やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 16

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 病室には徹平の他おふくろさんと若い衆、それに俺、サラマリアさんの姿はみえなかった。午前中の退院だから彼女が手伝いに来るのは無理だろうと、別段気にしていなかった。
「サラはどうしたの?折角の退院だっていうのにあの子は」
「うるせいなあ、誰だって用事がありゃあこれねえだろう、おふくろなんか週に三回しか見舞いにこねえじゃねえか、てめえの息子なのによう、サラは一日も欠かさず来てくれて俺の下の世話まで看てくれてんだ、退院のときはみんな来るから足手まといになっちゃあいけねえと賢い判断をしたんだよ、やっちんみていに暇で行くとこねえから来てんのとわけが違うんだよ」
 確かに徹平の言うことに一理ある。しかし患者やその付き添いが大勢いるところでも構わずひとをコケにするのがこいつの悪い癖だ。
「徹平、能書きはいいから準備できたのか?」
「おふくろ、ワタル、俺はやっちんと軽で帰るから先に行ってくれ」
「ワタル、先に行きましょう、じゃあやっちん宜しく。みなさんお世話になりました」
「いいからとっとと行けよ」
 徹平はおふくろとワタルというまだ十代の若い衆を追い出した。先々代が保護司をしていた関係上、刑を務め上げてきた少年を依頼があれば、できる範囲で快く引き受けて、住み込みで面倒を看ている。ワタルと呼ばれる眉毛の剃った青年もそのうちの一人である。
「みなさんどうもお世話になりました。こんな半端もんが同室になってさぞご迷惑だったろうと察します。みなさんを置いていくのはあたしも気が引けますが、藪医者が出ていけって抜かすもんですからお先に失礼します。どうかみなさんも、一刻も早く良くなって、外の美味いもん食ってください。おいじいさん、きっと歩けるようになるから、そしたらうちに来い、特等席でお神輿拝ませてやるから。それじゃみなさん、ごめんなさい。お世話になりました」
 隣のおじいさんが毛布を頭までかぶった。夏休みなので朝から鎌倉街道は混雑している。佐藤組と看板の背負った軽トラックで明月院を抜けて帰った。「やっちんガキできたんだ」
「ガキって、そりゃあおめでとう。退院とおめでたが同時かよ、こりゃあみんなびっくりするぞう」
「おめでとうって言われりゃあ、おめでたいに決まってるわな、生命がひとつ誕生するかもしれねえんだからよ」
「なにカッコつけてんだよ。おめえみてえにチビじゃなきゃいいけどな」
「そりゃあねえだろう、あの野郎けっこう上背あったし」
「あの野郎って」
「ああ、俺はサラに何もしちゃあいねえよう、一昨日の晩らしい気がついたのは、一度経験しているから間違いないだろう」
 俺は絶句してしまった。徹平はエバの妊娠を知らない。運が悪いで済ますにはあまりにも切ないじゃありませんか、片方は毎日十字架拝んで、もう片方はこれも毎日鳥居に頭下げているのに、神も仏も無いっていうのはまさにこのことだ。
「で、どうするんだ?」
「どうするって決まってんじゃねえか生ませて俺達で育てるに、誰の子だって可愛がってやりゃ優しい子に育つってじいちゃん言ってたよ」
「そうか、それでこそ鎌倉の頭だ、何でも協力するから遠慮なく言ってくれ」  
 姑息な悪知恵を働かせて現実を先延ばしするのが精一杯の俺は、当たり前のことをさらっと言って行動に移せる徹平が羨ましかった。
「今おめえの言った、『何でも協力するから遠慮するな』はよく覚えとく、ありがとう」
 徹平のどでかい携帯電話が鳴り出した。
「ちょっとやっちん止めろ」
 走っていると圏外になってしまうほど鎌倉は感度が悪い。
「もしもし、ジョセフ?やっちん、ああ、ちょっと待って。おめえだ」
「はい、徳田ですけど」
「ああやっちん先生、連絡取れてよかった、サラマリアさんから電話があってもう少し延ばしてくれないかと言ってきました。悪戯に延ばしても良い結果が出るとは限りませんよと説得したのですが後三日だけどうしてもとお願いされまして。ご自宅に電話したら友達の退院を手伝っていると聞いたのでその携帯電話を教えてもらいました」
「そうですか、わざわざすいません。後三日っていうと八月八日ですよね、その日ってうちの学校の登校日なんですよ。午後でしたら神父のご都合よい時間で構いません。何から何まで神父に任せっきりで申し訳ありません。はい、宜しくお願いします」
