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「……あ、アスモデウス様。よろしいでしょうか」

 おそるおそる、という声に閉じていた目蓋をゆっくり開ける。同じ体勢で寝ていたから、すっかり凝り固まった筋肉をゆっくり解し、なぁに? と声をかけてきたニンゲンに尋ねた。
そう、同胞にではなくだ。古い城塞に街を築いた、このサラキア城塞都市の長でもある。

「実は、先ほど勇者を名乗る一行が来まして……」
「へーぇ。それで勇者様ご一行は? 迎え入れたの~?」
「とんでもない! 追い返しましたよ!」

 追い返しちゃったのかぁ、と苦笑する。俺は構わないけれど、彼等はそれで良かったのかねぇ。
 勇者は追い返して、魔族を街の中に招いたなんて、ニンゲンの王に知られたらとんでもないことになりそうだけど。

「中央の奴等なんて信用できませんからね! 奴等も『この無礼者!』とか言って早々に立ち去りましたよ。……ただ、その」
「うん?」

 長は、へにゃっと柳眉を下げた。まともな睡眠を摂れていないらしく、目の下にこさえた濃い隈の所為もあって、今にも倒れてしまいそうな印象を抱く。そんな長の口が紡ぐ厄介事を聞いた俺は、けらけらと笑い声を上げるのだった。


 ◇


 固く閉ざされた門の前に立ち、かれこれ三十分は経っただろうか。最初こそ警戒心を露わにしていた見張り役の住民も、ルシウスの姿に困惑げな表情を浮かべるようになった。
 この分なら、もう少しで門の中に入れてもらえるかもしれない。だが、意外なことにルシウスの予想は良い意味で裏切られることになる。固く閉じた門が、ゆっくりと開いたのだ。

「────俺が言うのもなんだけど、よくよく妙なところで会うよねぇ、聖騎士様?」

 現れたのは、人類の敵。淡緑の髪を手慰みに弄ぶ姿は人と変わらない。しかし、米神の辺りから伸びる羊のような角や尖った耳は、彼が人間ではないことを示している。
 何故、アスモデウスがここに。何より驚くべきは、アスモデウスの姿だ。本来の姿を晒しているではないか。目を瞠るルシウスを、アスモデウスがせせら笑う。

「おまえ、何故こんなところに……」
「暇潰しぃ。そっちは?」
「……おまえも知っているだろう。この街が盗賊に狙われていると聞いた」

 《魔の王》を倒すべく旅を始めて、既に二ヶ月が過ぎた。本来の行程に含まれていないこの街を訪れたのは、行商人から「盗賊に襲われている街がある」と聞いた為だ。
 王子たちは立ち寄る予定のない街を訪れ、遅れている旅路を更に遅らせる行為に対して渋面を作ったが、さりとて看過できる筈もなく、城塞都市とは名ばかりのサラキアへやって来た。

「そうだねぇ。なんでも、半年くらい前から定期的に盗賊がやって来てて、困ったこの街のニンゲンたちはアヴァリス王やユルティア神殿に騎士団派遣要請をしたんだけど、おかしなことに三ヶ月経った今も放置されてるとか」
「っ……その件に関しては謝るより他にない。だが、この街の民は勇者の助けを拒んだ」
「今さら国も神殿も信用できる筈ないでしょ」

 アスモデウスの言葉はどこまでも正しい。本来なら、アヴァリス王国騎士の小隊が各地を巡回し、街や村の治安を維持する決まりとなっている。これは、他の国でも同様だ。
 だが、これまで訪れた街や村に、騎士たちが訪れたという話はついぞ聞かなかった。
 一体いつから、どうして。アヴァリス王都から遠く離れた地にいるルシウスには、確かめる術がない。
 本来の旅程から外れているとしても、魔物に襲われている村を積極的に訪れて来た。諸手を上げて受け入れてくれる村もあれば、受け入れつつも「何を今さら」と非難の眼差しを向けられることも多々あった。

「この街の葡萄酒は知る人ぞ知る名品でね、俺も結構気に入ってるんだぁ。そんな街が、もう半年近く盗賊に苦しめられてるワケ。最初は食料だった。段々と要求が大きくなって、今回はついに女子供を差し出せってさ。これまで散々助けを求めてたのに無視してきたのはニンゲン共でしょう」

