やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 15

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「神父、女将留守みたいだから勝手にビール飲んじゃいましょう」
 俺は三郎の脇にあるビール専用の冷蔵庫を開け、二本取り出して席に戻った。背伸びをしてカウンターの置くからグラスを二つ取り、それぞれに冷えたビールを注いだ。
 三郎が神父にちょっかいを出している。手刀で咽喉を掻っ切るジェスチャーで挑発している。神父はそれに対しやさしく首を振り十字を切ってかわした。三郎はそれにぶち切れたようで立ち上がり神父の肩をなぞった。
「ヤメロ」
 先輩がに立ち上がってサブローを止めた。
「うるせいじじい、国帰れよ」
 よし乃が戻ってきた。ただならぬ雰囲気に「いらっしゃいませ」と取り繕った愛想を振りまいた。よし乃から少し遅れて老紳士のパトロンが姿勢を低くして暖簾を潜り、挨拶も視線も交わさずにさぶろーの隣に腰掛けた。先輩が立ち上がろうとしたのをパトロンは左手で制した。初対面の時と違い、犬の刺繍が施されたポロシャツ姿で、ゴルフ帰りのようだった。そういえばよし乃の右手も赤く日焼けしている。老紳士は重苦しい雰囲気を敏感に察したのか、さぶろーに車で待つように顎をしゃくった。
「女将、あの子が粗相をしたようだからみなさんにビールをお出ししてあげなさい。失礼しました、あの子の不行き届きは私の責任ですから、たかがビールですがお詫びのしるしにどうか飲んでやってください」
「遠慮なくいただきます」
 そう言って神父がグラスを差し上げたので俺もそれに習った。
「牧師さんですね、あの子も十五歳まで屋根に十字架を立てた孤児院で生活していましたが、どうも肌に馴染まなかったようで拗ねた青年に育ってしまいました。あっ、気を悪くなさらないでください。人を育てるのは神や仏でなくて親なんですから、その親に裏切られた子供達は可愛そうですよね」
「私はジョセフ・ナルカルダニと申します。まあどっちでもよいのですけど牧師ではなく神父なんです。あなたの仰る通りだと思います、神や仏に教育は無理でしょうねえ、こんな時間から憚る事無くビールで喉を潤している私が言うのだから間違いありません」
 神父のジョークで、澱んだ空気が、ハタハタを炙る煙と一緒くたになって換気扇に吸い込まれていった。
「神父さんは焼き魚大丈夫かしらやっちん?」
「問題ありませんよ日本食は、イカの塩辛から納豆、梅干、なんでもござれ」「おもしろい神父さん、それに日本語が物凄くお上手ですねえ、でもござれはぼちぼち止めましょう」
 帰るタイミングを計っていたのか老紳士は掌に収まるような小さな携帯電話でさぶろーに車を回すよう指図した。俺の知ってる携帯電話といえば徹平が持ち歩いているウイスキーのボトルと変わらぬ大きさぐらいの物で、それでも持っている奴はごく稀で、飲み屋に行くと『きゃー携帯電話、すっごーい』とか言われていい気になっている。それに徹平の電話は感度が悪いうえ、鎌倉は山が多く山陰に入ると電波が届かない。従って地下は当然のこと、店の中にいるときはほとんど使えないただの箱に過ぎない。それでも肌身離さず持ち歩き、運良く受信するとそこに立ち止まり、祭りの掛け声のごとく大きな声で喋りだす。
「それ電話ですか?すいませんけどちょっと持たせてもらえませんか?」
 俺はこの小型サイズで、電話として機能するのがあまりにも不思議であり、いなかっぺ丸出しで老紳士にお願いした。
「ああどうぞどうぞ、いままでのと比べると持ち歩きに便利になりました」
 俺は両手で受け取りしげしげと見つめた。うっかりボタンを押してしまって壊したら大変だと思った。ジョセフ神父も信じられないというような顔付きで俺の掌を眺めている。
「あっ、やっちん先生そろそろ時間です」
 神父が電話のモニターに刻まれた時刻に気付かなければ大失態を犯すところだった。
「あら、用事?」
「うん、ちょっと」
 感のいいよし乃はエバが絡んだ用向きだと悟ったのだろう、旨そうに焼けたはたはたを手頃な皿に盛り、ラップをかけて俺に差し出した。
「ごはんのおかずにも合うから食べてもらって、お皿はやっちんが来るとき持って来て」
「ありがとう、よっちゃん勘定」
「お節介は承知のうえですが、気分を悪くさせてしまったお詫びに私にもたせていただけませんか?ここは何も仰らず年寄りにいい思いをさせてください」
 老紳士は物静かだが有無を言わせぬ迫力がある、それによし乃もそうしなさいと目で訴えている。
「それでは遠慮なくごちそうになります。ごちそうさまでした。じゃあ先輩」
