やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 17

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 八月八日、晴れ、前日の夕方に雨が降ったせいか朝からじとじとと蒸し暑い朝だった。山田エバマリアは母親に『行ってきます』とぽつんと言い、いつもの登校時間より一時間も早く出たらしい。母親はなにか胸騒ぎがしたらしく、エバが出たあとすぐにジョセフ神父に連絡をいれた。ジョセフ神父は閉じ篭りっきりより外の空気を吸って、友達にあって気晴らししたほうがいいのではと、興奮気味のサラマリアさんを宥めた。神父も『何かあったらすぐ電話するように』と言ったものの、気になってその足で山田宅に向かったのであった。
俺に校長から電話があったのはおふくろと朝食をとっているときでした。「やっちん先生、大至急学校に来てくれますか。不幸な事件が発生しました。もうじき生徒達が登校してきます、混乱が予想されますので、やっちん先生には誘導をお願いしたいのですが」
「わかりました。素っ飛んでいきます」
 以前にも盗難事件が数回あり、職員室や音楽室などから、文房具や楽器が被害にあった。しかし校長の不幸な事件という表現に胸が詰まり、茶碗に残った納豆の絡まったごはんを食べきる気になれなかった。
「安男、食べちゃいなさいよこれっぱかし、もったいない」
 おやじの食い残しは気にせず食べてしまうのに俺の食いかけは即ゴミ箱に捨ててしまう。おふくろに言わせると同じ食べ残しであっても食べ方によってそれが食物か生ゴミか判別しているらしい。
 校門の前には警官が二人立っていた。野次馬になった近所の住人が事件の概要を聞き出そうとそれとなく近寄ってはみるものの、若い警官はなんでもありませんと、上からの指示なのか無表情にはぐらかしていた。登校の早い生徒が警官に呼ばれ、何か注意を受けている。
「おはようございます。学校職員の徳田と言います。校長の指示で生徒達の誘導を任せられました」
「ごくろうさまです。校長先生は校庭で県警と立会い、確認をされています。生徒達を校庭に出さないようにしたいのですが、門はここの他にあるでしょうか?」
「校庭の裏の山裾に裏門があります。全校の三分の一の生徒がそっちを利用しています」
「この正門は自分達で誘導しますから裏門を徳田さんにお願いできないでしょうか?」
「わかりました、でも一体何があったんですか?」
「断定はできませんが生徒の飛び降り自殺のようです。急いで校長先生のところへ行ってください」
 若い警官は申し訳なさそうに俺に話して職務についた。
「と、飛び降り?」
「やっちん先生、ごくろうさまです」
「あっ吉川先生、おつかれさまです」
「何か私にできることあるでしょうか?」
「それじゃあ各教室を回ってカーテンを閉めて回ってもらえますか、既に登校している子もいますから覗いたりしないよう指導してください」
「わかりました。緊急伝達事項として、校長の名前で黒板に案内しておきます。でもどの子かしら、飛び降りなんて」
 悪い予感が走った。背筋に凍りつくような悪寒がつらぬくとき、その予感の的中率は非常に高い。
 昇降口を走り抜け、校庭に飛び出ると、ちょうど校長室の前の花壇の回りに校長達は固まっていた。校長、教頭、田中先生、それに私服、制服の警官五人が、横たわっている人間を取り囲んでいる。予感が的中していないことを願いつつ近寄った。少なくとも生徒じゃなくて外部の人間であることを願った。
願いは吹き飛ばされた。俺は無信仰を反省した。救われたら感謝し、裏切られたら罵ることもできる、どちらにしても責任を押し付けられたのに。エバは仰向けに横たわり、右膝を立て、両手を重ねるように下腹部にあてがっていました。
「やっちん先生」
 エバを囲む輪に入った俺に校長が声をかけました。その声が遠い過去から話しかけているようで返事をする必要が無いように感じました。安らかな死に顔だなんて奇麗事じゃすまされない。コンクリートの犬走りに打ち付けられた後頭部は割れていて、流れ落ちた黒い血はからからに乾いた花壇を潤していました。自慢の黒髪は奇妙に広がり、大きく見開いた瞳は、裏山に昇った太陽とにらめっこしています。俺はエバがいつも首から提げていた十字のチェーンが無いので不思議に思いました。
「あれ、エバ、チェーンは?ほら、俺に握らせてくれた十字のチェーンだよ。落としたのか?探さなきゃまずいな」
「やっちん先生」
「おい、あんた、何するんだ、押さえつけろ」
「離せよっ、チェーンだよ、十字のチェーンが無いんだよ。こんなことしてる場合じゃねえぞ」
