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Ⅵ後日談
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目の前で、子供が勢いよく転んだ。ろくに整備されていない道とは言え、石が転がっている訳でもない。躓いたにしてはずいぶんと派手だ。ついぼんやり見ていると、横に立っていた人語を解する二足歩行の豚──ビーベス男爵とかいう、豚にしては大層な名前の持ち主だ──が、顔を真っ赤にして杖を振り上げた。
「このガキ! お客人の前でなんてことを!」
踞る子供に振り下ろされる直前で、ハウンドの腕が杖を掴んだ。所有物へのご機嫌取りが上手なご主人様だ。ついころころと笑みが溢れた。
「まあまあ、良いではありませんか。この歳の頃ならば走り回って当然ですもの」
何やらぶひぶひ嘶いていたけれど、ハウンドに睨み付けられ、男爵はぐうと黙り込んだ。
私は転んでしまった子供の前にしゃがみ、真っ白なハンカチを差し出した。
「僕、怪我はございませんか?」
子供は物言いたげにじっと見て、それから私のハンカチを奪い取り、走り去って行った。あっという間に小さくなる子供の後ろ姿。豚が追いかけようとしたけれど、その体躯で追い付ける筈がないので、端から期待はしていない。
「も、申し訳ございません、フロイライン様! 今すぐ取っ捕まえて……!」
「構いませんわ。ちょうど良いし、村の中を散策したいと思います」
真っ白な日傘をくるくると回して、のどかな村の中を歩く。付いて来ようとした豚は、ハウンドの鋭い眼光に臆して、渋々自分の屋敷に戻って行った。
ビーベス男爵領は、ワインの生産で有名な領地だ。私がわざわざ足を運んだのも、ビーベス領産のワインを卸す為だったけれど、左右に広がる見事な葡萄畑を見ていると、つい仕事のことを忘れてしまいそうになる。
「おい、フロイライン。あのガキがいたぞ」
「あら本当。捕まえて来てくださる?」
自慢じゃないけれど、セックス以外の肉体労働の才能がからっきしなんだもの。
まあ、わざわざ言わなくとも理解してくれているハウンドは、かったるそうに溜息をついた後、軽く地を蹴った。
「う、うわああああ!」
……間違っても怪我をさせていないでしょうね?
ちょっと心配になりながら待っていると、ハウンドが子供を連れて戻ってきた。逃げられないように首根っこを掴んで。猫の子じゃないんだから、それはいかがなものかしら。
いえ、きっと母猫の方がきっとまだ優しいわ。ぱっと離したりしないもの。僕のお尻が三つに割れたらどうするつもりよ。
「ごきげんよう、僕。追いかけ来たのは、私とハウンドだけですから安心してくださいな」
「え」
「だって、私に何か用があったのではなくって?」
私にぶつかってきただけなら、こんなにも気にならなかった。
ハンカチを奪い取った子供は、富裕層の施しに腹を立てたのではない。背後にいた豚に視線を走らせ、何か言いたげな顔をしてから、私のハンカチを奪って行った。まるで、追いかけて来いと言わんばかりに。
私の言葉に、子供は目を丸くしたけれど、すぐにきっと目を三角にして言う。
「っ、今すぐこの村から逃げろ!」
「まあ、どうして?」
「あいつがヘンタイだからだ!」
「……詳しく聞かせてくださる?」
子供は、歳不相応なほど必死な形相をしていた。身の危険を省みず、余所者の私に警告してくれる彼の誠意に報いなくてはならない。
辿々しくも、切々と語ってくれたのはビーベス男爵の悪行。あの豚は、若い女を屋敷に無理やり連れ去って、酷い目に──子供故に仔細を知らないようだけれど、性的暴行を加えているのだろう──合わせているのだ、と子供が言った。
子供のお姉さんも連れ去られて、家族の元に帰って来たときには物言わぬ死体になっていた、と。
相手は一代限りとは言え男爵で、農民が言ったところで取り合ってくれる筈もなく、出来ることと言ったら、男爵の目に止まらないよう、年若い娘を近隣の親戚に預けるくらいで。
「あんたも、あのヘンタイにひどいことされるかもしれないんだ! だから、今のうちに逃げた方が良い!」
「よく教えてくださいました。怖かったでしょう、苦しかったでしょう────悔しかったでしょう?」
