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祭囃子を追いかけて 23
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「そうか二十番勝負か、北側はちょろいけど内田はまたでかくなったから疲れるなあ、よし、どっちからだ」
「おっす」
拓郎が一歩前に出た。
「やっぱりな、まあ無難な作戦だ」
「うっす」
迫田の『やっぱりな』が拓郎にはひどくショックだった。中島と拓郎が一礼して向かい合った。
「始めっ」
「うおーりゃあ」
組んだ瞬間に拓郎の身体は宙を舞った。
「一本」
拓郎の使命は中島に少しでも体力を使わせ、大に交代することである。組んだ瞬時に投げ飛ばされたのでは意味がない。
「おりゃ、うりゃ、おおりゃ」
気合を入れながら中島の周りを走り回った。中島が追うと拓郎は逃げた。
「俺の体力消耗を狙ったって無駄だぞ、おまえらと違って毎日走り込んでる」
拓郎はぶつかるようにして中島の懐に飛び込んだ。
「一本」
巴投げを喰らい畳みの外まで飛ばされた。
「一本」「一本」「一本」「一本」
投げ技のオンパレードである。
「それまで、中島のオール一本勝ち」
息が上がったのは投げ続けられた拓郎の方であった。その上投げ飛ばされる場所はすべて畳を外されている。全身打ち身である。拓郎はやっとのことで起き上がり礼をした。中島が笑っている。口惜しさが込み上げた。中島が卒業する前にもう一度挑戦しようと思った。
「始めっ」
「うりゃ」
迫田が言ったように大の体格は中島にもひけをとらないまでになっている。中島の組み手を嫌って大が身体を大きく振ってそれを切る。
「一本」
中島が大の襟を取った瞬間内股を仕掛けた。板の間に肩から落ちた。力の差があるとはいえこの重量級の試合に迫田も楽しんでいる。中島も、大を投げ飛ばすにはしっかりと組み手を取らなければならないと思っている。中途半端な組み手で無理をすると、上に乗られる危険がある。一方の大はそれを狙っている。勝ち目のないのは百も承知で、投げられたり、押さえ込まれたりしたら仕方がないと諦めていた。しかし締め技に関しては違う。いくら締め上げられても降参しない、そう心に決めて挑んでいる。
「一本」
中島の大外狩りが見事に決まり板の間に顔から落ちた。目尻が擦り切れ血が噴出した。
「内田、顔洗って来い」
「なんともありません」
中島は柔道着に血がつくのが嫌で言ったのだが、大は傷の心配をしていると勘違いしている。
「内田、いいから顔洗って来い」
「なんともありません、おりゃ」
大は迫田の注意も払いのけるほど興奮してきた。畳みにぽたぽたと落ちる血を、二人の足が踏みつける。
「一本」「一本」「一本」
いぞれも中島の足技で倒された。目尻、唇に加え、鼻血も垂れてきた。
「始めー」
柔道着の袖で顔中の血を拭う。
「うおーりゃあ」
気合もろとも中島にぶつかる。中島の柔道着も返り血で赤く染まる。最後の一本勝負になった。拓との勝負に費やした時間は十五分程度であったが、大との試合になってから四十分経過している。
剣道部員が集まり出した。時計は既に一時十五分を過ぎており、剣道部の練習開始時間まで四十五分しかない。着替えをすませ、ウオーミングアップを始める学生もいる。ぞくぞくと集まり出した剣道部員は、畳の上で死闘を繰り広げる二人に釘付けになっている。
迫田は剣道部の担任が来る前に終わって欲しかった。生徒が血だるまになっている試合を、止めるどころか、審判を務めているのを見られると、ばつが悪かった。
「中島さーんがんばって」
女子剣道部員が声を合わせて声援を送った。女生徒からの声援で一瞬硬くなった。そのときタイミングよく大の左足が中島の足を刈った。瞬時に我に返った中島は倒れながらも体制を立て直そうとしたが大に分があった。。
