やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 23

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 よし乃に行くと店は閉まっていた。もう七時を回っているのに、この時間に開いていなければ休みだろう。何日か前に盛られた玄関の塩が崩れて砂埃と交じり合っている。たぶん俺に電話してきた晩以来開店していないかもしれない。五階へ訪ねてみようか、もしパトロンがいたらどうしよう。『こんにちは』ってごまかすのも可笑しなもんだろう、それによし乃に気を使わせてしまうだけだ、邪道だろうと外道だろうと責任と力を持った男に惚れる、責任の取れない薄っぺらな男を彼女は嫌う、俺がその典型だ。彼女が俺に身体を許したのは愛というには程遠く、動物が、男が、女が、肉欲を貪りたくなる欲求を満たしただけだ。でもこのまま帰るのも薄情な気がする、取り敢えず寄ってみて留守なら出直せばいい。ドアの前に立つと中から微かだが音が聞こえる。耳をすますとジャズで、トランペットとピアノのデュオのようだ。ベルを押す。覗き窓の向こうから俺の様子を窺っている気配を感じる。しかしドアは開けてくれない、もう一度ベルを押す。ドアが細く開けられた、でしゃばりなトランペットが我先にと隙間から俺の耳にとびこんできた。ドアが大きく開けられた。控えめだったピアノは俺の身体を優しく包み込み、主役であるのを主張した。
「おばさんはいねえよ。残念でしたくっくっく」
 さぶろーがシルクのブリーフ一枚の姿で言った。胸には十字架に蛇が絡みついて、神様を頭から齧りついているゴールドのネックレスをぶら下げている。「彼女いつ帰ってくるか聞いてるかい?」
「おばさんになんか用か?社長に叱られるぞこの悪戯坊主くっくっく」「ちょっと事件があってさ、警察が来たらしいからどうしたのかと思って寄ってみたんだ、店も開けてないようだし、君が考えているほど下衆な用向きじゃない。友達としていなけりゃあ心配するのが自然だろう」
「くっくっく、下衆な倅がそう言ってるのか、このベル押したときからビンビンじゃないのか、やりて~えやりて~えって、くっく」
「ふっ、話にならねえようだな、お兄ちゃんね、大人をからかうとお仕置きするぞ。また寄るからそれまで反省していなさい」
 俺は後ずさりしながら奴を挑発した。卑猥なパンツの後ろに差し込んでいた鋭利なナイフを俺の喉元に突き出した。タイミングよく宅配の配達員がエレベーターで五階に下りた。不思議そうに俺達を見つめたが、すぐに状況をさっして、関わりになるのを恐れそそくさと目標の部屋を探し始めた。俺はすぐにエレベーターに飛び乗り1階のボタンを押した。そうでなければ部屋に引きずり込まれて切り刻まれてドブに捨てられていただろう。
「おーい、あの発展途上国の神父に言っとけ、ケツ舐めろ、カークックックッ、カークックッ」
 エレベーターが動き出すまでさぶろーの気味の悪い笑い声が耳に残った。もしトカゲが声を出すならばあんなふうに笑うだろう。よし乃はパトロンとゴルフ旅行にでも行っているのだろうか、きれい好きなよし乃が店先をあんなだらしなくしたまま出かけるはずがない。それにさぶろーが彼女の部屋を占拠しているのもおかしい、いくら留守にするからといってもあいつに部屋を任せたりはしない、なにもなければいいがどうも気になる。それとも俺の取り越し苦労か、ならいいが明日また寄ってみよう。でもまたさぶろーが顔出したらどうする、今度もうまく逃げられる確信はない。勝ち目はなくても一太刀ぐらいは浴びせてやりたい。斧でも担いでいくか、重くてだめか、振り下ろしたときには喉をパックリと裂かれてしまうだろう。ああ止めた、頭が痛くなってきた。
 俺はいつのまにかドブ川を越えて山田宅前の砂利敷きの駐車場へ来ていた。アパートを見上げると灯りはなく、サラマリアさんはまだ帰宅していない。教会と自宅の往復で一日を費やしているらしい、焼き付いたあのグラウンドの出来事を忘れるために。教会ではジョセフ神父が、アパートでは徹平が、それぞれの立場から愛と責任において彼女を守っている。もう八時を回っている、徹平がサラマリアさんを軽トラックに乗せて教会から帰ってくる頃だろう。待っていようか、それとも邪魔しない方がいいか。悩んでいると聞き覚えのある軽自動車のエンジン音が駐車場に入ってきた。俺は柳の陰に隠れてそのヘッドライトを目で追った。階段の下に横付けされた車からチビが降りてきた、徹平だ。徹平は助手席側に回りドアを開けた。サラマリアさんがゆっくりと徹平に支えられるようにして車から降りた。徹平が何か話しかけるとサラマリアさんはやさしい笑顔を見せた。徹平は荷台に積んである大きな袋二つを片手に持ち、もう一方の手で階段を上がるサラマリアさんをエスコートしている。スーパーで買い物でもしてきたのだろう。サラマリアさんの笑顔を一瞬でも見れたのはここまで来たかいがあった。俺がしゃしゃりでてもいいことなんかありはしない、サラマリアさんから、或いは徹平かジョセフ神父から招待があるまで彼女に会うのを控えた方がいいだろう。よし乃のマンションを見上げる、小さい灯りが見える、さぶろーが彼女のベッドに横たわり、高級ブランデーでも舐めているのか、俺とよし乃が一晩中重なり合ったあのベッドで。