 ジョセフ神父はサラマリアさんが延期を希望した理由をまだ知らない。
「おい、やっちんサラがどうのこうのって聞こえたけど俺の空耳じゃねえよなあ。おめえ俺になんか隠してんな」
 絶対に外部には漏らさないからと強く訴えたのは俺だ、その俺がいくら親友だからといって喋ってしまえば嘘吐きになる。約束と親友とは関係ない。しかし徹平は包み隠さず俺を信じてすべてを曝け出してくれた。
「徹平、おまえに隠していることがひとつある。悪い、何も言わず三日待ってくれ、頼む。三日後にすべて話す」
「気にすんな、約束守らねえやつだったら当に縁は切れてるよ」
 エアコンの付いていない軽トラックは建長寺の前で渋滞に巻き込まれた。もう三メートル進めば大きな欅の影に隠れるのだが、前のカップルが車間をたっぷりと取って停車しているためそのささやかな自然の恵みにありつけない。徹平が車から降りて、カップルの窓ガラスを叩いた。
「すいませんけどねえ、もう九尺ほど車進めてもらえません、お願いしますよ」
 それから八幡様までカップルの車は、前車にぴったりとくっ付いて走ったり停まったりした。

 徹平が退院した翌日、大船で殺人事件が起きていた。被害者は趙元勲いう六十六歳で韓国籍の男性だった。その男は後ろから鋭利な刃物で両脇腹を刺されてドブに落とされたのだ。ドブとは俺が先輩の協力で山田を追い詰めたあのドブ川だが、もっとずっと下流であった。年輩の韓国人男性であるという報道が気になり、俺はまさかと思って、夕方ママチャリを飛ばして『よし乃』の様子を探った。灯りはあるが玄関は閉められ暖簾も出ていない。そっと近寄り曇りの入っていないガラスの上部から中を覗いた。よし乃がカウンターにひとりで座っている。一番奥の先輩の指定席に、はたはた、空豆、それに焼酎の壜とグラスが置かれている。俺の悪い予感が的中していた。
「よっちゃん、俺もつき合わせてくれないか」
 よし乃はつっかえ棒をはずし、俺を中に入れてくれた。
「殺し屋らしいけどいい人だったのにね、後ろから刺されるなんて飲み過ぎかしら、それとも齢のせいかしら」
 先輩が元軍人でよし乃の監視役だとは聞いていたが殺し屋だとは初めて知った。殺し屋だろうと軍人だろうと俺は先輩が好きだった。意味なんかわかっていなかっただろうに俺のつまらないジョークに頷いて応えてくれたし、エバの願いを果たせたのも先輩がいたからだ。手加減して山田を殺さずに俺に回してくれたんだ。
「よっちゃん、心当たりはついてるの。警察はなんか言ってた?」
 俺は先輩の死に山田の影が浮かんでよし乃に聞いてみた。
「恨みを買う商売なのに今までよく生きたと褒めてあげましょうよ」
「そうかもしれない、でも先輩に借りがあるんだ大きな、俺にできることがあったらやってあげたい。せめて努力はしたい」
「やっちん、カッコつけんのもいい加減にしなさいよ。やくざの世界よ、中学校の下働きに何ができるって言うの・・・ごめんなさい」
 沈黙が続いた。よし乃の言うとおりで、市役所の下っ端がこんな問題に口出しする方がおかしいんだ。エバのこともそうだ、先生なんて呼ばれているからその気になって手出し口出しをしてしまうんだ。二学期が始まったら、徳田のおじさんて生徒達に呼ばせるようにしよう。グラウンドで草刈やったり、ぬかるんだ土を入れ替えたり、毛虫を退治したり、木に名札でもつけてりゃあそれでいいんだ。先生方に頼まれたことをこなし、時間から時間まで潰せばそれで給料が貰えるんだ。大した額じゃないけど俺には相応だろう。でも本当にそれでいいのか、税金で養ってもらってんだぞ、金持ちだけじゃない、このくそ暑いのに炎天下で日銭を稼いで生活しているおじさんやおばさんもいるんだぞ。その人達の死に物狂いで納めた税金を俺が無駄遣いしてどうすんだ。こんな俺でも何か役に立つことはないのか、学校という教育の場で、直接は携わっていなくても、毎日生徒達とふれあい学校スタッフとして働いている以上、悪がきは叱り、元気の無い子に渇を入れ、運悪く挫けちゃった子をおんぶしてやるくらいは俺達に課せられた義務じゃないのか、この子達に健全に育ってもらって、国のため、町のために一生懸命頑張ってきた日雇いのおじさんおばさんに恩返しをしてもらうように、預かっている全ての子を元気よく送り出していくのが俺達の使命じゃないか。先輩を殺った犯人がもし山田の復讐だったら母娘も危険にさらされている、エバを絶対に死守しなければ俺はただの税金泥棒になってしまう。
