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「アスくん、入るわよ」

 誰も「入って良いよ」、なぁんて言っていないのに、ノックもしないで入ってきて、挙げ句の果てにベッドの上で書類を見ていた俺の上に乗ってくるなんて、シトリーは本当に良い度胸してるよねぇ。

「あらまあ。アスくんの部屋ったら、相変わらず汚いわねぇ」
「雑然としてるって言ってほしいなあ」
「物が多いからこうなるのよ。魔術に傾倒するのもほどほどになさいね」

 シトリーの言うように、俺の部屋には物が多い。決して狭い部屋ではないし、収納も豊富にあるんだけど、それ以上に蒐集した魔術書や魔術道具、俺の研究書類が机にも床にも転がっている。
 ニンゲンと違い、魔術を学ばずとも強力な術を使えるのだから新たに学ぶ必要などない、と豪語する魔族もいるけど、俺はそう思っていないんだよなぁ。
 新たな知識は新たな見識に繋がるし、新しい術が生まれることもある。新しい術式を構築したときの興奮と達成感が気持ち良くて、俺は魔術の研究を続けているんだよねぇ。
 今も、ベッドにうつ伏せながら、研究中の新しい術式に役立てられないかなあ、と手に入れたばかりの魔術書を読んでるとこ。

「今は何の研究にご執心なのかしら?」
「内なる世界に干渉することで肉体にどのような変化が生じるかって内容。たとえば、知性を持たない同族に言語を解させることはできるのか~とか」
「そんなこと可能なの?」
「できるよぉ。ただ、労力に対してあまりにも非効率的だけど」

 ところでシトリー。いつまで俺の上に跨がってんの? 重いとかはないんだけど、ついうっかりムラムラしちゃうでしょー!
 はっ! ここ最近、聖騎士様をいじめる計画を練るばかりで、セックスがご無沙汰だということに気が付いてしまって、ますます興奮しちゃいそうなんだけど!

「……あの研究は、まだ続けているの?」
「あの…………ああ、魔族が消滅する仕組みの解析?」

 俺たち魔族にはニンゲンで言うところの“死”はない────と、ニンゲンたちは信じ込んでるけれど、そんなことはない。生きている以上、俺たち魔族にだって寿命は存在している。
 ニンゲンに比べればずっと長命で、生命活動に支障が生じる傷を負っても、十年ほどの休眠期を経て再び活動を開始する。
 残念ながら、再生前と比べると多少の劣化が見られることが多い。回数を重ねれば重ねるほど、それが顕著だ。
 けれど、それは死ではない。俺たちが迎える死は、もっと唐突でもっと無情なもの。

「ある日突然、何の前触れもなく消滅してしまう。まるで、何も残さず溶けて消える泡のように」
「……そして、肉体が再構成されることはなく、ニンゲンが言うところの“死”を迎えるのよね」

 ニンゲンのように予兆らしきものもなく、本当にある日突然、泡のように消えるのだ。
 何故、どうして。俺は消滅の理由をずっと探している。消滅の仕組みを理解できれば、止める方法を見付け出せるかもしれない。
 そして、消滅の仕組みを理解することはすなわち、死を望む同族を意図的に消滅させてあげることもできる筈だから。

「……それにしても、シトリーはすごいねぇ」
「急に何かしら」
「俺、5秒前くらいまでセックスしたい気分だったのに、今もう既にそんな気分じゃなくなっちゃった……シトリーに弄ばれてる気がするよぅ……」

 頭上に大きな大きな溜息が降ってきた。シトリーにだけは呆れられたくないというか、とっても遺憾なんですけど! 自分だって気持ち良いこと好きなくせにー!
 シトリーってばべたべたくっついてくる割りに、俺とはあんまりセックスしてくれないんだよねぇ。とても残念。