「技あり」
迫田の右手が上がった。
「ようし、押さえ込め」
拓郎の拳に力が入った。大はなんとか押さえ込みの体制にしようとがんばるが中島はそれを許さない。逆に、下手に動くと跳ね返されそうで、亀のように覆いかぶさったままどうすることもできなかった。大が手をこまねいていると、中島の右手が大の首を巻き込んだ。物凄い力で首が捻られる。必死に堪えていると下から中島の左手が伸びてきて、大の喉を突き上げた。『車締め』である。
大は堪えた、投げ飛ばされようと、押さえ込まれようと、絶対に締め技での降参だけはしないと誓って望んだ試合だ。『まいった』だけは言いたくなかった。
剣道部の担任が入ってきた。
「おっ迫田先生熱心ですねえ、練習試合ですか、ほう中島が下になっているなんて珍しい」
迫田は愛想笑いを返した。
「内田、どうだ、まいったか?」
迫田が大に問いかけるが答えはない。中島の左手がさらに大の喉を突き上げる。大の顔が館内の見物客に曝け出された。目を逸らす女性部員、唾を呑み込む少年剣士。白目をむきかけた大の血だるまの形相はまさに赤鬼である。
「うううーっ」
静まりかえった館内を剣道部担任の唸り声が支配した。そして迫田を睨みつけた。迫田はその視線をかわし、独り言のように拓郎に何か言った。大は堪えた、しかし限界に達していた。悔しいが降参しなければ気絶してしまうだろうと思った。爪がめくれあがるほどにしっかりとつかんだ中島の道着から、少しでも力を抜いてしまえば即座に跳ね返され押さえ込まれてしまう。従って畳を叩くこともできない。『まいった』と言ったつもりだが中島に喉を突き上げられているので発声することができない。大の『まいった』は声にならずに涎となって顎からつららのようにぶらさがった。粘った涎が大の顎から離れようとした刹那である。
「まいった、俺の負けだ」
中島は顔をそむけ、喉元から左手を引いた。大の涎が軌跡を起こした。
「一本」
迫田の右手が上がった。
「あとやっとけよ北川」
そう言うと迫田は講堂から逃げるように出て行った。
「おい大、大、大、勝ったんだよ、中島先輩から一本取ったんだよ」
首が元に戻らないのか捻れたまま立ち上がった。
「うおーっおおうーっ」
大の雄叫びが講堂を飛び出し学校内に轟いた。
(二十二)
「ご苦労さん、どんどんやってくれ、サブ適当に注文しろ」
サブは店員を呼び止め、メニューを眺めながら注文した。上カルビ五人前とだけが賢治の耳に届いたが、あとは店内の騒々しさにかき消され聞き取れなかった。明とサブは出された肉に貪りついた。仕事を終えたばかりの空腹に加え、チェーン店と違い、韓国人主人が経営する本格焼肉を久々に堪能している。次々に運ばれてくる肉を、片っ端から冷えた生ビールで腹にぶち込んでいく。古い店で、排煙設備も壁の換気扇だけであり、各テーブルで一斉に焼き出すと店内は煙で蔓延する。しかしそれほど気にならない、煙草の煙と違い、食をそそる相乗効果がある。
「ゆっくり食えよ、なくならねえからよう、しかしおまえら凄いな」
「いやあ社長ありがとうございます。本格焼肉はもう何年も食ってないっすからねえ、ほんと美味いっすねえここは、うちの女房も焼肉好きで、三ヶ月に一回ぐらいは行くんですよ、でもそこ安いけど美味くないんですよ」
「そうか、よかったよかった、サブも遠慮しないでたくさん食えよ」
「いただきます、明さん、二回戦終りにしますか?」
「そうだなあ、じゃあトンソクとセンマイ、レバー刺とさっぱり系食いながら小休止しよう」
「わかりました、すいませーん」
サブが忙しそうに立ち回る店員に明のリクエストを二人前ずつ注文した。一旦片付けられたテーブルが再度埋め尽くされた。
「社長も遠慮しないで取ってくださいよ、酢味噌に豆板醤入れますか、俺ブレンドしますよ、入れたほうが絶対美味いっすよ、どうぞ」