「やっちんごめんなさい、つい突っかかってしまって、誰かに当り散らしたかったときにやっちんが来たから、いつもついてないわね。どう、上でお通夜やり直しましょう二人っきりで」
「ああ、気にしていないよ。先輩のグラスと焼酎も持っていこう」
 先輩の焼酎壜を遺影代わりに飲み明かした。明け方、飲み潰れてそのまま倒れこんでしまったよし乃が、エアコンで冷え切った身体を猫のように丸めてソファーで震えていた。俺は抱きかかえベッドに横にして肌触りのよい毛布を胸までかけたときだった。
「抱いて、ねえ抱いて」
 押さえ込んでいた欲望が一気に爆発してしまった。俺は幾度も求め彼女もそれに応じた。先輩愛用のグラスの氷はすっかり融けて四十五℃の焼酎は表面張力で盛り上がっていた。ハングル語で『ジンロ』と書かれた文字が揺れ、先輩が頷いているように見えた。
 目が覚めると午後二時を回っていた。今日は非番でどうということはないが、おふくろが電話しまくっているに決まってる。
「コーヒー入れてあげるわ」
「よっちゃん電話貸してくれる」
「枕元の携帯使っていいわよ」
 先日下の店で老紳士のパトロンが持っていたのと同型で、色違いの電話機だった。
「もしもし、聞こえますかどうぞ」
 どうも無線機を持っているようで無意識に語尾にどうぞを使ってしまう。「普通に話せばいいのにバッカみたい」
 よし乃が腰を折り曲げて笑っている。そのヒップに卑猥に喰い込んだ下着が俺の良心を突き落としそうになった。
「聞こえますが、なんでしょうかどうぞ」
 まずい、おやじが出た。
「また後でかけ直します、どうぞ」
「ばかったれ、どうぞ」
 取り敢えず電話しておけばおふくろも安心する。
「やっちん、このままあたしと地獄に落ちる覚悟ある。パパがきてもそこに裸で寝そべっていられる?」
 地獄の底までおまえを離しはしないとはっきり言えないのが辛いところで、愛や恋よりも、よし乃を抱きたい欲望が俺の心を支配していた。トラブルを避け、密会という形でよし乃と接していたいと、せこい考えが返事を遅らせていた。
 表で重厚なフォーンが鳴り響いた。
「遅かったわね答え、はいそれまでよ」
 ベランダに出て下を見ると三郎が両手をクロスさせ大きく手を振っている。子供が見たら泣いてしまいそうな不敵な笑みを浮かべ、得意の首切りポーズで舌を垂れ下げている。ベルが鳴った。もうこうなったら焦っても仕方ない。下着だけを身に着け、ソファーにふんぞり返った。パトロンは中に入らず、ドアーを挟んでよし乃と小声でやりとりしている。俺に一部の理も無い、本人の意思で富を得るために自由を捨てた女と、代償を支払いそれを手中に収めた男の間に潜り込む隙間なんてなく、どんな制裁でも受けるつもりでいた。静かにドアーが閉められた。
「趙さんを丁重に葬ってきたらしいわ。それからあなたに、ひとの家庭に勝手に入り込むのは男らしくないって、欲望に勝てなかったのなら今回は忘れます、だけど二度と過ちを繰り返さないようにって。どうする?」
「よっちゃんは?よっちゃんはどうなの?」
「あたしに決めさせるわけ?逃げるわけ?もしかしたら子供ができるかもしれないのよ、あなたの子供が、そのときもあたしにどうするって聞くの?ねえ、おまえならどうするって?帰ってくれる」
 情けないと思ったが彼女の『帰って』のこの一言で救われた気分になった。これで俺もあのドブ鼠山田と同類だと再確認できた。欲望と勢いと成り行きに任せたとはいえ、健康な男と女が交われば子供が出来てもなんら不思議はなくて、そんなことも考えずによし乃より先におふくろの心配した俺は、男として最低だろう。俺はジーパンを穿き、Tシャツをかぶりながら玄関で踵の薄くなったスニーカーをつっかけ、何も言わず、振り返ることもせず、静かにドアーを開け、静かに閉めた。俺の出た後を破裂音が二回続いて追いかけてきた。たぶん先輩のボトルとグラスが粉々になってよし乃の網サンダルの上に散乱しているだろう。住民が引越しか何かで、荷物の積み下ろしでもしているのかエレベーターはなかなか上がってこない。早くしないと玄関で弾けた液体が、ドアーの隙間から流れ出し俺に襲い掛かってきそうな気がした。

 
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