回想電車

壺の蓋政五郎

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回想電車『逃げ駅』

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 稼ぎはあるが金はない。新橋のキャバクラでホステスをしている。店ではそれなりに人気があり成り上がりの男達から金を巻き上げる。その金をホストクラブに継ぎこんでいる。月に100万稼いでも200万継ぎこめば人生の破綻が待っている。その時がいよいよ来た。入れ込んでしまったホストのアキラからソープランドで働いて返せと言われた。今夜から行くんだと店の前まで連れて行かれた。素直に応じたのでアキラは安心した。この女は細島京子34歳、独身。結婚歴はないが同棲は二度ある。どちらも半年足らずで別れてしまった。京子の男癖が原因である。アキラに入れ込んだのはモノのデカさだった。こんなモノに出遭ったことがなかった。アキラのモノじゃなきゃイカない身体になっていた。
「あんたこの商売は初めて?」
 ソープランドの店長から面接を受けている。キャバクラは長いが身体を売ったことはない。
「いえ、5年程経験があります」
 嘘を吐いた。初めてと言えば実技指導を受ける。同僚の女から聞いていた。
「そう、じゃベテランだ。あんたは早田組から預かりの身だからね。店から出ちゃ駄目だよ。俺もバイト店長だからうるさいことは言いたくないからね。もし逃げたら追われるよ。いいね」
 早田組と聞いて驚いた。
「アキラが売ったの?」
「そんなことは知らない。ただ早田組はここらへんじゃうるさいからね。あんた逃がしたら俺がやられる。あんたも売られるようなこと仕出かしたんだろう。辛抱してりゃ殺されることはないよ」
 京子は逃げる覚悟を決めた。早田組はシャブも扱う。シャブ漬けにされて死ぬまでここから出しちゃくれない。今夜決行する。京子はすぐに客を取らされた。最初の客はデブの眼鏡男。脂ぎった頭皮にフケが溜まっている。
「お客さんは何している人?」
「何だと思う?」
 『隠すほど稼ぎがあんのかこのタコが』
「そうだなあ、IT関連でしょ。指先がきれいだから」
 『太い指してキーボード一つずつ押せねえだろうばーか』
「たんぽ~ん」
 『古いギャグで笑うかとんちき』
「おもしろ~い」
「君可愛いね。俺のタイプ。今度デートしない?」
 『誰がお前と歩くか、豚とダンスしてろっつうの』
「行きた~い、誘って。いつ?」
 そうだこのまま一緒に出ればいいと京子は咄嗟に思い付いた。
「俺はいつでもいいよ」
「ねえ、一回したら寿司食べに行こう。食べたらまた戻ってサービスするから。お店の人にはあなたから言って、常連だから融通利くでしょ。お願い、愛してる~」
 乳首を押し付けてねだったふり。仕方なく一回やらせて自分もイッたふりをした。
「最高、こんなの初めて」
 シャワーのノズルが入るほどきれいに洗い流した。
「ちょっと飯食って来る。一時間で戻るから空けといて」
 客が店員に一万円を差し出した。
「いってらっしゃいませ」
 店から出ることに成功した。京子は寿司を食ってから逃げる算段をした。一度行ったことのある高級すし店。離れがあり裏口がある。
「離れ空いてますか?」
 運よく空いていた。
「好きなもん食べなよ」
「ありがとう。あたし注文して来るね。あなたは何がいい?」
「しめ鯖以外はなんでもOK」
 京子は極上ネタばかり注文した。同じネタで持ち帰りのおりも頼んだ。
「はいどうぞ。初めてのお客さんがあなたで良かった。もう虜になっちゃう」
 ビールから日本酒に切り替えた。そして小一時間が経過した。
