やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 19

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木造二階建の古いビジネス旅館を鋭角に曲がるとそこからはうちの敷地になる。
「横田さん、今日は非番だったんですか、背広なんか着ちゃって?」
「失礼しました、一応刑事になりました」
「横田刑事ここでいいです。おふくろに見られると余計な心配するから、どうもすいませんでした」
「わかりました、では連絡も控えたほうがいいでしょうねえ、どうです明後日、徳田先生の都合の宜しい時間に署に出向いてくれませんか、電話いただければ何時でも待っていますから、それとお友達の鳶の頭にも連絡しておいてくれませんか?」
「はい、言っておきます。ありがとう」
 徹平は行かないだろう、用があるならそっちからこいって言っとけ、どうせそんなとこだろう。昔から佐藤組は公共事業に入札していない、寺社仏閣、地元の商店街及びその関係者との生活に密着した関係を初代の頭から地道に築き上げ、深めてきた。公共事業には無駄がある、血税で無駄な工事を受注して利益をあげては庶民の力になれない、頭なんて呼ばれたら恥ずかしい。それが佐藤組代々の家訓になっているようだ。徹平も先々代から厳しくその辺は教育されてきたのと、無駄遣いしていない潔癖からか、公務員には厳しくあたる。俺のことなんか、存在そのものが税金の無駄のように考えている。
「先生、もうドブはやめましょうよ、大変なんだ車の掃除」
 横田が窓から童顔を覗かせて笑った。車を汚したのはこれで二度目だ、自分の下半身を見て迷惑かけたのを再認識した。今度こそ一杯ご馳走してやろう。片手を上げて横田を見送った。俺は雄二が気になっていたのでうちの前を素通りして雄二のばあちゃんを縁側から探った。灯りはついているがひと気は感じられない。ブリキの如雨露に蹴躓いて音をたててしまった。
「誰だ?雄二か?」
「俺だばあちゃん、やっちんだ。起こしちまって悪りいなあ」
 縁側の戸が開けられた。
「なんでへえってこねえんだ、さあ上がんなされ」
「いいよばあちゃん、田んぼに落ちてドロドロなんだ、いいからいいからここでいいよ、網戸は閉めとけ蚊が入るから」
 すのこで作った小さな縁台に俺は腰をおろした。
「ばあちゃん雄二から電話あったか?」
「あの子からじゃなくて警察からあった、三十分ぐらいめいになるかな、一時間ほどしたらうちまで送るから心配しないようにって。うちの子、なんかやらかしたんかいのう。他所様に迷惑かけたんじゃろか。野球はもうできんようになるんかいのう」
 孫の為だけに半生を生きてきた年寄りが持病のある腰を摩りながらひとりごとのように静かに言った。
「そんなんじゃねえよ、雄二は人助けをしてその褒美に警察に招待されたんだ。ばあちゃんが心配することなんかないんだって、よくねえなあ悪い方悪い方に考えちゃうのは、身体にもよくねえぞばあちゃん」
「そうならいいんじゃがのう、やっちんよ、あの子を助けてやってくれ。なあやっちんよ、あの子を見放さないでくれ。わしはもう齢じゃからなんもしてやれん。おやじさんやおふくろさんには世話になりっぱなしで、そのうえおめえさんにまで面倒かけてすまんがのう」
 土方焼けしたどす黒い顔に涙を浮かべて俺に頭を下げた。白髪あたまを後ろで束ねているが隙間から地肌が透けて見える。
「止めろよばあちゃん、ばあちゃんが俺にあたま下げてどうすんだよ、それこそおやじに見られたら投げ飛ばされるぞ。さっきも言ったじゃねえか、雄二は悪さして警察に行ったんじゃなくて、協力したお礼を署長直々に戴いているんだって、それに俺が雄二を見捨てるわけねえだろう、あいつが一人前になったら逆に俺があいつに面倒看てもらうんだから」
「やさしいのうやっちんは、すっ、すっ、なんか臭せいのう、ドブの臭いがするな、裏の排水詰まったのかのう」
「俺帰るから、ばあちゃん風呂沸かしておいてやれ、雄二をすぐに入れてやれや、じゃあなばあちゃん、心配要らねえからな」
 網戸の中のばあちゃんはありがとよと言って涙を垂らした。その一粒が頬の皺に吸いこまれて消えた。ジーパンは体温で生乾きとなって、蒸発した気体が鼻を劈く。靴の中はぬるぬるで指の間に小さなどじょうが挟まっているような感じがする。鉄の門扉に錠を挿す摩擦音に俺の帰りを察したおふくろが玄関の灯りをつけた。
「シャワー浴びるからすぐに、そのあと飯食うよ」
「やだ、またドブの臭い、臭い臭い臭い、く、さ、いっ、」
「でかい声出すなよ、おやじ寝てんだろう、早くしねえとケツの穴にアメーバーが侵入しそうなんだよ」
 俺は玄関でジーパンとパンツを一緒くたに脱ぎ捨て、足が廊下につかないように膝でハイハイして風呂場に向かった。タイミング悪く用足しに起きてきたおやじと擦れ違ってしまった。おやじは壁に張り付いて足元を進む俺を交わした。俺が風呂場に消えていくのを正視しているようだ、蔑んだ視線をケツの穴で感じ取れる。穴という穴は毛穴までボディシャンプーを流し込み、へちまのタオルで真っ赤になるまで洗い流した。風呂から上がるとめしの支度がしてあった。焼きあがったあこう鯛の粕漬けが身をプリプりと爆ぜている。
「おふくろ、ビール飲んでもいい?」
「おとうさんのビールじゃない、明日買ってきてよ」
 家の風習というか、おやじの指導でアルコールは食費外、自分の飲むものは自分で購入するようになっている。
「明日、箱で買ってくるから」
「調子がいい、一度でも約束守ったことありますか、おまえさんが」
「おやじ、なんか言ってたか?」
「何も言ってませんけどトイレに暫くいたわよ。よっぽど情なかったのよあなたのあの姿が」
「そうか、何も言ってなかったか、さすがおやじだ。ところでおふくろジーパン乾くかな?」
「何が?」
「何がってジーパンだよ、ほらこの前捨てちゃったからあれしかないんだ。Tシャツはこないだ買いだめしたからいいんだけどズボンはあれしかないから、乾かしてくれたらありがたいなあと思って、生乾きでもいいよ、穿いてるうちに乾いてきちゃうから」
 おふくろは不思議そうな顔をして俺をみつめていました。
「おまえそれ正気ですか?お母さんにあのドロドロで雑菌まみれのズボンを洗わせるつもりですか?うちの洗濯機で?お父さんやお母さんの下着も洗う洗濯機であれを洗えって言うの?病気になったらどうするつもりですか?捨てましたこの前と同じように、パンツもシャツもお気に入りのジーパンもスニーカーも全部明日の生ごみに出すように袋に入れて玄関の外に出しました。それに袋も二重にして臭いが外に漏れて清掃局の方々に不快な思いをさせないようにね」
「スニーカーもかよ?じゃあ俺に明日から下駄で行けっつうのか、学校によ、神聖な学校に便所下駄で行けとはありがたいおふくろさんだこと」
「裸足で通えばいいじゃないの、ミャンマーのお坊さんはみんな裸足でありがたい訓えを説いてくれるそうよ」
 まったく口の減らないばばあだ。おふくろの実家は百姓だが昔からの豪農でお嬢様のように育てられたから性格はのんびりしている。学歴も短大だがしっかりと卒業している。習い事はお茶、花他作法事は全て教育されてきたひとだ。しかしこの家に入ってからその肩書きは無用だと悟ったらしい。俺が生まれてからはよりタフになり、今ではこのざまだ。このざまなのはおふくろじゃなくて俺の方か。
「明日大船に買いに行くよ、だから少し金貸してくんない、悪いけど、給料日に引いてくれていいから」
 おふくろはあっかんべーをして居間に行った、毎週見てるくだらない連続ドラマを見るためだ。俺はおやじのビールをもう一本くすねて一気に煽り、どんぶりに飯をよそってかき込んだ。歯を磨いてから二階に上がろうと思っていたが睡魔が襲ってきて諦めた。明日少し早めに起きて丁寧に磨こう。
「おまえ歯は?」
 応接間からおふくろが言った。しかとしていると「きったない」と吐き捨てた。