サブは自分の箸で小皿に持った酢味噌豆板醤をかき回し、賢治の前に差し出した。
「あたりめえじゃねえか、なんで俺が遠慮しなきゃならねえんだよ、まったくよ」
明がトンソクを銜え笑っている。サブも明に釣られて笑い出した。若い二人は笑いの壷に嵌ってしまい、涙を流し笑っている。賢治は歳の差を感じた。以前なら一緒になって嵌っていたろうに、ちっとも可笑しく感じられない。むしろ自分が冷笑されているような不快さえ感じてしまう。
「明さんなんか注文しますか?」
サブがこう切り出したのは四回戦が終わってからだった。
「いや、もうぼちぼちいいな」
「それじゃあ、一呼吸置いてから飯にしますか?」
「おう、俺はカルビクッパにオイキムチ」
「クッパっすか、俺ビビンバも食いたいんですよねえ、でもビビンバだと肉も少し頼まないとちょっと物足んないしなあ、社長はどうします、クッパかビビンバか?」
「俺か、俺はいいや、うちでも支度してんから」
「そうすか、俺も帰ってからまた食うんですよ、食細いっすねえ社長」
「おっサブおまえも通じゃん、やっぱりこれをかけた方が美味いよな」
肉の油が浮いている残ったつけだれを丼にかけてかき回した。飯は入るところが違うのか、食の衰えを見せることなく平らげた。若い衆が満腹になり、会話が途切れたのを見計らって賢治が明に紙袋を差し出した。
「明、長いことご苦労さん」
「なんすかこれ?」
「カメラ、現場用。おまえ欲しかったんだろ、俺からのほんの独立祝いだ、約束の半年間、よくサブをここまでにしてくれた。まだまだ仕事は全然駄目だが、礼儀とか工具の使い方とか、よく基本をしっかり教えてくれた。ありがとう」
「はあっ?社長ちょっと待ってくださいよ、確かに披露宴のときに社長にお願いしましたけど、あれはあくまでも予定でまだ辞めませんよ俺、まして社長が半年も留守にするのに俺が抜けるわけにはいかないでしょう。高橋社長の仕事も決まっているんでしょ、それに他の元受さんからも色々と頼まれていますよ、俺が抜けてどうすんですか、俺、なんか情けないっすよ、そんな軽い男に思われていたなんて、確かにいずれは独立します。でも社長の基盤では一切行動するつもりはありません、家内の親がやはり不動産関係の仕事やってるもんですからそっちで興すつもりです。社長、俺が学校辞めて、焼鳥屋の二階で燻っていたのを社長が拾ってくれて、ここまでにしてくれたんじゃないすか、社長の危機にこそ恩返しできるんじゃありませんか、昨日もサブと話していたんです。社長の留守の間、俺達二人で切り抜けようなって」
「社長、俺明さんの言うことよく聞いて仕事覚えますよ、社長が帰って来るまでに一人前になってますよまじで、あれ社長泣いてるんすか?」
「泣くわけねえじゃねえか、キムチが目に沁みたんだよ、生ばっか飲んでんと小便近くて駄目だな、トイレ行って来る」
賢治は涙を隠すためトイレに立った。嬉しかった。七年前に焼鳥屋で走り回っていた明に声をかけてよかった。これで安心して刑務所暮らしができると思った。
「明さん大丈夫なんすか、もう仕事決まってたんでしょ、俺独りでなんとか切り抜けますよ半年間、大体軽トラックとか電気工具どうすんですか、もうすっかり契約したんでしょ」
「女房のおやじにはあたま下げて延期を了承してもらった、紹介してくれた工務店の社長は、八月からの新築アパートを俺で予定組んでいたらしくて相当叱られた、でもなにを言われても俺が悪いんだからしょうがない、ごめんなさい、すいません、申し訳ありませんで切り抜けた。社長が帰って来て落ち着いたらまた一から出直すさ、軽トラと工具は駐車場借りてシートでもかけておく」
「すいません、俺が進歩しないばっかりに明さんの人生狂わせちゃって」