子供の顔から、表情が抜け落ちた。眥から溢れ落ちる涙は、これまでずっと押さえ込んで来た、子供の叫びだ。
「みんな、おかしいんだ……泣いてるくせに、みんな知ってるくせに、大人はみんな、『仕方ない』って……!」
子供の無念は理解できる。同時に、この村の大人たちの悔しさも。明日を生きる為に、家族の苦しみを無視しなければならない苦痛はどれほどのものだったろう。
久しく感じていなかった憎悪の炎が、ぱちんっと火花を散らした。
「……あなたとお姉さんの無念を、代わりに晴らして差し上げますわ」
「本気か? 見ず知らずのガキの為に?」
それまで黙って話を聞いていたハウンドが、不可解そうに眉を寄せる。
これまで、俺を貶めて来た人間を残らず命を奪ってきた。一人増えようと二人増えようと、今さら何かが変わる訳ではない。
変わる訳ではないけれど、奪った命の数が増えれば増えるほど、軍警に捕らえられる可能性も高くなる。
ハウンドが言いたいのは、見ず知らずの子供の為に、司法の目に止まる可能性を増やすのか、と言うことだ。
分かりにくいものの、ハウンドなりに心配してくれているのだろう。彼の厚意を無下にするのは心苦しいけれど、一方的に虐げれる女性にかつての自分の姿が重なってしまったから、この憎悪を鎮めるにはあの豚を始末するより他にない。
どうやってハウンドをその気にさせようかしら。我ながら人の悪い顔で笑んでいる気がするわ。
「……もしかして、私の身体を味わう方が愉しくて、他人の命を理不尽に奪う愉悦にはもう飽きてしまったの?」
「あ?」
ハウンドの声に苛立ちが混じる。俺が挑発しているのだと気付いていて、でも血の気の多い彼は流すことなんて出来やしない。
ハウンドの身体にすり寄って、その逞しい腕にそっと指を滑らせる。ハウンドの二重目蓋がぴくりと揺れた。
「あなたのモノが、あの変態に犯されても良いのかしら」
ゆらり、と。ハウンドの瞳に灯った炎を見逃さなかった。怒りと情欲を必死に押さえようとしているけれど、我慢の利かないハウンドが耐えられる筈もなく。
「~~~~おまえは本当に嫌なオンナだな!」
挑発しておいてなんだけど、ハウンドが俺のことを好き過ぎてびっくりするわ。
ふと、さっきまで泣きじゃくっていた子供が静かになっていて、どうしたのかと思ったら、顔をほんのり赤らめて固まっていた。
この程度で顔を赤くするなんて、なんて純情なのかしら! ついからかいたくなったけれど、不機嫌そうなハウンドに腰を抱かれ、元来た道を戻ることになったので、断念することになった。
「で、なんか手はあんのかよ」
「誰もが振り返る絶世の美少女が『閣下、身体が疼くんです』と迫るのよ? 食らい付かない方がおかしいでしょう?」
「美少女?」
「美少女」
ハウンドが何とも微妙な顔をする。顔の良さは認めるところだけれど、素直に認めるのは癪なのでしょうね。付いてるモノは付いてるし。
豚の屋敷に戻ると、ぶひぶひ嘶きながら私とハウンドを出迎えた。
舐めるような視線に晒されるなんて、今に始まったことじゃないから、気にしていなかったけれど、確かにねちっこいような気がする。
「……閣下、実はちょっとご相談したいことがございますの。お食事の後、お時間を頂戴できませんか?」
「も、もちろんですとも!」
やに下がった笑みが不快感を煽ったけれど、どうせあの得意気も今日限り。
可もなく不可もない晩餐の後、男爵の私室に招かれた。応接間ではなく私室というところに、豚の下心が透けて見えますわねぇ。
二人がけのソファに座り、ワインを揺らしてしばらく、実はと男爵の太ももにそっと手を置いた。
「この領地、とても気に入りましたの。良ければ、支援をさせていただきたくって」
「おお! 彼のエスカランテ商会の代表にそう言っていただけるとは!」
「金銭的援助をさせていただくに辺り、いくつか取り決めをしたいと思い、こうして相談の機会を頂戴したく」
男爵は一も二もなく頷いた。詳細な取り決めは後程するとして、ビーベス男爵が存命の間はフロイライン・エスカランテが金銭的援助をすること、ビーベス男爵の経営能力に難が見られる、或いは男爵の生命が危ぶまれた際は、フロイライン・エスカランテが男爵領を管理する、と書面に記す。
文字を書ける豚は、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべ、自分の名前を書いた。話している間、豚の太ももに手を置いていた所為かもしれない。