・・・『おいやーまだー、俺だ覚えているか?おまえをこのドブに突き落とした正義の味方やっちん先生だ。まだ懲りずに悪さをしていたのか。この前は手加減してやったが今夜は許さん。これでも喰らえっ』どうだっ、このビューティー&シンプルな理想的フォーム。右手から投擲された鎌がネオンを裂きながら山田の側頭部目掛けて飛んでいる。地獄に落ちる瞬間だ。ビヨ~ン。うっ、なんだ今の音は、鎌は見事に命中したが山田の頭で大きく跳ね上がった。『なんだこれ、ゴムのブーメランで遊んでいる場合かよ。俺をこんなおもちゃで退治しに来たのか、さすが偽先生どっか抜けてるぜ』どうして、どうして途中でゴムに変わっちまうんだよ。裏山であれだけ練習したのにどうしてゴムなんだよ。『いいか、今度は俺の番だ。ほれようく見ろ。長いことドブで生活しているとな尻尾が生えてくるんだ。どうだ立派な尻尾だろう。この先にはペスト菌がたっぷりと群がっているぞ。そうらっ、そうれっ』『や、止めろ、ぷわっ、唇に触れたじゃねえか、ぷわっああ汚ねえっ』『へっへっへっ、ほら口に挿しこんでやる』『おうっおわわっわぐわっ』・・・