「そろそろ戻らないとまずいよ」
「はい、じゃあたしおあいそしてくる。財布貸して」
 男は完全にその気になっている。
「現金がないわよ。カード?」
「ああ、ビザだから差し込むだけ」
 そしてそのまま店を出てタクシーを拾った。
「東京駅」
 自宅は東戸塚。八重洲口から走った。横須賀線下り最終の時間が近い。エスカレーターに乗って時計を見た。間に合う。安堵したのがいけなかった。寿司おりを落としてしまった。それを後ろから走って来た男に踏まれてしまった。
「ああっ」
 二人同時に声を上げた。
「これ名詞、明日電話ください。弁償します。すいません」
 男はそのままエスカレーターを走り下りる。京子もそのままにして走ろうとしたら駅員に呼び止められた。しかたなく潰れた寿司おりを拾いごみ箱を探していると電車の発車メロディーが聞こえた。エスカレーターを下りると同時にドアが閉まった。走り行く電車を見ているとドアの前に寿司を踏んだ男が立っていた。
「ああっ」
 また同時に声を上げた。男は胸で手を合わせ受話器を耳に当てる真似を見せた。悪い男ではない。とぼけるつもりなら名刺まで置いて逃げることはしなかったろう。ホームのベンチに腰を下ろした。名刺をみると大手のディベロッパー、ハンドバッグからスマホを出して電話した。下手に出て来たら踏んだ食ってやろうと深呼吸をして逸る気持ちを落ち着かせた。車内だから留守電になるだろうと思ったが普通に呼び出し音が鳴っている。
「もしもし、どちら様でしょうか?」
 車内にしては落ち着いた声だった。もしかしたら新橋か品川で下車したのだろうか。そんなことはないだろう、新橋品川なら京浜東北線も利用出来る。あんなに急ぐ必要はなかっただろう。
「さっき東京駅で寿司おりを踏まれた者ですけど」
「寿司おり?」
「ええ、あなたに踏まれた寿司はうちの社長から実家に届けるよう言われていたの。あなたに踏まれてその上終電にも乗り遅れてしまった。どうしてくれるのよ?」
 京子が息巻いた。
「失礼ですがご氏名をお願い出来ますか。粗相はお詫びしますが心当たりがないので」
 京子は名乗った。
「失礼序にあなたにご迷惑を掛けたのは私ではありません。私を語る何者かです。その方の容姿を教えてください」
 とぼけるのもほどがある。京子は男の容姿を伝えた。すると全然違う答えが返って来た。
「その男に心当たりがあります。明日またお電話いただけますか。取引相手でして私の方が有利な立場にいます。そんな失礼な男なら信用出来ません。取引を断ります。そしてあなたにご迷惑を掛けたことは私から謝罪させてください」
 男の話し方には自信と余裕が感じられる。嘘を吐いているような感じはしない。そのとたんに寿司おりを踏んだ男が自分と近く感じてしまった。自分と同じような運命にある男だと感じた。そう思うと可愛そうにさえ感じてしまう。
「いいの。もうこの話は忘れて。寿司はあたしがいい人を騙しておみやにして持ち帰ったの。神様の罰が当たったんだわ。あの踏んだ男も多分なにかから逃げる途中だったんだわ。そんな運命なのよ。あの人を許して上げて。お願い。あたしの電話も忘れて」
 京子は電話を切った。もう横須賀線はない。このままホームのベンチに居れば警備員に追い出されるのは必至。そう思った矢先に警備員が来た。立ち上がりエスカレーターを上った。寿司おりを置き忘れてしまった。取りに戻ると列車が入って来た。回想電車と書いてある。ホーム新橋寄り最端に停車した。車掌と目が合った。
「そろそろ発車しますが」
「乗れるんですか?」
「ええ、勿論、客車ですから」
 京子は乗車を躊躇った。終電と始発の間に走る列車など聞いたことがない。