 俺達が外に出ると、太陽はスレートの工場に隠れ、神父の正装に赤みがかかった。道路の反対側に停車しているベンツのフイルムを貼られた助手席側のオートウインドウが下ろされ、そこから身を乗り出した三郎が、手まねの銃で自分の側頭部を撃ち抜いて、舌を大きく垂れ下げた。
「あのがき、ふざけやがって」
「可哀想に、愛を信じることができないのでしょう」
 ジョセフ神父にそう言われると俺が哀れんでいられるようで立場がなく、彼の後ろについて歩いた。
 ノックをすると「ドウゾッ」とサラマリアさんの返事が返ってきた。俺たちはキッチンのテーブルにつき奥で話す母娘のタガログ語が終わるのをじっと待った。俺にはさっぱりわからないが、神父は耳を澄ませて会話の内容を探っているようだった。タガログ語が途切れ、聞き覚えのあるユーミンのメロディーだけが小さなアパートに流れている。学生の頃くだらない何かに躓くと、必ず適当なはやり歌に縋り、その場を凌いだ経験があるが、エバもさわやかなフレーズに助けを求めているのかもしれない。ただ俺とこの子では躓いた石の大きさが比べ物にならない。役を終えたメロディは巻き戻されて次のチャンスを窺っている。
「さあ座って」
 ジョセフ神父の羽毛で包み込むような声が彼女を席につかせた。椅子は三席しかないのでサラマリアさんがデスク用の回転椅子をキャスターで転がして移動させ、エバの隣についた。
「エバ、今日私とやっちん先生が来ることを聞いているね。君にとってはとても重く、そして辛い試練だけども、ここから逃避することが不可能だとエバが一番よくわかっていると思う。君はこの事実を友人に相談し、その友人が信頼できるやっちん先生に相談し、私といっしょに彼女を助けてくれませんかと私に連絡をくれました。君はいい友人と先生に恵まれて幸せだなと私は思いました。辛いときに同じ次元で考えてくれる仲間、これは神や仏より、ある意味尊いものです。もしこの連絡体系が逆であっても、私はやっちん先生に相談に行ったでしょう。先生とは以前ここで初めてお会いしたのですが人間として、男として惹かれるものがあったからです。君からママに直接相談できなかったのは当然で、サラマリアさんもそれは理解してあげてください。さてここからは君にとって更に厳しい時間になりますけど辛抱して私達の合意した意見を聞いて欲しい。やはり誰がなんと言おうと君自身の問題であり、君自身の将来のことですから私達のまとめた意見であっても最終的な判断は一に君、二にママであるのが、雨が山に染み川になり、海に流れて蒸発し雲になり再度雨になるが如く自然で理に適った判断だと思う。私たちもそれを尊重します。では言うよ、私とやっちん先生の君へのお願いは、堕胎、堕して欲しい。これが君にとって最良だと私達は判断した」
 ジョセフ神父の話はそこで止まった。止まったのは話だけではなく呼吸音さえ聞こえない。沈黙を破りサラマリアさんがタガログ語で神父に話しかけたが、彼はそれに大きく首を横に振った。エバは俯いたまま指先だけをテーブルの上で不規則に動かしている。
「あたし、お腹が空くんです。食べても食べてもお腹が空くんです。大嫌いなひとの子だけどあたしから栄養分を吸収しているのがわかるんです」
 エバが囁くように自分の指先に向かって話しかけた。俺は、顔も形も人間になる前に、一刻でも早く堕してやり直してくれ、今なら盲腸切ったと思って踏ん切りをつけてくれ、この四人と雄二しか知らないんだから絶対に外部には漏れないようにするからと、誠意をもって口説けばエバが理解してくれると、ここに来るまでそう信じていた。しかしそれはエバの一言であっさりと打ち消された。母親の胎内で母親のみを頼りに成長しつつある子を、ゴキブリを踏み潰すようなまねが出来るわけないじゃないか、あさはかで思いやりの欠片もない無神経さに反吐が出るほど情けなかった。
「やっちん先生、雄二君は何か言ってましたか?」
 俺が準備のしていなかった厳しい質問をエバからされた。
「すごく悩んでいた。悩みに悩んだあげく俺に打ち明けたんだろう。雄二が君を好きなのは間違いない。ただ自分ではどうしようもないと考えたのも事実だ。好きだけどもどうすることもできない、何もしてあげられないひとを愛してもいいのだろうか迷っているんじゃないかな」
「でも雄二君、昨日来ると言ってたけど来てくれませんでした。そうですよね、父親の子を宿した娘なんか気持ち悪くて相手になんかしませんよね、雄二君もてるし」
 雄二のために、いや、エバが好きになった男のために弁解してやろうかと思ったが、俺の話術不足が話を拗らせそうで止めた。
「エバ、無制限に時があるならゆっくり考えてくれてもいいのだが、分刻み、秒刻みで進行していく、だから君にも急いで結論を出して欲しい。もう一度言うよ、私達から君へのお願いは」
「待って、わかりました。すいません神父、お話を遮ってしまって、でもその言葉がお腹に響くんです。明日から夏休みですよねやっちん先生?一週間待ってください、あたしと赤ちゃんの時間をください一週間だけ。あたしなりに清算をつけて、そのあとは神父や先生の薦めに従います。ママ」