 今さら、どうして期待できるの? とアスモデウスが悪辣に笑う。
 彼の魔族の言うように、この街は勇者の助けを拒んだ。盗賊に襲われていて、明日をも知れない過酷な状況だと言うのに、石さえ投げてくる始末だった。
 矜持が高い王子たちは「勝手に野垂れ死ねば良いんだ」と後ろ髪引かれる様子の勇者を促し、サラキア城塞都市を早々に後にした。
 それでも見捨てられずに、ルシウスだけが一人戻ったのだ。今ならば、この街の人々がどうして勇者を拒んだのかよく分かる。彼等は、人間ではなく魔族の手を借りることを選んだからだ。

「……手を貸すつもりなのか」
「悪い?」
「この砦の人間は、自分たちのしていることをきちんと理解しているのか?」
「当然。じゃなきゃ、勇者様ご一行を追い返したりしないでしょ」

 魔族は人類の敵だ。たとえ、自分達の生活を守る為だとしても、魔族と手を組んだと知られたら、この街の人間もまた人類の敵と見なさられる可能性が高い。
 おそらく、苦渋の決断だったのだろう。それでも、彼等はいつか訪れる破滅の未来よりも、目の前に差し迫った破滅の回避を優先したのだ。

「……協力させて欲しい」
「心配しなくても、ここのニンゲンが不利益を被ることはしないけどぉ」
「そうじゃない。その点は、心配もしていない」
「俺と手を組むことが、何を意味するのかお分かり? お綺麗な聖騎士様」

 アスモデウスが人間にも手を差し伸べる人物であることは知っている。これまでにも、幾度も人間を助けている彼が、サラキアの人間を苦しめるような真似をする筈がない、と断言さえできる。
 事実、彼の言葉は辛辣だが、聖騎士ともあろう男が魔族と手を組んで良いのか、とルシウスの立場を案じている────ようにも取れる。
 アスモデウスの言うように、聖騎士としての立場を重視するのであれば、今ここで人類の敵を切り伏せなければならない。魔族に縋った彼等を切り捨てなければならないだろう。

「……今、彼らに背を向けたら、俺はもう二度と騎士を名乗れない。だから頼む」
「難儀な性格だねぇ、聖騎士様」

 アスモデウスが苦笑混じりで言う。薄紅の眼差しに労るような色が滲んでいるように見えたのは気の所為だろうか。

「まあ、肉の壁がいてくれるなら、俺もやりやすいし、ニンゲンには俺から話してあげる」
「すまない」
「ふふふ。聖騎士様、馬車馬の如く働いてもらうから頑張ってね!」
「……お手柔らかにな」

 付いてきて、というアスモデウスの背を追う。城塞の内側は栄えているとは言い難く、寂れている印象を抱いた。大通り脇の商店はどれも閉まっていて、人々が纏う衣服はどれもぼろぼろだ。
 逃げるだけの体力もなく、近隣の街に買い出しにいくだけの金銭もなく、盗賊に脅かされる日々を送っている人々の手足は細く、枯れ枝のようだった。
 頬が痩けた顔、ぎょろりとした目玉がルシウスを追いかける。彼等の眼差しは厳しい。それでも、街の人々が声を荒らげないのはアスモデウスが招き入れた為だろう。

「あっ、アスだー!」

 殺伐とした空気の中、一際明るい声が響いた。ぶんぶんと大きく手を振る少年。その隣にいる少女や幼子たちもきらきら輝く瞳を、アスモデウスへと向けている。

「アスー! こっちで鬼ごっこしようぜー!」
「だめだよ! アスくんはこれから悪い人を追い払ってくれるんだから!」
「えー! アス、全然遊んでくれないじゃんか!」

 アスモデウスがひらひらと手を振る。「終わったら遊ぼうなー!」という子供たちの声には、魔族に対する恐れはない。幼子たちを見つめるアスモデウスの目にも蔑むような色はなく、慈しみの情が浮かんでいた。

「……彼らは、おまえが魔族と知っていても、親しげに声をかけるんだな」
「まあ、付き合いも短いワケじゃないしねぇ。何十年も容姿が変わらない客なんて怪しまれるでしょ? だから、折を見て打ち明けたんだよ」
「彼らは、何と?」
「ん? 驚いていたけど、その頃には親しくなっていたし、皆薄っすら察してたみたい。まあほらぁ、俺はニンゲンより美しい顔をしてるから?」
「自分で言ってどうする」