「出発進行」
 ホームで伸びをしていた運転士が乗り込んで前方確認をした。また車掌と目が合った。京子は一か八かと飛び乗った。

 寿司おりを提げた男が横須賀線のホームに立っている。最終電車を見送り溜息を吐いた。この男は昨夜京子が落とした寿司おりを踏ん付けた。それが気になって頭から離れない。一言詫びようと来ていたが会えなかった。ホームのベンチで周囲を見回して煙草を咥えた。『ふーっ』とおもいきり紫煙を吐いた。誰もいないホームでの一服がたまらない。足音がしたので煙草を踏み消した。立ち上がる煙を掌で煽いだ。駅員は喫煙に気が付いたが既に踏み消されている。注意して逆切れされても面白くない。
「もう終電は出ました。このまま始発を待つことは出来ません。一旦駅舎から出てください」
「分かってるよそんなこと。まだ京浜東北に乗れんじゃねえか。それまで時間潰しだよ」
 駅員は予想通り面倒臭い男だったとその場を去った。警備員に連絡して複数人で対応するよう伝えるつもりである。男の名は吉川順二、38歳。職業詐欺。頭金や内金を多少大目に支払い、信用させて商品を騙し取り横流しする。通称流しの順二と渾名がある。若いがこの業界では一目置かれている。自分でもどうしてあの女を追い掛けて来たのか分からない。ただ同類の臭いがした。いつも肝心なとこであり得ないことが起きてしまうそんな運命を背負っている、まさに自分と同じだと思った。寿司おりを落とさなければ終電に間に合い自宅に戻れたはずだ。その寿司おりをタイミングよく踏んだ自分の運の無さにも呆れていた。あれだけの人が終電を目指して蠢いている中でどうして自分が、それもよりによって一歩出した足の真下に寿司おりが差し出されたと言っても過言じゃない。悪いことを積み重ねて生きているその罰が当たったとしか言いようがない。吉川は腕時計を見た。一日五分遅れるコピーのロレックス。横須賀線の最終が23:50分、23:55分発の桜木町行きがある。走れば間に合う。吉川の自宅アパートは東戸塚、桜木町からならタクシーでもいい。それに明日は特に用があるわけではない。何なら歩いてもいい、歩いたことも二度ある、四時間あれば充分だ。吉川が立ち上がると列車が入って来た。焦げ茶色で古めかしい。車掌が顔だけ出してホームを確認している。回想電車と書いてある。吉川は鉄道オタクでもある。この古い車輛は写真でしか見たことがない。列車と並んでホームを走った。新橋寄りの最端部で停車した。吉川は帰りのことを忘れて車輛をまじまじと見つめた。列車の前に立ち自撮りして喜んでいる。
「車掌さん、すいませんが一枚撮ってくれませんか?」
 吉川は車掌にスマホを差し出した。しかし車掌に無視された。
「何だよサービスわりいなあ」
 仕方なく車掌をバックに自撮りした。
「出発進行」
 運転席から声がした。
「乗りますか?」
「乗れんの?」
 車掌が頷いた。吉川は飛び乗った。電車オタクとして興奮していた。運転席の後ろに立ってビデオ撮影を開始した。当然横須賀線の特別列車だろうと思っていたらいきなり進行方向左手の擁壁が開いた。ガタンガタンとレールが切り替わり擁壁の中に入った。地下水が滝のように列車に襲い掛かる。
「USJのアトラクションかこれは」
 吉川は満面の笑みで撮影している。スマホの電池切れまで撮影し席に着いた。座席の背凭れと座椅子の割れ目に何かが挟まっている。取り出すと割箸である。
「あっ」
 自分がぶら提げている寿司おりを見ると同じ店である。
「あの女だ」
 捜している女もこの列車に乗っていた。
「迷い、迷い~」
 迷い駅に停車した。ドアに近付く男がいる。
