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ふと目が覚めた。身体はひどく疲れているのに、いつまでも冷めやらぬ興奮の所為か、或いはこびりついた不安の所為か、夜中に目を覚ましてしまうことも少なくなかった。
「……だめだ」
目を瞑ってみても、寝返りを打ってみても、眠気がやって来る気配はない。
ろくに力を扱えずに守ってばかりで、挙げ句の果てには体力がない智也の速度に合わせてもらっているのだ。せめて体力を回復させなければと思うのに、足の先からじわじわと迫り上がる不安の所為で、どうにも眠れそうになかった。
今までの《勇者》たちは、こんな風に足手まといになっていたのだろうか。《魔の王》のもとに辿り着けずに姿を消した《勇者》もいると聞く。いや、辿り着けた《勇者》の方が少ないらしい。
自分も、元の世界に帰れずに死んでしまうのだろうか、と嫌な想像ばかりが浮かんだ。
せめて外の空気を吸おう、とテントから出る。ふと、火の番をしているルシウスと目が合った。
「……何かあったのか」
「い、いえ! その、目が冴えてしまって……」
すみません、と智也は目線を足元に落とした。正直なところ、彼の真っ直ぐな眼差しが苦手なのだ。
ルシウス・ブランジェという人は、女神ユルティアに仕える神殿騎士の中で、最も優れた騎士なのだと言う。聖騎士の称号をいただくまでに、彼は血の滲むような努力を積み重ねてきた。
だからだろうか、彼の智也を見る目は厳しい。おまえは本当に勇者なのか、と責め立てる目だ。
(ルシウス様が、僕を呆れるのも当然だ)
この世界の人間の都合など知ったことではないけれど、それでも困っている人たちがいて、自分にしか救えないのであれば、と勇者として《魔の王》と戦うことを選んだのは智也自身だ。
なのに、智也は勇者としての力をほとんど使えずにいて、迷惑ばかりかけている。ルシウスでなくとも、呆れたくなるだろう。
「……トモヤ殿。あなたさえ良ければ、話をしないか」
「話、ですか?」
意外なことに、ルシウスは早く寝ろとは言わなかった。
迷った末に、智也はルシウスから人一人分開けて腰を下ろした。
橙色の炎が揺らめく。時折、ぱちんっと枝が爆ぜて火の粉が宙を舞う様は、不安を少しだけ押しやってくれた。
「あなたには申し訳なく思っている」
最初、何を言われているのか分からなかった。理解できずにぼんやりしていると、ルシウスはまた「本当に申し訳ない」と、智也に向き直る。
「ど、どうして、ルシウス様が謝るんですか?」
「こちらの世界の都合に、あなたを巻き込んだ。あなたは厚意で戦ってくれているだけなのに、俺やこの世界はそれを当然のものと思い込んでいた」
「え……」
「怖いだろう、辛いだろう。それは当然の感情だ。あなたは何も悪くないと言うのに……本当に、すまない」
そうして、深々と頭を下げた。立派な聖騎士である彼が、ただの一般人──この世界にとっては勇者だけれど──に頭を下げるなんて。
「トモヤ殿、何故泣いている?」
「えっ、あれ、なんで……」
指摘され、初めて気が付いた。頬を伝う雫は止めどなく溢れ続ける。
ああ、僕は本当は辛かったんだ、怖かったんだ。誰かに、気付いて欲しかったんだ────と理解したのは間もなくだった。
当然と言えば当然だ。見知らぬ世界に突然連れて来られて、戦って欲しいと言われて。自分で決めたことだとしても、人々が苦しむ様を見るのも、恐ろしい魔族を見るのも、少しずつ少しずつ心を疲弊させていく。けれど、弱音を吐露することは許されなかった。許される筈がなかった。だって、智也は勇者なのだから。
「っ、僕、ほんとは、すごくっ、こわくて……!」
「当然だ。戦いは誰でも恐ろしい」
「でもっ、みんな、戦えて、ぼく、勇者なのに、何もっ、何もできなくて……」
「訓練もまともにしないで旅に出たのだから、戦えないのも仕方がない。あなたは、何も悪くない」
智也の心情を慮ってくれたのは、ルシウスが初めてかもしれない。
ひとしきり泣きじゃくって落ち着きを取り戻すまで、ルシウスは何も言わなかった。何も言わずに、見守っていた。