「嬉しゅうございますわ。私、男爵ともっと深く、長くお付き合いして思いましたから」
「ああ、美しいフロイライン!」
ついに、男爵の理性の糸が切れたらしい。狭いソファーに私を押し倒し、レースの襟をびりびりと引き裂いた。露わになった白い肌を太い指がべたべたと触ってくる。
「おお、吸い付くような肌だ……!」
「────テメェ、俺のモノに触ってんじゃねえよ」
瞬間、豚が吹き飛んだ。バキッと骨が折れたような音がする。床に転げ回っている男爵の側に立ったハウンドがしっかり握ったマチェットナイフを、何の躊躇もなく振り下ろした。首筋から勢い良く吹き出した血が、勢を凝らした調度品を汚していく。
「ありがとう、ハウンド」
振り返ったハウンドの瞳に宿った色に、背筋が粟立った。あれは捕食者の目だ。俺を食べたくて仕方がない、牡の目。
あっと思うよりも早く、ハウンドの腕が腰に回った。露わになった肌にかさついた唇が落ちる。
「ちょ、まって、ハウンド、こんな……!」
「消毒とマーキング」
燃えるように熱い舌に首筋を嬲られ、時折きつく吸われる度、唇からは我ながら引くほど甘い声が出た。ハウンドに弄ばれた身体は、たったそれだけで情欲に火が点る。
「なんて酷い……こんな風に触れられたら、俺だってあなたが欲しくてたまらなくなるのに」
「ハッ! こっちだって耐えてんだから相子だろうが」
相子とやらの意味を問うよりも早く、噛み付くようなキスが降ってきた。性別こそ同じだけれど、ハウンドの舌は俺のものよりもよほど分厚くて大きい。最初は舌先で、次第に舌の広い部分で柔らかな口蓋を愛撫され、くたりと力が抜ける。
「ふ、んん、んッ、あ、ん……」
耐えきれない、とハウンドの首に腕を回すと、腰に回るハウンドの腕に、より一層力が込められた。
一分の隙間もないほど抱き合って、口付けは激しさを増す。生き物のように蠢く舌に絡まれ、すりすりと擦り付け合い、呑み込めなかった唾液が喉を濡らした。その感触すらも快楽を煽る。
「クッソ、ガン勃ちする……」
獣のように低く唸って、ハウンドは俺の身体を解放した。
俺もハウンドも、死体が転がる部屋でセックスするほど倫理観が死んでる訳でもないので。それに、朝までにやることがたくさんあるので、呑気にキスしている場合じゃないのよね。
「さあ、大掃除を始めましょう?」
◇
一晩かけて行われた大掃除の結果、元ビーベス男爵の屋敷と領地はフロイラインのものとなった。
生かすだけの価値があると判断された使用人と、突如として仕える主が変わった領民たちは、夜の間に起きたことを察してはいるものの、自らの生活の為に口を噤むことを選んだ。あの豚の傲慢な態度に、嫌気が差していたもいうのも大きいんだろうな。
近いうちに信用に足る人間を派遣すると伝え、一先ず帰ることになった俺たちの前に、昼間のガキがやって来た。
馬車に乗る直前だったフロイラインは、うかがう様子のガキの前にしゃがみ、丸っこい頬に触れて微笑む。
「僕、もう大丈夫よ。あなたのお姉さんのような方はきっと出ないでしょう」
見た目だけなら飛び抜けて良いフロイラインに微笑まれて、ガキはぶわっと顔を赤くした。はくはくと口を開けてり閉じたりしたかと思ったら、勢い良く回れ右して走り去る。……ありゃあ、完全に堕ちただろ。
「ガキの性癖を狂わせんじゃねえよ」
「可能性が広がるのは良いことでしょう?」
「俺の所有物の分際で、他の牡に色目使ってんじゃねえ」
ころころと笑うフロイラインと、むしゃくしゃする俺を乗せて、馬車が動き出した。
エスカランテ商会の代表専用馬車だけあって、その辺の安宿よりも余程立派な座席をしている。足を伸ばせるほどゆとりがあるってのに、何を考えてんのか、フロイラインはわざわざ俺の隣に座った。
「ねえ、ハウンド。今はまだ淑女の装いが似合っているけれど、そのうち難しくなるかもしれないでしょう?」
「……そうか?」
膝がくっつくほど寄って来たフロイラインの顔を、しげしげと見下ろした。裸体を何度となく見てる今でも、本当に俺と同じ男か? と疑いそうになる顔をしている。肌は吸い付くようだし、髪以外の毛は生えてねえし、手足は女みてえに細い。加えて、こいつの胎は女の膣よりよほど名器で、なんど抱いても飽きが来ない。……こいつ、ほんとに男か?