 翌日もよし乃の暖簾は表に出ていなかった。俺は予めうちで書いてきた伝言をエントランスにあるポストに入れた。『よっちゃんへ、俺は君にまとわりついているのじゃないってことだけは信じてくれ。案内もなく店を閉めたりしているから、どうもいつもの君らしくないと思って来たんだ。余計な心配かと考えもしたが、でしゃばりな性格なもんですまない。実はね、警察に呼ばれて行ったんだけど、警察が君の店にも顔を出したと聞いたので益々心配になってしまったんだ。先輩を刺したのは君が連絡してくれたあの山田じゃなくて他にいるって言うんだ。俺の知り合いの刑事の話だけど山田のアリバイはしっかりしていて信用できる。俺もその容疑者の一人にあげられてるらしくて、手厳しい質問を受けたよ。だからよっちゃんにもその火の粉がかかったんじゃないかと心配しているんだ。よっちゃんお願いだ。君の安否だけでも知りたい、もしこれを読んだのなら店の前の崩れた塩をさらってくれないか、電話なんかしなくてもいいから、あの埃にまみれた塩をさらって欲しい、それで俺も安心できるし、踏ん切りもつく。ただし、二日以内にそれがなければもう一度五階を訪ね、留守番している彼に問いただすつもりだ。やっちん』ポストには郵便物がぎっしりと詰まっていて、さぶろーにもひとのプライバシーを踏みにじる趣味はないようで安心した。
 マンションを出て、昨夜と同じ柳の下で彼等の帰宅を待っている。今日は学校に行ったが吉川さんにお願いして早退させてもらった。俺がいてもいなくても体制に影響はないといった感じで『どうぞ、どうぞ』と彼女は言った。別に用があるわけでも、体調が優れないわけでもなかったが、何もする気が起きず、かといって小屋に隠れているのも納税者に申し訳なく帰宅した。明日からはさぼらずに与えられた仕事をこなそう。
 駐車場に車が入ってきた。徹平の軽トラックだ。昨夜と同じように助手席側に回り、ドアを開け、一言声をかけるとサラマリアさんは昨夜と全く同じ笑顔を見せた。今日の笑顔の方が長く、そして僅かだが声まで聞こえた。徹平の責任を持ったやさしさが確実に彼女を回復させているのだ。徹平がサラマリアさんの腰に手を当て、死の淵から一歩ずつ、一歩ずつ離れていくようにエスコートしているのだ。懸命で駆け引きのない徹平のやさしさが彼女の辛い過去を解してくれるのだ。階段の途中で立ち止まりこっちを見ている。一緒に立ち止まったサラマリアさんを促して上り始めたが撤兵の視線は部屋に入るまで俺から離れることはなかった。見つかってしまったかもしれない、柳に隠れているから俺の顔までは確認できていないはずだ、とぼけてしまおうか。よし乃のマンションを見上げると昨夜と違う灯りがついている、レースのカーテン越しに複数の人影が動いた。

「校長先生、おはようございます。毎日ごくろうさまです」
「やっちん先生あなたこそ毎日ごくろうさまです。暑いのに生徒のために頑張っていただいて、本当に頭が下がります」
 俺は校長室の窓から、机に俯いた校長に精一杯明るく挨拶したが逆に労われてしまった。足元にはコーラのペットボトルとポテトチップがドライフラワーのように乾燥した花束と一緒にエバに捧げられていた。毎日窓を開けるたびにエバに添えられた花束や菓子が校長の目に入る。
「今日は花壇の手入れですか、しかしこのヒマワリは大きく伸びましたね、そこであなたと並んで立っていると恋人同士に見えますよ、それも飛びきり美人の」
 校長の言う通りこのヒマワリはよく伸びた。エバの悲しみの一部始終を目撃したこのヒマワリは俺の肩まで伸びてグラウンドを見下ろしている。
「こんないい女が嫁に来てくれりゃあいいんですけどねえ、現実は厳しいっすよ校長。ところで校長、今日は一日おられますか、うちからスイカ持って来て冷やしてあるんですよ」
「スイカもいいですけど、しばらくこっちもご無沙汰していますねえ、どうですか、お仕事が一段落したら一局」
 校長は指に駒を挟んで盤に打ち下ろすジェスチャーを見せて俺を将棋に誘った。