「そんな大袈裟じゃねえよ、それにサブのせいじゃない、俺にはそれぐらいしなきゃならない義理があるんだ、家を飛び出した俺を母屋に住まわせてくれて、家族同然の扱いをしてくれた。このくらい当然じゃないか、それにサブは進歩したよ、半年前だったら、すいませんなんて素直に言えなかったじゃないか、どっちにしても俺はここ数年のうちには独立する。おまえだっていずれはそうなるだろう、それまではおっちょこちょいの社長だけど助けていこう」
「はい、ところでそれどうすんですか、カメラ」
「これは折角だからいただいておこう」
「じゃあこっちに置いた方がいいっすよ、じゃあこれはそのときまで取っておこうなんて言いかねませんよ社長のことだから」
「そうだな、でもそっちに動かしたらなんか不自然じゃねえか」
「平気ですよ、もう社長トイレから出てきますよ、早くこっちに貸してください、店出るとき俺持って行きますから」
「お待たせお待たせ、俺嬉しくてあっちこっちに電話してきた。特に高橋の社長は喜んでくれた。ありがとう明、ところでもういいのか?サブもいいのか?」
「ごちそうさまです、またお願いします」
「ばか野朗、そんな年中奢ってたらこれでパンクしちゃうっつうの、焼肉でつぶれたらカッコつかないよおまえ、よしじゃあ行こう、あれっ」
賢治は隣の席に置いた袋がないので二人を見ると、サブがそれを小脇に抱え、とぼけて壁一面に貼られた品書きを眺めている。店を出た。賢治は車を降りるまでサブの抱えた袋を気にしていた。
「社長、ごちそうさまでした。月曜日は送って行かなくてもいいんですか?」
「ああ、内田が行ってくれるって、だから悪いけどいつも通り仕事の方を頼む、留守中もいままで通り元受と連絡取り合いながら、明の手配で仕事の段取りしてくれ、うちの奴はまるっきり仕事のことはわかんないから。必要な金は前日に電話しとけば用意するように言ってあるから」
「わかりました、それじゃ身体に気をつけて、なるべく早く帰って来てください」
「ありがとう、サブを頼むな」
「はい」
明から別れの言葉を聞くと、いよいよこれから半年間の刑務所生活だという実感が涌いてきた。
「おっす」
拓郎が一歩前に出た。
「やっぱりな、まあ無難な作戦だ」
「うっす」
迫田の『やっぱりな』が拓郎にはひどくショックだった。中島と拓郎が一礼して向かい合った。
「始めっ」
「うおーりゃあ」
組んだ瞬間に拓郎の身体は宙を舞った。
「一本」
拓郎の使命は中島に少しでも体力を使わせ、大に交代することである。組んだ瞬時に投げ飛ばされたのでは意味がない。
「おりゃ、うりゃ、おおりゃ」
気合を入れながら中島の周りを走り回った。中島が追うと拓郎は逃げた。
「俺の体力消耗を狙ったって無駄だぞ、おまえらと違って毎日走り込んでる」
拓郎はぶつかるようにして中島の懐に飛び込んだ。
「一本」
巴投げを喰らい畳みの外まで飛ばされた。
「一本」「一本」「一本」「一本」
投げ技のオンパレードである。
「それまで、中島のオール一本勝ち」
息が上がったのは投げ続けられた拓郎の方であった。その上投げ飛ばされる場所はすべて畳を外されている。全身打ち身である。拓郎はやっとのことで起き上がり礼をした。中島が笑っている。口惜しさが込み上げた。中島が卒業する前にもう一度挑戦しようと思った。
「始めっ」
「うりゃ」
迫田が言ったように大の体格は中島にもひけをとらないまでになっている。中島の組み手を嫌って大が身体を大きく振ってそれを切る。
「一本」
中島が大の襟を取った瞬間内股を仕掛けた。板の間に肩から落ちた。力の差があるとはいえこの重量級の試合に迫田も楽しんでいる。中島も、大を投げ飛ばすにはしっかりと組み手を取らなければならないと思っている。中途半端な組み手で無理をすると、上に乗られる危険がある。一方の大はそれを狙っている。勝ち目のないのは百も承知で、投げられたり、押さえ込まれたりしたら仕方がないと諦めていた。しかし締め技に関しては違う。いくら締め上げられても降参しない、そう心に決めて挑んでいる。