「私は斎藤浩二と申します。木曜日の午後三時に八重洲地下のカレー屋に橘と言う男が来ているかどうか確認して欲しい。ビッグチキンカツカレーが好物です。お願いです」
 ドアが閉まった。
「何だあいつは。ところで車掌さん、これが落ちてたよ」
 吉川は車掌に割箸を左右に振って翳した。
「失礼しました」
 胸に野辺地とある。
「野辺地さんて言うの?もしかして青森の野辺地と関係あるのかな。俺さあ、客を追い掛けて行ったんだよ野辺地まで電車乗り継いで、そしたらさあ、大湊行の電車が日に数本しかなくてさ、ずっと待ってたことあった。あん時の立ち食い蕎麦屋はまだあるのかなあ?」
 野辺地車掌と野辺地駅が関係あると決め付けての質問である。
「蕎麦屋は知りませんがその割箸を落とされた方は覚えています」
「そう、どこまで行ったの?」
「逃げ駅で下車されました」
 あの女の足取りがつかめた。
「逃げ駅?起こしてくれる」
 睡魔が襲ってきた。野辺地車掌は無表情で首を横に振った。吉川は頬を叩いて睡魔と戦っている。

 京子は眠ってしまった。
「逃げ、逃げ~」
 列車がホームに滑り込む。京子は流れるホームを見ている。改札の向こうで赤い扇子が揺れている。停車した。揺れているのはジュリアナ扇子、長い髪にミニスカート、いわゆるワンレンボディコン、尻が怪しく揺れている。京子は列車を下りた。踊り子が居るならそれなりの店があるだろう。景気のいい街かもしれない。それなら自分の居場所もあるかもしれない。
「出発進行」
 運転士の透き通る声が聞こえた。京子は寿司おりを乱暴に掴んで飛び降りた。車掌と目が合った。京子は挨拶上がりのウインクをした。車掌は照れて目を反らした。改札に近付くとハミングが聞こえる。昔懐かしい明菜のTATTOO。スイカのタッチパネルが見当たらない。仕方なくそのまま改札を出た。尻振り女の後ろで見入っている。そして自分も身体を揺する。よく観ると足が短い、ミニスカートの下は脹脛である。本来なら下着が見えてもおかしくない丈である。それでもノリノリの女にイエーイと声を掛けた。女がゆっくりと回転する。
「ああっ」
 呑み込むべきだが声として出てしまった。ワンレンは額が禿げあがっている。そして肩が頭部に吸収され首が無い。京子に気付いた女は更に激しく踊る。齢は50代後半と読んだ。
「あんた名前は?」
 女が踊りながら訊いた。
「京子」
「そう、あたいは緑。あんたジュリアナ行った?」
 とっくに潰れて無い。京子は首を横に振った。
「もし東京に帰るなら行ってみな。蠍の緑って言えば只で入れてくれるよ」
「蠍?」
 女がミニスカートを捲った。刺青の一部が見えるが太腿が尻に喰い込んで全体像が分からない。女は尻の肉をつまんで持ち上げた。すると蠍の刺青が見えた。
「もう25年になるの、東京には戻らないって決めてから。来年には緑姐さん自慢の蠍も尻の中に消えちゃうな」
 緑は踊りを止めてずれ上がったミニスカートを下げた。
「あんたは何やったの?」
 京子は黙っている。
「あたいは男を騙し続けていたの。どうせ向こうも遊びだからこっちも遊びのつもりだった。だけどさあ、おかしな奴がいて、あたいのことを真剣に嫁にしようって馬鹿がいてさ、あたいにフラれて電車に飛び込んで死んじゃった。親も真剣だった。それで悩んでいたの。偶然よこの電車に乗ったのは。あんたあたしの踊りを見てこの駅で降りたんでしょ?」
 京子が頷いた。
