮れないからねぇ」と。
 気まぐれに人間の街を訪れては、最新の魔術研究や魔術用品を眺めて、時には購入さえするのだ。最初こそ付いていたのだが、「気が散るからどっか行ってて」と別行動するようになったのは、当然の帰結なのかもしれない。

(俺はまあ、見ていても良かったんだが)

 普段は飄々としている薄紅色が、魔術と向き合うときはひどく真剣な光を宿している様を見るのは、中々どうして微笑ましく見えるのだ。
 だが、邪魔したい訳でもないので、アスモデウスの意向に従っている。
 ……さすがに、ルシウスの目が離れたからと、その辺の女や男に声をかけたりしないだろう。もし掛けたなら、躾をするのも吝かではないが。

「────我ながら、物騒なことを考えるようになったものだな」

 聖騎士であった頃とは大違いだ、とまで考え────本当にそうだろうか、という疑問が過った。
 魔族に変生してから、そろそろ半年。魔族の価値観についてはまだ理解が及んでいないことも多いが、人間とさほど変わらない点もあり、魔族として生きるのにも慣れてきた、と思う。
 というよりも、思ったほど違和感がなかった。魔族も人間も、実はそれほど差がないと知っていたからだろうか。
 或いは、自分はどこかおかしかったのだろうか、と最近思うようにもなった。
 それまでのすべてを捨て、魔族として生きることを、アスモデウスを選ぶことなど、できるものなのだろうか。
 この世界にとって、魔族は世界の敵だ。おぞましい魔族に変えられた事実は、普通に考えれば発狂ものだろう。魔族を世界の敵と定め、無辜の民を守らんと神殿騎士となったのだから、自ら命を絶ったとしてもおかしくはないほどの絶望と言っても過言ではない。
 けれど、ルシウスはすべてを知って尚、嫌悪や絶望が浮かぶことはなく、ただアスモデウスを手に入れたかった。魔族に変じた故に、思考まで魔族のそれに近付いた可能性もなくはない。
 だが、人間であった頃も、アスモデウスを手に入れたくて仕方がなかったのだ。共に在るためならば、聖騎士の地位など捨てても良いと思ったほどに。

「────ルシウス、殿?」

 呆然とした声は聞き覚えがあった。足を止めて振り返った先には、白い神官服を纏ったハイリが、顔を真っ青にして立っていた。まさか、こんなところで昔の仲間に会うとは。アスモデウスに認識阻害の魔術をかけてもらうべきだったか、と今更ながらに悔やむ。

「……先に言っておく。俺は、この街の人間に危害を加えるつもりはない」

 ユルティア神殿の神官である彼が、魔族の言葉を信じてくれるとは思わない。だが、戦う意思はないのだと示したかった。ハイリは顔を青くしながらも「信じましょう」と頷いた。思いの外、あっさり信じてくれた彼に目を丸くすると、ハイリは言った。

「あなたとの付き合いはそれなりにあります。嘘をついているかどうかくらいは分かりますよ」
「そうか。感謝する」
「……こんなところで会うなんて思いませんでした。今のあなたがこんなところで何を?」
「言うほどのこともない。街を見て回って、連れの用が済んだら帰る」

 そうですか、とハイリが呟いた。連れが誰なのか名を聞かずとも、その相手が魔族であることは察している筈だ。

「……お訊きしたいことがあります。場所を変えませんか?」
「構わないが、おまえは俺と話をしても良いのか?」
「ええ。確かめなくてはなりませんので」

 そこまで言うのであれば、ルシウスに否はなかった。いざというとき、ハイリやかつての仲間と戦うこともあるだろうと覚悟は決めているが、戦わずに済むならばそれに越したことはない。
 ハイリと共にカフェに入り、オープンテラスの席についた。
 店員を呼びつけてコーヒーを頼む。ハイリは何も頼まなかった。魔族と飲食を共にする気はないらしい。

