やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 21

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 暑苦しい小屋でビールを飲んで、そのまま眠ってしまい、何もせずに一日が終わってしまった。徹平の口癖である税金泥棒そのまんまだ。うちに戻ると玄関にバカでかい靴が行儀良く揃えてある、その靴は俺のよりでかい。うちの来客に雄二以外そんな靴を履く奴はいない。
「先生お帰りなさい。二階に雄二君あげておいたわよ、先生に相談があるからって言うから。スイカでも切ってあげましょうか先生?」
 小学生のときまで雄二は俺をやっちん兄ちゃんと呼んでいたが、中学に入学してからはやっちん先生と呼ぶようになった。おふくろは生徒達が俺を先生と呼ぶたびにからかうが、案外それに満足しているようだ。俺が教師になるのを夢見ていたおふくろだが、大学通学三日目でその夢は崩れ落ちた。
「ああ、そうしてくれたまえ、ついでにアイスコーヒーもお願いしよう」
 俺とおふくろは顔を見合わせて大笑いしてしまった。
「こんにちは、お邪魔しています。先生の部屋に入るの久々ですよ。一年ぶりぐらいっすかねえ、全然変わっていませんね。書棚の本もそのときのまんまですね」
「読んだ本は相当数にのぼるが、これ見よがしに書棚に飾っておいても意味が無い。知識を共有してこそ真の教育者じゃないかね」
 雄二が笑って大きく頷いた。こいつの笑顔は暫く見ていなかったのでとても嬉しかった。
「ところで雄二、おまえ怪我はなかったのか?ドブに飛び降りたとき足は大丈夫だったのか?」
「ええ、どこも異状はありませんでした。警察に行く前に病院で検査しましたがかすり傷ひとつありませんでした。山田さんも、赤ちゃんも無事でした」「ああ聞いた、それがなによりだ」
「ただ寝不足で思うようなピッチングが出来ずにチームに迷惑かけてしまいました」
「負けたのか?」
「いいえ三対二でかろうじて勝ちましたが俺は五回で降板させられました。悔しかったんですがあの内容じゃ当然です」
「そうか、でも頑張ったじゃねえか、正義の味方は辛いよなあ、昼の失態を闇の仕事のせいにできねえもんなあ、俺もそうだ。でも雄二、なんであそこにいたんだ、まあおまえがいたから彼女助かったんだけどなあ」
「エバから借りていたテープがあったんで電話して返しに行ったんです。ほんとに偶然なんです。でも先生が『飛び込め』って指示してくれなければ殺されていたかもしれませんね、山田さんを守れてよかったと思いました」
 汗ばむ雄二の首に十字架がぶら下がっていた。雄二が俺の視線に気付いた。「これっすか、昨夜帰りに山田さんから貰いました。エバのものです」
 一瞬だが俺とエバをひとつに重ねたチェーンだ。複雑で例えようのない、そして許されない思いがあのとき芽生えたのを想い出す。
「苦しくないか、十字架の先端が咽喉仏に刺さりそうじゃねえか、来月のお前の誕生日祝いにはちょっと早いけど俺がチェーンをたしてやるからおいていけ」
 「はい」と言って雄二は大きな手を首の後ろに回して接続部の小さな金具を手探りで外しはじめた。
「後ろ向け、不器用だなあ」
 俺は雄二の首に手を伸ばしてチェーンを取り上げ、右手に握りしめるとまだ微かに残る十字の傷痕をくすぐった。
「先生は怪我なかったの?俺山田さん抱えて走るのが精一杯で何も見ていないんです」