「そういえば、勇者を見に行ったんでしょう? どうだった?」
「そうねぇ……雛鳥って感じ?」
「あらあら。鳥籠に入れてあげた方が良いのではないかしら」

 そうしてあげた方が、勇者様の為かもしれない。薄々察してはいたけど、ニンゲンの指導者たちは勇者様が《魔の王》を倒せるなんて思っていない。
 勇者様に期待していることは、俺たち魔族の関心を長く引くこと。
 人類の敵の気を引くための玩具。余所の世界のニンゲンだから、どれだけ消費しても心は痛まない。そんなの、体の良い《生贄》も同然だ。

「────アスモデウス卿、少しよろしいか」

 そのとき、扉の向こうから聞こえたのはアシュタロスくんの声。どうぞ、と招き入れたナイスミドルのお顔は、いつも以上に険しい。
 ……俺、何かやらかした? 心当たりならいくらでもあるよ?

「なぁに、どしたの?」
「……ハーピーの幼体がニンゲン共にさらわれました」

 マジで? と訊き返したかった。でも、冗談の類いを好まないアシュタロスくんが、こんな趣味の悪いことを言う筈がない。
 俺の上から降りたシトリーの横顔も、さすがに強張っている。俺も起き上がって、アシュタロスくんに話の続きを促した。

「ハーピーは上体がヒト型の女性、腕と下半身が鳥型です。一部を除いて賢いとは言い難く、ニンゲン共の罠に幼体が引っ掛かってしまったようです」
「……ハーピーの幼体を、ニンゲンが何に使うかって、考えなくても分かるよねぇ」

 趣味の悪いニンゲンが家畜のように飼ったり、性的欲求を発散させる道具代わりにしたとしても不思議はない。
 ニンゲンと似ていてもニンゲンではないから、何をしても良いと思っているんだろう。

「……ハーピーは哀れだと思うわ。幼体であるならば尚の事、助けてあげたい。でも、ニンゲンに連れ去られたなら話は別よ。労力に比べて、得られるものが少なすぎるもの」
「貴殿に言われずとも理解している。だからアスモデウス卿に伝えたのだ」
「ええ、そうでしょうね。アスくんの性格と立場を利用しようって魂胆くらいお見通しよ」
「……シトリー卿、言葉には注意するように。アスモデウス卿とは違い、貴殿にかける情けはない」
「そっくりそのまま返してよ、アシュタロス。下等種に泣き付かれて無下にできないあなたと違って、私はもっと現実的に物事を考えられるから」

 やだー! 二人ともすっごいバチバチしてるんだけどー!
 いやまあ、どっちの意見も理解できちゃうから、どっちの味方もできないというか。
 アシュタロスくんは冗談の通じない堅物さんだけど、情けがない訳ではない。というか、実はすごく優しい。
 弱いものはただ喰われるだけの黒領で、アシュタロスくんは力のない同族が少しでも長生きできるように心を砕いている。
 ハーピーたちがアシュタロスくんに泣きついて、アシュタロスくんも無下にできなかった姿が目に浮かぶもん。
 対して、シトリーは身内にこそ甘いけれど、それ以外には冷たいところがある。
 ハーピーを救いにニンゲン領まで行ったとして、おとなしく解放してくれる筈がない。一戦構えることは想定しておくべきだ。
 そして、ニンゲンたちはますます俺たちへの憎悪を募らせる。世界の敵への敵意は高まり、振り上げられた刃は、まず真っ先に力の弱い同胞へと落とされるだろう。
 長い目で見たら、アシュタロス卿のやろうとしていることは、彼が手を差し伸べている力の弱い同胞たちを苦しめることに繋がりかねない。
 でも、アシュタロスくんだってそんなことは分かってる。分かっていて、それでも譲れなかったんだったら、口を挟むのは野暮ってもんでしょ。

「二人とも仲良しなのは分かったからさぁ」
「バカなこと言わないでくれる!?」
「おぞましい冗談は止めていただきたい」

 シトリーもアシュタロスも心底嫌そうな顔をしてる。やっぱり、二人とも仲良しじゃない?