「ハイリ殿はこんなところで何を?」
「……お恥ずかしながら、ヴィクスルート王国とオルディニア帝国に援助を求めねばなりませんので。ご存知の通り、アヴァリス王国はもはや我らの友とは言い難い」

 もっとも、それもまた難しいのですが、とハイリが自嘲げに笑う。
 アヴァリス王国に起きた政変は、ルシウスにも衝撃をもたらした。
 当時まだ第二王子であったフォルトが、父王と王太子を殺め玉座を簒奪し、ユルティア神殿の神官長以下主だった神官を処刑したからだ。
 フォルト王が、何を考えているのかは分からない。今さら、どの面を下げて会いに行けと言うのだ。せめて、彼の国の民が一日も早く平穏な日々を取り戻すことを願わずにはいられない。

「フォルト王とは何か話したか?」
「いいえ、何も。民は戸惑っていますが、最近では神官長と先代の王の癒着が明るみに出たこともあり、ユルティア神殿に対する目は日に日に厳しさを増しています。本当に、裏切られたような気分です」

 痛ましげに笑うかつての友に、何と声をかけたら良いのだろう。いや、声をかける権利などある筈がない。ルシウスこそが、裏切り者なのだから。

「……あなたは、どうして生きていられるのですか」
「質問の意図が分からないな。負けたくせに何故生きているのか、ということか?」
「いいえ。おぞましい身体にされて尚、のうのうと生きていられるのは何故なのか知りたいのです」

 まるで見透かされたようだな、とつい眉間が緩む。つい先ほどまで似たようなことを考えていたばかりだったからだ。

「俺は、おぞましいなどと考えもしなかった。今だから明かすが、俺は彼らを世界の敵などとは思えなくなっていた」

 聖騎士であった頃、人間が絶対的に正しく、また周囲の人間は皆理性的かつ良心的で、それが世界のすべてなのだと無意識に信じ込んでいた。魔族が世界の敵で、彼らが人間を虐げるから、人間たちが苦しい生活を余儀なくされている、とも。
 それは原因の一つであってすべてではないことを、俺は知った。
 人間は決して美しいだけの生き物ではなく、俺の世界は意図的に美しく作られていて、この世の醜さや愚かしさを遠ざけられていたに過ぎないのだ、と。
 首都から離れれば離れるほど、民の生活は困窮している。確かに、魔族に対応するべく時間と金を費やしている以上、民の生活にまで手が回らないのかもしれない。
 だが、一部の特権階級が、自分さえ恵まれていれば良いと考えていることもまた事実だ。こんな人間共の為に剣を取ったのではないと、こんな人間共の愚かしさを見ないでいたのかと、自分自身に腹が立った。

「だから、だろうか。彼らとして生きることに抵抗がなかったのは」

 或いは、アスモデウスの存在故かもしれない。
 気に入らない人間がどうなろうと知ったことではないが、弱い立場の人間が苦しむ様を見るのは気持ちが良くないからと、それとなく助けるような在り方は、ルシウスの中の魔族観を粉々に打ち砕いた。
 アスモデウスのように在れるのであれば、魔族全体の意識を変えられるのであれば、人間と共存することも不可能ではないかもしれない、と今は思う。
 だが、ハイリは信じられないものを見るような目付きで、ゆっくりと首を横に振った。

「あなたはやはり、異常です。昔からそうでしたけど」
「……どういう意味だ?」

 彼の物言いは、さすがに引っ掛かりを覚えた。アスモデウスと出会ったことで生じた変化を、人間の彼が異常と称するのは分かる。
 だが、昔からとはどういう意味か。まるで、アスモデウスと出会う前からおかしかったと言われているようで。

「ルシウス殿が彼らとして生きることには抵抗がなかったのは、ひとえに周囲への執着がなかったからでしょう」
「執着?」
「……あなたは何にも執着しなかった。人々を守るためと言いましたが、誰か一人に何かをしたいだとか、特別な感情を抱いたことなどなかったでしょう?」