「あたいもそうさ。電車の中からゴーゴーを踊る女が見えたの。改札の外で後ろ向きに踊っていたんだ。カッコ良かった。あたし等の先輩ってすぐに気付いたけどあんたと同じ、振り向いた姿を見て驚いた。本当は驚いちゃいけないんだけどね。人はみんな違う、大体が微妙に違う、鼻の位置や口の大きさとか、でも大きく違う人もいる。でも人はみな同じ、それが個性、個性に気付かずに驚くのはおかしいでしょ?でも気付いた時は大体タイミング遅し。気まずい空気が流れるとそれが澱んでいつまでもまとわりつく。ほらまとわりついているぞ」
 緑は笑いながら京子の身体に触れた。
「ごめんなさい」
 京子は緑の姿を見て驚き声を上げてしまった。これ以上人として恥ずかしいことはない。
「いいのよ、驚くのが当たり前。あたしねあと四年で達磨になるの。ほら道端に転がっている大きな石あるでしょ、あれみんな人間の成れの果て、あたいの将来」
 京子は足元を見た。ひとつが転がった。
「生きてんのよこれでも、脳は正常、転がることが出来るのはまだ成り立て、完全に固まると地べたと一体になるから」
「それでも生きてるの?」
「そうよ。永遠に」
「緑姐さんもそれを選択したの?」
「ああ、あたいが逃げたせいで死んだ男に一生かけて償う、そう決めた」
 緑がジュリアナ扇子をヒラヒラと煽いだ。
「あたしずっとキャバクラでホステスしてて、アレのでかいホストに惚れて金継ぎこんでツケが溜まってやくざが経営するソープランドに売られたの。そんで今夜が最初の晩で客を騙して逃げ出して来たの。そしたらホームに回想電車が入って来て飛び乗った」
 胸の内を晒してすっきりした。
「ひでえ奴だな、そいつ」
「でもあたしが惚れたからしょうがないって言えばしょうがない」
「それは違うよ。最初からあんたを騙したのさ。マラのでかさ利用して甘い言葉でも囁かれたんだろう・・・・図星だな?」
「初めは結婚しようって言ってくれた」
「だろ?馬鹿だよあんたも、自分が散々騙しておいて、その逆があることをすっかり忘れちまうんだ。この駅はそんな女や男の溜まり場だよ」
 緑が高笑いする。ススキの原っぱの中からも笑い声が聞こえる。京子はススキの原っぱに目を凝らした。多くの眼がこっちを見ていた。
「あれは?」
「心配ない。達磨になる途中の仲間さ。公安に見つかると食われるからみんなススキの原っぱに隠れて暮らしてんだ」
「緑姐さんは大丈夫なの?」
「人間に近いうちは大丈夫、食われやしないさ。人間を食うと閻魔に殺されるからね。足が完全に尻と合体した時が人間脱皮、連れて行かれて達磨食堂で潰されて食われちゃう」
 正常なら冗談と一蹴するが、緑の容姿を目の当たりにして、もしかしたら事実かと不安になった。
「緑姐さん、この辺にクラブはあるの?あたしこの地で生きてみようかな」
「止めろ、お前はまだ生きる資格がある。東京に戻ってもう一度やり直しな。騙した男のデカマラを捻り潰してやりな。ところでそれは何だ?」
 緑はずっと気になっていた。酢の匂いが微かに立ち上がる。
「これ?踏ん付けられた寿司。これを踏まれなければ回想電車に乗ることもなかった」
「そうか、それでその寿司どうすんだ?」
「食べる?潰れてるけど汚くない」
「ああ、食べる。この地は食欲が発生しないんだ。霞を食うとはこのことで、達磨になる決意をした時から何も口にしていない。でもあたいは寿司大好物だから食いたくなった」
「いいよ、食べよう、あたしもお腹空いた。あっいけない」
「どうした?」
「割箸を電車の中に落としたみたい」
「寿司は手で食うもんだ」
 京子が紐を解いておりを開けた。
「醤油は赤貝に多めに掛けろ、少ないと生臭いからな」
 二人は潰れた寿司を食い始めた。

 起こして欲しいと頼んだが車掌に断られた。吉川は迷い駅を過ぎるとすぐに寝入ってしまった。
「お客さん、お客さん」
 肩を揺さぶられて気が付いた。寝ぼけ眼で左右を見る。