「アシュタロス卿なら、一人でもハーピーの幼体助けるなんて楽勝だと思うんだけどぉ、わざわざ俺に話を持ってきたってことは何か理由があるんだよね?」
「……はい。ハーピーの幼体を捕らえている檻には、複雑な術式が刻まれているようで、魔術が一切使えないらしいのです」
「ははーん、なるほどぉ」

 何それー! ちょっとかなり面白そう!
 あっ、いやいやいやいや。ハーピーの幼体が捕まっているのに面白がってる場合じゃないけど。
 でも、これでアシュタロス卿が俺に頼みに来た理由が分かった。
 俺は、手助けすることにも快楽を見出だす変わり者。しかも魔術にも詳しいときてる。

「……一つ条件があるんだけど、聞いてくれる~?」
「なんでしょう」
「セックスしよ?」

 助けるのは気持ちいいから嫌いじゃないけど、だからといって、誰彼構わず助けるほど暇人でもないんだなぁ、俺。
 俺を意欲的にしたいなら、ご褒美のひとつやふたつ、あっても良いと思いまーす。
 わくわくしてつい頬が緩んでいる俺とは裏腹に、アシュタロス卿は眉をぎゅっと寄せて、言う。

「……………………どうしても、と言うのならば」
「うそうそ。ごめんってば。だからそんな嫌そうな顔しないでよぉ」

 流石の俺も傷付くんですけどー!
 なんでそんなにセックスを嫌がるかなぁ。気持ちいいじゃん。
 ……待って。セックスが嫌なんじゃなくて、俺とのセックスが嫌いだったりする? 俺、実は嫌われてる!?
 いや、そんなまさか。アシュタロスくん、嫌いな相手に頼みに来るような男じゃないもん。……たぶん。きっと。
 疑心暗鬼にかられている俺に気付いていないのか、アシュタロスくんが「ならば条件とは?」と問う。

「俺は、ハーピーの幼体の為じゃなくって、アシュタロス卿の頼みだから動くんだよ。今度から、助けて欲しいときは自分の言葉で言って」

 ハーピーの幼体を助ける為に、なんて耳障りの良い理由を並べなくたって、アシュタロスくんが「私を助けてくれ」とでも言ったのなら、俺はとやかく言うまでもなく、アシュタロスくんへ手を貸したのに。

「『友達を助けるために、理由なんていらない』んだよ」

 それを、俺に教えてくれた奴がいた。今はまだ残った言葉を真似しているだけかもしれない。でも、いつか空っぽな言葉にも何かが宿ることを信じているから。
 さぁて、のんびりもしてられないね。立ち上がって扉へと足を進める。俺の後ろで苦々しく顔を歪めている二人には気付かないふりをして。


 ◇


「ご機嫌麗しゅう、愚かで醜いニンゲン共」

 アシュタロスくんが指定した座標に門を開いたら、眼下に広がる光景は吐き気をもよおすほどにおぞましいものだった。
 そこそこ大きな街なのだろう。一画を占めるのは、裕福な民のみが足を踏み入れることを許された歌劇場。
 美しい歌劇場だと思うけれど、今夜は客たちの欲望の所為でひどく醜悪に見えた。

「ま、魔族……」

 何もないところに現れて、宙に浮いている俺たちを認めた瞬間、歌劇場からは音という音が消えた。生唾を呑み込む音さえ聞こえてしまいそうな静寂の後、誰かがぽつりと呟く。次の瞬間、歌劇場を揺らさんばかりの絶叫が響き渡った。

「うるっさ……」
「いかがなさいますか、アスモデウス卿」
「とりあえず、アシュタロス卿は他に商品がいないか探してきて。種族関係なくね」
「……承知しました」

 一拍置いた間の意味は、「それがたとえニンゲンでも?」なのな、「言われなくても分かっている」なのか、どっちなんだろうねぇ。
 他の商品を探すべく跳躍したアシュタロス卿。シトリーが「私はどうする?」と尋ねてきた。