「もしもの話と仮定して。そうなったら、東西南北の民族衣装を取り寄せて着てみるから、ハウンドの好きなものを選んでくださる?」
「俺の好みで良いのかよ」
自分の見目を正しく理解して利用するフロイラインが、自分を一番魅せる衣装じゃなくて、俺の好みの服を着る、だ?
怪訝な視線を受けて、フロイラインが笑った。ぞくりと背筋が粟立った。俺を閨に誘い込む顔をしていたから。
「もちろん。俺が色目を使うのはハウンドにだけですもの。ハウンドが一番唆られてくれる格好をしたいじゃない?」
自分のオンナにそう言われて、その気にならない男がどこにいる?
フロイラインの首裏に手を回し、その弧を描く唇を塞いでやろうとして────俺とフロイラインの間を遮る扇。どう考えてもする流れだったろうが!
「帰るまではだぁめ」
「煽ったのはテメェだろうが」
「でも、キスだけで我慢できて?」
因みに、俺は我慢できないけれど、とフロイラインが扇の向こう側で笑う。
俺もこいつも、燻ったままの欲を抱えている。ちょっと火種を放り込んだだけで、理性なんか呆気なく霧散するだろう。
それを分かっていて、こいつは敢えて煽ってきた訳だ……!
「我慢できねえなら良いじゃねえか」
「この馬車の値段、お聞きになる?」
基本的に悩む前に行動する俺が、悩んで悩んで悩んだ末に、今は我慢してやることにした。そう易々と弁償できる代物じゃないことは予想できたからだ。
……ただまあ、多少の意趣返しくらいは許されんだろ。くるくるっとフロイラインの首裏を愛撫する。そして、ほんのり赤らみ始めた耳許でそっと囁いた。
「────テメェ、覚悟しとけ。俺の気が済むまで離してやらねえからな」
「このガキ! お客人の前でなんてことを!」
踞る子供に振り下ろされる直前で、ハウンドの腕が杖を掴んだ。所有物へのご機嫌取りが上手なご主人様だ。ついころころと笑みが溢れた。
「まあまあ、良いではありませんか。この歳の頃ならば走り回って当然ですもの」
何やらぶひぶひ嘶いていたけれど、ハウンドに睨み付けられ、男爵はぐうと黙り込んだ。
私は転んでしまった子供の前にしゃがみ、真っ白なハンカチを差し出した。
「僕、怪我はございませんか?」
子供は物言いたげにじっと見て、それから私のハンカチを奪い取り、走り去って行った。あっという間に小さくなる子供の後ろ姿。豚が追いかけようとしたけれど、その体躯で追い付ける筈がないので、端から期待はしていない。
「も、申し訳ございません、フロイライン様! 今すぐ取っ捕まえて……!」
「構いませんわ。ちょうど良いし、村の中を散策したいと思います」
真っ白な日傘をくるくると回して、のどかな村の中を歩く。付いて来ようとした豚は、ハウンドの鋭い眼光に臆して、渋々自分の屋敷に戻って行った。
ビーベス男爵領は、ワインの生産で有名な領地だ。私がわざわざ足を運んだのも、ビーベス領産のワインを卸す為だったけれど、左右に広がる見事な葡萄畑を見ていると、つい仕事のことを忘れてしまいそうになる。
「おい、フロイライン。あのガキがいたぞ」
「あら本当。捕まえて来てくださる?」
自慢じゃないけれど、セックス以外の肉体労働の才能がからっきしなんだもの。
まあ、わざわざ言わなくとも理解してくれているハウンドは、かったるそうに溜息をついた後、軽く地を蹴った。
「う、うわああああ!」
……間違っても怪我をさせていないでしょうね?