 エバは母親の胸に倒れこんで泣いた。慟哭ではなく物静かに肩だけを小刻みに震わせている。神父がサラマリアさんに何か言った、たぶん一週間後に再訪すると伝えたのであろう、大きく頷いた。
「やっちん先生私達はこれで失礼しましょう、サラマリアさんにも一週間後に来ると伝えましたので宜しくお願いします」
 俺達が立ち上がるとエバが深く一礼した。彼女が奥の部屋に消える際にジョセフ神父が十字を切った。
 外に出ると汗が吹き出た。せっかくエアコンで乾いたTシャツがすぐにじっとり肌に纏わりついた。ましてや神父は黒の長袖である、暑さに強いからといっても相当耐えているのであろう。表通りに出るとさぶろーのベンツがまだ停まっている。
「やっちん先生どうされますか今日は?」
「帰ります、ものすごく疲れてしまって、おふくろの料理で一杯やって寝ますよ、あっそうだ、ジョセフ神父うちに泊まりませんか、古い百姓家ですけど中は結構改築していて過ごし易いですよ」
「ありがとう、次の機会に泊めていただきますよ。こんな格好でお邪魔したらご両親も驚かれるし。それに私も疲れました、ホテルに戻ったらシャワーを浴びて素っ裸でベッドに倒れこみたいのですよ」
 やはり神父も疲れていたんだ、そりゃあそうだ、議事進行から堕胎通告まで全て神父ひとりに任せてきたんだから、俺なんか犬の糞みたいなもんだ。
「それじゃあ神父駅まで送ります」
「いや、タクシー飛ばして行きますから、どうぞ先生も早く戻ってお休みください」
 タクシーが手を上げてもいないのにハザードを点滅させ俺達の前で徐行した。彼は笑いながら左手でタクシーに合図をした。待ってましたといわんばかりにドアーが開けられ、彼は大きな身体をしなやかに屈んで乗り込んだ。
 うちに戻ると、台所の灯りも消えていておふくろも寝室にいるようだ。いつもなら『何やってんの、遅くなるなら電話しなさい、ごはん食べるの?』とでっかい図体を揺らして起きてくるのだが疲れているのだろう、もう就寝したようだ。電話台のメモ用紙に『安男、ヨコタ電話』とあった。ヨコタ性の知り合いは山田低を警備していた若い警官が横田で、それ以外に思い当たるひとはいない、彼は俺のあとを追ってドブに飛び込んでくれた勇気、やる気そしてガッツのあるいい奴で、ヘドロ交じりの俺をうちまで送ってくれた。さぞかしパトカーの掃除は大変だっただろう、そう言えば大した礼も言っておらず、今度会ったら一杯奢ってやろう。
「もしもし、夜分恐れ入りますが徳田です、お電話いただきましたんで、もしや急用ではと勝手に判断して」
「あっ、こんばんは、その節はご協力ありがとうございました。助っ人にもその旨お伝えください。ええ、実はですねえ、拘留中の刑務所からですね、あの山田が脱走しました、そう脱走です、イラン人八人に混じって、逃走中のイラン人五人は当日、昨日までに逮捕されましたが残る三人と山田は現在も逃亡中です。それでまさかとは思いますが、復讐を考えていないとは断言できませんので一応お伝えした次第です」
「山田が、そうですか、あの母娘が心配なんですが連絡したほうがいいでしょうか?実はですねあの事件に絡んで難しい局面にあるんですよ。余計な心配させたくないので警備の強化お願いできないでしょうか?」
「わかりました、必ず警邏の警官を立ち寄らせるようにしましょう。やっちん先生でしたよね?もしもの場合は無理をせず僕に電話ください」
「はい、俺ももうドブさらいはこりごりですよ」
 二階にあがり窓を開けると網戸にコガネムシがへばりついている。指先で弾くとあっけなく落ちていった。

 俺達の仕事も先生方といっしょで夏休み中はそれほど忙しくはなく、まあどちらかといえばかなり暇である。だからこの時期にけっこう有給休暇が取れる。吉川さんと調整して交代で休むことにしている。夏休みに入り二週間、今日は大きなイベントが二つある。ひとつは遅れていた徹平の退院、傷口は小さいが深かったので一月以上も入院していた。鎌倉の八幡様の頭が退院とあって町内会ではお祭り騒ぎで盛り上がっているらしい、と若い衆が徹平を煽てる意味もあって大袈裟に報告していた。それは古い商店や地元の一部の土木建築関係だけで、新興住宅地や近年増えてきた大型チェーン店にはなんら関係がない。それともうひとつはエバの決断日が今日の夜である。俺としては素直に承諾してくれるのを希望しているが、彼女のお腹の子への思いは序々に増していっているような気がしてならない。エバが俺達の望む判断を拒否したときの対応も想定してかからなければいけないのではと、少し弱気になってきていた。
 
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