「俺は解術に集中したいから、ニンゲンの相手をお願いしても良ーい?」
「任せて」
「気を付けてね、ニンゲンの規格から外れたのがいるから」

 まったく、なんだって勇者様ご一行がこんな趣味の悪い場所にいるんだか。
 一階客席には、白金の鎧をまとった聖騎士様が、すでに剣を抜いて俺たちを見上げている。勇者様は、以前に比べれば戦い慣れしているようで、怯えながらも目を三角にして、俺たちを睨み付けていた。

「アスくんには近付かせなくってよ!」

 美女もかくやとばかりに綺麗なシトリーが、歯を剥き出して獰猛に笑う様は、すっごくぞくぞくするんだよねぇ。はあ、ムラムラするぅ。
 それにしても、なんで勇者様ご一行がこんなところにいるんだろ。
 いや、いてもおかしくはないんだよね。だって、ここは正しい行程上、立ち寄る予定の街なんだから。
 俺がちょっと小細工をした結果、当代の勇者様たちは、歴代の勇者様たちに比べて、治安が悪くて貧しい町や村にばかり足を運んでいるけれど。
 まあ、ニンゲンの汚さを見せつけるのなら、これ以上ないほど最高の舞台だし、聖騎士様たちがいてくれるのは色んな意味で都合が良い。

「ご機嫌は……麗しい筈がないよねぇ。ちょっと待っててね。今なんとかするから」

 楽団の奴らは既に逃げ出したらしく、照明に照らされた舞台には、商品を閉じ込めた檻だけが残っていた。
 檻の中には、膝を抱えたハーピーの幼体。いや、それだけじゃなかった。同族の中でも獣体の、子供。そして、ニンゲンの幼子。
 檻の魔術の所為か、どの子も虚ろな目をしていて、魔族の俺がすぐ近くまで迫っていても、悲鳴ひとつ上げやしない。

「…………反吐が出そう」

 百歩譲って、俺たちを魔族を虐げるなら理解はできる。だって俺たちは人類の敵らしいから。納得はしてないけどね!
 でも、ニンゲンの幼子を玩具のように扱うのは、理解も納得もできない。どうして同じ種族の、よりにもよって幼子を虐げられるんだろう。
 いやいや、今は腹を立てている場合じゃない。まずはこの檻に刻まれた魔術を解析しなくっちゃ。

「……へぇ、連動式魔術か。こっちは思考力を低下させる術式で、こっちが神経麻痺の術式。なるほど、吸魔の術式は中の子供たちの魔力と外部の魔術を対象にしてて、奪った力を元に結界を構築してるのか。あっは、効率的」

 効率的で、胸糞悪い。こんな檻の中に長時間閉じ込められていたら、間違いなく生命活動に支障が出る。

「……ひとつひとつの術式は単純だけどすべてを上手く組み合わせているから穴を見付けるのは骨が折れる。無効化や強制停止系の術も魔術である以上、吸魔の対象になる可能性が高いし、何より中の子供たちを考えたら悠長に解析している時間もない、と」

 最も手っ取り早い方法は、吸魔の術式に吸収率以上の魔力を一気に注ぎ込むこと。多分、術式の方が先に瓦解する筈だ。
 術式に右手を翳して魔力を注ぎ込めば、俺の予想通り術式に亀裂が走り始めた。ぱりんっとガラスが割れるような甲高い音が響いた瞬間────右手の肉が、爆ぜた。

「うっそぉ」

 皮膚は一瞬で燃え尽き、その下の筋肉が露わになっている。連動術式を無理やり解術した反動か、はたまた正規の方法以外で止めた際に、相手に呪いをかける術でも仕込んでいたのか。
 幸い、吸魔の術式は壊れたので、結界の術式も止まったみたい。やったね!