「本当は、トモヤ殿の身体に配慮した負担の少ない行程なんだが……俺の身勝手であなたに負担を強いている。すまない」
「い、いえ、それは良いんです。僕だって、助けられる距離の方々を見捨てるのは嫌ですし……」
黒領に向かう旅路は、智也の体力に配慮し、比較的整備された道、栄えた都市を経由することになっていた。
だが、現在、本来の行程からは少しずれている。本来なら立ち寄る予定はないものの、決して行けない距離ではない村の近辺で魔族が現れた、という噂を聞き付けたからだ。
か弱い人々を助ける為に、と足を伸ばすことは何も今に始まったことではない。聖騎士として無辜の民を見捨てることはできない、というルシウスの強い望みが理由だ。
フォルトたちは渋ったものの、智也がルシウスに賛同したこともあり、旅程をずれたとしても多くの人を救う方針になった。
「でも、僕、本当に何もできなくて……」
「それなんだが……俺で良ければ、術の特訓に付き合おう」
「っ、良いんですか……?」
「罪滅ぼしにもなりはしないだろうが」
ルシウスの時間を使わせてしまうのは申し訳がないが、智也にとって願ってもないことだ。
勇者の力が使えるようになれば、もっと役に立てる。救える人もずっと増える。
不安が渦巻く心に一筋の光が差し込んだような心地に、智也の表情は自然と緩んだ。
「この先も、きっと恐ろしいことが待ち受けているだろうが……あなたのことは俺が守る。安心してくれ」
とくん、と心臓が高鳴った。芽吹いた想いの名は、まだ知らない。
◇
「ねえ、起きてよ」
ゆさゆさと揺すられて、アスモデウスは気だるげに腕を伸ばした。華奢な腰を引き寄せると、「もう」と苦笑の滲んだ声がこぼれ落ちる。
柔らかな乳房に顔を埋めて、深く長く息を吐いた。数時間前の名残を探しても、もはや彼女のどこにもないらしい。
「ほら、綺麗な洋服を用意してくれたんでしょう。早く着てみたくて仕方ないの」
「はいはい、お姫様」
するりと抜け出した彼女の背中は、目に痛いほどに白く、艶かしい。うっかり煽られかけたけれど、約束を交わした手前、彼女の意志を無視する訳にもいかなかった。
ぱちんっと指を鳴らす。次の瞬間、彼女は純白のドレスを纏って立っていた。
「っすごい、すごいわ!」
「お気に召したぁ?」
「とっても!」
繊細なレースを靡かせて踊るような足取りで、廃屋も同然な部屋を出る。
雲一つない空だった。頭上では星々が囁き合っていて、東の空はほのかに明るくなりつつある。涼しげな風は心地好く、女は「今日は素敵な日になるわね」と微笑んだ。
「アスモデウス様は、どんな1日を過ごす予定なの?」
「どうしよっかなあ。決めてないなあ」
三歩ほど前を歩く女の足取りは軽やかで、迷いがない。目指す先がはっきりしているのか、或いはどこも目指していないが故か。
「私なら、あたたかいご飯が食べたいわ。それからきれいなドレスも着てみたいし、素敵な恋もしてみたい」
「……しても良いんじゃない?」
女がそれを望むのなら、叶えてやるのも吝かではなかった。あたたかい食事を用意して、今着ているドレスと同じくらい美しいドレスを用意して、良き伴侶を見付ける手助けをしても良い。
ニンゲンがどうなろうと知ったことではないし、こんなことはただの自己満足に過ぎないけれど、魔族と知りながらも微笑みかけてくれる彼女を踏み躙るほど、アスモデウスは冷酷でもなかった。
だが、女は「ううん」と首を横に振る。
「女神様は良いことも悪いことも平等にお与えになるのでしょう? この先、良いこともあるかもしれないけれど、今以上に耐え難い不幸もあるかもしれないわよね?」
「……まあ、否定はできないなぁ」
「『良いことがあると思う』って言える人は、きっと強いのよね。でも、私は強くない。来るか分からない良いことを待つの、もう疲れてしまったわ」
女は、アヴァリス王国の貴族の令嬢だった。親友に婚約者を奪われた挙げ句、身に覚えのない罪を着せられ、爵位を取り上げられ、彼女は底辺の娼館に売り飛ばされた。
まともな衣食住を与えられず、家畜にも等しい扱いを受け、遂には病に冒された。そして、ろくな治療を施されず、薄汚い路地裏にゴミのように捨てられたのだ。