「一本」
中島の大外狩りが見事に決まり板の間に顔から落ちた。目尻が擦り切れ血が噴出した。
「内田、顔洗って来い」
「なんともありません」
中島は柔道着に血がつくのが嫌で言ったのだが、大は傷の心配をしていると勘違いしている。
「内田、いいから顔洗って来い」
「なんともありません、おりゃ」
大は迫田の注意も払いのけるほど興奮してきた。畳みにぽたぽたと落ちる血を、二人の足が踏みつける。
「一本」「一本」「一本」
いぞれも中島の足技で倒された。目尻、唇に加え、鼻血も垂れてきた。
「始めー」
柔道着の袖で顔中の血を拭う。
「うおーりゃあ」
気合もろとも中島にぶつかる。中島の柔道着も返り血で赤く染まる。最後の一本勝負になった。拓との勝負に費やした時間は十五分程度であったが、大との試合になってから四十分経過している。
剣道部員が集まり出した。時計は既に一時十五分を過ぎており、剣道部の練習開始時間まで四十五分しかない。着替えをすませ、ウオーミングアップを始める学生もいる。ぞくぞくと集まり出した剣道部員は、畳の上で死闘を繰り広げる二人に釘付けになっている。
迫田は剣道部の担任が来る前に終わって欲しかった。生徒が血だるまになっている試合を、止めるどころか、審判を務めているのを見られると、ばつが悪かった。
「中島さーんがんばって」
女子剣道部員が声を合わせて声援を送った。女生徒からの声援で一瞬硬くなった。そのときタイミングよく大の左足が中島の足を刈った。瞬時に我に返った中島は倒れながらも体制を立て直そうとしたが大に分があった。。
「技あり」
迫田の右手が上がった。
「ようし、押さえ込め」
拓郎の拳に力が入った。大はなんとか押さえ込みの体制にしようとがんばるが中島はそれを許さない。逆に、下手に動くと跳ね返されそうで、亀のように覆いかぶさったままどうすることもできなかった。大が手をこまねいていると、中島の右手が大の首を巻き込んだ。物凄い力で首が捻られる。必死に堪えていると下から中島の左手が伸びてきて、大の喉を突き上げた。『車締め』である。
大は堪えた、投げ飛ばされようと、押さえ込まれようと、絶対に締め技での降参だけはしないと誓って望んだ試合だ。『まいった』だけは言いたくなかった。
剣道部の担任が入ってきた。
「おっ迫田先生熱心ですねえ、練習試合ですか、ほう中島が下になっているなんて珍しい」
迫田は愛想笑いを返した。
「内田、どうだ、まいったか?」
迫田が大に問いかけるが答えはない。中島の左手がさらに大の喉を突き上げる。大の顔が館内の見物客に曝け出された。目を逸らす女性部員、唾を呑み込む少年剣士。白目をむきかけた大の血だるまの形相はまさに赤鬼である。
「うううーっ」
静まりかえった館内を剣道部担任の唸り声が支配した。そして迫田を睨みつけた。迫田はその視線をかわし、独り言のように拓郎に何か言った。大は堪えた、しかし限界に達していた。悔しいが降参しなければ気絶してしまうだろうと思った。爪がめくれあがるほどにしっかりとつかんだ中島の道着から、少しでも力を抜いてしまえば即座に跳ね返され押さえ込まれてしまう。従って畳を叩くこともできない。『まいった』と言ったつもりだが中島に喉を突き上げられているので発声することができない。大の『まいった』は声にならずに涎となって顎からつららのようにぶらさがった。粘った涎が大の顎から離れようとした刹那である。
「まいった、俺の負けだ」
中島は顔をそむけ、喉元から左手を引いた。大の涎が軌跡を起こした。
「一本」
迫田の右手が上がった。
「あとやっとけよ北川」
そう言うと迫田は講堂から逃げるように出て行った。
「おい大、大、大、勝ったんだよ、中島先輩から一本取ったんだよ」