「アスモデウス卿!?」
「アスくん!?」
「ふたりともお疲れ様ぁ。見て見て、皮膚の下ってこうなってたんだねぇ。おもしろーい」
「面白がっている場合ですか!」

 あーん、アシュタロスくんに怒られたぁ。そりゃあ、突然こんなことになったら、アシュタロスくんとシトリーもびっくりするよねぇ。
 そういえば、アシュタロスくんが戻った来ていたことに、まったく気付かなかった。ついでに、ふたりが聖騎士様たちと遊んでいたことも。せっかくお楽しみだったのに、邪魔しちゃって申し訳ないなぁ。

「そういえば、他に捕まっている子はいなかったぁ?」
「別の場所に、ニンゲンの子供が捕らわれていましたので、檻を破壊しておきました。同胞は舞台上にいるハーピーだけです」
「それじゃあ後は帰るだけ……と言いたいところだけどぉ」

 残念ながら、ハーピーたちを一緒に連れ帰るとなると、今の魔力量じゃちょっと心許ない。ニンゲン離れした聖騎士様を相手にしていた二人を働かせるのも申し訳がないし。うん、決して疚しい理由ではないから、と心の中で言い訳をして。

「アシュタロス卿」
「は────」


 ◇


 目の前で繰り広げられる光景に、ルシウスは思わずはっと息を呑んだ。
 そもそも、今日はずっと信じがたい光景ばかりを見てきたのだが。
 魔族が居住する黒領への旅程は、当初想定していたものに比べてかなり過酷な旅となった。勇者の体力を温存すべく、比較的大きな街を通る予定となっていたのだが、近隣の町や村の近くで魔物が出没するようになった、という噂を耳にするようになったのだ。
 旅程から大きく外れているのならば、まだ諦めもついた。苦渋の決断ではあるが、勇者と共に《魔の王》を倒せばニンゲンが魔物に襲われることもなくなるからだ。
 だが、幸か不幸か、魔物の出没している範囲は、決して手が届かない距離でもない。いざともなれば己一人だけで、とルシウスは考えていた。当代の勇者は心根が優しく「放ってはおけません」と旅程から外れることを良しとした。勝手についてきた第2王子やその友人たちは不平不満を露わにしていたが。

「いやあ、まさか彼の勇者殿と聖騎士殿に救っていただけるとは感謝の極みです!」

 恰幅の良い身体を揺らしながら笑うのは、交易都市アルス・マグナに住まう貴族だ。
 魔物に襲われかけていたところを助けたら、「お礼がしたいので、是非我が家へ!」とルシウスたちをこの街まで連れて来たのだ。
 このところ野宿が続いていて勇者の体力も限界が近かった。そろそろ柔らかなベッドで眠らせてやらねばと考えていたところだったので、その男の申し出は渡りに船だった。

「儂の護衛の傷もあっという間に癒してしまわれた! 当代の勇者様は類稀なる才をお持ちなのですな!」
「いいえ、僕なんて……その、ルシウス様が使い方を教えてくださったからです」
「おお! さすがは聖騎士様ですな!」

 勇者と貴族の称賛は、ルシウスの心に影を落とす。旅を始めたばかりの頃、勇者は術をほとんど使えないでいた。
 勇者には《魔の王》を倒す力があるのではなかったのかと、疑念が生じ始めていた頃、この世界の人間と異界の人間とでは、魔術の使い方が違うということを知ったのだ。他でもない人類の敵に、アスモデウスによって。
 だから、ルシウスには勇者からの称賛を受け取る資格など有りはしない。熱を孕んだ眼差しを向けられる度、いたたまれなくなる。

「そうだ! 今夜、アルス・マグナ劇場で面白い演目が行われるのです。皆様も是非観劇してはいかがでしょう?」

 その男は、笑みを浮かべていた。心底楽しくて仕方がないという笑みを浮かべていた。
 劇場で行われる演目を正しく理解して、自分たちが何をしているのかを正しく理解しておきながら。
 その晩、贅を凝らした歌劇場で行われていたのは、競売だった。次々に競り落とされていく、非常に珍しい動植物。
 合法かどうか疑わしいところだが勇者や第2王子たちが久方ぶりの娯楽を満喫しているのに、口を挟むほど無粋でもない。
 だが、それの配慮もすぐに後悔する羽目になる。舞台に並ぶ檻の中には、人の子供。そして、魔族の子供だった。