「ああっ、よく寝た、起こしてくれたんだ。あんた意外とやさしいじゃん。これ食べる?」
 吉川が寿司おりの紐を掴んで軽く振った。
「すぐに発車となります」
 野辺地車掌はにこりともせずに言った。吉川はドアの前で左右を見た。そして上を見た。人を騙して生きて来た。誰かに見られていないかと常に気にしている。
「帰りは?」
「約二時間後に折り返しとなります。帰りの切符は必ず購入してください」
「OK,それじゃまた後で、ありがとう、本当はやさしい車掌さん」
 愛想をよくして人に好かれることが詐欺師の一歩である。味方につけた方が有利になると狙いを付けたら更に持ち上げて好感度を増す。吉川が改札前に行くと女が踊っている。赤いジュリアナ扇子を仰ぎ尻を卑猥に振っている。曲はハミング、明菜のTATTOO。少し息が上がっている。
「よっ、おねえさん、最高」
 吉川が声を掛けた。緑は踊りながら旋回した。
「よっ、おねえさん、たまんない」
 緑の容姿を確認しても驚くこともなく、また態度に変化もない。緑の踊りに合わせて一緒に腰振りダンスを始めた。尻と尻を合わせて笑い合う。胸を突きだして左右に振り合う。
「あっははははっ。楽しい、久々こんな踊った。疲れた」
「俺も、ねえさんダンス上手いな。それってジュリアナのダンスだよね、テレビで見たことあるよ。おねえさんはそこの常連でしょ」
 顔が付くほど近付けて笑い合う。
「蠍の緑って少しはうるさいよ」
「蠍?」
「見る?」
「見たい」
「チャチャチャチャチャ~ン♪」
 オリーブの首飾りをハミングしながらミニスカートを少しずつ捲った。蠍の尾だけが見える。太腿が尻に喰い込んでいるのでその尻の肉を持ち上げた。
「ワ~オ」
 吉川が舌を出して鼻を舐めた。
「見えた?」
「最高、蠍の緑姐、お見それしました~」
 吉川が煽てた。
「あんた面白いね」
「緑姐がそうさせるんだよ」
 ハイタッチした。緑の指は第一関節が既に吸収されている。
「あれ、姐さんささくれ」
 吉川が緑の指を掴んでささくれを歯で食い千切った。そして持ち歩いているリップクリームをささくれの痕に塗った。
「あんた恐くないの?」
「何が?」
「あたいだよ、あたいの容姿を見て恐くないのかい?」
「どうして?」
「どうしてって、足も手も短くなってさ、額も禿げあがって落ち武者みたいだし、首もないし。あんた、精一杯無理してんだろ?」
 吉川が笑いながら首を横に振った。
「姐さんは心のきれいな人だ。俺さ、詐欺で人をだまくらかすのが商売でさ。騙す相手も大概が腹黒い。だからいい人は分かるんだ、姐さんは心のきれいな人だよ。だから俺はすぐに腹割って仲良くなれたんだ。手も足も関係ないね俺からすれば。姐さんみたいな人と一緒にいられると最高にハッピーだよ」
「口が巧いよこの子は」 
 世辞と分かっていても嬉しかった。もしかしたら死んだ男のために生きていることで何かが抜け落ちたのかもしれない。
「ところで姐さん、昨夜女を見なかったかな、中肉中背、齢は20代後半から30代半ばまで有り、顏はそんなによくない。どっちかって言ったらブスの類」
 緑は京子のことだとすぐに分かった。
「ブスで中肉中背?いたかな」
 とぼけた。この男と一緒にいたい。京子に会わせると自分の前から去ってしまう。
「そうかい、いやね、車掌が寿司おりを持った女が逃げ駅で降りたって言ったからさ、追い掛けて来たんだけどまあ仕方ねえや。帰りの電車が来るまで姐さんとだべっていよう」
 京子は緑が紹介したクラブにいる。まだ決心の付かない人間が屯している店である。緑もそのクラブで25年悩んだあげく達磨になる道を選んだ。