「やすお、やすお、やすおっ」
「んぶわっ、ううぶっぷっ、ああっお、おふくろ」
「なにがああっよ、ほらお金、朝だと忘れてしまうし、お父さんの前ではお前も嫌でしょ」
「あっありがとう恩にきるよ。そうだ明日ケーキ買ってきてやるよ、おふくろが美味しいって言ってた仲通りの店で」
「ありがとうごぜいますですだよ」
 メシリ、メシリと階段に圧力をかけて降りて行った。しかし俺の顎を摘まんで揺さぶりおこしやがった。用件が借金じゃなきゃ文句言ってやったとこだがまあしょうがない。札を数えると十万ある。今月はもう三十万も借りている、一月分の給料ではもう足りない、まあいいや又借りれば同じことだ。しかし明日学校に何を穿いていこうか、そういえば弟にあげたコールテンのズボンがあったな、十年前にサーファー達の間で流行ったもんだが、今は穿いてる奴いるのかな、それもこのくそ暑いお盆に。まあ生徒が来るわけじゃないし気付かれることもないだろう。網戸に蚊がいる、それが中なのか外なのかこの位置では確認できない。立ち上がってそこまでいくのも億劫だ。ああ眠い。

 翌朝足が痒くて目覚ましがなる前に起きてしまった。右足の踵、左足の小指の付け根、同親指の先端、この蚊は人間の急所を知っている。網戸を見ると昨夜確認した位置に奴はいなかった。今夜ぶっ殺してやる。たっぷりと歯磨き粉をつけてやもやした口の中を磨いた。口中に溜まった泡だらけの唾液を垂れ流している姿は、鏡で見ていると自分でも汚く感じる。その唾液泡は歯ブラシから掌に伝わり、肘から床に垂れた。バスマットを足で手繰り寄せて拭き、元に戻した。
「いってらっしゃい、気をつけてくださいね」
 おふくろが玄関でおやじを見送っている。おやじがお寺の角を曲がるまで後姿を見送る。もう四十年ちかくこうやっている。おやじを見送ると仏壇の前で仏様とご先祖様に一日の無事を祈願する。おやじはおふくろが仏壇に安全祈願してくれているのを知らないのかもしれない。女房ってのもいいもんだ。前回のドブの決闘も、エバが飛び降りて俺が乱心した騒ぎも、そして今回のドブの決闘パートⅡのことも、うちでは口にしない。おやじもおふくろも知っているのに一言も触れない。おやじは消防署副署長という立場で関係機関からお宅のバカ息子がまた事件に絡んでいますよと逐一聞かされているのに黙っている。おやじは自分の基準で善悪を判断し、悪とみなせば徹底的に俺に反省を強いる。善と判断された記憶はないが、エバに絡んだ事件について、おやじは一切の口出しをしなかった。当事者と接触の無い者が、拾い集めた情報でいくら正当を訴えてもそれは現場では通用しないことを現場上がりのおやじはよく知っている。おやじは副署長で定年を迎える。火事場を駆け巡り、自身の命をかけて火の海に飛び込み、たくさんの生命を救ってきた。しかし救い切れなかった幼い命もあるという。税金から給料を貰っているのだから助けてあたりまえ、助けられなかったら怠慢であると考えて勤めてきた。そのおやじも後三年で定年を迎える、退職金は数々の失敗の代償として拒否すると言っていたが同僚やその関係者から身勝手な行動は慎むよう説得された。その理由は、豊かな不動産を先祖代々から受け継いで、生活になんの不安もない徳田さんとは違い、夫婦共働きをして、退職金で住宅ローンを完済する者の身にもなって欲しいということだ。おやじが前例を作ると失敗したときの選択肢が増えてやりづらくなってしまう。若いものにとっては精神的な苦痛になり、人命救助という観点からはマイナスになると強く訴えた。おやじは署員それぞれが、自身の価値観で決めればいいことで、税金から捻出した貴重な大金を、受給資格を持つ本人が要らないと言ってるのだから無理に支払わなくてもいいのではないかと主張した。食うに困らない家庭に金が転がり込むより、無駄を抑えて、頑張っても運悪く報われなかった人達の為にストックしておいても邪魔にはならないでしょうと毒づいたらしいが、絶対多数のおやじの退職金受け取り拒否反対派は、市会議員まで動員しておやじの説得に尽力を費やし、成功した。おやじはいくら自分の信念理念とはいえ醜い争いになってしまったことを深く反省し、それに従うことにしたとおふくろから聞いた。しかし、今度は全額を恵まれない人に寄付すると言い出し、あちこちから個人、団体の支援グループの資料を取り寄せ、選択に余念が無い。おふくろの航路世界一周の夢は夢で終わるかもしれない。俺としては二階に便所を作って欲しい、それ以外に望みはない。貴重な時間帯におふくろとかち合い、まんまと先を越される。その上おふくろの用足しの時間の長い事、俺は苦痛を堪え学校まで我慢するがろくなことは起きない。おやじは俺が所帯を持てばすぐにでも作ってくれると言うがしばらく縁がないようだし、おやじの退職金の一部をそれに回して欲しいとおふくろを介してお願いしている。

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