祭囃子を追いかけて

壺の蓋政五郎

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祭囃子を追いかけて 8

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「やあ拓、暫くだね、柔道やってるらしいね、相撲はもう勝てないかもな、お兄ちゃんなあ、お祭りが終わるまで実家にいるから遊びにこいよ、まだサッカーゲームあるから」
「はい」
  幼い頃俊夫に遊んでもらったのを拓郎はよく覚えている。『トシ兄ちゃん』と呼んでいた。俊夫の持っていた卓上のサッカーゲームで遊びたくて、俊夫が小学校から帰ってくるのをブロック塀の影に隠れて待っていた。待っているのが恥ずかしく、偶然であるかのように帰りがけの俊夫の前に飛び出した。俊夫はそれを感付いていたがその素振りも見せずに『拓、サッカーゲームやろうか』と言ってくれた。毎日決まった路地でばったりと出会う不自然さを、俊夫がやさしく接してくれたのだ。今想い出すと鳥肌が立った。
 「いいから早く支度しろよ、おまえこれだよ、これで一杯やってんだよ」
 賢治は穴あきの丸いイカの燻製をつまみ上げ、ひらひらさせて口に放り込んだ。世津子は畳に新聞紙を敷いた。その上に持参してきた豆腐の周りにぶっかき氷を散らしたボール、茄子の浅漬けと胡瓜のぬかづけを盛った大きな皿を置いた。
「拓、はいありがとう」
 拓郎が差し出した鍋を真ん中に置き蓋をとった。
「すき焼き、暑いけど、熱いうちにどうぞトシちゃん」
「トシちゃんて俺も食うよおまえ」
 程よく火の通った幅広で薄い牛肉が鍋の半分以上を占めている。他のスペースをしらたき、ねぎ、春菊、焼き豆腐がグループになってまとまりひしめき合っている。
「あれ、拓、卵持って来てくれた」
 拓郎は半ズボンの左右のポケットから卵を取り出し世津子に渡した。
「あっ、拓の温もりで雛が孵りそう」
 世津子は受け取った卵を頬にあて拓郎の温もりを嬉しそうに感じている。
「早く寄越せよ卵、腐っちまうよ」
 賢治が卵を催促した。世津子は一瞬ふくれっ面を見せたが、少女のようにすぐに微笑んだ。
「気持ちわりいんだよ」
 世津子のぶりっ子に賢治が顔を顰める。
「いただきます」
 二人は取り皿に落とした卵を箸で崩し肉を食いだした。
「トシちゃん、ネギや春菊も食えよ、栄養のバランス考えなきゃだめだぞ」
「はい、いただきます」
 そういう賢治も返事をした俊夫も肉以外の脇役には目もくれず端から肉をさらいあげていく。
「拓、帰ろう」
 二人の食いっぷりを見ていると相手にされそうにないと感じ取った世津子は、拓郎に帰宅を促した。
「あーきれいな三日月、拓、散歩しながら帰ろう」
 面倒臭そうな拓郎の右腕に強引に腕を絡ませ帰路についた。
「母さん暑いよ」
「いいの」
 拓郎が腕を抜こうとすると世津子はより強く絡ませ、拓郎の肩に頭を乗せた。
 
(七)
 
