やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 25

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「あれ、お店閉まっていますね、定休日ですか?」
 崩れて埃まみれの塩は風に飛ばされて跡形も無かったが、掃除をした形跡はない。二回クラクションが鳴った。その方角に目をやると今度は二回パッシングをした。明らかに俺達を誘っている。助手席からよし乃のパトロンが降りてきて俺達に軽く頭を下げた。
「どうも先日は失礼しました。あいにくよし乃は体調を崩して店を閉めております。これからよし乃を見舞いに行くところなのです。彼女の身のまわりのものを部屋に取りに来たのです。どうでしょう、お時間があれば見舞ってやってはもらえないでしょうか?」
「ええ、それはもう」
「それは喜ぶ、さあどうぞどうぞ、送りますから」
 パトロンは親切に後部ドアを開けてくれて、ジョセフ神父のコートの裾に気を使いながらドアーを閉めてくれた。革張りの包み込まれるようなシートに座るとバックミラーに不適な笑みを浮かべたさぶろーが俺と神父を交互に見やっていた。
「徳田さんでしたよね確か、中学の先生をなさっている。何か警察でよし乃のことを尋ねられたとか?」
 こいつは俺が投函した封書を読んだに違いない、よし乃から聞いたふうを装っているがそれを隠している。
「警察は何を?」
 警察での事情聴取が気になるようで繰り返し俺に聞いてきた。
「あなたの部下ですか、後ろから刺されてドブに投げ捨てられた趙元勲さんは?」
「社長が質問してるんだよ先生、めっ」
 乳飲み子を叱るようにサブローが言った。
「警察は趙さんを殺した犯人を捜索しています。俺も趙さんと飲み仲間だったせいか容疑者のひとりになっていました、疑いは晴れたようですけど」
「それでよし乃を疑っているのですか警察は、ばからしい」
「俺は趙さんに一度助けてもらったことがあるけどいくら泥酔しても女性に刺されるようなやわなひとじゃない」
 ベンツは焼却場の脇を通り越し、山の上にあるカントリークラブの駐車場に停まった。
「神父さん、先生、私は野暮用を済ませてからすぐに行きます。さぶろー頼んだぞ」
 ゴルフ場の駐車場に車が一台停められていた。パトロンは脚線美を誇るジャガーに乗り込み発進させた。
「クックック、だけどずんぐりむっくりの社長にジャガーは似合わないよなあ、なあって先生よう」
「早いとこよし乃さんのいるとこへ連れて行ってくれないかなあ」
「そんなにあのおばさんの身体が恋しいってかクックッ」
 社長が同乗しているときとは一変して粗暴な運転になった。下り坂のカーブをタイヤを軋ませながら猛スピードで下っていく。俺と神父は身体をそれぞれのドアー側にへばりつけ足を突っ張り転がらないように固定した。乱暴だが運転技術はS級で不安はなかった。暴走ベンツは紫陽花寺から踏切りを一時停止もせず渡り、モノレールの下を鎌倉山に向かった。地元住民しか知らない海岸に出る近道に入り、坂道を右折した。
「おいさぶろー君、俺は地元だからよく知ってるけどこの先は行き止まりだし医者も無ければ別荘もないよ。こんなとこによし乃さんがいるのかい?」
 さぶろーは返事もせずに肩を震わせ笑っている。崖っ淵で海の見える、車二台しか止めるスペースのない空き地に急停車した。
「飛び降りるんだ」
「くたばれいんちき野郎」
 ジョセフ神父が俺の肩を押すのとさぶろーのナイフを振り出すのが同時だった。神父は車が急停車したときには既に危険を察知していて飛び降りる準備をしていた。ジョセフ神父が肩を押してくれたおかげでさぶろーの一撃は躱せたが、ロックを解除してドアノブを引く前にさぶろーの二撃を肩に受けてしまった。転がるように車から降りた俺は痛さで起き上がることができず唸って地べたを転げ回った。
「やっちん先生大丈夫か」
 俺を抱え上げた神父にさぶろーの鋭い回し蹴りが空気を振動させた。神父はコートをマントのみたいに翻して後方に回転して薙刀のようなさぶろーの蹴りをかろうじて避けた。
「へーっ、やるじゃないのいんちき神父が」
「やっちん先生これを傷口に強く巻いて止血しなさい」
 大きなハンカチを丸めて、唸っている俺に投げてよこした。押さえていた手が血でべたべたする。ハンカチの先端を口にくわえTシャツの上から一周回してきつく縛り付けた。痛みは変わらないが止血したせいでいくらか気が楽になった。
「いんちき先生はあとでゆっくりと料理してその谷から転がしてやるからな、他所の人の女を寝取ると痛い目に遭わされるんだよ、覚えておきなさい、くっくっく」