「どうです、珍しいでしょう! マクシミリアンめは『品性がない」などと言って街を出ていきましたが、魔族の幼体を手に入れられる機会などそうはありますまい!」

 誇らしげに胸を張る男に、ルシウスは吐き気を覚えた。
 魔族は人類の敵だ。だが、あの檻の中の幼子が、人間に何をしたと言うのだろう。相手が魔族であれば、どんな非道な行為も許されると言うのか。
 勇者は、目の前の光景に戸惑っているようだった。王子たちは、物珍しさに目を輝かせている。百歩譲って、魔族の幼子は仕方がないかもしれない。
 だが、人間の子供は守るべき民ではないのか。檻の中にいる子供を救わなくてはならないだろう。そんなルシウスを、王子がせせら笑う。

「親に売られて奴隷に成り下がった子を一人一人救う気か? 救った後、おまえはあの子供をどうする?」

 よもや、共に旅をさせる訳ではあるまいな、と。
 王子の言葉が手足を貫いた。救いたいという気持ちはある。なのに、手足は錆び付いたように動かない。王子の言葉を否定はできても、あの幼子たちを本当に救う術が見付からない。

「────ご機嫌麗しゅう、愚かで醜いニンゲン共」

 突然、何もない空間が裂けた。真っ暗闇の縦穴からぬるりと姿を現したのは、三体の魔族。うち二体は見覚えがあった。特に一体など覚えがありすぎるほどだ。
 歌劇場が揺れんばかりの絶叫の後、貴族たちが我先に逃げようとする。その様を冷ややかな顔で見つめていたアスモデウスだったが、すぐに舞台上へと降り立った。
 瞬間、ルシウスは理解する。この魔族は捕らわれた同族を救いに来たのだと。アスモデウスならば、救いに来たとしても不思議はないことを、ルシウスは痛いほどに知っていた。
 あの魔族ならば、同胞だけでなく人間の子供も救ってくれるだろう。脳裏を掠めた考えに、ルシウスは愕然とした。去来した安堵を振り払うように、聖なる剣を柄から抜く。

「アスくんには近付かせなくってよ!」

 アシュタロスという名の魔族はどこかへ姿を消し、残ったのはぞっとするほど美しい顔の魔族。美貌とは、度が過ぎると恐怖感を抱くのだとそのとき初めて知った。
 降り注ぐ魔弾を打ち払いながら、勇者たちへ視線を向ける。逃げ遅れた怪我人の傷を癒しているようで、目の前の魔族に戦いを挑む気配も、アスモデウスのもとへ向かう様子もない。
 アスモデウスは檻の前に立ち、何かをしているようだった。おそらく、檻には何か術がかけられていて、解術をしているのだろう。
 勇者たちには申し訳ないが、今だけはアスモデウスの邪魔をしてもらっては困るのだ。

「シトリー卿、加勢する」

 何もない空間から現れた魔族は、城でも一度顔を合わせた魔族だ。名をアシュタロスと言ったか。高位の魔族が二人。相手取るには限界がある。
 どうする、と焦燥からか米神に汗が伝ったときだった。何かが割れる甲高い音に、すべての視線が音の方へと向いたその刹那、誰かがひゅっと息を飲んだ。

「アスモデウス卿!?」
「アスくん!?」
「ふたりともお疲れ様ぁ。見て見て、皮膚の下ってこうなってたんだねぇ。おもしろーい」
「面白がっている場合ですか!」

 目の前にいた魔族二人は、気付けばアスモデウスの側にいた。遠目からでは判然としないが、アスモデウスの手は目を背けたくなるほど凄惨な状態になっているようだ。
 何故か。あの檻にかけられていた術を、無理やり解除した結果なのだろう。