 ルシウスに家族はいない。孤児の一人として神殿で育ち、分け隔てなく接することを教わり、無辜の民を魔族から守るために神殿騎士となる道を選んだ。
 ハイリの指摘通り、誰か一人の為に剣を振るったことは一度としてない。誰かを特別視したこどなく、特別に親しい間柄の人間を作ったことはなかった。
 もしかしたら、一個人を守ろうと思ったのは、智也が初めてかもしれない。だが、ハイリはルシウスの胸中を見透かしたように「それは執着ではない」と首を横に振った。

「トモヤ殿を守ろうとしたのは、後ろめたさが理由で……トモヤ殿を守ることに執着はしたのかもしれませんが、それはトモヤ殿本人へ向けた感情ではなかったでしょう」
「……だが、俺はハイリ殿のことも、トモヤ殿のことも、仲間だと思っていた」

 口にこそしなかったが、今でもそう思っている。仲間である彼らが健やかであれば良いと、助けを求められたら手を差し伸べることに躊躇いはないと、心から思っているのだ。

「あなたは、誰に対しても手を差し伸べられる方です。ですが、裏を返せば誰にでも平等で、誰にも強い関心がないということです」

 かつての仲間が紡ぐ言の葉が、刃のように胸の奥の柔い箇所を貫いた。
 ルシウスなりに、仲間に心を砕いていたつもりだ。それがまったく伝わっていなかったのか。或いは、その程度は関心でも執着でも、友情ですらなかったのか。

「神殿騎士の中でも最上位の聖騎士の称号を得る為に、どれだけ苦しい鍛練を行わなければならないのか、あなたは知っているでしょう。並大抵のことではありません。命を落とす者もいます。顔も知らない民の為に、死と隣り合わせの鍛練を乗り越えられるものなのか……だから、私はあなたがずっと怖かったし理解できなかった」

 奇跡の神業を用いて魔族と戦う神殿騎士と、奇跡の神業を用いて魔族に怯える民の心に寄り添う神官。手段こそ違えど同門の友と思っていた相手に恐怖心を抱かれていたなど、気付きもしなかった。これでは、関心がないと言われても否定はできない。

「今なら分かります。あなたは、成るべくしてなったのだ、と。だから、私たちをこうもあっさり裏切れた」

 確かめたいことは確かめられました、とハイリが席を立つ。ルシウスを一度として振り返ることなく、白い背中は雑踏の中へと消えて行った。
 否定の言葉は浮かばず、去る彼にかける言葉さえ見付からない。ハイリの言う通り、自分は異常なのだろうか。
 考えれば考えるほど、手足の先は冷えて、身体は凍り付いたように動かない。
 けれど、

「────落ち込んでるぅ?」

 とからかうような声と共に背中に広がった温もりに、ルシウスははっと息を吐いた。知らず知らずのうちに、息を詰めていたらしい。

「……いつから聞いてたんだ」
「『あなたはやはり異常です』ってところから~」
「今回は思ったより早かったな」
「んふふ。そりゃあ、魔術用品も好きだけど、恋人に何かあったらそれどころじゃないでしょ」

 温もりが離れ、つい先ほどまでハイリが座っていた場所に、アスモデウスが腰掛けた。淡緑色の髪と薄紅の瞳こそいつも通りだが、魔族を示す異形はない。
 すぐ横を通り過ぎようとした店員に「コーヒーちょうだい?」と親しげに声をかけている。誰も、アスモデウスが魔族だと思わないだろう。

「……監視するような術をかけられた覚えはないが」
「そこはそれ、内緒~」

 いつかけられたのか記憶にない。まあ、分かったところで、ルシウスに解除できるとも思えないが。
 けらけらと笑い声を上げたかと思えば、アスモデウスはどこか宥めるような、気遣うような表情を浮かべた。
 こういう顔をするときのアスモデウスは、ルシウスなどよりもずっと長く生きていることをうかがわせるのだ。