 神父とさぶろーは三メートルの間隔を取り対峙している。さぶろーは刃渡り20cmほどの細長いナイフを手のひらで器用に回転させて神父を威嚇している。神父は両手を大きく広げそれを交互に上下させている。拳法を使うようだ。さぶろーの回し蹴り、ナイフ突きが二回連続して神父を攻め立てた。一回目の連続攻撃は余裕を持って躱せた神父だが二回目は間一髪だった。三連続だったら神父の咽喉元に突き刺さっていただろう。単調な連続攻撃のようだがスピードがそれを上回っている。態勢を立て直した神父はまた両手を大きく広げ左右の手を交互に上下させる構えに戻った。神父が両手を上げるとコートの裾が広がりムササビが滑空しているように見える。カウンターを狙っているのか、さぶろーの攻撃パターンを読んでいるのか自分から攻撃を仕掛けない。二人の間隔は詰まりも広がりもせずゆっくりと時計回りをして相手の出方を探っている。焦れたさぶろーが得意の回し蹴り、ナイフ突きの連続攻撃を開始した。一回目、神父は余裕を持って大きく躱した。二回目、回し蹴りをかろうじて躱したがナイフの先端が神父の鎖骨あたりを掠った。ベージュのコートの襟から胸にかけてどす黒く変色していくのが月明かりだけでも確認できる。三回目、蹴りを躱した神父は、はだけたコートを胸の前で合わせ、そして広げた。奇妙な動きにナイフ突きのタイミングを外されたその瞬間に神父の左足が大きく突上げられ、踵落しがさぶろーの首筋に炸裂した。捩れ倒れるさぶろーの眉間に強烈な膝蹴りがはいった。前のめりに倒れかけたさぶろーはその一撃で後ろに飛ばされた。首が奇妙な形に折れ曲がり目を開いたままぴくりとも動かない。
「やっちん先生、大丈夫ですか」
 神父は俺が結んだハンカチをはずし、Tシャツを捲り上げ傷口を月明かりに照らした。
「傷は結構深くて広い、医者に行った方がいいですよ。もしかしたら傷痕は残ってしまうかもしれませんよ」
 ハンカチをやさしく結び直してくれた。
「神父こそ、大丈夫ですか、血が染みてきてますよコートに」
「ああ、これくらい全然問題ありません。戦場だったら誰も相手にしてくれない程度の傷です」
 神父はそう言うとさぶろーの口に手を当て俺に首を振った。見開いた大きな瞳は神の使いによってやさしく閉じられた。
「やっちん先生、車拾えますか?」
 海岸まで出ればタクシーが拾えます、もしだめなら友達を呼びます」
「友達に連絡するのは止めた方がいいでしょう、嘘をつき通すのは辛いでしょうから」
 神父に抱え上げられるように立ち上がると海岸線に向かって坂道を急いだ。江ノ電の踏み切りの手前で運良く品川ナンバーのタクシーが停まっていた。「大船まで」
「すいません、この辺りあまり詳しくないもので路教えてくれますか」
 運転手は俺達が気になるのか、ミラーを必要以上に覗いている。それでも傷のことには口出しせず、俺が指示する路を確実に進んだ。
 サラマリアさん宅の駐車場でタクしーを降り、ポストに落としたキーを引っ張り出して徹平の軽トラに乗り込んだ。
「運転大丈夫ですか?代わりましょうか」
「いや、大丈夫です、痛みも落着いてきたし問題ありませんが、どうしますこれから、警察にありのままを報告しますか」
「やっちん先生、それは一日待ってくれませんか、警察沙汰になると面倒な理由がありまして。取り合えず電話をしたいのであまり人通りのない電話ボックスでもあったら停めてくれますか」
「進行方向はホテルでいいでしょうか?」
 ジョセフ神父はコートの内ポケットをまさぐりながら頷いた。
「しかしやっちん先生、あなたも私以上にかなり複雑な人間関係がお有りのようですね、それも生命までかけたやばい関係が、彼等とはどういった?、あなたを救うために殺人者になったのだからそれくらいは話してくれてもいいのではありませんか。可哀想なことをしてしまった」
 よし乃のパトロンとさぶろーとの関係について改めて神父に説明するような事実はない。元はと言えば徹平と飲みに出かけたのがここまで発展してしまったのだ。しかし命まで狙われて知らないでは済まないと思った。
「サラマリアさんの亭主の山田が脱走して彼女が襲われた事件はご存知ですよね?」
「ええ、あなたは二度もドブネズミを退治したヒーローであるのはよく存じています。学校職員というのは表の顔で、本業は飛び道具を使いこなす裏の仕事人だって徹平さんから聞いています」
「あのやろう、実は最初に山田とドブで対決したとき助っ人してくれた韓国人の男性が刺されて死にました。俺の飲み仲間だったんでショックを受けましたが、その容疑で俺も警察から事情を聞かれました。そのときよし乃も調べている口調だったので心配になり店の五階にある彼女の仮住まいに行ったら、さぶろーが出てきて例のごとく挑発を受けました。翌日も店は閉められていたので心配だから云々と書いたメモをポストに投げ込んでおいたのです。メモに記した期日が今晩だったので神父にも付き合ってもらったわけです。そしたらこんなことに、とんでもないことに巻き込んでしまって申し訳ありませんでした」「先輩を殺った犯人を警察は追っているのですね?」
