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 嫌な予感に背を押されるがまま訪れた、サラキア城塞都市。ここに来るのは、盗賊騒ぎ以来か。
 次に向かうときは、特産の葡萄酒の新作が出回る頃くらいか、と思っていただけに、この訪問は予想していなかった。
 もっとも、眼前に広がる光景以上に予想外なこともないかもしれないが。
 復興も半ばといった城塞の中、普段は市場が並ぶ広場には神殿騎士たちに取り囲まれた住民と、ひどく冷ややかな目をした勇者がいたからだ。

「……久しぶりぃ、勇者様」
「彼らは、あなたの知り合いですよね?」

 アスモデウスの挨拶など聞こえなかったばかりの反応である。
 元より、仲良く挨拶を交わす間柄ではなかったけれど、庇護欲を唆られる勇者様がこんなにも心を凍えさせてしまった理由が己にあることを、アスモデウスは理解していた。
 薄紅の瞳を周囲へと走らせる。神殿騎士に取り囲まれた住民たちは皆一様に怯えていた。狩るものと狩られるもの。
 本来、無辜の人々を守る神殿騎士たちが何故サラキア城塞都市の人間に刃を向けるのか。考えるまでもない、アスモデウスの失態だ。

「……さあ? ニンゲンの顔ってよく覚えてないから分かんないなぁ」
「そうですか。真実かどうかなんて、さほど重要じゃないので」

 だろうな、とアスモデウスは苦く笑う。真偽のほどは重要ではない。
 例えば王が、例えば神官長が黒だと言えば白は黒に成り果てる。

「彼らは、魔族と懇意になったという罪に問われています。神官長と国王陛下は、彼らに何らかの罰を与えるつもりです」
「魔族と懇意? 俺がそこのニンゲン共と仲良しこよししてたって?」
「言ったでしょう。真実かどうかは重要じゃないって」
「……つまり、俺や彼らがどう言おうと罪状は覆らず、老若男女すべて拷問にかけられて絞首刑ってことかあ」

 サラキア城塞都市の人間がアスモデウスと交流していたことは事実だが、確たる証拠はなかった筈だ。反論さえ許されないということは、今回の一件に覆す余地などないのだろう。
 アヴァリス王国、そしてユルティア神殿の連中にとって、魔族と交流した民など人間ではない。何せ、前例があるのだから、奴らのやり方に疑問はなかった。
 あるとすれば、勇者の方だ。心優しい勇者が、どうして無辜の民を問答無用で狩る側に回っているのか。憎悪を剥き出しにしている黒曜石の瞳を真っ向から受け止めながら、アスモデウスは彼の企みを考える。

「ええ。でも、彼らが魔族を敵だと認識していることを証明できれば話は別です」
「証明?」
「この棒で、彼らがあなたを打ち据えることが出来れば」
「それ、俺が付き合ってあげる義理はないよねえ」
「そうですね。そうなったら、彼らは老若男女関係なく拷問にかけられて絞首刑です」

 勇者の視線が逸れる。その先には木で出来た処刑台があった。絞首用の縄は用意されていないが、磔台にも似た拘束具が置いてある。
 なるほど、とアスモデウスは首肯した。つまり、憎き恋敵を拷問にかけたいらしい。しかも、交流ある民の手によって。何とも残酷なことを思い付くものだ。

「……お優しい勇者様とは思えぬ発言じゃーん」
「勇者は、世界の敵を滅ぼす為にいるんですよ」

 智也の顔に嘲笑が浮かぶ。彼の勇者は、愛しい男を奪われたことで、この世界が求める真の勇者になったらしい。
 良かった、と。アスモデウスは誰にともなく安堵する。サラキア城塞都市に向かったことを、ルシウスは知らない。嫉妬に狂った勇者を見せずに済んだ。

「あなたは受けるでしょう。自分が関わった所為で老若男女が拷問にかけられて死ぬなんて、気分が悪いことは好まないのだから」
「勇者様ったらよく知ってるねぇ」
「ええ。ルシウス様が教えてくださいました」
「ふうん」
「ルシウス様はあなたを憎んで、恨んでいる。当然と言えば当然ですよね。あんなことをしておいて、許される訳がない。だから僕にさまざまなことを教えてくださった」