「なんか眠れねえよなあ、まだ焼酎あったっけ?」
「ええまだありますけど氷は溶けてしまいましたよ、コンビニまで行って来ましょうか」
「いや、いいよいいよストレートで、酔いが回れば眠れんだろうから」
 コップに七分目ほど注がれた焼酎を一気に飲み干した。
「くわーっ、効く。トシちゃん何時今?」
 夜中の二時を回っていた。
「何読んでるの?」
「チベット放浪って本です」
「チベットってあの中国の?」
「中国?ええ、まあそうですね。お祭りが終わったらすぐ行くんですよ」
「行くってチベットに?へえー、なんか美味いもんでもあんのかねえ向こうは、山ん中だから海鮮料理は期待できねえなあ、あっあれか、こっちか」
 賢治は小指を立てて俊夫に尋ねた。
「残念ながら食でも女性でもありません。仏教を教えている助教授がいるんですけど、もし興味があるなら行かないかと春先に誘われまして、僕は特に仏教に興味があるわけではないのですが、チベットに行くチャンスなんてこれから先もなかなかないだろうし、それと外から自分を見つめ直してみたいなあと思っていたんです。それで同行させてもらうことにしました」
 御仮屋の裏で飼われている神経質な犬が、何か気配を感じるたびにブロック塀に飛びついて吠えている。その声は甲高く、吠えているというよりは、臆病を誤魔化すための強がりのようである。
「田中さんちの犬うるせいなあ、もう五~六年は吠えっぱなしだぞあのばか犬。トシちゃんまだ焼酎ある?あったらもう一杯注いでくんない、悪いけど」
「あっはい、僕も少しいただきます」
 俊夫は二人のグラスに焼酎を注いで、これで終わりですよと言わんばかりにパックを振ってみせた。蚊取り線香がラスト一周に迫っていた。
「ふーん、外から自分を見つめ直すねえ、そういやあ俺達は狭い行動範囲で生活してるよなあ、ほとんどが鎌倉、大船、藤沢、ちょっと足伸ばして横浜だもんなあ。地球に開けた針の穴みてえなとっから偉そうなこと言ったって誰にも届かねえよなあ、チベットかあ、いいなあ、何泊で行くの?二泊三日ならなんとか暇作れるから、俺も連れてってよ、その先生に頼んでみてくんない?」
「あーっ、一応助教授に聞いてみますがもう遠征スタッフは決定しているので多分無理だと思います。それに来月の三日に出発して、帰国は九月の半ばです。四十日間の滞在になります。学校から出る研究費も僅かで、それぞれが自腹で行きます。従って、自炊は当然、僕はその食事の支度や研究員の雑仕事を手伝うということで、渡航代金だけで参加させてもらっています。寝泊りも地元の廃屋寸前の民家を借りての生活で、非常に地味なものですから、行動派の賢治さんには退屈だと思いますよ、もし行けたとしても」
 遠回しに賢治の同行を断ったが、理解してもらえなかった。
「ああ、それじゃだめだ。八月の三日じゃもう遅いんだ、祭りのあとすぐって俊ちゃん言ったから、二十三日から二泊三日なら丁度いいと思ったんだけど残念だなあ、その先生にはお願いしなくてもいいよ、諦めるよ、それともそのまま逃亡者となるのもいいか、坊主に化けてよ」
 賢治は逃亡者となりチベットの山奥に潜んでいる自分を想像した。
「どっちにしても頭丸めるように定められているんだよなあ俺の人生」
 俊夫は独り言のように意味のわからないことを言う賢治を不思議に思った。
「また機会があったら賢治さんに連絡しますよ」
「ああ、ありがとう、でもトシちゃんが帰って来たときにチベットの話聞かせてくれればいいよ、俺のことなんか気にせず偉い男になってくれよ、正月や祭りの前には帰って来るんでしょ」
 俊夫は分厚い文庫本を畳に置いて、最終コーナーを回った蚊取り線香を見つめた。
「実はうち、今月いっぱいで引越しするんです、まだ予定ですけど」
「引越しって、あっそうか、おやじさん一人だから本家の方に戻るとか?」
「いえそうじゃないんです。親父からも挨拶があると思いますが再婚するんです。その女性の実家が秋田の農家なんですけど、親父はそこで暮らすことに決めたんです。僕もその女性を紹介されたとき驚いたのですが母親にそっくりなんです。顔も背格好も声もよく似ているんです。あの人でなければ親父は再婚なんて考えなったでしょうねえ。もし彼女に出逢わなければ、生涯母の死を忘れられず、それから逃げ出せずに生きていたでしょうずーっと。灯りの落ちたビルを、定期的に巡回して歩く警備員を定年まで続けたに違いありません。懐中電灯の先だけが親父の視界だったんです。でも彼女と交際が始まってからは人が変わったように、いや昔に戻ったようでした。元々無口で人付き合いの下手な親父でしたから、他人が見てもわからないと思いますが、嬉しいときの親父は口が横に広がるんですよね、母が生前僕によく言ってました、ほらお父さん今日は嬉しいのよ、何か買ってもらいなさいとか、今日は止めておいた方がいいわねえとか、口の広がり具合を見て判断していました。この前その女性にそのことを打ち明けると、笑って僕に聞くんです。今日の重太郎さんはどうって、それがめいっぱい横に広がっていたんで二人で大笑いしてしまいました」
 俊夫はそのときの光景を想い出して笑っていた。
「そうかい、重太郎さん再婚すんのか、いやよかったと思うよ俺も、よく十年間も悲しみに耐えてきたよなあ、たぶん奥さんが天国から降りて来たんだろう、あんまり暗く生きてるから見かねてさあ、そうか引越しかあ、秋田ねえ、冬は寒いんだろうなああっちは、そうかいなくなっちゃうのか。じゃあ重太郎さんもトシちゃんにとっても最後のお祭りか、天国の洋子さんにとっても新しい嫁さんにとっても最後かあ、そして始まりだ。幸せになれるよきっと」
 御仮屋の前を新聞配達の少年が通る。山積みにされた新聞が重いのか、前のめりになって自転車を漕いでいる。サドルを踏むたびにキイーッという音が規則正しく発せられる。裏の犬がそれに反応して吠え出した。
 