 俺の鎌が命中して山田は倒れ込み、起き上がると同時に雄叫びをあげて今度は俺に襲いかかってきた。それにも気付かずに雄二は川上に走った。太腿を高く上げ、振り返ることなく、ヘドロに突き刺さる足を引き上げて前へ進んだ。間一髪であったが山田の一撃をかわした。あれは雄二であったから助かったのだと確信している。ランニングを中心に毎日基礎トレーニングを積んでいる雄二であったらこそ、俺の投擲した鎌が山田の肩口に喰い込むまで逃げとおすことができたのだ。サラマリアさんを抱いてドブに飛び降りたときもあの強靭なバネがあったからこそ彼女を落とさずにそのまま走ることがで出来たのだ。
「ああ見ての通りだ。おまえといっしょでかすり傷ひとつなかった。お互い身体が丈夫なのが取り得だからな」
 安心したのか雄二は笑った。サラマリアさんを、命をかけて守った雄二を、娘のエバはどっかで見ているかもしれない。天国か地獄かそれともそのどちらでもない空間なのか、いずれにしても俺達とは異次元からだ。
「俺帰ります」
「そうか、心配してくれてありがとう。忘れろと言っても忘れられないだろうし、また忘れずに背負っていくことになるだろうが、自分の信じた道を進むことが供養になるんじゃないか、将来恋人ができても、結婚して子供ができても、彼女を裏切ることにはならない、むしろこの十字のチェーンを通じて力を与えてくれると思う。サラマリアさんがおまえにこれを手渡したのはそういう意味に違いない」
 おふくろがお盆に載せたスイカを持ってきた。
「横田さんからお電話がありましたよ。帰ったら連絡くださいって」
「いけねえ、雄二おまえ全部食っていけ、食いきんなきゃばあちゃんに持っていってやれ、俺約束あるの忘れてた。おふくろ俺でかけるから、飯は帰ってから食うよ」
 俺はスイカをひとつとって齧りながら自転車に跨った。甘いとこだけを食べて皮を放り投げた。クシャと潰れる音がしたが暗くて見えない。朝には蟻が群れて、せっせと穴倉に運び込んでしまうだろう。

「こんばんは、横田さんいるでしょうか?」
 色付きのメガネをかけた生意気そうな警官が返事もせずに俺を識別している。昼間とは打って変わって、受付には相応しくない男達が煙草を燻らせている。婦警の姿はみえない。女性がひとりでもいれば雰囲気も相当変わると思うが、用が無ければこんなところに来たくはない。
「あんたは?」
「そういうあんたは?」
 燻った煙の向こうから複数の視線を感じる。
「用事があってここに来たんでしょう、名前ぐらい聞かなきゃつなげないでしょ」
「他に受け付けてくれるひとはいないの?」
 すぐに顔に出るタイプのようで目が険しくなり唇の片方が引き攣っている。
「徳田さんどうもどうも、二階にあがりましょう」
 奥にいた横田が俺に気付いてすっ飛んで出てきた。重苦しい空気を悟って俺の腰に手をあてがい階段へ急がせた。
「お待ちしておりました。八時まで来られなかったらもう一度お電話しようかと思っていたんですがよかったよかった。お友達の鳶の頭は?」
「あいつからの伝言です。用があるならそっちから来いって言ってました。暫くの間、夜間は山田さんのお宅で彼女に付添っているそうですからいつでもどうぞとのことです。俺もその方がいいと思いますよ、もし今日一緒に来ていたらとんでもないことになっていたような気がします」
「まあそう言わずに協力してください。どうしてもこんな商売しているとひとを見てしまうんです。暴力団や犯罪者と年中付き合っているとどうしても態度や口調まで変わってきてしまって、ご理解ください」
 横田は俺に座るように椅子の方に手を差し出した。
「ここは取調室ですか?」
「ええ、気にしないでください。ここが一番静かだし、落ち着けるから。では早く済ませてしまいましょう。いくつか質問があるだけです、それに答えていただければそれで終わりですから正直にお願いします」