 いつ、どこでそんな話をしたのだろうか。どろりとした黒い感情が肺を冒すようだ。
 ルシウスはアスモデウスを恨んでもいないし、憎んでもいない。当の本人の口から聞いている。
 けれど、聖騎士として人間としての在り方を歪めて、何もかもを捨てさせてしまったことへの罪悪はそう易々と拭えるものでもない。
 目の前の可愛らしい勇者と共に在る方が、ルシウスにとって幸福だったのではないか、と何度も過る。

「あなたを苦しめて苦しめて、その末にこの世から滅する為に」

 馬鹿馬鹿しい、とアスモデウスは溜息をつく。たとえ、ルシウスにとって真の幸福が勇者の傍にあったとしても、アスモデウスは自分の欲望を優先したのだ。ルシウスが欲しくて欲しくて、彼の誇りを踏み躙ってでも、手に入れたかったのだ。そのことに後悔などない。

「……そこに立ってれば良いの~?」

 言って、アスモデウスは処刑台へと向かう。神殿の連中に付き合ってやる理由などないし、拘束術式をかけられているとは言え、この場の連中をすべて殺してしまうことなど容易い。

「服は? 脱いだ方が良いの?」
「当然でしょう」
「ふうん。まあ、後悔するのはそっちだろうけど、付き合ってあげる」

 しかしアスモデウスは勇者の言葉に従った。
 同情、なのかもしれない。同じ男に恋をした勇者の気がそれで晴れるのなら、と。
 はらりと解けるように溶けて消え、露わになった上半身。黒に覆われた指先で、皮膚をそっと撫でる。

「昨日も、聖騎士様とセックスしたんだけど、痕があちこちにあってさ~」
「ッ!」

 勇者の丸い頬に朱が走った。不躾な視線が、首に、胸に、腹に注がれる。赤い花弁があちらこちらに散っているのだ。

「っ、早くこの男を押さえ付けてください!」

 勇者に急かされた神殿騎士たちが、穢らわしいモノを見るような目をし、十字に組まれたさらし台にアスモデウスを縛り始めた。磔台を抱き締めるような格好だ。どうせ抱き付くならルシウスに抱き付きたいなぁ、とアスモデウスは小さく肩を落とした。

「さあ、その身の潔白を証明してください」
「あ、あぁ……ああ……!」

 背後に立つ誰かの気配。顔を見ずとも恐慌状態に陥っている様子が手に取るように分かった。
 当然だ。魔族とは言え、恩人を拷問にかけなければならないのだから。
 けれど、彼らとて生きている人間。自分の命と魔族の命を秤にかければ、当然ながら我が身の保身を選ぶ。可哀想なほどの叫び声と共に、アスモデウスは背中に激痛が走るのを感じた。

「素晴らしい。あなたは、どうやら魔族の仲間ではないようですね」

 魔族の身体能力を考慮しても、そう遅からず皮膚は裂け、骨は折れるだろう。再生能力の高さから死に至ることはないが、痛みを覚えない訳ではない。
 痛覚機能を閉じてしまうことも考えたが、アスモデウスが痛みを感じていないと気付かれたら、勇者や神殿騎士たちが何をするか。

(……あの勇者様を追い詰めたのは、どう考えても俺だろうしねぇ)

「さあ、次はあなたですよ」

 足音が近付く。後どれくらいで終わるだろうか。アスモデウスは目蓋を閉じた。


 ◇


 眼前に広がる光景に、ルシウスは叫ぶように声を上げた。

「────アスモデウス!」

 さらし台に拘束されたアスモデウスの背は、目を背けたくなるほどの有り様だった。皮膚は裂け、その下の肉が晒されている。ぴくりとも動かないのは意識がない為だろうか。
 一体誰が、といった戯言を口にするまでもない。サラキアの民を取り囲むのは、白の鎧。かつての同輩。そして彼らの中に、ルシウスは見知った顔を見つけ、くしゃりと顔を歪めた。

「ルシウス様!」

 降り立ったルシウスの側に駆け寄る智也は、気恥ずかしげにほんのり頬を朱色に染めている。異様な状況の最中、浮かべる表情ではない。
 ルシウスの困惑と怒りに気づいていないのか、彼は誇らしげに語る。