ちょっと心配になりながら待っていると、ハウンドが子供を連れて戻ってきた。逃げられないように首根っこを掴んで。猫の子じゃないんだから、それはいかがなものかしら。
いえ、きっと母猫の方がきっとまだ優しいわ。ぱっと離したりしないもの。僕のお尻が三つに割れたらどうするつもりよ。
「ごきげんよう、僕。追いかけ来たのは、私とハウンドだけですから安心してくださいな」
「え」
「だって、私に何か用があったのではなくって?」
私にぶつかってきただけなら、こんなにも気にならなかった。
ハンカチを奪い取った子供は、富裕層の施しに腹を立てたのではない。背後にいた豚に視線を走らせ、何か言いたげな顔をしてから、私のハンカチを奪って行った。まるで、追いかけて来いと言わんばかりに。
私の言葉に、子供は目を丸くしたけれど、すぐにきっと目を三角にして言う。
「っ、今すぐこの村から逃げろ!」
「まあ、どうして?」
「あいつがヘンタイだからだ!」
「……詳しく聞かせてくださる?」
子供は、歳不相応なほど必死な形相をしていた。身の危険を省みず、余所者の私に警告してくれる彼の誠意に報いなくてはならない。
辿々しくも、切々と語ってくれたのはビーベス男爵の悪行。あの豚は、若い女を屋敷に無理やり連れ去って、酷い目に──子供故に仔細を知らないようだけれど、性的暴行を加えているのだろう──合わせているのだ、と子供が言った。
子供のお姉さんも連れ去られて、家族の元に帰って来たときには物言わぬ死体になっていた、と。
相手は一代限りとは言え男爵で、農民が言ったところで取り合ってくれる筈もなく、出来ることと言ったら、男爵の目に止まらないよう、年若い娘を近隣の親戚に預けるくらいで。
「あんたも、あのヘンタイにひどいことされるかもしれないんだ! だから、今のうちに逃げた方が良い!」
「よく教えてくださいました。怖かったでしょう、苦しかったでしょう────悔しかったでしょう?」
子供の顔から、表情が抜け落ちた。眥から溢れ落ちる涙は、これまでずっと押さえ込んで来た、子供の叫びだ。
「みんな、おかしいんだ……泣いてるくせに、みんな知ってるくせに、大人はみんな、『仕方ない』って……!」
子供の無念は理解できる。同時に、この村の大人たちの悔しさも。明日を生きる為に、家族の苦しみを無視しなければならない苦痛はどれほどのものだったろう。
久しく感じていなかった憎悪の炎が、ぱちんっと火花を散らした。
「……あなたとお姉さんの無念を、代わりに晴らして差し上げますわ」
「本気か? 見ず知らずのガキの為に?」
それまで黙って話を聞いていたハウンドが、不可解そうに眉を寄せる。
これまで、俺を貶めて来た人間を残らず命を奪ってきた。一人増えようと二人増えようと、今さら何かが変わる訳ではない。
変わる訳ではないけれど、奪った命の数が増えれば増えるほど、軍警に捕らえられる可能性も高くなる。
ハウンドが言いたいのは、見ず知らずの子供の為に、司法の目に止まる可能性を増やすのか、と言うことだ。
分かりにくいものの、ハウンドなりに心配してくれているのだろう。彼の厚意を無下にするのは心苦しいけれど、一方的に虐げれる女性にかつての自分の姿が重なってしまったから、この憎悪を鎮めるにはあの豚を始末するより他にない。
どうやってハウンドをその気にさせようかしら。我ながら人の悪い顔で笑んでいる気がするわ。
「……もしかして、私の身体を味わう方が愉しくて、他人の命を理不尽に奪う愉悦にはもう飽きてしまったの?」
「あ?」
ハウンドの声に苛立ちが混じる。俺が挑発しているのだと気付いていて、でも血の気の多い彼は流すことなんて出来やしない。
ハウンドの身体にすり寄って、その逞しい腕にそっと指を滑らせる。ハウンドの二重目蓋がぴくりと揺れた。
「あなたのモノが、あの変態に犯されても良いのかしら」
ゆらり、と。ハウンドの瞳に灯った炎を見逃さなかった。怒りと情欲を必死に押さえようとしているけれど、我慢の利かないハウンドが耐えられる筈もなく。
「~~~~おまえは本当に嫌なオンナだな!」
挑発しておいてなんだけど、ハウンドが俺のことを好き過ぎてびっくりするわ。
ふと、さっきまで泣きじゃくっていた子供が静かになっていて、どうしたのかと思ったら、顔をほんのり赤らめて固まっていた。
この程度で顔を赤くするなんて、なんて純情なのかしら! ついからかいたくなったけれど、不機嫌そうなハウンドに腰を抱かれ、元来た道を戻ることになったので、断念することになった。