 アスモデウスの言葉に呆れつつ、人々が彼を怖れなかったのは、他でもないアスモデウスの人柄に因るものだろうな、とルシウスはぼんやり思う。
 彼の魔族が善人だとは思わない。だが、か弱い女性や子供が苦しむことを良しとはしない優しい心根を有していることも知っている。
 街の人々は、そんなアスモデウスと接する日々の中で、すべての魔族が人類の敵とは限らないことを知ったのだろう。

「襲ってきた盗賊はどうするつもりだ」
「殺すのか殺さないのかってこと?」

 そうだ、とルシウスは頷いた。王国の規則に則るのならば、盗賊と言えど無闇に殺すことは許されない。

「砦の皆のことを思えば、俺が立ち去った後に襲撃がないよう殺した方が良いとは思うんだよねぇ。だって、王国騎士も神殿騎士もこんなとこまで来てくれないでしょ」
「……来ない可能性の方が高いだろうな」
「だよねぇ。そもそも、最初の救援要請だって無視したんだしぃ」

 何故、王や神殿は無辜の民の助けを無視したのだろう。魔族との戦いに備える為? サラキアまで距離がある為?
 それっぽっちの理由で、彼等を見殺しにして良い筈がない。良い筈が、ないのだ。

「ねえ、聖騎士様はどうして来たの?」
「……なんだ、急に」
「ここのニンゲンの窮状を思えば、魔族の手を借りたくなる気持ちも、勇者様たちを信用できないのも理解はできるよ。でもねぇ、それでも彼らはニンゲン社会から弾かれるようなことをしているんだよ」

 魔族のくせにと言うべきか、魔族だからと言うべきか。アスモデウスは人間以上に感情や現状を正しく認識し、同時に人間社会の厳しさを語る。
 彼の言葉は正しい。そして、正しさは痛みを伴うこともあることを知ったのは、アスモデウスと会話を重ねるようになってからだ。

「……俺は聖騎士だから戻ってきた訳ではない。俺個人が助けたいと思ったから、戻ってきた。故に、彼らを咎めるつもりも責めるつもりもない。そもそも、その資格もないからな」
「つまり、もしものときは盗賊共を殺すのを黙認してくれるってこと?」
「そう捉えてもらって構わない……すべてを救うには、俺の手は小さすぎるだろう」

 旅を始める前のルシウスは、自身にはすべてを守り切る力があると信じていた。助けを求める手を掴み、彼等を救える力があると思い込んでいた。
 けれど、現実はどうだ。どんなに救いたいと願っても、救える命には限りがある。
 すべてを救えないならばどうするか。何かを選んで、何かを切り捨てなければならない。

「俺に……一人の人間に命を取捨選択する権利などない。だが、すべてを救えないのなら、せめて罪なき人々だけでも救いたい────罪悪を背負う覚悟はできた」

 アスモデウスの薄紅の目が見開かれた。彼が驚くのも無理はない。昔の自分が聞いたとしたら、同じ反応をするだろうな、とルシウスは苦笑を浮かべた。

「礼を、言うべきだろうか」
「はぁ?」
「心配してくれたのだろう」
「べぇつに、俺はニンゲンがどうなろうと興味はないよ」
「……散々人間を手助けしておいて、その言い訳は今さらじゃないか?」
「やかましいやかましい」

 ふんっと鼻を鳴らす様はどこか幼く、ルシウスは耐えきれずついに肩を震わせる。
 目の前の男が魔族だという事実を忘れていたことに気が付いたのは、ずっと後になってからだった。


 ◇


 東の空が橙色に染まり始めた頃、俺と聖騎士様は城門の前に並んで立っていた。盗賊共が指定してきた刻限まで、もう間もなく。
 あの聖騎士様が魔族と並び立つなんてねぇ、と奇妙な心地で横顔を眺める。……それにしてもこの人ほんとに顔が良いんだけど!