「見てください、ルシウス様! アスモデウスを捕らえることができました! あなたを戻す方法を吐かせることはもちろん、あの男を殺すことだって叶います!」
「トモヤ殿……」
「大丈夫です。全部分かってます。あなたが望んでその姿になった訳ではないんだって、神官長にもお伝えしました」
「トモヤ殿、そうじゃない。そうじゃないんだ」
「だから、これからも一緒に旅ができます。皆で《魔の王》を倒しましょう?」
「────トモヤ殿!」

 吐き気がした。この激情の名はなんだ。悲嘆か後悔か憤怒か、或いはそれらすべてか。
 きょとんと目を丸くする智也の表情を何度も見た。けれど、今目の前にいる智也は、もはやルシウスが知る智也ではない。

「あなたは、自分が何をしたのか分かっているのか?」
「仕方がないんです、ルシウス様。彼らは魔族に手を貸した大罪人。アスモデウスを打ち据えることによって、拷問だけは免除されるのです」 
「拷問だけは……免除? ま、待ってくれ、か、彼を打ち据えたら罪に問わないのではなかったのか!?」

 智也の言葉を耳にしたサラキアの長が、青い顔をして驚愕の声を上げる。だが、智也の「魔族と繋がった人間を生かしておくとでも?」という冷徹な声に呑まれ、力なく膝をついた。
 魔族と繋がりがあると疑われた人間がどのような末路を辿るか、ルシウスとて知らない訳ではない。拷問にかけられた末、死罪だ。保身に走ったとしても仕方がないだろう。けれど、どうしても言わずにはいられない。

「ッ、我が身可愛さに恩を仇で返したのか!?」
「お、俺たちだって死にたくねえ……仕方がないんだよ!」

 サラキアの民がさっと視線をそらす。彼らは、恩人よりも我が身を選んだ。自身の生命が脅かされているのだから、当然と言えば当然だ。
 けれど、ルシウスは人間ではなく《魔族》アスモデウスを思い、ただひたすらに胸を痛めた。かつての同輩を憎らしくさえ思った。
 人間に裏切られたアスモデウスは、今、何を思っているのだろう。人間に手を貸した顛末を仕方がないと受け入れて、諦めて、彼の勇者と交わした約束通り、誰のことも憎まずにいるのか。────ふざけるな、と心の中で叫ぶ声がした。

「ならば、俺も罪に問うが良い。俺はアスモデウスと姦淫し、あまつさえ人間であることを捨てた。有史以来の大罪人だ」
「それはアスモデウスの所為でしょう! あなたが望んだことではないと、僕には分かっています!」

 ルシウスの言葉に、智也がくしゃくしゃと顔を歪めた。今にも涙を流さんばかりの彼に、胸が痛まなかったと言ったら嘘になる。
 けれど、ルシウスはアスモデウスを選んだ。封じられていた記憶を思い出したとき、智也が差し出した手に背を向け、アスモデウスを追いかけることを選んだときから、答えは決まっていた。

「俺は、アスモデウスを愛している。他のすべてを引き換えにしても、これまで生きてきた世界を引き換えにしても、俺はあいつを選ぶ」

 だからもうこんなことは止めてくれ、と。ルシウスの懇願に、智也は覚束無い足取りで後退る。わなわなと震える手で胸元を握り締め、彼は言った。

「……お可哀想なルシウス様。アスモデウスに心まで操られているんですね」
「っ、違う、トモヤ殿、聞いてくれ」
「大丈夫です、僕があなたを助けてみせます。だって、僕は勇者なんだから。あの男を殺したら、きっと元のあなたに戻れます────そうしたら、僕の想いに応えてくれますよね」

 次の瞬間、智也の口から「《神罰》」という言葉が飛び出した。
 まさかと思うよりも早く、アスモデウスの足下に陣が浮かぶ。数多の白い光が稲妻のように走り、アスモデウスの身体に突き刺さった。聖なる輝きで内臓を焼け爛れさせる強力な術式だ。どうして、智也がこんな術式を使えるのか、いや今はそんなことを詰問している暇はない。