「で、落ち込んでる?」
「少し、だな。そんな風に思われているとは、思っていなかった」
「まあ、ニンゲンって共同体を形成して、それを大事にして生きてくワケで、その輪から外れたり乱したりするモノを排除しがちでしょ。ルシウスがそういう意味で異常と言われてもおかしくはないよねぇ」

 共同体と足並みを揃えられないのであれば、異常者の烙印を押されるのが世の常だ。
 ルシウスはこれまで、自分の立ち位置に興味はなかった。無意識のうちに、大多数の共同体の中に属しているつもりだったのだろう。
 蓋を開けてみれば、異なるものとして扱われていて、そんなことにさえ気付いていなかったのだが。

「……この選択に後悔はないし、おまえと共に生きられることは喜ばしい。だが、裏切られた側の気持ちを考えたことはなかった。俺は、薄情なのだろうか」
「そう? 矢印が少ないだけで、その分情け深いと思うけど」
「情け深い?」

 運ばれてきたコーヒーで喉を潤し、アスモデウスが苦笑する。

「一個人の為じゃなくて、無辜の民の為って理由で、聖騎士の地位にまで上り詰めるって相当よ?」
「……俺は別に聖騎士になりたくてなった訳ではないんだ。強くなろうとして、結果的になったと言うか」
「うっわ、それ天才の発想。凡人に言ったら恨まれるから言わない方が良いよぉ」

 まあ俺も天才だけど、と悪戯が成功した子供のように笑う。
 日々の鍛練は苦しかったが、苦しい鍛練を積めば積むほど、無辜の民の涙が減ることに繋がるかもしれないと思えば辛いことは何もなかった。

「……ルシウスの生き方が良いのか悪いのかは分からないけど、特別が俺だけってのは嬉しいかなぁ」

 アスモデウスが頬杖をつき、その薄紅の瞳を街行く人々へと移す。その横顔は穏やかで、彼が世界の敵だとどうして思えるだろう。

「この世のモノは、大抵が移り変わるものだよ。価値観や性格、立場だったりね。生きている限り、誰のことも傷付けず、誰のことも裏切らずにいられる奴なんか、存在しないと思う」
「それは、そうかもしれないな」
「それを許す許さないは当人の自由だし、謝る謝らないも、許されたいと思うのも本人の自由……ただ、口から吐いて出た言葉が刃にも薬にもなるってことは、自覚しておいて欲しいよねぇ」

 黒い革手袋に包まれた指先が、真っ白なテーブルを叩いた。
 おや? とルシウスが首を傾げる。横顔は相変わらず笑んでいるが、その瞳はどこか冷ややかで。

「……おまえ、もしかして少し怒ってるのか?」

 アスモデウスの視線が、ルシウスへと戻る。口角こそ上がっているが、眉を寄せて不機嫌さを隠そうともしない。
 先ほどの会話のどこに、アスモデウスの機嫌を損ねる要素があっただろう。

「そりゃあねえ。俺の恋人に好き勝手言ってくれちゃったら、俺だって怒るよ?」
「……俺の為、か?」
「そうですケド。そもそも、ユルティアの信奉者なんか嫌いなところを我慢してるんだから、褒められても良いくらい……やっぱちょっと呪っとこうかな。そうねぇ、髪の毛が薄くなる呪いとか」

 ルシウスは店員を呼び止めて支払いを済ませた。突然の行動に目を白黒させるアスモデウスに、ルシウスは言う。

「今すぐ帰ろう。────おまえを抱きたい」
「は!?」

 恋人が自分のために怒ってくれて、自分のために我慢してくれて、嬉しくならない筈がない。
 全身に口付けてどろどろに蕩けさせて、沸き上がる想いをすべて伝えたかった。
 瞠目しながらも頬をほんのり赤らめていることから、アスモデウスもまんざらではないようだ。

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