「あっ、そうだ。聖騎士様に認識阻害の術をかけておこうと思うんだけど」
「認識阻害?」
「さすがに神殿のニンゲンと魔族が仲良く並んでるのはまずいしねえ」
「ああ、いつだか掛けていた類いのあれか?」
「そうそー」

 《阻害》の術をかけたから、聖騎士様の正体に気付く者はいない。世界の敵と一緒にいるのがただのニンゲンと聖騎士様なら、よりまずいのは後者の方だ。
 物言いたげな聖騎士様の視線を無視し、正面へと向き直る。遠くから馬の嘶きが聞こえてきた。段々と近付いて来る足音の主が誰なのかなんて言うまでもない。

「おいおいおい、なんで人間と魔族が仲良く並んでやがる?」

 下品な笑い声は実に不愉快で、やっぱり殺しちゃっても良くない? とうっかり過ったのだけど、そんな俺の考えを正確に察したらしい聖騎士様が「まだ堪えてくれ」と溜息まじりで宥める。

「おまえたち、今すぐに自らの罪を悔い改め、サラキアに二度と関わらないと誓うならば、咎めはしない。今すぐ引き返すが良い」
「あァ? んだ、テメェ。魔族と仲良しこよししてる人間がエラソーに!」
「ま、警告はしたんだし、ちょっと痛い思いしてもらってかまわないでしょ」
「……そうだな」

 俺と聖騎士様の前、何もなかった空間に黒い線が走る。滑り落ちるように姿を見せたのは、ニンゲン三人分ほどの高さを有した泥人形だ。槌を構えた人形が、大きく振りかぶって地を砕く。轟音と土煙。恐怖におののく馬は暴れ出し、盗賊たちの顔色も一気に悪くなる。威嚇としては十分だ。
 駄目押しに、聖騎士様が剣を抜いた。ぶんっと縦に一閃。ただそれだけの動きで、剣圧が疾風の如く駆け抜けて行った。

「お、おい、やべえだろ」

 ぽつり、と誰かが溢した。後から後から同意する声が上がり、我が身可愛さに引き返していく。リーダー格しいニンゲンだけは「お、おい!」と非難めいた声を上げたけど、一人で立ち向かうほどの気概はなく、馬を操って離れていった。
 この程度では、まだ足りない。恐怖が薄れた頃、自らの無様さを怒りに変えて、サラキアを襲いかねないからだ。追いかけて、徹底的に心を折らないと。
 羽根を広げた俺と共に、聖騎士様が駆け出した。……本当に、俺と一緒に来て後悔しないのかな?
 さっき、聖騎士様は自嘲げに笑いながら言った。罪悪を背負う覚悟はある、と。
 清く正しい聖騎士様の口からそんな言葉が紡がれたことは驚いたことは認めよう。けど、あの程度でこの世の汚さをすべて知った気になっているのなら、それはあまりにも愚かで、あまりにも傲慢だろう。

「……サラキアの南西の山間に、小さな村があるんだよ」
「! なら、奴らの根城はそこか?」
「サラキアの近くってなら、そこしか考えられない」
「村人が盗賊になったのか、そこの村人も脅されているのか……」
「……さあ、どうだろうねぇ」

 盗賊たちの顔に見覚えはない、とサラキアのニンゲンたちは言っていた。村人が盗賊になった線は薄い。、俺は最悪の予想を立てるけれど、聖騎士様は果たして俺と同じ予想ができているだろうか。
 ────その答えは、すぐに分かった。

「……なんだ、これは」

 眼前に広がるのは、吐き気を催すような醜悪な光景だった。血と糞尿と腐った肉の臭いが漂う場所は、この世の汚いものを押し込んだと言っても良い。

「こんな、こんなッ!」
「何を言いたいのか分かるけど、これが現実だよ聖騎士様」
 
 サラキアの南西、山間の農村だっただろうそこは、蹂躙され尽くした廃村となっていた。
 肉がすっかり腐って生前の面影をうかがえない骸の山。女は衣服を与えれず慰み物として、ニンゲンとして扱われずにいる。……聖騎士様はきっと初めて見る光景かもしれないけれど、あまり目新しい光景でもない。ニンゲンがニンゲンを食い物にするなんて、ありふれた出来事だ。

「……聖騎士様は、盗賊たちがどれだけ罪深いことをしていたのか、しっかり想像できてなかったんじゃない?」
「ッ……!」

 ニンゲンのメスが、聖騎士様へ枯れ枝のような腕を伸ばす。かさついてひび割れた唇が、掠れた声が紡いだ言葉は「死にたい」という四文字。

「っ、傷を治してはやれないか」
「外傷は治せても心の傷は治してあげられないよ。犯されて家畜のように扱われて、家族を殺された苦しみは救えない」
「ッ!」

 聖騎士様が息を飲んだ。美しい顔がくしゃくしゃに歪み、骨が軋むほどに握り締められた拳。
 一方的に虐げられたニンゲンを救いたいと思いながらも、彼等にとっての救いが何か答えは出ない。