「連れて行け、早くしろ」
 目の前に展開している悪夢のような現実が、時の流れるスピードも、磁石の示す方角もずれている空間から眺めているような錯覚に陥りました。俺を両脇で抱える警官と歩調が合わず、肉体だけが警官よりずっと先を歩いて行ってしまうと、精神がそれを引き止めようとあげる足を押さえつけ、警官が並列するまで我慢させるのです。めり込むぐらい奥歯を噛み締めて肉体の進行を止めないと、置き去りにされた精神と生涯重なり合えないような気がしました。
俺の進む方向には、登校した白黒の制服姿の生徒達が、老人の目をして半円状に幾重にも折り重なり立っていました。ピッピッピッピッという軽快でリズミカルな警笛が異次空間に迷い込んだ俺をこっちだこっちだと案内してくれているようでした。やがて警笛はピーという連続音に変わり、生徒達の輪を切り開き俺の前で止まりました。
 佐藤組の軽トラックの荷台からジョセフ神父が飛び降り、助手席のドアーを開け、サラマリアさんをかかえるように花壇に進みました。運転席から徹平が降りてきて、俺を不思議そうに眺め、指先で俺の鼻を弾きました。
「しっかりしろよ、このでくの棒」
 俺を覆っていた薄い膜が鼻先に穴を開けられ、ビロンと音をたてて剥け落ち我に返りました。
「あんた、あんただめだよ、関係者以外」
 徹平は警官の制止を振り切り神父の反対側でサラマリアさんを支えました。彼女は神父ではなく徹平の手を強く握り締め、エバのいるところに立ちました。
「うああっーああー」
 あまりにも悲しい叫びでした。母親は娘に覆いかぶさり乱れたエバの髪を掻き毟りました。誰もその光景を直視できません。目を瞑ったり、空を仰いだり、または足元に落としたり、神父も教師も警察も恋人も背丈ほど伸びたヒマワリでさえ視線を向けられませんでした。娘の肩を激しく揺り動かし、こちらの世界に引き戻そうとしています。あまりの激しさにふたりの警官が彼女を無理やり娘から離しました。その警官を徹平が振りほどき慟哭する彼女をしっかり抱きとめました。
「うわーっあああっー」
 再び激しく悲しい叫び声が校舎の壁を伝い天を切り裂きました。ジョセフ神父が徹平にサラマリアさんを病院に連れて行くよう薦め、それを聞いていた私服の警官がパトカーで送るよう若い警官に指示した。担架に乗せられたエバには暑苦しい布がかぶせられ、救急車に押し込められました。
「よってたかっておまえら税金で飯食ってんだろ、女の子ひとり助けてやれねえのかっ、学校なんか辞めちめえっ」
 徹平の飛躍した捨て台詞に誰ひとり反論できません。中川先生が生徒達に教室に入るよう誘導しています。佐藤組の軽トラックを中心に左右に分かれて子供達がゆっくりと移動し始めました。焼け付く太陽が、頭のてっぺんでストロボを焚き、グラウンドにいるすべてのものを乾いた赤土に焼けつけた瞬間でした。

 サラマリアさんはジョセフ神父のいる教会に閉じこもり、葬儀の日からずっと祈りと懺悔を繰り返していたそうです。エバは母親宛に短い遺書を残していました。『ママごめんなさい。ひとりでこの子を裁くことはできません。ゆるしてママ。さようなら、わたしのママへ』こうタガログ語で書かれていて、それを二つ折りにしてベランダに設置されているエアコンの室外機の上に置いたのです。そしてそれが風で飛ばされないように十字のチェーンを重石代わりに乗せていたそうです。俺が彼女の飛んだ花壇周辺や屋上の彼女が立った近辺をいくら探してもあるわけないはずでした。絶対に握り締めていると思い込んでいた俺は、遺書の重石にされていたと聞きショックを受けました。彼女にとってあの十字架はいったいなんだったんでしょうか、握っているから天国に逝けるとか、そうじゃないから地獄に落ちるとか、そんなのは全く関係なくて、実際のエバの死に様はひどく醜いものでした。生徒数二百五十、その二百五十分の一の少女の死は、可哀相ねという聞き飽きた同情で落ち着きをみせ、それに飽きると冷たく詮索され暴かれ、捻じ曲げられた解釈で合意して世間に公表されました。その矛先は母親にまで向けられたのです。邪淫の限りをつくした父親は刑務所を脱獄し、逆恨みから関わった人間に復讐を誓い、実行に移しつつあります。警察も家族のいない在日韓国人の死に、特に興味はなくて、力を入れてホシを追っているようには思えませんが、先輩を殺したのは手口からいっても山田に間違いないような気がします。次は俺だ。山田は俺を殺し、力の差を見せ付けるつもりです。山田は娘の死をどう受け止めているのでしょう、悲しんでいるのか、嘲笑っているのか、それとも学校の力不足を罵っているのでしょうか。