「そういえば、他に捕まっている子はいなかったぁ?」
「別の場所に、ニンゲンの子供が捕らわれていましたので、檻を破壊しておきました。同胞は舞台上にいるハーピーだけです」

 ああ、やはり。ルシウスは、目許に力を入れた。目の周りが、喉が熱い。気を緩めてしまったら、泣いてしまいそうな気がした。
 自分には力があると、望んだことは大抵が叶うのだと、ルシウスは思っていた。少なくとも、この旅を始めるまでは。
 だが、現実は違う。ルシウスは、目の前の子供たちに救いの手を差し伸べることも、王子の言葉を否定する力もなかった。
 確かに、王子の言葉は正しい。ただ檻から出したところで、あの子供たちは救われない。二度と親に会うことは叶わない────それがどうした。たとえ、本当の意味で救いにはならなくとも、助けたいと思ったのならば、助けなければならなかった。人が家畜も同然の扱いをされていて尚、指をくわえて見ているだけなど騎士としてあるまじき行為だったのに。

「それじゃあ後は帰るだけ……と言いたいところだけどぉ」

 ふと、アスモデウスの手が伸びた。傍らのアシュタロスという魔族の首に回り、二人の間の距離がゼロになる。
 何を、しているのか。心臓が大きく高鳴った、ような気がした。深く深く口付ける二人を、誰もが言葉をなくして見つめていた。

「……ん、ごちそうさまぁ」

 ようやく離れたアスモデウスの唇は笑んでいた。
 あの魔族は、ここがどこで、側には敵がいることを理解しているのだろうか。……いや、あれほどの力を持つ魔族ならば、ここにいる人間など物の数にも入らないのかもしれないが。

「怒ったぁ?」
「……いえ、魔力が必要だったのでしょう。戸惑いは、しましたが」
「アシュくん優しいねぇ。このままセックスしよって誘ったら頷いてくれたりしなぁい?」
「しません」

 はーぁ、とアスモデウスがわざとらしく溜息をつく。呆然としていたもう一人の魔族が、はっと我に返り、アスモデウスの身体にしがみついた。

「そ、そんな男から奪うくらいなら私からも奪ってよ!」
「えぇ? じゃあ後でもらうから、そんなに泣きそうな顔しないでよぉ」

 ころころと心地好い笑い声を響かせたアスモデウスが、ふと薔薇色の瞳をルシウスへと向けた。
 びくり、とルシウスの身体が強張る。彼を、恐ろしく思ったのはこれが初めてだった。力の差は歴然で、百回斬りかかったところで届くとは思えない。だが、それでも彼を恐れたことはなかった。
 今、胸中を占める恐怖は別の物。彼の目に映るルシウス・ブランジェの姿は、弱きを救う騎士とは程遠い。情けない姿を彼に見せることが恐ろしかった。
 彼は、あの魔族は何を言うのだろう。じわじわと指先が冷えていく。焦燥感にも似た何かに苛まれ、生唾を呑み込んだ。

「ニンゲンがどうなろうと知ったことじゃないけど、物のついでに救ってあげたんだから、あんまり酷い扱いしないでね、聖騎士様。もし適当なことをしたら、この街燃やしちゃうかも」

 またね、とアスモデウスが言う。次の瞬間、三人の魔族と檻の中に閉じ込められていた魔族は姿を消した。

「ッ、くそ……!」

 あれは脅迫であり牽制であり、情けだ。魔族が脅迫してきた以上、この街の人間はあの幼子たちを商品とは扱わないだろう。手厚い、とまではいかなくとも、修道院に預けられる筈だ。
 自分の無力感に嫌気が差した。幼子一人救えなくて、何が聖騎士だ。
 固く閉じた目蓋の下で、アスモデウスの姿がちらついた。
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