「聖騎士様。悩んでるとこ悪いけど、逃げた連中を追いかけた方が良いんじゃない~?」
「っ、ああ」

 盗賊たちがどうしてこの村に来たのか。この醜悪な光景を見せて、俺たちの足を止めたかったのかもしれない。残念ながら、俺はその程度じゃ揺らがないし、今の聖騎士様は自分の無力さを怒りに変えて、盗賊たちを決して逃しはしないだろう。走り出す聖騎士様の姿は、まるで目の前の現実から逃げ出すかのようだった。
 ああ、可哀想な聖騎士様。価値観も誇りもぐちゃぐちゃに踏み躙られている姿を、俺がほくそ笑んでいるとは知らないんだろうねぇ。
 馬を捨て、山道を死に物狂いで走り抜ける盗賊の残党を、魔術で足止めする。腰を抜かす様は何とも滑稽だ。

「さぁて、強者の立場から弱者の立場に戻った気分はどう?」
「ひ、ひっ、やめてくれ……!」
「止めろぉ? バッカじゃないの。魔族がニンゲンを虐げるなんて別に今に始まったことでもないでしょ。まあ、君たちを痛め付けるのは俺じゃないけど」

 砂利を踏む音に、盗賊たちが肩を揺らす。おそるおそる振り返った彼等が目にしたのは、白銀の鎧を纏った聖騎士様。端正な顔には何の表情も浮かんでいない。けれど、その青い瞳には憎悪の炎が燃え滾っていた。

「ま、待ってくれ! 俺達だって、仕方なく盗賊なんてしてたが、本当はやりたくてやってた訳じゃないッ! ああでもしなきゃ、飢え死にしていた!」
「……ならば、どうして罪のない女を陵辱したッ! あの死体の山はなんだッ! 飢えを凌ぐ為という理由だけならば、同じ人間である筈の彼等を食いものにする理由などないだろう!」

 聖騎士様がこれまで剣を向けてきた罪人たちは、職務としては捕らえなければならないものの、罪人たちの在り方は理解の範疇に収まっていたのだろう。故に、哀れみや怒りを覚えこそすれど、いっそ殺してやりたいと思ったことはない筈だ。
 残念ながら、今腰を抜かしている盗賊の残党共は、聖騎士様がこれまで出会ってきた罪人共とは訳が違う。

「俺が代わりに答えてあげようか。弱者を集団で虐げる立場が楽しくて楽しくて仕方がなかったんでしょう?」
「ッ!」

 ニンゲンは集団になれば集団になるほど、他人の不幸を娯楽として楽しめる生き物だ。一度捕食者の立場に回り、甘い蜜を味わってしまえば、もう二度と被捕食者の側へは回りたがらない。度が過ぎた行為を止めるものもいなくて、同族を家畜のように食い物にした。
 まあ、このニンゲンたちが特別おかしいのではなくて、どのニンゲンも同じことをする可能性はある。実際、聖騎士様が出会ったお偉い貴族とやらも、ニンゲンの女子供を奴隷として扱っていた訳だし。

「どうしよっか。彼等を捕縛するのは良いけど、きっと中央の連中はこんなところまで来てくれないだろうし? かといって、あんな非道をするような連中を野放しにしておく訳にもいかないよねぇ」
「……ああ。また同じことをしないという保証はない」

 貴族様と目の前の彼等の違いはただ一つ。剣を、振り下ろせてしまう場所にいること。
 どんなに罪深くとも、権力者に剣は届かない。仮に剣を向けたとしても、大衆の目が聖騎士様の身を縛る。
 けれど、彼等は目の前にいる。剣を振り下ろしたところで誰にも止められない。目の前の罪人を怒りのままに殺せる状況に立って、聖騎士様はどんな結論を出すのだろう。