「山田は『よし乃』に二度行ってます、いずれも彼女から知らされたのですが、二度目に山田が来たと電話があった晩にサラマリアさんが襲われたのです。その電話で俺達は胸騒ぎがして駆けつけ、サラマリアさんを追い詰める山田をなんとか取り押さえることができました。間一髪でした。俺は山田が復讐のために先輩を殺ったのだと決めつけていましたが、警察の調べで、奴には完璧なアリバイありました。奴がよし乃に顔を出したのはサラマリアさんの動向を探るために利用したのであってそれ以上の意味はないようです。いくら酔っていても素人では彼に太刀打ちできないでしょう」
「さぶろーだったら?」
「可能性はあるでしょう、だが、先輩は彼等の配下です。どうして殺されなければならないのか分かりません。
「もうやめましょうやっちん先生、私達が色々想像したところで解決する問題ではありません。それより身を守るためとはいえ人を一人殺してしまったのですから逃げる算段をしましょう」
 神父は電話ボックスを指差して話を区切った。神父の電話は長く、テレフォンカードを何枚も入れ替えていた。
「やっちん先生、お願いがあります。これからホテルによって荷物をまとめ、チェックアウトします。そのあと本牧埠頭まで私を送ってください。やっちん先生、逃げるようですいませんが私は取り敢えず日本を離れます」
「日本を離れるってフィリピンに帰るんですか?」
「まだ行き先は決めていませんが国には戻らないでしょうねえ、やっちん先生程じゃありませんが私も裏の付き合いが多いのでこういうときには非常に助かります」
「ジョセフ神父とは折角友達になれたのに残念です。また飲み仲間が減ってしまいます」
「私も残念です。あなたとは長くよい関係が続けられそうな気がしていただけに寂しい。でも生きていればいつかきっと廻り逢えるでしょう」
 ワシントンホテルの前で車を停めるとサラマリアさんが神父のコートを腕にかけて待っていた。神父はタガログ語でサラマリアさんに礼を言ったようだ。歩道でコートを着替えて、血がべっとりと付いたコートを丸めて助手席の足元に投げた。ある程度の状況を電話で聞いていたのか、心配そうに神父を見つめていた。
「徹平は?」
「ネテル、イビキウルサイネ、デモダイジョブ」
 意味のない質問にやさしく答えてくれたが、神父がホテルに消え、二人きりになると沈黙が続いた。明日フィリピンに帰るのか確かめたかったが、確かめたところで俺にどうすることもできないし、それが本当であったならそれこそ窮地に立たされる。
チェックアウトを済ませた神父が両手に抱えたバッグを荷台に放り投げた。タガログ語で短い言葉をかけられたサラマリアさんの目から飴玉のような涙がボロンボロンと零れ落ちた。
「行きましょう」
 神父は俺に車を出すよう促した。「サヨナラ」と言って俺に手を振ってくれたが、咄嗟の判断が鈍い俺はどう応対していいのか戸惑い、「じゃあまた」といつものように軽く手を上げて車を発進させた。短く発せられたサラマリアさんの『さよなら』には永遠の別れが込められている感じがした。
「明日午後四時四十分のフィリピン航空です」
「ジョセフ神父ですか?」
「いえサラマリアです」
 彼女の帰国が現実であると叩きつけられました。
「サラマリアさんは徹平に話したのでしょうか?」
「さきほども言ったとおり黙って帰るでしょう」
 頭が混乱して青信号を確認してはいるが発進するのを忘れて固まってしまった。
「先生、青」
「どうして、どうして帰るなら帰るで別れを惜しんでくれないのかな、徹平の彼女に対する想いに嘘はありません」
「そうでしょう、私も彼の純情な愛に偽りはないと信じています。彼女は徹平さんのことで一番悩んでいました。虫けらのような男から受けた暴力、蔑み続けられた日本での毎日、その虫けらから授かった天使、最愛の娘の不幸な死、人生のほんの短期間で襲ってきた辛い試練。死の淵からあと一歩のところで神からのアドバイスを受け、なんとか思いとどまり、生まれてくる天使と、両親と共に生きる決意をした勇気ある彼女に、私のようなチンピラ神父に入り込む余地などありません。ただ身体を大事にとか、子供のために頑張って生きてくださいとか、誰でも思いつく同情の言葉を、嘘臭い笑顔を振りまいて吐き捨てる以外にないのです。生きるという勇気ある決断をした彼女に日本での生活はもう無理でしょう。もし徹平さんに話したら彼はその責任感から一緒にフィリピンに行くと言い出すに決まっています。だからサラマリアは彼には何も告げずに帰ると泣きながら私に告白しました」
 車は首都高速本牧インターチェンジの前を通り越しAB突堤に向かっている。
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