「しかし殺風景だねえ、落ち着いて話せる店はないのかい姐さん?」
「ススキの原っぱを進めば何件かあるよ」
「なんでそんなとこに?」
「公安だよ。公安は原っぱに入らないからね。ススキの胞子がアレルギーなんだよあいつら。だから人間も達磨も原っぱに店を作るのさ」
「そうかい、なんでもいいや、俺が奢るから一杯やろう姐さん。まだ一時間ほど上り電車まで時間がある」
 緑は京子と鉢合わせになるのが心配だった。吉川が帰るまで一緒にいたい。
「あたいはあんたとこうして歩いていたい。なんか昔を想い出したよ。生意気な弟がいてさ、あんたより少し上だと思うけど今頃何やってんだか。やくざかチンピラだろうけどね」
「へえー、会いたいかい?」
「そりゃたった一人の弟だからね」
「よし、帰りの電車で一緒に行こう。なーに、もし弟が冷たい仕打ちしたらずっと俺んとこに居りゃいいさ。アパートだけどな、ちゃんと風呂もある」
「あんたいい男だね、でも無理な話さ。あたいはもうこの町から出られない。覚悟したんだ。あと四年で達磨になっちまう」
「達磨になったら棚の上から見守ってくれればいいんだ。よし、切符を買わなきゃな、車掌がしつこく言ってたからな。姐さん切符売り場どこだい?」
 駅に戻り辺りを見回した。その時ガラガラと切符売り場のシャッターが開いた。
「あんたのために開いたんだよ」
「姐さん待ってろ」
 吉川は売り場に進んだ。
「東京二枚」
 駅員は不思議な顔をしている。
「聞こえた?東京二枚」
 吉川は声を荒げた。
「あんた、公安が来るよ。もういいよ」
 緑が止めた。
「あんた、あの時の」
 吉川が振り返ると京子が立っていた。
「緑姐さん、どうしたの?」
 吉川が緑と一緒にいるので不思議に感じた。
「おう、捜してたんだあんたを。俺の足元に寿司おり挿し込んだ張本人」
 吉川が京子をからかった。
「それでどうしてここに?」
「気になってな。あんたと俺は同類に思えたんだ。大した悪じゃねえが人をだまくらかして生きている。それも番たび成功するわけじゃねえ、どっか抜けててドジ踏んじまう。寿司おりを踏んだのもそうだ。ごった返した東京駅、どうしてあんたと俺なんだ?不思議に感じてな。一言あんたに謝ろうとこれ、ぶら提げて来たってわけよ。悪かったなあんたを終電に乗せられなくて。この通りだ謝る」
 吉川が深く頭を下げた。
「もういいよ。あたしもあんたが気になっていた。ここまで来てくれてすごくうれしい。緑姐さん、あたし東京に帰ることにしました。もう一度やり直してみます」
「ああ、それがいいさ、あんた達お似合いだよ。追われることない土地に行ってさ、騙した垢が抜け落ちるまで真面目に働けばきっと神様は許してくれるよ」
「緑姐さん」
「さあ、東京行がくるよ。これを逃すと明日までないよ」
 吉川が売り場に戻った。
「東京駅三枚」
 駅員が首を振って二枚を差し出した。
「三枚だって」
 吉川の声より早くシャッターが閉まった。吉川は一枚ずつ親指と人差し指で挟んで二人の前に差し出した。
「二人で行けよ東京。俺は明日までいる。もし帰れなくてもいいさ、待ってる奴はいねえし。さあ」
 吉川が二人を急かした。緑が吉川の頬を張った。京子の頬も張った。
「目を覚ますんだよ、達磨はあたい一人でいいさ」
 そう言って二人の背を押した。二人は緑を気にしながら改札を潜り線路を渡る。すかさず列車が入って来た。
「切符を拝見します」
 野辺地車掌が鋏を入れた。二人は乗り込んで改札に目をやった。
「出発進行」
 背を向けて踊る緑の赤いジュリアナ扇子が震えていた。



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