「い、嫌だ! 死にたくねえっ!」

 突如、残党の一人が涙と鼻水をだらだら流しながら走り出した。命を脅かされる恐怖に堪えられなかったのだろう。

「……って! そっちは崖!」

 逃げ出すこと以外頭にないのか、そのニンゲンは崖の方へと一目散に走って行く。瞬間、すぐ横を走り抜ける影。誰が追いかけたのかなんて確かめるまでもない。

「あ、」

 聖騎士様が、落下していくニンゲンの腕を掴み、遠心力を利用して放り投げた。代わりに、聖騎士様の身体がゆっくりと落ちていく。

「せ、聖騎士様!?」

 こんなどうしようもないニンゲンの代わりに、なんであの人がそんなことをする訳!?
 直ぐ様追いかけようとして、盗賊たちのことを思い出した。そのままにしておけないし、とりあえず眠りの魔術をかけておく。俺が解術しない限り三日は目覚めない。その辺の獣に喰われるかもしれないけど……自業自得ってことで。

「っ……この崖から落下したくらいじゃ死なないだろうし、さほど遠くまで転がるとは思えないけど……」

 あの人も魔術を使える筈だから、落下の衝撃を軽減するくらいできるだろうけど、さすがに無傷ってこともないだろう。
 さらに厄介なことに、頭上には分厚い雲。もう少しで雨が降り出すかもしれない。

「いた────聖騎士様!」

 覆い繁った木々の下、崖下からさほど離れていない場所に、聖騎士様はいた。あちこち擦り傷を負っているけれど、出血している様子はない。

「無事!?」
「ああ、足の骨が折れたくらいだ」
「あの高さから落ちて、足の骨が折れたくらいなら……マシ、なのかなぁ。他に痛いとこは?」

 きょとんと目を丸くする聖騎士様は、どことなくあどけなく見えた。
 何、その顔。訝しむ俺に、聖騎士様はぽつりと「心配してくれたのか」と溢す。

「っ~~~~そうだよ! 魔族が聖騎士様の心配なんかして、バカみたいだけど!」

 ……今さら誤魔化したところで、果たしてどれだけの意味があるのか分からないので、いっそ開き直ることにした。
 そりゃあ俺は魔族で、聖騎士様はニンゲンなのだから、心配する方がおかしいのかもしれない。
 でも、今日くらいは良いじゃん。だって、聖騎士様はあの街のニンゲンたちを救う為に動いてくれたんだから。

「────そんなことは、思わない」
「は?」
「おまえに心配してもらえて、嬉しいと思った」
「う、嬉しいって……」

 俺は魔族で、聖騎士様はニンゲンで。他でもない聖騎士様が、俺の心配を嬉しがっちゃ駄目でしょ。
 なのに、目許を綻ばせて笑う聖騎士様の顔を曇らせたくなくて、俺は言葉の代わりに溜息をつく。

「……とりあえず、ちょっと場所変えよ。雨降りそうだし」

 降りるときに見かけた洞窟まで、聖騎士様を支えて向かう。中に入ると、まるで見計らったかのように、ぽつりぽつりと雨が降り出した。
 びしょ濡れになりながら治癒術かけるのは勘弁だったから、濡れる前に洞窟まで来られて良かったぁ。

「そういえば、盗賊たちはどうした?」
「全員、眠らせてるよ。俺が術を解かない限り3日は目覚めないから、びしょ濡れになっちゃうかも」
「そうか」

 まあ、あれだけのことをしたんだし、風邪をひくくらい可愛いモンでしょ。聖騎士様なんて、あの盗賊の代わりに骨を折ってるくらいなんだし。
 それよりも、聖騎士様の傷を治療しないと。折れているのは膝かな。鎧で覆われていると言ったって、鋼鉄にも骨にも限界はある。指先で軽く触れただけでも、聖騎士様は痛みを感じたのか、微かに身動いだ。……ああ、もしかしたら、魔族に触れられるのが嫌なのかもねぇ。聖騎士様にしてみたら、魔族の手を借りるなんて真っ平御免だろうけど、せめて傷の手当てくらいはさせてもらわないと、さすがに申し訳がないと言うか。

「よし、と。とりあえず、折れた足だけは治したから。後は、勇者様にでも治してもらって」
「何故、足だけなんだ?」
「え?」

 訝しむ聖騎士様に、俺は目を丸くした。俺たちの間に、なんとも言えない空気が漂う。
 しばらく沈黙が続いたけれど、先に我に返ったのは聖騎士様の方だった。

「っ、いや、すまない。治してもらう身で図々しいことを言ってしまった。ただ、その、何と言ったら良いのか……足は治すのに他を治さない意図が分からず」
「……聖騎士様は、魔族になんて治療されたくないと思ったんだけど」
「そんなことはないが」

 俺に治癒されることに何も思っていないという言葉を信じるなら、確かに足だけ治して他を治さない意図が分からず不思議に思うのも当然だ。
 でも、本当に? 他でもない聖騎士様が、魔族の手を借りることに何も思わないの?