首が元に戻らないのか捻れたまま立ち上がった。
「うおーっおおうーっ」
大の雄叫びが講堂を飛び出し学校内に轟いた。
(二十二)
「ご苦労さん、どんどんやってくれ、サブ適当に注文しろ」
サブは店員を呼び止め、メニューを眺めながら注文した。上カルビ五人前とだけが賢治の耳に届いたが、あとは店内の騒々しさにかき消され聞き取れなかった。明とサブは出された肉に貪りついた。仕事を終えたばかりの空腹に加え、チェーン店と違い、韓国人主人が経営する本格焼肉を久々に堪能している。次々に運ばれてくる肉を、片っ端から冷えた生ビールで腹にぶち込んでいく。古い店で、排煙設備も壁の換気扇だけであり、各テーブルで一斉に焼き出すと店内は煙で蔓延する。しかしそれほど気にならない、煙草の煙と違い、食をそそる相乗効果がある。
「ゆっくり食えよ、なくならねえからよう、しかしおまえら凄いな」
「いやあ社長ありがとうございます。本格焼肉はもう何年も食ってないっすからねえ、ほんと美味いっすねえここは、うちの女房も焼肉好きで、三ヶ月に一回ぐらいは行くんですよ、でもそこ安いけど美味くないんですよ」
「そうか、よかったよかった、サブも遠慮しないでたくさん食えよ」
「いただきます、明さん、二回戦終りにしますか?」
「そうだなあ、じゃあトンソクとセンマイ、レバー刺とさっぱり系食いながら小休止しよう」
「わかりました、すいませーん」
サブが忙しそうに立ち回る店員に明のリクエストを二人前ずつ注文した。一旦片付けられたテーブルが再度埋め尽くされた。
「社長も遠慮しないで取ってくださいよ、酢味噌に豆板醤入れますか、俺ブレンドしますよ、入れたほうが絶対美味いっすよ、どうぞ」
サブは自分の箸で小皿に持った酢味噌豆板醤をかき回し、賢治の前に差し出した。
「あたりめえじゃねえか、なんで俺が遠慮しなきゃならねえんだよ、まったくよ」
明がトンソクを銜え笑っている。サブも明に釣られて笑い出した。若い二人は笑いの壷に嵌ってしまい、涙を流し笑っている。賢治は歳の差を感じた。以前なら一緒になって嵌っていたろうに、ちっとも可笑しく感じられない。むしろ自分が冷笑されているような不快さえ感じてしまう。
「明さんなんか注文しますか?」
サブがこう切り出したのは四回戦が終わってからだった。
「いや、もうぼちぼちいいな」
「それじゃあ、一呼吸置いてから飯にしますか?」
「おう、俺はカルビクッパにオイキムチ」
「クッパっすか、俺ビビンバも食いたいんですよねえ、でもビビンバだと肉も少し頼まないとちょっと物足んないしなあ、社長はどうします、クッパかビビンバか?」
「俺か、俺はいいや、うちでも支度してんから」
「そうすか、俺も帰ってからまた食うんですよ、食細いっすねえ社長」
「おっサブおまえも通じゃん、やっぱりこれをかけた方が美味いよな」
肉の油が浮いている残ったつけだれを丼にかけてかき回した。飯は入るところが違うのか、食の衰えを見せることなく平らげた。若い衆が満腹になり、会話が途切れたのを見計らって賢治が明に紙袋を差し出した。
「明、長いことご苦労さん」
「なんすかこれ?」
「カメラ、現場用。おまえ欲しかったんだろ、俺からのほんの独立祝いだ、約束の半年間、よくサブをここまでにしてくれた。まだまだ仕事は全然駄目だが、礼儀とか工具の使い方とか、よく基本をしっかり教えてくれた。ありがとう」
「はあっ?社長ちょっと待ってくださいよ、確かに披露宴のときに社長にお願いしましたけど、あれはあくまでも予定でまだ辞めませんよ俺、まして社長が半年も留守にするのに俺が抜けるわけにはいかないでしょう。高橋社長の仕事も決まっているんでしょ、それに他の元受さんからも色々と頼まれていますよ、俺が抜けてどうすんですか、俺、なんか情けないっすよ、そんな軽い男に思われていたなんて、確かにいずれは独立します。でも社長の基盤では一切行動するつもりはありません、家内の親がやはり不動産関係の仕事やってるもんですからそっちで興すつもりです。社長、俺が学校辞めて、焼鳥屋の二階で燻っていたのを社長が拾ってくれて、ここまでにしてくれたんじゃないすか、社長の危機にこそ恩返しできるんじゃありませんか、昨日もサブと話していたんです。社長の留守の間、俺達二人で切り抜けようなって」