服すらも与えられず枯れ枝のような手足を投げ出し、呻き声一つ上げられないほど衰弱した女に手を差し伸べたのは、あまりにも哀れだったから。同情で、自己満足に過ぎないけれど、もはや朽ちる以外に未来がない彼女の願いを、叶えてやりたいと思ったのだ。
「アスモデウス様は、どうして私のお願いを叶えてくださったの?」
彼女の願いはたった一度でも良いから、偽りの恋人ごっこで構わないから、誰かに愛されて────苦しまずに死にたい、と。
「……なんとなくかなあ」
「そう、残念だわ。せめて、あなたにとって利になれたら良かったのだけど」
悲しげに微笑む彼女に、何と言葉をかけてやれただろう。人間の感情は魔族と違って複雑で、慰めのつもりでかけた言葉が逆効果であることもままある。
時を告げる鳥の声が、朝と夜が入り交じる空に響き渡った。約束の刻限だ。彼女の夢が終わる。朝が来る前に終わりたいという、彼女の望みを叶えるときだ。
「私、朝が嫌いだった。何度朝が来なければ良いと思ったか分からない……でも今日ほど朝が待ち遠しいと思ったことはないわ」
アスモデウスは、骨と皮の貧相な女の身体を抱き締めた。
苦しまないよう、夢見るように終えられる術をかける。ほうっと深い深い息を吐いた女が、くたりと力を失った。
「……死にかけのニンゲンを見ると、手を差し伸べたくなるんだよ。あのとき救えなかった誰かさんの代わりに」
彼女の何故という問いに答えを返す。所詮、彼女はかつて救えなかった友の代替だ。彼女でなければならない理由はなかった。
それなのに、もう誰も聞いていないと分かっているのに、口にしてしまったのは、かつて味わった無力感を思い出したからかもしれない。
あの頃とは違って、使える術は増えた。瀕死の傷すら癒せるようになった。なのに、死を望む彼女の心を救うことはできなかった。あのときの、ように。
「……死は肉体活動の終わりで、命ある生き物にはすべからく訪れるものだ。なのに、ニンゲンの死は、どうしてこんなに苦しくなるんだろうね」
こんなことを思ってしまう己は、魔族として致命的なまでに壊れているのかもしれない。朝焼けの中、アスモデウスは一人自嘲げに笑うのだった。
「……だめだ」
目を瞑ってみても、寝返りを打ってみても、眠気がやって来る気配はない。
ろくに力を扱えずに守ってばかりで、挙げ句の果てには体力がない智也の速度に合わせてもらっているのだ。せめて体力を回復させなければと思うのに、足の先からじわじわと迫り上がる不安の所為で、どうにも眠れそうになかった。
今までの《勇者》たちは、こんな風に足手まといになっていたのだろうか。《魔の王》のもとに辿り着けずに姿を消した《勇者》もいると聞く。いや、辿り着けた《勇者》の方が少ないらしい。
自分も、元の世界に帰れずに死んでしまうのだろうか、と嫌な想像ばかりが浮かんだ。
せめて外の空気を吸おう、とテントから出る。ふと、火の番をしているルシウスと目が合った。
「……何かあったのか」
「い、いえ! その、目が冴えてしまって……」
すみません、と智也は目線を足元に落とした。正直なところ、彼の真っ直ぐな眼差しが苦手なのだ。
ルシウス・ブランジェという人は、女神ユルティアに仕える神殿騎士の中で、最も優れた騎士なのだと言う。聖騎士の称号をいただくまでに、彼は血の滲むような努力を積み重ねてきた。
だからだろうか、彼の智也を見る目は厳しい。おまえは本当に勇者なのか、と責め立てる目だ。
(ルシウス様が、僕を呆れるのも当然だ)
この世界の人間の都合など知ったことではないけれど、それでも困っている人たちがいて、自分にしか救えないのであれば、と勇者として《魔の王》と戦うことを選んだのは智也自身だ。
なのに、智也は勇者としての力をほとんど使えずにいて、迷惑ばかりかけている。ルシウスでなくとも、呆れたくなるだろう。
「……トモヤ殿。あなたさえ良ければ、話をしないか」
「話、ですか?」
意外なことに、ルシウスは早く寝ろとは言わなかった。
迷った末に、智也はルシウスから人一人分開けて腰を下ろした。
橙色の炎が揺らめく。時折、ぱちんっと枝が爆ぜて火の粉が宙を舞う様は、不安を少しだけ押しやってくれた。