 俺は実のところ犯人逮捕の感謝でもされるのじゃないかと鼻を高くしてここに乗り込んだのだがそのもくろみは見事にはずれ、テレビでよく見る取調室の、それも犯人が座る定位置、壁際の椅子に座らせられた。受付に出た色付メガネがお盆にお茶を運んできた。乱暴に置いたのでお盆を濡らした。彼は部屋を出ずに記録席に腰掛、ノートを開き、シャーペンの頭をシャカシャカやっている。横田がウインクして俺に詫びた。
「気になさらないでください、形式だけですから。ところで山田の頭ですけどボコボコに腫れ上がっていましたよ、頭部をカバーした腕も痣だらけでした。これは徳田さんのご親友の鳶の頭の投石によるものでしょう、それはあなたに襲い掛かる山田を止める行為であり、当然の防御だと思います。むしろ脱獄犯に新たな犯罪を重ねないよう抑止していただき、こちらとしても感謝しています。ですがひとつ気になる傷が山田にありました。あれお願いします」
 横田に促された色付メガネはいったん退席し、再びビニール袋を手にして戻って来た。
「これ、徳田さんのではありませんか?」
 ビニール袋に包まれた中身はまさしく俺の鎌で、ドブの中に数時間浸かっていたせいか薄っすらと赤く錆が回り始めている。柄の部分にはどす黒いヘドロが付着している。早く洗って研いでやらなければご先祖様に申し訳ない。
「そうです、俺のもんです、見つけてくれましたか、よかった、もしも見つからなかったらまたドブに入らなきゃいけないと覚悟していたんですよ、ありがとう、鑑識の方に礼を言っておいてください」
「そういう意味じゃねえよ、なんで小使いさんのあんたがそんな危ねえもん持ち歩いているんだよ」
「やくざみてえなあんたがピストル携帯している方がよっぽど危ねえ、それとも持ち出し禁止か?」
 俺の挑発に敏感に反応した色付メガネの顔が変形してきた。どうやったらこうなるのか、奴の顔は原型を留めていない。
「二人とも止めなさいよみっともない、警官と先生の会話ですかそれが」
「先生?いいだろう百歩譲って先生と呼んであげましょう。その先生がなんで鎌なんか持ち歩いているんだよ」
「徳田さん、山田の肩の傷はあなたの鎌と一致しました。なぜあなたの鎌が山田の肩に傷を負わせたのですか?」
 横田は何を言っているのだろう、俺が鎌を投げて山田に命中したから一致するのが当然だ。
「そうですよ、俺の鎌があいつに命中して負わせた傷ですよ。そうじゃなければ逃げた二人は殺されていたでしょう」
「この鎌をどうして持ち歩いているのです。少し不自然じゃありませんか」「不自然だろうがなんだろうが俺が学校で草刈に使ったりしている鎌です。この前横田さんからの電話で、山田が脱獄したから気をつけろって、それから自分なりに防御しようと考えていたのは確かです。行き付けの居酒屋の女将から山田が顔出しているって知らせてくれたから、こりゃあサラマリアさんが危ないなと感じて友人の車で彼女の家まで行ったんです。そのとき鎌は背中のリュックに背負っていました。予感は的中しました。帰宅するサラマリアさんの後ろから山田が迫っていました。たまたま来ていたうちの学校の生徒、関野雄二が間一髪のところで彼女を抱きかかえてドブ川に飛び降りたんです。一瞬不意をつかれた山田ですがそのあとを追って飛び降り、必死に逃げるふたりに襲いかかったんです。俺は二十メーターほど下流でそれを見ていましたが上からではどうすることもできないと判断して、ドブに飛び込みサバイバルナイフを振り上げた山田にこの鎌を投げたんです」
「そしてそれが命中して二人は助かった。関野君は必死で後ろを振り返る余裕なんてなかったって言ってました」
「ええ、さっき雄二に会ってそう聞きました。もし振り返っていたら動揺してしまい、逃げられなかったかもしれません」
「野球少年に会って警察で何を喋ったか聞いたんだ?準備してきたわけだ、小使い先生は」