「で、なんか手はあんのかよ」
「誰もが振り返る絶世の美少女が『閣下、身体が疼くんです』と迫るのよ? 食らい付かない方がおかしいでしょう?」
「美少女?」
「美少女」
ハウンドが何とも微妙な顔をする。顔の良さは認めるところだけれど、素直に認めるのは癪なのでしょうね。付いてるモノは付いてるし。
豚の屋敷に戻ると、ぶひぶひ嘶きながら私とハウンドを出迎えた。
舐めるような視線に晒されるなんて、今に始まったことじゃないから、気にしていなかったけれど、確かにねちっこいような気がする。
「……閣下、実はちょっとご相談したいことがございますの。お食事の後、お時間を頂戴できませんか?」
「も、もちろんですとも!」
やに下がった笑みが不快感を煽ったけれど、どうせあの得意気も今日限り。
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「おお、吸い付くような肌だ……!」
「────テメェ、俺のモノに触ってんじゃねえよ」
瞬間、豚が吹き飛んだ。バキッと骨が折れたような音がする。床に転げ回っている男爵の側に立ったハウンドがしっかり握ったマチェットナイフを、何の躊躇もなく振り下ろした。首筋から勢い良く吹き出した血が、勢を凝らした調度品を汚していく。
「ありがとう、ハウンド」
振り返ったハウンドの瞳に宿った色に、背筋が粟立った。あれは捕食者の目だ。俺を食べたくて仕方がない、牡の目。
あっと思うよりも早く、ハウンドの腕が腰に回った。露わになった肌にかさついた唇が落ちる。
「ちょ、まって、ハウンド、こんな……!」
「消毒とマーキング」
燃えるように熱い舌に首筋を嬲られ、時折きつく吸われる度、唇からは我ながら引くほど甘い声が出た。ハウンドに弄ばれた身体は、たったそれだけで情欲に火が点る。
「なんて酷い……こんな風に触れられたら、俺だってあなたが欲しくてたまらなくなるのに」
「ハッ! こっちだって耐えてんだから相子だろうが」
相子とやらの意味を問うよりも早く、噛み付くようなキスが降ってきた。性別こそ同じだけれど、ハウンドの舌は俺のものよりもよほど分厚くて大きい。最初は舌先で、次第に舌の広い部分で柔らかな口蓋を愛撫され、くたりと力が抜ける。
「ふ、んん、んッ、あ、ん……」
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「クッソ、ガン勃ちする……」
獣のように低く唸って、ハウンドは俺の身体を解放した。
俺もハウンドも、死体が転がる部屋でセックスするほど倫理観が死んでる訳でもないので。それに、朝までにやることがたくさんあるので、呑気にキスしている場合じゃないのよね。
「さあ、大掃除を始めましょう?」
◇
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近いうちに信用に足る人間を派遣すると伝え、一先ず帰ることになった俺たちの前に、昼間のガキがやって来た。
馬車に乗る直前だったフロイラインは、うかがう様子のガキの前にしゃがみ、丸っこい頬に触れて微笑む。
「僕、もう大丈夫よ。あなたのお姉さんのような方はきっと出ないでしょう」
見た目だけなら飛び抜けて良いフロイラインに微笑まれて、ガキはぶわっと顔を赤くした。はくはくと口を開けてり閉じたりしたかと思ったら、勢い良く回れ右して走り去る。……ありゃあ、完全に堕ちただろ。
「ガキの性癖を狂わせんじゃねえよ」
「可能性が広がるのは良いことでしょう?」
「俺の所有物の分際で、他の牡に色目使ってんじゃねえ」
ころころと笑うフロイラインと、むしゃくしゃする俺を乗せて、馬車が動き出した。
エスカランテ商会の代表専用馬車だけあって、その辺の安宿よりも余程立派な座席をしている。足を伸ばせるほどゆとりがあるってのに、何を考えてんのか、フロイラインはわざわざ俺の隣に座った。
「ねえ、ハウンド。今はまだ淑女の装いが似合っているけれど、そのうち難しくなるかもしれないでしょう?」
「……そうか?」
膝がくっつくほど寄って来たフロイラインの顔を、しげしげと見下ろした。裸体を何度となく見てる今でも、本当に俺と同じ男か? と疑いそうになる顔をしている。肌は吸い付くようだし、髪以外の毛は生えてねえし、手足は女みてえに細い。加えて、こいつの胎は女の膣よりよほど名器で、なんど抱いても飽きが来ない。……こいつ、ほんとに男か?