「あなたには申し訳なく思っている」
最初、何を言われているのか分からなかった。理解できずにぼんやりしていると、ルシウスはまた「本当に申し訳ない」と、智也に向き直る。
「ど、どうして、ルシウス様が謝るんですか?」
「こちらの世界の都合に、あなたを巻き込んだ。あなたは厚意で戦ってくれているだけなのに、俺やこの世界はそれを当然のものと思い込んでいた」
「え……」
「怖いだろう、辛いだろう。それは当然の感情だ。あなたは何も悪くないと言うのに……本当に、すまない」
そうして、深々と頭を下げた。立派な聖騎士である彼が、ただの一般人──この世界にとっては勇者だけれど──に頭を下げるなんて。
「トモヤ殿、何故泣いている?」
「えっ、あれ、なんで……」
指摘され、初めて気が付いた。頬を伝う雫は止めどなく溢れ続ける。
ああ、僕は本当は辛かったんだ、怖かったんだ。誰かに、気付いて欲しかったんだ────と理解したのは間もなくだった。
当然と言えば当然だ。見知らぬ世界に突然連れて来られて、戦って欲しいと言われて。自分で決めたことだとしても、人々が苦しむ様を見るのも、恐ろしい魔族を見るのも、少しずつ少しずつ心を疲弊させていく。けれど、弱音を吐露することは許されなかった。許される筈がなかった。だって、智也は勇者なのだから。
「っ、僕、ほんとは、すごくっ、こわくて……!」
「当然だ。戦いは誰でも恐ろしい」
「でもっ、みんな、戦えて、ぼく、勇者なのに、何もっ、何もできなくて……」
「訓練もまともにしないで旅に出たのだから、戦えないのも仕方がない。あなたは、何も悪くない」
智也の心情を慮ってくれたのは、ルシウスが初めてかもしれない。
ひとしきり泣きじゃくって落ち着きを取り戻すまで、ルシウスは何も言わなかった。何も言わずに、見守っていた。
「本当は、トモヤ殿の身体に配慮した負担の少ない行程なんだが……俺の身勝手であなたに負担を強いている。すまない」
「い、いえ、それは良いんです。僕だって、助けられる距離の方々を見捨てるのは嫌ですし……」
黒領に向かう旅路は、智也の体力に配慮し、比較的整備された道、栄えた都市を経由することになっていた。
だが、現在、本来の行程からは少しずれている。本来なら立ち寄る予定はないものの、決して行けない距離ではない村の近辺で魔族が現れた、という噂を聞き付けたからだ。
か弱い人々を助ける為に、と足を伸ばすことは何も今に始まったことではない。聖騎士として無辜の民を見捨てることはできない、というルシウスの強い望みが理由だ。
フォルトたちは渋ったものの、智也がルシウスに賛同したこともあり、旅程をずれたとしても多くの人を救う方針になった。
「でも、僕、本当に何もできなくて……」
「それなんだが……俺で良ければ、術の特訓に付き合おう」
「っ、良いんですか……?」
「罪滅ぼしにもなりはしないだろうが」
ルシウスの時間を使わせてしまうのは申し訳がないが、智也にとって願ってもないことだ。
勇者の力が使えるようになれば、もっと役に立てる。救える人もずっと増える。
不安が渦巻く心に一筋の光が差し込んだような心地に、智也の表情は自然と緩んだ。
「この先も、きっと恐ろしいことが待ち受けているだろうが……あなたのことは俺が守る。安心してくれ」
とくん、と心臓が高鳴った。芽吹いた想いの名は、まだ知らない。
◇
「ねえ、起きてよ」
ゆさゆさと揺すられて、アスモデウスは気だるげに腕を伸ばした。華奢な腰を引き寄せると、「もう」と苦笑の滲んだ声がこぼれ落ちる。
柔らかな乳房に顔を埋めて、深く長く息を吐いた。数時間前の名残を探しても、もはや彼女のどこにもないらしい。
「ほら、綺麗な洋服を用意してくれたんでしょう。早く着てみたくて仕方ないの」
「はいはい、お姫様」
するりと抜け出した彼女の背中は、目に痛いほどに白く、艶かしい。うっかり煽られかけたけれど、約束を交わした手前、彼女の意志を無視する訳にもいかなかった。
ぱちんっと指を鳴らす。次の瞬間、彼女は純白のドレスを纏って立っていた。
「っすごい、すごいわ!」
「お気に召したぁ?」