 醜い声で色付きメガネが笑った。どっかで見たことがあると思っていたが昆虫のカマキリによく似ている。
「上からではどうすることもできないってどういうことですか?ドブに飛び込めばなんとかなると?」
 横田に学校の裏山で斧や鎌を投げて遊んでいるなんて言うわけにはいかない。それこそ色付メガネが調子づいてくる。
「ガキの頃からよく投げて遊んでいたんですよ、そう斧や鎌を。それで同じレベルに立てばうまく当たるかもしれないといちかばちかやってみたらうまくいっただけのことです」
 横田はそれを信じろと言うのが無理でしょうと言わんばかりの顔の崩しようだ。
「山田は取り調べでこう言ってました。脱獄したのは女房に会いたかったためで復讐なんてこれっぱかしも考えていない。脱獄は刑務所で知り合ったイラン人に誘われてついバカなことをしてしまったと反省している。女房にひと目あったら自首するつもりだった。いままでの悪事を今夜女房に詫びて、その足で近くの交番にでも出頭しようと決め、買い物帰りの女房を待ってあとをつけていたらいきなりあなたが飛び出してきて鎌を振りかざし追いかけてきたと。ドブ川の中を必死に逃げたが俺は一撃を喰らってしまった。だけど少年と女房を命懸けで守れてよかったと思ってると真剣に話してました。勿論嘘っぱちであるのは誰もがわかっています。悪戯に裁判を長引かせようとドブ鼠の最後の悪足掻きです。でも山田のことを知らない連中、事件を実際に目撃していない連中を説得させるには証拠がなければなりません。いくら口で説明してもハイそうですかってわけにはいきませんよ、徳田さんもそれくらいはわか「友達にも見捨てられたか小使い先生?もっとも鎌投げて遊んでるやつとじゃ友達になりたくねえよな」
「ああ、あんたの言うとおりだ。友達はひとりしかいないし女運にも恵まれていない。しかしあんたはあの山田によく似ているいるなあ、ドブ臭い口臭には吐き気がするぜ、今度ドブで見つけたらこの鎌で退治してやろうか」
 色付きメガネがシャーペンをノートに突き立て俺に飛びかかってきた。俺のリーチが長くカウンター気味にやつの顔面にヒットした。よろけた身体を突き飛ばすと背中からコンクリートの壁にぶつかり呻き声をあげた。
「てめえぶちこんでやるぞ、横田、このやろう公務執行妨害で逮捕しろ」
 飛びかかろうとしたら横田にしがみつかれた。
「やめないか徳田さん、これ以上暴れると本当に帰れなくなりますよ。迫田さん、さっきからあなたの態度はやくざ以下ですよ。徳田さんは協力者であって犯人ではありません。これ以上挑発的な態度を取るならば上に報告しますよ」 
 迫田と呼ばれた横田の先輩は机を蹴り倒し取調室を出ていった。
「徳田さん、困らせないでくださいよ。あんな奴の挑発に乗らないでください」
 横田が俺に縋るように言った。
「すぐに乗っちゃうからここに呼ばれて来ているんです。気持ちを抑えられる性格だったらこんな危ない事件に巻き込まれてなんかいませんよ。今度あいつがちょっかい出したら手足をもぎ取ってやりますよ」
「しょうがねえなあ、今晩はお引き取りください。鳶の頭に連絡して山田さん宅でお話し伺いますから」
「あいつは俺より数段手強いですよ。なにしろ公務員を徹底的に嫌っていますから、あいつが市役所に顔を出すと職員たちが忙しそうに動き回るくらいですから」
「うわっ、でもしょうがない。早いとこ決まりつけてしまわないとそれこそ税金の無駄遣いですから」
 横田はうんざりした顔で転がったノートとシャーペンを拾い、机を起こした。
っていただけるでしょう。ですから唯一の目撃者で協力者であるご友人の鳶の頭にお出で願いたかったのです」
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