「社長、俺明さんの言うことよく聞いて仕事覚えますよ、社長が帰って来るまでに一人前になってますよまじで、あれ社長泣いてるんすか?」
「泣くわけねえじゃねえか、キムチが目に沁みたんだよ、生ばっか飲んでんと小便近くて駄目だな、トイレ行って来る」
賢治は涙を隠すためトイレに立った。嬉しかった。七年前に焼鳥屋で走り回っていた明に声をかけてよかった。これで安心して刑務所暮らしができると思った。
「明さん大丈夫なんすか、もう仕事決まってたんでしょ、俺独りでなんとか切り抜けますよ半年間、大体軽トラックとか電気工具どうすんですか、もうすっかり契約したんでしょ」
「女房のおやじにはあたま下げて延期を了承してもらった、紹介してくれた工務店の社長は、八月からの新築アパートを俺で予定組んでいたらしくて相当叱られた、でもなにを言われても俺が悪いんだからしょうがない、ごめんなさい、すいません、申し訳ありませんで切り抜けた。社長が帰って来て落ち着いたらまた一から出直すさ、軽トラと工具は駐車場借りてシートでもかけておく」
「すいません、俺が進歩しないばっかりに明さんの人生狂わせちゃって」
「そんな大袈裟じゃねえよ、それにサブのせいじゃない、俺にはそれぐらいしなきゃならない義理があるんだ、家を飛び出した俺を母屋に住まわせてくれて、家族同然の扱いをしてくれた。このくらい当然じゃないか、それにサブは進歩したよ、半年前だったら、すいませんなんて素直に言えなかったじゃないか、どっちにしても俺はここ数年のうちには独立する。おまえだっていずれはそうなるだろう、それまではおっちょこちょいの社長だけど助けていこう」
「はい、ところでそれどうすんですか、カメラ」
「これは折角だからいただいておこう」
「じゃあこっちに置いた方がいいっすよ、じゃあこれはそのときまで取っておこうなんて言いかねませんよ社長のことだから」
「そうだな、でもそっちに動かしたらなんか不自然じゃねえか」
「平気ですよ、もう社長トイレから出てきますよ、早くこっちに貸してください、店出るとき俺持って行きますから」
「お待たせお待たせ、俺嬉しくてあっちこっちに電話してきた。特に高橋の社長は喜んでくれた。ありがとう明、ところでもういいのか?サブもいいのか?」
「ごちそうさまです、またお願いします」
「ばか野朗、そんな年中奢ってたらこれでパンクしちゃうっつうの、焼肉でつぶれたらカッコつかないよおまえ、よしじゃあ行こう、あれっ」
賢治は隣の席に置いた袋がないので二人を見ると、サブがそれを小脇に抱え、とぼけて壁一面に貼られた品書きを眺めている。店を出た。賢治は車を降りるまでサブの抱えた袋を気にしていた。
「社長、ごちそうさまでした。月曜日は送って行かなくてもいいんですか?」
「ああ、内田が行ってくれるって、だから悪いけどいつも通り仕事の方を頼む、留守中もいままで通り元受と連絡取り合いながら、明の手配で仕事の段取りしてくれ、うちの奴はまるっきり仕事のことはわかんないから。必要な金は前日に電話しとけば用意するように言ってあるから」
「わかりました、それじゃ身体に気をつけて、なるべく早く帰って来てください」
「ありがとう、サブを頼むな」
「はい」
明から別れの言葉を聞くと、いよいよこれから半年間の刑務所生活だという実感が涌いてきた。
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