「もしもの話と仮定して。そうなったら、東西南北の民族衣装を取り寄せて着てみるから、ハウンドの好きなものを選んでくださる?」
「俺の好みで良いのかよ」
自分の見目を正しく理解して利用するフロイラインが、自分を一番魅せる衣装じゃなくて、俺の好みの服を着る、だ?
怪訝な視線を受けて、フロイラインが笑った。ぞくりと背筋が粟立った。俺を閨に誘い込む顔をしていたから。
「もちろん。俺が色目を使うのはハウンドにだけですもの。ハウンドが一番唆られてくれる格好をしたいじゃない?」
自分のオンナにそう言われて、その気にならない男がどこにいる?
フロイラインの首裏に手を回し、その弧を描く唇を塞いでやろうとして────俺とフロイラインの間を遮る扇。どう考えてもする流れだったろうが!
「帰るまではだぁめ」
「煽ったのはテメェだろうが」
「でも、キスだけで我慢できて?」
因みに、俺は我慢できないけれど、とフロイラインが扇の向こう側で笑う。
俺もこいつも、燻ったままの欲を抱えている。ちょっと火種を放り込んだだけで、理性なんか呆気なく霧散するだろう。
それを分かっていて、こいつは敢えて煽ってきた訳だ……!
「我慢できねえなら良いじゃねえか」
「この馬車の値段、お聞きになる?」
基本的に悩む前に行動する俺が、悩んで悩んで悩んだ末に、今は我慢してやることにした。そう易々と弁償できる代物じゃないことは予想できたからだ。
……ただまあ、多少の意趣返しくらいは許されんだろ。くるくるっとフロイラインの首裏を愛撫する。そして、ほんのり赤らみ始めた耳許でそっと囁いた。
「────テメェ、覚悟しとけ。俺の気が済むまで離してやらねえからな」
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住んでいたアパートの退去期限となる日を復讐決行日と決め、あと十日に迫ったある日、昨夜の記憶が無い状態で目覚める。
足は血だらけ。喉はカラカラ。コンビニのATMに出向くと爪に火を灯すように溜めてきた貯金はなぜか三桁。これでは復讐の武器購入や交通費だってままならない。
途方に暮れていると、昨夜尚を介抱したという浴衣姿の男が現れて、尚はこの男に江東区の月島にある橋の付近っで酔い潰れていて男に自宅に連れ帰ってもらい、キスまでねだったらしい。嘘だと言い張ると、男はその証拠をバッチリ録音していて、消して欲しいなら、尚の不幸を買い取らせろと言い始める。
男の名は時雨。
職業:不幸買い取りセンターという質屋の店主。
見た目:頭のおかしいイケメン。
彼曰く本物の神様らしい……。
完結·助けた犬は騎士団長でした
禅
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母を亡くしたクレムは王都を見下ろす丘の森に一人で暮らしていた。
ある日、森の中で傷を負った犬を見つけて介抱する。犬との生活は穏やかで温かく、クレムの孤独を癒していった。
しかし、犬は突然いなくなり、ふたたび孤独な日々に寂しさを覚えていると、城から迎えが現れた。
強引に連れて行かれた王城でクレムの出生の秘密が明かされ……
※完結まで毎日投稿します
【完結済】王子を嵌めて国中に醜聞晒してやったので殺されると思ってたら溺愛された。
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学園内で依頼をこなしていた魔術師のクリスは大物の公爵の娘からの依頼が入る……依頼内容は婚約者である王子からの婚約破棄!!
高い報酬に目が眩んで依頼を受けてしまうが……18Rには※がついています。
ムーン様にも投稿してます。
神官、触手育成の神託を受ける
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神官ルネリクスはある時、神託を受け、密かに触手と交わり快楽を貪るようになるが、傭兵上がりの屈強な将軍アロルフに見つかり、弱味を握られてしまい、彼と肉体関係を持つようになり、苦悩と悦楽の日々を過ごすようになる。
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