「……ああ、勇者様に迷惑をかけるより、俺の方が気楽で良いよねぇ」
「っ、勇者に迷惑をかけたくない気持ちは確かにあるが、おまえに余計な手間をかけさせたい訳でもない」
「そ、そう……」

 ま、ますます分からない。勇者様に余計な迷惑や心配をかけるより、俺に手を借りた方が申し訳なさを感じることもないのかと思ったけど、そういう訳でもないらしい。
 よく分からないけど、聖騎士様が嫌じゃないのなら、他の擦り傷も治しちゃおうか。内臓を痛めていないとも限らないしねぇ。

「……どうすれば良かったんだろうな」
「さっきのこと?」
「ああ……」

 洞窟の外から、さあさあという雨音が響く。雨音にも似た静かな声。ちらりとうかがった聖騎士様は、ぼんやりと外を見ていた。

「あのとき、俺は奴等の非道さが許せなかった。こんな奴等、生かしておく理由がないとさえ思った。どうしてあんなことができる。あれが同じ人間だと、思いたくもない」

 なのに、崖から落ちそうになった彼を見過ごせなかった、と聖騎士様は自嘲げに笑う。
 自分のしたことは正しかったのか。どうすることが正しかったのか。彼等への憎悪は間違っていたのか。彼を救ったことは間違っていたのか。

「どうすることが正しいのかなんて、いつだって分からないものだよ、聖騎士様。自分が常に正しいことを出来ていると思っているなら、それは傲慢が過ぎるんじゃない?」

 聖騎士様は確かに強い。清く正しく、弱きを助ける騎士たらんと鍛練を重ねてきたんだろう。
 でも、ニンゲンは間違いを犯す生き物だ。どんなに心身を鍛えようとも、どんなに知識を蓄えようも、過ちを根絶するには至らない。

「俺は、君よりもずっと長い時間、ニンゲンたちを見てきた。君が知らないだけで、ニンゲンたちはとても残酷で残忍で、身勝手な生き物だよ。正しいだけじゃないし、美しいだけでもない」

 聖騎士様は、ニンゲンのくせにニンゲンを知らなさすぎる。何も知らないくせに、俺たちを一方的に悪と決めつける様は、呆れもしたし腹立たしかった。

「どうして、ニンゲン共が《魔の王》を退治しようと躍起になっているか分かる?」
「……おまえたちが人間を敵視しているからだ」
「違う、そんな曖昧な理由じゃあない。黒領という肥沃な大地を獲得する為に、俺たちを人類共通の敵として定めたからだよ」
「っ、だが、おまえたちは俺たちを蔑んで、甚振って、家族や友を殺しているだろうッ!」
「それは否定しないけどねぇ。でも、力量差があると分かっていながら戦い続けるのは? 異界から生け贄を呼び寄せているのは?」

 聖騎士様が、これまで見ようともしなかった側面を突き付ける。
 俺の言葉を否定できないのか、聖騎士様は苦しげに眉を寄せるだけ。俺の目論見通り、旅を始める前の価値観や矜持は、もはや粉々になっているだろう。
 だから、かな。見たいと思った顔は見た訳だし、苦しげな顔をいつまでも見ていたいと思うほど、性根は歪んでいないから。

「……聖騎士様が、どうして彼を救ってしまったのか教えてあげる」

 苦しげに顔を歪める聖騎士様の頬に、そっと触れる。嫌がられるかと思ったけど、意外なことに聖騎士様は何も言わなかった。
 もしかしたら、それどころではないのかもしれない。

「愛故に憎らしくなるんだよ。いっそ殺してしまいたいほど憎らしくてもね、それは愛しいという感情があるから抱いたものだよ。君は、人が好きだから聖騎士になったんじゃないの?」

 聖騎士様のこんな顔、見ていて痛々しい。望んだことではあるのに、どうしてそんな顔をしてほしくないなんて思っちゃうんだろう。

「なーんてね? さて、そろそろ戻ろうか。あのニンゲンたち、放っておく訳にもいかないしねぇ」
「……奴等をどうするつもりだ?」
「ああ、ちょっと思い付いたことがあるんだぁ」

 彼らを罰しないニンゲンや女神とやらの代わりに、なんて傲慢なことを言うつもりはない。かといって、あの残党共を放っておいて良い訳もないからねぇ。
 雨足はいつの間にか落ち着きを見せていた。聖騎士様を伴って、ニンゲンたちを寝かせておいた場所へと戻る。
 野生の獣に食われていたらそれはそれでと思っていたけど、幸か不幸か齧られた様子はない。チッ!