「安男、電話、女の人」
 おふくろが忍び足で階段を上がってきていきなり襖を開けました。
「なんだよいきなり、入る前に一言声かけろよ、まったくよう」
「なんか悪いことでもしてるの?」
「そんなんじゃねえけど、俺だって考え事してるときあるんだよ。いきなりおふくろが覗くから忘れちゃったじゃねえか」
「あっそう、じゃあ忙しいからって電話の女性にそう言っておきます」
「いいよ出るよ、折角だから」
 階段を下り受話器を握ると、よし乃の声が流れてきたので、突っ掛けを履き、上がり框に腰かけて、おふくろの盗み聞きに備えました。
「もしもし。どうしたの?なんかあったの?」
「この前はごめんね、当たり易いのかな、やっちんが、怒ってる?」
「怒るも何もないじゃないか、だらしない俺が原因なんだから」
「あれからもう一週間になるけどお店開けてないの。いつまでも悲しんでいてもあれだから明日から開けようと思って」
「ああそれがいい、俺も行き場所がなくて困っていたんだ、学校は夏休みで俺はそれほど必要とされていないだろう、だからうちにいる時間が長いんだ、口の減らないおふくろの格好の餌食になってるよ」
「そう、親孝行しなさい。出来ることが幸せなんだから。ところでこの間言ってたの本気?勘違いしないで、私の身柄じゃなくて趙さんのこと、敵討ち?」  
 よし乃に死ぬ覚悟で私を守ってくれるかと問われ、いそいそと引き上げてきたのを思い出す。
「ああ、嘘じゃないよそれは、先輩だけじゃなくて、次は俺の番だから」「えっどういうこと?」
「以前うちの生徒のことでよっちゃんちに懐中電灯借りに行ったでしょ、そのときよっちゃんが先輩に協力を頼んでくれたよね、あの事件が絡んでいるんだと俺は睨んでる。よっちゃんもニュースかなんかで見て知ってると思うけど、イラン人と一緒に脱獄した男があのドブ鼠なんだ」
「そう、そうだったの。趙さんが殺される前の日に初めてのお客さんが来たの、タイガースの帽子を深く被って、真っ黒なサングラスをかけてね、その人趙さんと一瞬だけど視線を交わしてお互いに厳しい表情をしていたのを思い出すわ。もしかしたらあの人がそうかもしれないわね」
 断定は出来ないが山田は先輩の居場所を嗅ぎつけ、大胆にも確認すべく『よし乃』に顔をだし、先輩の隙をつき、実行したのだと思った。
「その母娘は大丈夫なの?警察には連絡してあるの?」
「ああ、知り合いの頼れる警官にお願いしてある。それとよっちゃんに知らせておいたほうがいいかなあ、実はね例の彼女、飛び降りたんだ、学校の屋上から、脳みそばらまいて、目ん玉ひん剥いて、俺はあの姿を見て天国に行ったとは辛いけど考えられない。うちのばあちゃんが老衰で死んだときの顔とはぜんぜん違うんだよねえ。余計な話かもしれないけどいつまでも心配してくれてるよっちゃんに隠しているのも悪いから。それとね、あの子妊娠していたんだ、父親の子だよそれも」
 受話器の向こうでよし乃が涙を啜っている。
「そうだったの、可哀想に、相当悩んでいたんでしょうねえ。ねえやっちんその子のためにも敵討ちしてよ、趙さんも喜ぶわ」
「俺なんか口先だけだよ、敵をとるほど勇気も器量もないし、でも捕まえて刑務所に送り返すぐらいの協力は進んでやるつもりだ。それと、俺を殺しにきたとき、精一杯本気で勝負してやる。そこでうまくいけば敵討ちできるかもしれない、でも無理か、先輩が不意をつかれるぐらいの相手だから」
「気をつけてね、もしもこの前の男が来たらすぐにやっちんに電話入れるわ。ほんとうに気をつけてね、もうただの客と女将の関係じゃないんだから」
 よし乃のその言葉であの晩の様子が鮮明に浮かび上がってきた。学校と徹平の携帯電話、それに繋がらないときのために県警の横田の連絡先をよし乃に知らせ受話器を置いた。ムラムラとした股間をパジャマの上から押さえつけて床についた。肌触りがひんやりして気持ちがいい、おふくろがシーツとタオルケットを取り替えてくれていた。うつ伏せになりひんやりした感触を堪能しているとはみ出した右足の踵を蚊に喰われてしまった。手で掻くのが億劫で左足の甲で擦っているうちに眠ってしまった。

 夏休みでも水泳教室を開いている期間は結構忙しい。水泳部の顧問や監督、それにOBが、近所の子供達の水泳教室をボランティアで一週間開いている。この水泳教室は泳ぎ方を教えるというより、水難事故に対する父兄への注意を呼びかけ、溺れたときの応急処置等水場で遊ぶ子供達への監視の徹底を再確認させる目的の方が強い。
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