「望むところですよ、そしたら四時には花壇の草刈も終えるのでスイカ持って伺います」
 俺は麦藁帽子をかぶり昼食も摂らずに草刈に没頭した。何も考えずレンガで仕切られた花壇の内も外も雑草の全てを毟り取った。雑草の中には人間が手を加えて美しく作り上げた花より可憐な花を咲かしているものもある。しかしそれを残してしまうと派手な人造花が目立たなくなってしまうので、可哀想だが草と一緒に根こそぎもぎ取ってしまう。毟り取った雑草は重ならないように半日間日干しにしておく。最後に集積してドラム缶で燃やす、南風に乗った真っ白い煙が辺りの害虫を燻して垣根内を這い回る。風がやむと白煙は真っ直ぐに立ち上り、はぐれ雲に合流する。午後三時をまわった。汗でぐしょ濡れになったTシャツを小屋で脱ぎ扇風機の前で暫く涼んだ。扇風機を強にして抱きかかえるように風を受ける。冷凍庫からアイスノンを取り出しタオルに包んで頭に巻きつける。二の腕に赤い蟻が肩をめがけて這い上がってくるので親指と人差し指でつまんで潰した。指にはいつまでもごろごろとした感触が残る。汗が引きべたべたした身体をタオルでパタパタと叩いた、プールに行ってシャワーでも浴びてくればさっぱりするのだがそれも面倒臭い。もうこれ以上冷やしたら凍りつくしかないビールを一気に煽り、四分の一に切ったスイカを持って校長室に向かった。
「あっやっちん先生、少し気分がすぐれないので先に帰りますと校長先生から伝言がございます」
 挨拶程度で、会話をしたことのない社会科担当の中年の教師が素っ気無く言った。
「そうですか、それじゃあしょうがないなあ、先生スイカ食いますか?校長と将棋でも指しながら齧り付こうと思って持ってきたんですけどよかったらどうですか?」
「いいんですか、こりゃあ美味そうなスイカじゃないですか、遠慮なくいただきます」
 社会科の教師は実が詰まり爆ぜてパックリと口の割れたスイカに見惚れていた。俺がどうぞと渡すと、さ、さ、さ、さ言いながらと奥の流しに入っていった。
「失礼します」
 流しから「はーい」と気のない返事が聞こえた。俺は体育館に行き、週刊誌に夢中になっている工事責任者の若い監督に戸締りと火の元の確認をしっかり言いつけた。
「わっかりました、煙草の吸殻等の確認と清掃は職人達にきっちりやらせますのでご安心下さい。施錠は僕が最後に確認してから帰ります」
「火の始末も掃除も自分でやりゃあいいじゃないか」
「はっ、何をですか?」
「火の始末も掃除も自分でやりゃあいいじゃねえか、週刊誌眺めてる暇があるんだからよ。自分でやりゃあそれだけ早く終わるじゃねえか。外に言って見て来い、顔から首まで真っ黒になった職人、あんたのおやじかじいさんほども齢取った職人達をよ。たまには早くあがらせてやって冷えたビールでも飲ませてやったらどうだ。それにもう高所作業は終わったんだろ、排水溝の直しをやるのにヘルメットなんか被らせなくたっていいんじゃねえのか、なんか天から降ってくる予定でもあるっていうのか?」
「はあ、一応ヘルメットと安全バンドの着装は規則なんですよ」
「なにっ、ようしわかった。おめえが涼しいとこにぶっつわって週刊誌のグラビアに興奮してるって会社に電話しておく」
「いやあそれは勘弁してください。それと安全バンドはともかくヘルメットは被らせないと労働基準局の視察にぶつかるとまずいんですよ」
「どうして?上部の作業は全て終わったんだろ、足場もないし誰も上がっていく奴はいないんだろう?ならどうして地べたの作業するのにヘルメットがいるんだよ。納得のいく説明してみろ、明後日からクラブ活動でこの体育館を一部の子が使うのあんたも知ってるだろ、だから昨日までに上部の危険作業は終わらせたんじゃねえのか、ここを使う子供達にもヘルメット被れっていうのか、えっそうだろう、真っ黒になったとっつぁん連中に日除けの麦藁帽子でも買ってやれ、わかったか」
「はいっ、わっかりました」
 俺は校長が黙って帰ってしまったことに腹を立てているわけじゃない。俺に黙って帰らなければならないまでに気を使っている校長に同情と怒りが混ざり合って若い監督に理不尽な言い掛かりをつけてしまったのだ。それに自分は遊んでいるくせに年配の職人に命令口調で物事をいいつけるさまに尚更腹が立ってしまった。表に出ると一輪車でU字溝の蓋を運んでいる『吉田-O型』とヘルメットに書かれた真っ黒の青年と擦れ違った。
「暑いね」
「ダイジョブ、フィリピンモットアツイ」
 真っ黒の顔に真っ白な歯を浮かべてフィリピン人の吉田君は笑った。


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