(八)
 
「賢治、賢治、賢治」
 サキが熟睡している賢治を揺り起こしている。俊夫がサキの声で目覚め、挨拶した。
「あらーっトシちゃん立派になって、起こしちゃってごめんね、トシちゃんはゆっくり休んでて、この子は仕事なのよ、もうじき若い衆が来るっていうのにしょうがないよ本当に、賢治、賢治」
「わかってるよう、うるせいなあ、さっきから起きてんだよう」
「きったない、何これ」
 賢治の足元に鍋が引っくり返っていて、すき焼きの汁は新聞紙を漉して畳にまで染み込んでいる。紙面を飾るアフガニスタンテロリストの口髭の上に春菊が被っている。
「あーっ、僕掃除しますから」
「いいからいいから、うちのが子供を送り出したら片付けに来るからそのままにしておいて」
「すいません、じゃあ僕も戻ります。賢治さんどうもごちそうさまでした」
「神輿、かつぐんだろ?」
「ええ、最後ですから、それじゃあ二十二日に」
 分厚い文庫本を小脇に抱えて俊夫は神の番を終えて帰っていった。
「おまえ、トシちゃんにもお酒飲ませたんだろう、まったくしょうがないよこの子は、あの子は大学生だよ、だめじゃないかお酒なんか飲ませちゃ、あたし達とは違うんだよ」
 大学は選ばれたものだけが進める場所であると思い込んでいて、サキは口を聞くことさえ抵抗を感じていた。
「今時の大学生はみんな飲んでるっつうの、重太郎さんなあ、再婚して引っ越すんだってよ」
「ほんとかい、だいじょぶなのかい、そんなことして」
「知らねえよ、俺が知るかよそんなこと、他人が口出しするようなことじゃねえじゃねえかよ」
「だって洋子さんが亡くなってからまだ十年ぐらいしかたってないだろう、もう十年ぐらい辛抱した方がいいんじゃないのかねえ」
「爺さまになっちゃうよ、もう十年も待ってたらよ」
 サキにいくら説明しても説得できる自信がなくなり、諦めて番屋を出た。
 家に戻ると明とカズが母屋の縁側に腰掛けて麦茶を飲んでいた。麦茶を注ぎ足す世津子の短いジーンズの裾から黒い下着が覗いて見える。賢治は刺激されて下腹部の反応を押さえ切れず、浴衣の前で手を組んだ。
「おはようございます、社長、昨日の段取りでいいでしょうか、午前中に腰越の佐々木邸で配管工事を済ませ、午後からカズを芳本さんとこに応援にいかせます。僕は手広の重田さんちに回って、便器の交換に行ってきます」
「おう、それで頼むわ、重田さんになあ、カタログ持っていってやれ、まだ迷っているみたいだから」
「はい、わかりました、社長はどちらに?」
「おう、佐々木の現場に行ってくる、今日から外溝工事始まるらしいから駐車場の配管してくるよ、なにしろ無免許だからよ、近場専門だ」
「気をつけてください、僕が送っていきましょうか」
「心配すんな、この時間はお巡りもいねえし、帰りも裏道抜けてきちゃうから大丈夫だ」
 世津子が二人のグラスにまた麦茶を注ぎ足した。収まりかけていた下腹部がまた膨らみ出した。賢治は、どうして四十近い女房の、薄墨色のはみ出した肉の塊に刺激されるのか自分でも不思議だった。  
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