「止めてくれ、トモヤ殿……!」

 ルシウスの言葉が聞こえていないのか、智也の瞳は憎き仇に注がれている。憎悪に染まりきった目に、ルシウスは悟ってしまった。もはや、ルシウスの声は届かない。アスモデウスを救う為に、彼の勇者を斬らなければならない、と。
 悲嘆と後悔と憤怒が喉を焼く。声は出ず、言葉は見付からない。震える手で柄に触れたときだった。

「|《思いは溶けて消えて《Seejun》、泡みたいにgfrau》」

 その詠唱を、ルシウスは知っていた。ありとあらゆる魔術が泡のように溶けて消えて、一時的に使えなくなる術式。ただ一人、編み上げたアスモデウス以外に使えない魔術だ。

「アスモデウス!」
「ルシウス様、行かないで……!」

 堪らず、ルシウスは駆け出した。それによって、サラキアの民がどうなろうと知ったことではない。背にかけられた悲痛の叫びなどどうでも良かった。ただ、アスモデウスを救えるのであれば、抱き締められるのであれば。

「……後ろめたい気持ちがなかった訳でもないから、わざわざ痛覚カットもしないで付き合ってあげたのに、すっごい茶番を見せつけられて損した気分」

 手首を戒めていた荒縄を魔術で解き、アスモデウスが気だるげに周囲を一瞥する。
 背中の傷は癒えていない。《神罰》を受けて、無事である筈もない。だが、アスモデウスが人間に敵意を向ける様子はなかった。

「ベリトもなんで来ちゃったかなあ……」
「っ、おまえこそ、何故俺に何も言わず一人で動いたんだ!」
「なんでって……まあ、いいや。悠長にお喋りしてる暇はなさそうだし」

 ルシウスは溢れる言葉を飲み込んだ。確かに、こんなところで言い合っている場合ではない。
 逃げようと思えばいくらでも逃げられるが、残されたサラキアの民がどうなるか。今だって、神殿騎士たちの剣が無辜の人々に振り下ろされかねない状況だ。

「出来れば、使いたくはなかったんだけどね」

 ぽつり、と。アスモデウスの唇から零れ落ちた言の葉に、何故だか胸が締め付けられた。
 何をするつもりかとルシウスが問うより先に、黒に覆われた指先が踊る。

「《毒林檎をSchneew口にしてittchen》」

 重たい何かが次々と崩れ落ちる音がした。何が、誰が。驚愕の眼差しの先、サラキア城塞都市の人々が重なり合うように倒れ込んでいる。
 誰かがおののきながら言った。「死んでる」と。

「ッ、アスモデウス、あなたが殺したんですか! 懇意にしていた人間を、何の躊躇いもなく……!」
「なぁにそれ、処刑しようと企んでたニンゲンには言われたくないなぁ。苦しみ悶えて死ぬよりも、俺の殺し方はずっと優しいと思うけど?」
「ルシウス様! これがこの男の本性です! お願いですから、目を覚ましてください!」

 ルシウスは、傍らに立つアスモデウスを見た。嘲り笑う横顔には、後悔も悲哀もうかがえない。
 そして、智也へと視線を移す。憎悪の炎が揺らめく瞳には、やはり後悔も悲哀も見えなかった。
 元より、答えは決まっている。思うことがないと言えば嘘になるが、迷う筈もない。

「アスモデウス、戻るぞ。飛べるか?」
「……それで、本当に良いの?」
「何を言いたいのか聞かないでおいてやるが、次にふざけたことを言ったら、おまえの足に枷を嵌めて、離れられないようにしてやる」

 ルシウスを魔族に変えたのはアスモデウスのくせに、どうして手放すようなことを言うのか。
 アスモデウスを選んだのはルシウスだ。たとえ何があろうとも、アスモデウス以外を選ぶつもりはないと伝えたのに、どうして未だに理解しきっていないのだろう。
 段々と腹が立ってきた。やはり一言二言言ってやろうと口を開いたのだが、アスモデウスが「そっかぁ」と泣き出しそうに笑うものだから、開いた口を閉じるよりなかった。

「ルシウス様! ルシウス様ッ!」

 悲痛な叫び声が追いかけてくる。彼には後ろめたさがあるし、力になってやりたいとも思う。
 けれど、愛しい相手を傷付けられて許せるほど、ルシウスは善人ではなかった。
 故に、ルシウスが振り返ることはついぞなく。悲痛な声が響き渡るのみだった。

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