「とっても!」
繊細なレースを靡かせて踊るような足取りで、廃屋も同然な部屋を出る。
雲一つない空だった。頭上では星々が囁き合っていて、東の空はほのかに明るくなりつつある。涼しげな風は心地好く、女は「今日は素敵な日になるわね」と微笑んだ。
「アスモデウス様は、どんな1日を過ごす予定なの?」
「どうしよっかなあ。決めてないなあ」
三歩ほど前を歩く女の足取りは軽やかで、迷いがない。目指す先がはっきりしているのか、或いはどこも目指していないが故か。
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「……しても良いんじゃない?」
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ニンゲンがどうなろうと知ったことではないし、こんなことはただの自己満足に過ぎないけれど、魔族と知りながらも微笑みかけてくれる彼女を踏み躙るほど、アスモデウスは冷酷でもなかった。
だが、女は「ううん」と首を横に振る。
「女神様は良いことも悪いことも平等にお与えになるのでしょう? この先、良いこともあるかもしれないけれど、今以上に耐え難い不幸もあるかもしれないわよね?」
「……まあ、否定はできないなぁ」
「『良いことがあると思う』って言える人は、きっと強いのよね。でも、私は強くない。来るか分からない良いことを待つの、もう疲れてしまったわ」
女は、アヴァリス王国の貴族の令嬢だった。親友に婚約者を奪われた挙げ句、身に覚えのない罪を着せられ、爵位を取り上げられ、彼女は底辺の娼館に売り飛ばされた。
まともな衣食住を与えられず、家畜にも等しい扱いを受け、遂には病に冒された。そして、ろくな治療を施されず、薄汚い路地裏にゴミのように捨てられたのだ。
服すらも与えられず枯れ枝のような手足を投げ出し、呻き声一つ上げられないほど衰弱した女に手を差し伸べたのは、あまりにも哀れだったから。同情で、自己満足に過ぎないけれど、もはや朽ちる以外に未来がない彼女の願いを、叶えてやりたいと思ったのだ。
「アスモデウス様は、どうして私のお願いを叶えてくださったの?」
彼女の願いはたった一度でも良いから、偽りの恋人ごっこで構わないから、誰かに愛されて────苦しまずに死にたい、と。
「……なんとなくかなあ」
「そう、残念だわ。せめて、あなたにとって利になれたら良かったのだけど」
悲しげに微笑む彼女に、何と言葉をかけてやれただろう。人間の感情は魔族と違って複雑で、慰めのつもりでかけた言葉が逆効果であることもままある。
時を告げる鳥の声が、朝と夜が入り交じる空に響き渡った。約束の刻限だ。彼女の夢が終わる。朝が来る前に終わりたいという、彼女の望みを叶えるときだ。
「私、朝が嫌いだった。何度朝が来なければ良いと思ったか分からない……でも今日ほど朝が待ち遠しいと思ったことはないわ」
アスモデウスは、骨と皮の貧相な女の身体を抱き締めた。
苦しまないよう、夢見るように終えられる術をかける。ほうっと深い深い息を吐いた女が、くたりと力を失った。
「……死にかけのニンゲンを見ると、手を差し伸べたくなるんだよ。あのとき救えなかった誰かさんの代わりに」
彼女の何故という問いに答えを返す。所詮、彼女はかつて救えなかった友の代替だ。彼女でなければならない理由はなかった。
それなのに、もう誰も聞いていないと分かっているのに、口にしてしまったのは、かつて味わった無力感を思い出したからかもしれない。
あの頃とは違って、使える術は増えた。瀕死の傷すら癒せるようになった。なのに、死を望む彼女の心を救うことはできなかった。あのときの、ように。
「……死は肉体活動の終わりで、命ある生き物にはすべからく訪れるものだ。なのに、ニンゲンの死は、どうしてこんなに苦しくなるんだろうね」
こんなことを思ってしまう己は、魔族として致命的なまでに壊れているのかもしれない。朝焼けの中、アスモデウスは一人自嘲げに笑うのだった。
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