「《無慈悲Königinなる女der王の戒めDornen》」

 黒い荊棘を模した紋様が、ニンゲンたちの身体を這い回りやがてすうっと消えた。
 聖騎士様が訝しげに眉を寄せ「何をした?」と聖騎士様が問う。

「彼らが誰かを傷付けようとしたら、全身に激痛が走る呪いをかけたんだよ」
「そんな魔術があるのか?」
「これは俺の自作だから、他に似たような魔術があるかどうかはわかんないなぁ」

 まあ、効果はそれだけじゃないんだけど。ほくそ笑みながら、眠ったままの彼らを叩き起こす。
 ぼんやりした眼差しで辺りをあちこち見渡していたけど、俺と聖騎士様を認めた途端、揃いも揃って「ひいっ!」と情けない悲鳴を上げた。

「た、頼む! 命だけは……!」
「うん、良いよぉ」
「へ?」
「でも、代わりに呪いをかけさせてもらったから。誰かを傷付けようとしたら、全身に激痛が走る呪い。それから、いつか死に至る呪い」

 ニンゲンたちが、目を丸くする。頬に突き刺さる懐疑的な視線は無視して、付け加えた呪いについて、俺はニィと悪辣な微笑を浮かべて説明する。

「明日かもしれない、一年後かもしれない、もしかしたら十年後かもしれない。君たちが害意を抱く度に呪いは命を蝕んで、やがて死に至る」

 ニンゲンたちは、戸惑いながらも喜色を帯びた表情を浮かべた。おそらく、誰かを傷付けなきゃ良いだけだ、とか考えているんだろう。
 搾取する側の蜜の味を覚えた彼らが、誰も傷付けずにいられると本当に思ってるなら、頭の中がお花畑にでもなってるんじゃない?

「……死に至る呪い、とやらは本当にかけたのか?」

 下卑た笑いを浮かべながら遠退いていく彼らの背中を見送りつつ、聖騎士様が呟くように問いかけてきた。

「本当だよ。確かに、誰かを傷付けようと思わなければ、呪いが進行することはないけど、彼らがすぐに身の振り方を改めるとは考えにくいよねぇ」
「……それはそうだろうな」
「加えて、あの呪いは自衛さえも許さないから、たとえば自分、たとえば愛する誰かを守りたいだけだったとしても、耐え難いほどの激痛に苛まれるんだよ」

 あの呪いの真骨頂は、彼らが誰かを愛してからだ。愛する者とずっと傍にいたいのに、いつ発動するかも分からない呪いが精神を削り取る。
 しかも、あのニンゲンたちは罪人だ。いつか、彼らに復讐を果たそうとするニンゲンが現れるかもしれない。そんなとき、彼らは自分の身を守ることも、愛する者を守ることも叶わない。

「聖騎士様は、俺を残酷だって詰る?」
「……分からない。被害者を思えば当然の報いだと思うし、改心した彼らには酷なのではないかとも思う。だが、そもそも俺にその資格はない」
「ねえ、聖騎士様。俺がこの後することを知っても、何も言わないの?」

 どういうことだと訝しむ聖騎士様を無視して地を蹴った。あっという間に辿り着いたは、ニンゲンに虐げられたニンゲンたちの掃き溜め。
 ニンゲンの女子供には、手を差し伸べてはあげたいと思う。でも、俺にはここのニンゲンたちを救えない。救う術が分からない。勇者様なら分かるのだろうか。俺に出来ることと言ったら、せめて苦しまないように殺してあげるだけだ。
 柔らかな炎に熱はなく、舐めるように命を奪い去っていく。ニンゲンたちは痛みひとつ感じることなく、死んでいった筈だ。

「……この光景を見ても、本当に俺を詰らないの?」

 お綺麗な聖騎士様?
 
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